BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広西省チワン自治区 北海市 ~ 人口 155万人、一人当たり GDP 47,000 元


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  近代文明開化期の 洋風建築群遺産



【 北海市の 歴史 】

約 7000年以上前の新石器時代、すでに北海地域には人類の生息が確認されている。
春秋戦国時代は百越の地に属した。紀元前 214年、秦王朝により嶺南一帯が併合され、翌年、新設された象郡の管轄下とされる。
秦滅亡にともなう楚漢戦争の混乱の最中に建国された南越国の統治も、 紀元前 111年の前漢朝 7代目皇帝・武帝による武力併合に屈する。そして、その旧領に新たに 9郡が新設 された。ちょうど北海市域は、交州合浦郡(最初、その郡行政庁は現在の広東省雷州半島の徐聞県に開設されたが、後に移転)の下、 合浦県(県城は今の 欽州市浦北県旧市街区に築城)下に帰属されることとなる。
以後、前後漢王朝時代を含め、北海市域が帰属した合浦郡の地は、東南アジア一帯の南海交易基地として、 嶺南地区の西部一帯の 政治、文化、経済の中心地域として大いに栄えたという。

後漢王朝末期の 203年、交趾が交州へと改称される。その州行政庁は 広信城(現在の梧州市)に置かれた。 このとき、合浦郡も改編され、合浦県、徐聞県、高凉県、凌允県、珠崖県の 5県を管轄することとなった。 このとき、北海市域は合浦郡珠崖県に帰属される。

時は三国時代。208年末の赤壁の戦い以後、江南地帯での呉の孫権の勢力は増す。 ついに、呉より歩騭を総大将に南征軍が発せられると、当時、魏の曹操に帰順していた 交阯太守(交州下の七郡を統括)士燮は孫権に降伏する。217年、交州役所が広信城から南海郡 番禺県城(今の広州市)へ移転される 。士燮はそのまま交阯支配を保証されるも、 226年に 90歳で士燮が死去すると、呉の孫権はその勢力簒奪に乗り出し、息子たちの反乱を鎮圧して、広大な交州一帯を直接支配下に治めることに成功する。それから 2年後の 228年、合浦郡は珠官郡へと改名されるも、252年に合浦郡へ再び戻されている。
北海市

呉国が西晋に降伏した 280年、三国時代は終焉を迎える。その翌年の 281年、珠崖県は合浦県へ編入される。 その後、合浦県からは蕩昌県と新安県が 分離・新設されている。 合浦郡は交州の管轄下にあり、郡役所は 合浦県城内(今の 欽州市浦北県旧市街区)に開設されることとなった。
以後、明清朝の廉州府時代も含め、合浦県城がこの地域での中心都市として君臨を続けることとなる。
東晋時代の 330年、インド仏教徒の智弘が海路で合浦から中国上陸を果たし、中国に初めて仏教を伝来している。

南北朝時代の 479年、合浦郡はそのまま継承されるも、嶺南一帯はさらに行政区が細分化され、11郡体制となる。このとき、北海市域は塩田郡杜周県に帰属された。
隋王朝時代の 607年、禄洲へと改名される。
唐王朝時代の 622年、合浦郡自体の名称も越州へと改名される。632年には珠池県が新設され、 634年に越州も廉州へと改称される(この地で名を馳せた廉官―古代の役職名ーから命名されたらしい)。 638年に安昌県と珠池県が廃止され、合浦県に編入される。 742年、廉州は合浦郡へと再改称される。
五代十国時代から 北宋時代(1127年)にかけては、北海地区には塩田郡や 海門鎮、陸州、珠池県、東羅県などの行政区が設置されては廃止されるなど、繰り返された。

元王朝時代の 1293年、廉州に 提挙市舶司(全国に 6ヵ所設置されたうちの一つ)が新設され、海運と外国船の管理を任務とされた。当時、揚州に帰属し、11県を束ねる行政都市となっていた。
明代初期の 1368年、広東広西総督が設置されるも、後に廉州府へと改名され、合浦郡、石康郡、霊山郡、廉州を管轄するものとされる。

清代初期の 1662年、北海鎮標が新設される。市街地の北側に海が広がっていた地形から「北海」と命名されたようである。 1700年代中期にようやく現在の北海市中心部の形成が始まる。1800年代初期は、合浦県靖海団局が管轄した。 1855年には珠揚巡検司が北海市へと移転され、標志北部の海岸線を中心に、廉州(合浦県)から北海市街地に至るまで、現在に見られる海外部の都市形成が進んでいった。市内行政は珠揚司衙署が担当した。 1876年、清朝と英国との間で合意された『煙台条約』により、北海は 宜昌、蕪湖、温州とともに、開港させられることとなる。

清末期から中華民国初期は、引き続き、靖海団局が地元行政を司った。 1926年に靖海団局が廃止され、北海市制度が始まる。中華人民共和国の建国時から 1951年までは広東省に帰属されたが、1952年より広西省へと移籍される。

北海市

なお、現在の北海市街区は、ちょうど日本の横浜市に近いイメージで、西洋近代との接点が生まれた文明開化期に形成された旧市街が観光資源として保存されている。
古代より漁村地域であり、近代以降に都市開発が始まった北海市中心部に、城壁都市が築城されることはなかった。

北海市の中心部から 50 km北にある欽州市浦北県旧市街区の一帯こそが、東晋時代からの 中心都市「合浦県城」跡である。

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