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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省三明市 ~ 人口 275万人、 一人当たり GDP 33,000 元


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  将楽県城
  泰寧県城(帰化県城)
  沙県城
  建寧県城
  光澤県城



【 三明市の歴史 】

現在の三明市域において最も早くに県役所が開設されたのは、三国時代の呉領下の260年であったとされる。このとき、建安県の東部が分割されて将楽県が、また西部も分割され綏安県がそれぞれ新設されている。いずれも建安郡に帰属された。

五胡十六国時代の東晋末期の405年、綏安県が綏城県へと改称され、あわせて延平県の南郷沙源の地に沙村県(唐代の621年に沙県へ改名)が新設される。
隋代の593年、綏城県と将楽県が廃止され、その行政区は邵武県(今の南平市邵武)へ吸収合併される。

唐代の625年、邵武県から将楽県と綏城県が分離・再設置され(再度、629年に廃止され、邵武県に再編入)、同じく建州に属した。 688年、邵武県と建安県の一部が分割され、かつての綏城県と将楽県をあわせた区域を統括するものとして、再び将楽県が設置される。 725年には、黄連県が新設される(当初、建州の管轄下に置かれたが、738年に汀州の下へ移籍される)。 741年、尤溪県が新設され、福州の管轄域に属する。翌742年、黄連県が寧化県へ改称される(臨汀郡【今の竜岩市域の大部分に相当】に属した)。
808年、将楽県が再び、邵武県と建安県に吸収合併される(すぐ後の810年に再設置)。

五代十国時代の南唐朝の治世下の958年、帰化県が新設される。南唐朝も華北からの後周の侵攻に直面し、降伏するに至り、旧南唐の領土も後周朝に属することとなる。その後周朝も960年に趙匡胤により権力禅譲が強硬され、滅亡してしまう。趙匡胤はそのまま宋朝を建国(960年)し、すぐに全国各地の行政区の改編に乗り出す。このとき、建寧県が新設され、帰化県とともに建州に属することとされる。

976年に宋朝第二代皇帝となった趙匡義(趙炅)により、979年、中国の統一が成る。ここから始まった北宋朝時代を通じて、将楽県、泰寧県(1086年に帰化県より改名)、建寧県、光澤県、邵武県はすべて邵武軍(以後、元代は邵武路、明代、清代は邵武府へと継承される)の下に置かれることとなった。
1098年、汀州(今の竜岩市長汀県に州役所が設置された)の管轄下で清流県が新設されるも、1228年に廃止される(1271年に再設置)。

三明市

時は下って、明代の1452年、沙県と尤溪県が分割され、永安県が新設される(延平府【現在の南平市中心部】に帰属)。
1470年には清流県、沙県、将楽県、寧化県の一部が分離され、帰化県(後に明溪県へ改名)が設置される。 また1535年、尤溪県、永安県、漳平県、徳化県の一部が分離され、大田県が新設される(延平府に帰属)。

清代前期に延平府、邵武府、汀州府へと再編され、延建邵道の管轄とされる。 1734年には永春県(今の泉州市永春県)が直隷州へ昇格(永春州)され、泉州府下の徳化県、延平府下の大田県らが移籍され、永春県と仙游県を 含めた4県を管轄することとされる。

三明市

なお、現在の三明市中心部は、近代以降に開発された都市で遺跡は存在しない。

市内で最も古くに県城が開設されたのは、三国時代の呉による将楽県城であろう。現在の将楽県の旧市街地がこれにあたる。今日では完全に城壁も城門も撤去されてしまっており何も残されていないが、旧城壁都市内にあたる路地名や地名にはたくさんの記憶が刻みこまれていた。水門街、南門街、北門街、東門街、府前路、大東門薬局など。


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