BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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海南省 東方市 感城鎮 ~ 鎮内人口 6万人、一人当たり GDP 49,000 元(東方市 全体)


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  九龍県城(【初代】感恩県城。今の 東方市感城鎮入学村)
  【二代目】感恩県城(今の 東方市感城鎮感城村)
  感恩学宮(文廟)



投宿していた三亜市中心部(吉陽区)の 7天ホテルを出発し、高速鉄道「三亜駅」から出発する。 1時間に一本ある高速鉄道に乗車する(所要時間約 55分、39元)。

海南西環高速鉄道「金月湾駅」で下車後、まずは白タクで感城鎮入学村の入学小学校前まで移動してもらう。下地図。
この海岸に近い場所に、かつて【初代】感恩県城が開設されていた(今の感城鎮入学村の西側に位置し、当時、西面にはすぐ海岸線が迫っていたという)。下地図。

東方市感城鎮

古くは、前漢時代の紀元前 110年に開設された九龍県城跡があったと考えられており、隋代後期の 607年、この 九龍県城跡地(当時、やや小高い丘になっていたことから、九龍山と通称されていた)に、【初代】感恩県役所が開設され、明代中期まで継承されたわけである。

1430年代、沿岸部で海賊襲撃の脅威が高まると、県役所が感恩河南岸の 中和郷(今の 感城鎮感城村)へ移転される。すぐに【二代目】県城の建設工事が着手されるも、海賊襲撃や地元民族の反乱などで県城が荒廃してしまったため、数度の移転を余儀なくされる。

東方市感城鎮

東方市感城鎮

最終的に 1597年、県長官の朱景和の指揮の下、元の 県城跡地(感城鎮感城村)へ再転入されてくると、早速、大規模な再建工事が着手される。この時、全長 1,314 m、高さ 4 m、幅 3.4 m の土壁による城壁が整備され、その城壁上には凹凸壁が 750ヵ所、兵舎が 2つ、そして 三城門(東門=賓曦門、南門=平政門、西門=延照門)が設置されることとなった(海岸や感恩河に近い北面は、城門が開設されなかった)。さらに城壁の外周には、外堀が掘削されていたという。下絵図。

しかし、これらは後に修繕工事を怠ったことから、ほとんどが倒壊してしまうこととなる。
一度、清代中期の 1704年に、全面改修工事が施されたという。

東方市感城鎮

前述のごとく、感城鎮感城村は東方市の歴史上、最も長い期間にわたって県城を務めた地で、明代以降、実に 700年近くに及んでいる。このため、【二代目】感恩県城跡の旧市街地には、多くの旧跡が残されており、特に、学宮(孔廟)、城隍廟、関岳廟、各役所機関(衙門)の建物やその一部が現存している。

しかし、城壁や城門遺構に関しては、単にその基台が残っているだけで、また外堀跡も城外の南西部に、幅 6~8 m程度の浅い水路が流れるだけ、となっている。現在、これら旧市街地に残る廟所や城郭遺構は、東方市政府により史跡指定を受け保護されている。

1959年9月、県役所が 27 km 北にある、現在の 東方市中心部(八所鎮)へ移転されると、寂れた地方集落に落ち着くこととなった。

東方市感城鎮



当地の旧市街地に残る名所旧跡のうち、その筆頭を飾るのが、感恩学宮(文廟)である。
現在の敷地範囲は、東面は 老粮所(食糧局)の東隣の道路、西面は老粮所の西隣の道路、南は南門路、北は小学路の区画で、面積にして 18,899.28 m2、約 28.35ヘクタールとなっている。

最初は、【初代】感恩県城が今の感城鎮入学村に立地していた宋代に、県役所の左隣に創建されたという。元代もこれが踏襲される。
明代初期の 1370年、県長官の黄忠信が、初めて大規模改修工事を手掛ける。
1385年、県丞の楊干が、土地が手狭ということで、県役所を北東 250 m離れた場所へ移転させると、あわせて学宮も移築される。
1410年ごろ、県長官の郭緒により、学宮の改修工事が着手されるも、 1430年代、県城移転にともない、学宮も現在の感城鎮感城村へ移築される。当初は簡易な建物だけで繕われていたが、1450年、訓導(県行政のうち、主に教育部門を担当した下級官吏)の王川が主導して、地元から資金を募り、大規模に再建する。以降も度々、増改築が行われ、1469年には県長官の莫宣修が欞星門と大門を増築し、 1473年には明倫堂が増設される。

1501年、黎族の反乱によって県城自体が破壊され全焼してしまうと、県役所は南郊外へ一時移転される。この大混乱の時代、すぐには学宮再建が実現されることはなかった。1590年ごろ、県役所はさらに 大雅坡(今の感城鎮生旺村)へ移転されると、臨時開設されていた学宮も移築されることとなった。

1597年、県長官の朱景和の指示の下、県役所が元の感城鎮感城村へ再移転されてくると、学宮も県役所の 東隣(現在の地)に移築され、真っ先に聖殿と明倫堂が建設される。そして 1610年には、県長官の陳誼により明倫堂の右隣に启聖祠が、清代初期の 1675年には、県長官の姜焯により大成殿が建設されていく。
こうして現在に残る建物群がそろうと、以降は度々、大小さまざまな補修工事が手掛けられる。1766年には県長官の楊侃が、1815年には別の県長官により、大成殿と崇聖祠が大改修される。現存する大成殿は、この時に修繕されたものという。
1825年には建物全体が台風被害を受けたため、地元名士の林开侯が領民らを指揮し、大規模補修を進める。

1929年、県長官の周文海が集会を開き、地元名士の 胡廷根、麦済熙、陳徳元、楊縄姜、王道熙、陳達傑らの協力を得て、広く募金を集め、大規模な改修工事を手掛ける。

東方市感城鎮

結局、境内に現存する 大成門、大成殿、崇聖祠、明倫堂、欞星門のうち、明倫堂と崇聖祠は、基台部分を除いて後世に再建されたものであり、唯一貴重な大成殿も、共産党時代初期には感城鎮食糧局が入居し、殿内にあった塑像、祭器、碑刻などはすでに喪失されてしまっている(上写真)。

しかし、16本の柱で支えられた長方形型の巨大な大成殿の建物は、縦 18.5 m、横 10.5 mを誇り、その壮麗さと歴史的価値から、東方市政府により史跡指定を受けて保護されることとなった。2009年5月8日には、海南省政府からも史跡指定されるに至り、ようやく地元でもその史的価値が認識され出したばかりという。



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