BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 南平市 ~ 人口 305万人、 一人当たり GDP 39,000 元


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  南平県城(龍津県城、剣浦県城、南剣州城)
  浦城県城(漢興県城)
  建甌県城(建安県城)
  建陽県城(建平県城)
  順徳県城



【 南平市の 歴史 】

夏朝、商朝(殷)、周朝の時代、現在の南平一帯は七閩の地に分類されていた。
紀元前 221年、秦の始皇帝により中原が統一されると、さらなる領土拡大策がとられ、今の 福建省一帯(当時、閩越の地と総称された)も併合される。 すぐに閩中郡が新設され、中央集権統治体制の導入が図られる。しかし、実際は 閩越族長の無諸による地元支配を 追認した間接支配であったらしい。
この閩越族長の無諸は、秦末の中原における戦乱の際、 前漢の初代皇帝となる劉邦を支持したことで、建国の功臣の一人に列挙され、引き続き閩越の地の直接支配 を追認されることとなり、紀元前 202年、閩越王に封じられる。 閩越国の王都は、「東治」城内(今の 福州市中心部)に開設された。 現在の南平市域もこの領土下に含まれた。

前漢王朝の 建元年間(紀元前 140~135年)ごろに、閩越の数部族と東甌族らが反乱を起こすも、漢軍により鎮圧される。 以後、前漢朝の閩越国への間接支配が強化されることとなる。
紀元前 112年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により、隣国の 南越国(広州を拠点とした)への遠征軍が発せられ、翌紀元前 111年に 華南地方全体が制圧される。この討伐戦に協力したことで閩越国の地位は保証されるも、紀元前 110年以降、閩越の地から多くの労働力が長江流域への移住を強制され、閩越国の衰退が進むこととなった。そして、ついに紀元前 85年、閩越国も廃止されることとなり、その旧領には 会稽郡(郡役所は当初、「東治」城内に開設されるも、後漢時代の戦乱となる過程で、後に今の浙江省紹興市へ移転される)が新設され、前漢による直接統治体制が導入されるに至る(今の南平市一帯もこの流れに準じた)。

南平市

後漢末期の 196年、孫策が江東地方の軍閥平定戦を進めた際、 賀斉を 孝廉(監督官)に就け、この福建省北部一帯の安定化を進めさせた。 間もなく、孫策の支配拡大に反対する会稽郡太守であった王朗が挙兵するも、孫策軍に 敗れ、今の福州市中心部にあった東治城内へ逃亡してくる。このとき、侯官県(福州市閩侯)長官にあった商升が 王朗を保護して挙兵したため、孫策は永寧長官であった韓晏を会稽南部都尉として商升と王朗の連合軍追討を進めさせた。 しかし、韓晏は商升らの軍に敗れ、代わって賀斉が会稽南部都尉に任じられる。この知らせを聞いた商升は、賀斉の武名を 恐れ、投降を図るも、連合軍を組んでいた張雅と詹彊らの反対にあい、暗殺されてしまう。 こうして、張雅は自ら尤上将軍を名乗り、会稽太守を称するようになる。 しかし、張雅は賀斉の軍に大敗し、すぐに詹彊も賀斉に投降することで、孫策は福建省の地の平定に成功する。 このとき、侯官県(福州市閩侯)とは別に、会稽南部の北側に南平県が新設された。

以後、孫策、孫権の統治時代、会稽郡下にあった南平市一帯には、漢興県(今の浦城)、南平県、建安県(今の建甌)、建平県(建陽県)の 4県が設置されていたことになる。
三国時代の呉統治下の 260年、会稽郡の南側が分割され 建安郡(会稽南部都尉から改編)が新設される。郡役所は 建安県城内(今の建甌県)に開設された。南平県もこの管轄下に置かれる。
280年に西晋朝により呉も滅ぼされ、その西晋王朝下の 282年に建安郡が晋安郡へ改称される。291年には晋安郡から切り離され、今の南平市域は 江州(今の江西省九江市)の管轄下に移籍される。これにあわせて、晋安郡役所も建安県城から 東治城(今の福州市)へ移転される。


