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山東省淄博市 ~ 人口 470万人、 一人当たり GDP 81,000 元


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  營丘古城(斉国の王都跡、臨淄城、【初代】臨淄県城、斉郡城、【初代】青州城)
  昌国県城
  狄県城 
  般陽県城(貝丘県城、淄州城、淄川県城、淄川郡城、淄莱路城、般陽府城)
  新城県城
  博山県城
  長山県城



【 淄博市の歴史 】

今から7000~4000年前、淄博市一帯では既に人類の生息が確認されているという。元々、古代より、北辛文化、大汶口文化、龍山文化などが花開いていたとされる。

伝説上、三皇五帝の一人に挙げられている少昊の治世時代(紀元前2590年ごろ)、營丘の地(今の山東省濰坊市昌楽県馬宋鎮古城村)を中心に、爽鳩氏系の部族集団が勢力を張っていた。

虞舜の時代(紀元前2220年ごろ)から夏王朝の時代には、爽鳩氏系の部族集団が分裂し、一帯には、有季萴氏(今の山東省濰坊市昌楽県馬宋鎮古城村)、斟(今の山東省濰坊市安丘市杞城村)、斟灌(今の山東省濰坊市寿光市斟灌村)、薄姑(今の山東省浜州市博興県柳城村)、莒(介根邑を形成。今の山東省日照市莒県城陽鎮)、紀(今の江蘇省連雲港市赣榆区贑榆県。後に、今の山東省濰坊市寿光市紀台鎮へ移転)などの諸国が乱立されていた。下地図。

淄博市

商(殷)王朝の時代、引き続き、(姜姓)逄伯陵氏や蒲姑氏らの有力部族国家が存続した。上地図。

紀元前1046年、周の武王が商(殷)王朝を滅ぼし、西周王朝を成立させると、その翌年、軍師役として戦功を挙げた呂尚(通称:太公姜、姜子牙)を斉の地に封じ、斉国を建国させる。その王都が營丘(營丘古城。今の淄博市臨淄区斉都鎮)に開設される。

紀元前866年、斉国の第6代君主に即位した呂静 (斉胡公)は、西に隣接する犬猿の仲となっていた紀国の脅威を避けるべく、その王都を薄姑城(今の山東省浜州市博興県湖浜鎮寨卞村の北側)へ移転する。しかし、この遷都に反対する營丘側の豪族に押された皇族の姜山が、クーデターにより斉胡公を殺害すると、自身が第7代君主(斉献公)に即位する。すぐに、王都は營丘城(營丘古城。今の淄博市臨淄区斉都鎮)に戻され、堅固が城塞都市に造り変えられることとなる。その際、城域も大幅に拡張され、東側の城壁が淄河に接したことから、臨淄城へ改称される。下地図。

淄博市

その斉国も、紀元前221年、秦国に降伏し滅亡することとなる。

秦の始皇帝は中原統一を成し遂げると、すぐに中央集権体制の確立を図り、全国に郡県制を導入する。このとき、臨淄の王都跡に臨淄県が新設され、臨淄郡(後に斉郡へ改称)の郡都に選定される。
同時期、昌国県(今の淄博市張店区)と、狄県(今の淄博市淄博市高青県)が新設される(斉郡に帰属)。

その秦国も紀元前206年に滅びると、すぐに項羽と劉邦による楚漢戦争が勃発する。
その最中の紀元前203年、劉邦配下の韓信が趙国を撃破し、そのまま斉国も占領すると、臨淄県城を本拠地に定め、 斉の領土鎮撫に尽力することとなる。以後、約1年間、韓信は斉王を務めた。下地図。

淄博市

前漢朝が建国されると、秦代の行政区がそのまま継承される。
紀元前201年、韓信は斉王から楚王へ異動となり、劉邦は代わりに長男(私生児)の劉肥(斉哀王)を斉王に封じる(王都は臨淄県城)。以後、最大の諸侯王国として10代の王が即位した。
この頃、現在の淄博市淄川県に、般陽県が新設されている(済南郡に帰属)。