東晋時代の 379年、南平県が延平県へと改称される。南北朝時代は常に南朝側の領土に組された。
南朝の一つである宋朝の治世下の 470年ごろ、延平県が廃止され、再び南平県が復活する(引き続き、建安郡に帰属)。以後も、宋朝、斉朝、梁朝、陳朝の統治時代を通じて、そのまま行政区が踏襲される。
陳朝下の 557年、今の南平市域は 豊州(568年に 晋安郡 → 豊州、589年に 豊州 → 泉州、606年に 泉州 → 閩州、607年に 閩州 → 建安郡)に帰属された。豊州の州都は旧晋安郡都時代から踏襲され、今の福州市中心部に置かれた。

南北朝時代を統一した隋朝下の 589年、州郡県の3段階制が廃止され、州県による 2段階制へ改編される。このとき、南平市一帯は引き続き、泉州(後に閩州、建安郡へ改称)の所属となる。
隋朝を滅ぼした唐朝時代の 618年、建安郡が建州へ改称されるも、 742年に以前の建安郡に戻される。そしてまた 758年、建州へと改名される。唐代を通じ、江南東道の管轄下に配された。

五代十国時代の 934年、閩国の版図下に組された(当時、今の南平市中心部は延平鎮と呼称されていたが、後に易永平鎮、龍津県へと変更されていく)。 945年には建州は永安軍へ、さらに後に忠義軍へと改名される。
閩国を滅ぼした南唐がこの地を支配するようになると、剣州が 新設(946年)され、州役所が 剣浦県城(龍津県から改名、今の南平市中心部)に開設される。

五代十国時代を統一した宋朝下の 975年、忠義軍が建州へ戻されるも、すぐ後の 979年、剣州は南剣州へと改名される(蜀の地にあった剣州とだぶったため)。続いて 980年、邵武軍(役所は邵武県城内に開設)が新設され、 988年、建州が建寧軍へ、1162年には建寧軍が建寧府へと改称されていく(福建路の管轄下に置かれた)。

南平市

元代の 1276年、邵武軍が邵武路へと改名され、1278年には建寧府が建寧路へ、南剣州が南剣路へと変更される。1302年には、南剣路がさらに延平路へ、そして剣浦県が南平県へと改称される。これらは全て 江浙行中書省福建道宣慰使司(元朝末期の1356年に福建省へとなる前身)の管轄下に置かれた。

明代には 建寧府、延平府、邵武府の 3府が設置されていた。南平県(今の 南平市中心部)は延平府の管轄下にあった。清朝もこの行政体制を踏襲する。

清朝も末期となると、延建邵道が新設され、その行政庁は今の南平県城内に開設され、上の 3府を統括することとされた。このころ、延平府は 南平県、順昌県、将東県、沙県、尤溪県、永安県の 6県と 上洋庁を管轄し、建寧府は 建安県、建甌県、建陽県、崇安県、浦城県、政和県、松溪県の7県を、邵武府は 邵武県、光澤県、泰寧県、建寧県の 4県を管轄していた。

中華民国が建国された翌年の 1913年、府制が廃止され、代わりに 北路道(道役所は南平県城内に開設、翌年には建安道へ改称)へと改名され、引き続き、清末からの 16県を監督した。
1925年には道制も廃止され、福建省の管轄域に組み込まれる。1995年より現在の市制がスタートされた。
南平市

なお、現在の南平市中心部にあった南平県城跡であるが、今では城壁、城門ともに完全に撤去されてしまっている。わずかに残る路地名からのみ、かつての古城の面影を感じることができるだけである。鼓楼街、府前路、銀行西門支店、馬坑橋、延福門広場など。


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