劉肥の子で、第3代斉王となっていた劉将閭(斉孝王)の時代、前漢朝廷に反乱を起こす呉楚七国の乱が勃発する(紀元前154年)。劉将閭の兄弟であった膠西王の劉卬、膠東王の劉雄渠、菑川王の劉賢、済南王の劉辟光がら反乱軍に参加する中、斉国の王都(臨淄県城)にいた劉将閭は中立を宣言するも、周囲の兄弟らの大軍に城を包囲される。しかし、3か月もの間、耐えしのぎ、一方で反乱軍との調停を進め、時間稼ぎに努める。その功績は、漢の景帝に高く評価されるも、中立姿勢が罪に問われることを恐れ、戦争直後に服毒自殺してしまうのであった。下地図。

淄博市

王莽により新朝が建国された時代(9年)、臨淄県は斉陵県へ改称される。済南郡(青州に帰属)の郡都を兼務した。

劉秀により王莽の新朝が滅ぼされ、後漢朝が復活建国されると、斉陵県は臨淄県へ戻される。
直後に新設された斉国の王都として、引き続き、臨淄県城が君臨し続けた。

淄博市

後漢末の192年、兗州長官に就任した直後の曹操に、山東省(青州)一帯に跋扈する黄巾賊討伐の勅令が下る。すぐに曹操自身も北海国下の淳于県城(今の山東省濰坊市安丘市黄旗堡鎮杞東村。前漢初期に新設され、北斉時代の556年に廃城となる)まで進軍する一方で、 夏侯淵や張遼、徐晃、臧覇などの諸将が分担して平定戦を展開し、黄巾軍の兵士30万人、住民ら100万人を降伏させ、 自領の兗州へ強制移住させている(「青州兵」の誕生)。
この当時、朝廷から孔融が青州長官として派遣されていたが、自力では強力な黄巾軍を征伐することが叶わなかった。
曹操軍の撤退後、孔融が引き続き、青州に駐在するも、間もなく公孫瓚が田楷を、袁紹が長男の袁譚を 青州長官として勝手に派遣し、両者の間で争奪戦が繰り広げられる。間もなく、孔融と田楷は追放され、 青州一帯は袁譚の勢力基盤となる。上地図。
202年に袁紹が病死すると、袁譚と弟の袁尚との間で骨肉の争いが 勃発し、袁尚が連勝すると、青州内の諸県は皆、袁尚側に寝返ってしまう。最終的に、袁譚を利用しつつ袁尚との 戦いを有利に進めた曹操により、袁譚も捕縛、処刑されるに至る(205年)。こうして青州は完全に曹操の勢力圏に 組み込まれた。

213年、後漢朝より魏公に封じられた曹操は、翌214年、自身の子の曹植を臨淄侯に封じている。
三国時代を通じて、引き続き、臨淄県城は曹魏下の斉郡(青州刺史に帰属)の郡都であり続けた。下地図。

淄博市

西晋時代、そのまま臨淄県城は斉国の王都であり続けた。あわせて、青州の州都も兼ねる。上地図。
時の斉王であった司馬冏(司馬炎の実弟・司馬攸の子)は、291年から始まる八王の乱を主導し、後に反対派により殺害されることとなる。


311年、引き続き、臨淄県城は斉郡の郡都を兼ねるも、広県(今の山東省濰坊市青州市の南西1kmにある角楼村の河川沿い)が廃止され、臨淄県へ吸収合併されると、青州の州役所が広固城(今の山東省濰坊市青州市益都街の北西部で、堯王山と北陽河の間)へ移転される。

東晋朝が後秦を滅ぼすと、青州が幽州へ改称される。そのまま広固城が幽州の州都を兼ねた。

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397年12月、後燕がその王都・中山城(今の河北省保定市定州市)を北魏に奪われ、龍城(現在の遼寧省朝陽市)へ遷都すると、後燕は南北に分断されることとなる。
南部の拠点・鄴城(今の河南省邯鄲市臨漳県)に駐在していた范陽王の慕容徳は、滑台城(現在の河南省安陽市滑県)へ移動して、 398年1月に南燕を建国する。多くの人材を登用し、国力の増強を図った慕容徳は、その尚書となっていた潘聡の忠言を聞き入れ、東晋領の青州を奪取して、この山東省一帯を拠点に定める。
翌399年より作戦を開始し、まず兖州と臨沂市一帯を占領した後、青州を東晋朝の本土から孤立させ、一気に青州城(広固城【今の山東省濰坊市青州市益都街の北西部で、堯王山と北陽河の間】)まで平定することに成功する。直後に、この広固城へ王都を遷都する。下地図。

しかし、405年に初代皇帝の慕容徳が死去すると、子がいなかっため、甥の慕容超が2代目皇帝に即位する。しかし、暗愚であったため、国力の大幅な減退を招き、最終的に東晋朝の将軍・劉裕による半年に及ぶ攻城の末、広固城は落城してしまう(410年2月)。城郭は徹底的に破壊され、広固城はその短い歴史の幕を閉じる。

淄博市

南朝の劉宋の治世時代の428年、般陽県が貝丘県(今の淄博市淄川県)へ改称される。
青州の州役所と、臨淄県の県役所が東陽県城(今の山東省濰坊市青州市の北関街の付近)へ移転される。以後、ここが臨淄県城となり、斉郡の郡都も兼ねることとなる。

北斉の治世時代(556年)、臨淄県をはじめ諸郡や諸県は廃止され、ただ高陽県のみ存続される。そのまま斉郡に帰属された(引き続き、臨淄城が郡都)。

南北朝時代を統一した隋代の596年、高陽県が廃止され、臨淄県が復活設置される。あわせて、その北西部に溡水県が新設される。この2県はともに青州に帰属された。下地図。
同年、淄州が新設されると、貝丘県城(今の淄博市淄川県)が州都に選定される。2年後の598年、淄川県へ改称される。
605年、溡水県が廃止され、臨淄県(今の山東省濰坊市青州市の北関街の付近)に編入される(北海郡に所属)。

淄博市

唐代、臨淄県(今の山東省濰坊市青州市の北関街の付近)は河南道青州北海郡に帰属し、後に平盧道の管轄下に配された。
618年、淄州(742~758年、淄川郡へ改編)が復活設置されると、そのまま淄川県が州都となる。その管轄域は、現在の山東省淄博市、浜州市鄒平県と博興県の一部にまで及んだ。
後に唐の玄宗となる李隆基(685~762年)は689年、未だ4歳にして、武則天により臨淄王に封じられている。後に、楚王と潞州(今の山西省長治市)長官へ異動となる。

五代十国時代から北宋時代にかけて、唐代の行政区がそのまま踏襲される。
北宋朝により、淄川郡が復活設置されると、京東東路に帰属された。下地図。

金代に入ると、新設された益都府の府都として、臨淄県城(今の山東省濰坊市青州市の北関街の付近)が選定される。
1228年、現在の淄博市桓台県に新城県が新設される(済南路総管府に帰属)。

淄博市

元代の1264年、淄川郡が淄州路(1265年に淄莱路へ、1288年に般陽府路へ改称。漢代の旧般陽県城から命名)へ昇格される。路役所はそのまま淄川県城に併設され、録事司と4県(淄川県、長山県、新城県、蒲台県)、および莱州と登州の2州(配下に8県)を統括した。上地図。

1266年、臨淄県(今の山東省濰坊市青州市の北関街の付近)が廃止され、益都県(今の山東省濰坊市青州市の中心部の南陽河の南岸)に吸収合併される(1278年に復活設置)。益都路(中心都市は益都県城)に帰属された。

明代の1368年、元代からの益都路が青州府へ改編される(下地図)。当初、府下には、濰州、莒州、膠州の3州と、益都県、臨淄県、博興県、寿県、光県、昌楽県、臨朐県、安丘県、諸城県、蒙陰県、沂水県、日照県、昌邑県、高密県、即墨県、高苑県、楽安県(広饒県)の16県が配された。

1376年に莱州府(府都は掖県城【今の山東省烟台市莱州市掖県東街】)が正式に設置されると、青州府の東側が分離され、最終的に13県と1州を統括することとされた。下地図。

淄博市

また、同じく1368年、般陽府路が般陽府へ改編される。府役所はそのまま淄川県城(今の淄博市淄川区)に開設された(済南府に帰属)。上地図。

清代も引き続き、明代の行政区が踏襲される。1734年、現在の淄博市博山県に博山県が新設されている(青州府に帰属)。上地図。

なお、現在の市名である「淄博」であるが、これは市内に流れる淄川と、20世紀に入って開発された博山製鉄所にちなんで命名されている。一番最初に記録として登場するのは、1938年10月に成立した中共淄博特別員会とされる。


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