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広西省チワン自治区梧州市 ~ 人口 340万人、 一人当たり GDP 30,000 元


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  広信県城(蒼梧郡城、梧州府城)



【 梧州市の歴史 】

発掘調査を通じて、梧州市一帯では、旧石器時代より人類の生息が確認されているという。

紀元前214年に秦により百越の地(南嶺地方)も武力併合され、この地方にも南海郡、桂林郡、象郡の3郡が新設されて、中央集権体制の導入が図られることとなる。このとき、現在の梧州市エリアは桂林郡(一説では南海郡とも)の管轄下に置かれたとされる。

秦朝の治世も長くは続かず、紀元前206年に滅亡後、中原では再び戦乱の世となる。この混乱に乗じて、趙佗が南海郡の兵力を使い、桂林郡と象郡を武力併合し、南越国を建国するに至る。

そして前漢初代皇帝の劉邦死後の紀元前183年、ついに趙佗は南越武帝を称し、前漢朝の封国体制から離脱し、独立の道を歩むようになる。このとき、趙光が蒼梧王に封じられ、彼により蒼梧王城の築城が開始される。これが、梧州城の始まりとされる。

しかし、紀元前111年に前漢第七代皇帝の武帝の遠征軍により、南越国も滅亡する。前漢は旧南越国の領地を、南海郡、蒼梧郡、郁林郡、和浦郡、交趾郡、九真郡、日南郡、儋耳郡、珠崖郡の9郡に分割し、直接統治体制を導入した。 このとき、蒼梧郡の郡役所が広信県城(かつての蒼梧王城)内に開設される。
蒼梧郡の管轄下には、広信県、猛陵県、謝沫県、高要県、端溪県、臨賀県、馮乗県、富川県、封陽県、荔浦県の10県が置かれた。

梧州市 梧州市

紀元前106年、嶺南一帯の九郡を統括するための交趾刺史部が、蒼梧郡の広信県城内に移転されてくる。以降、嶺南地区の政治、経済、文化の中心都市として大いに繁栄を極めることとなる。

時は下って、三国時代。荊州刺史であった劉表が、荊州南部の長沙郡、武陵郡、零陵郡の3郡に勢力を張った軍閥勢力を平定した200年、さらに南下を図り、交州の地へ触手を伸ばすようになる。このとき、配下の頼恭を交州刺史に、呉巨を蒼梧郡太守に任じて、現地へ派遣する。

184年に交阯太守の任に就いていた士燮は、数年後には朝廷より交州刺史に封じられ、嶺南地方の広大な地の統括する立場となっていたわけであるが、荊州の劉表の勢力拡大を危惧し、朝廷を有する曹操に接近するようになる。この時期、蒼梧郡の郡役所が一時的に交趾部の龍編県城へと移転される。

劉表も208年8月に死去し、翌月に跡を継いだ劉琮が曹操の南下軍に降伏する。この冬、孫権・劉備連合軍と曹操との間で赤壁の戦いが行われる。これに大勝した孫権と劉備は、荊州南郡を曹操勢力から奪取することに成功する。
さらに210年、呉の孫権が交州方面へ歩騭の軍を送りこみ、交州刺史の士燮を降伏させる(その前に劉表が派遣していた頼恭と呉巨の勢力を排除)。これより前の209年、交州牧と交州剌史の行政庁がともに蒼梧郡の広信県城内へ再移転されていた。

このように前後漢時代を通じて、中国華南の中心都市として機能した広信県城であるが、その名残から、以後、広信県より西を広西、東を広東と呼称されるようになったとされる。

その後も、この華南地域は蜀と呉の間に翻弄される時代が続く。

梧州市

漢時代の郡県境界線


呉の孫権により、交州刺史(南海郡 · 蒼梧郡 · 鬱林郡 · 合浦郡 · 珠崖郡 · 儋耳郡 · 交趾郡)に任命されていた歩騭は、基本的には従来の士燮(字は威彦)らの一族による交州支配を承認し、あくまでも間接統治の形を取っていたようである。しかし、呉の歩騭は徐々に、かつ確実に士燮らの権力基盤の浸食を図っており、217年には交州の州役所を広信城から番禺城(今の広州城)へ移転させている。

219年、荊州牧であった蜀守将・関羽が戦死すると、劉備の怒りの対呉進軍が始まる。このとき、その破竹の勢いに影響され、周囲の豪族たちは呉を離反し、蜀の軍門へと次々に下っていったが、その中に、交州蒼梧郡の士燮も含まれていた(221年)。

しかし、劉備は呉の陸遜に大敗し、223年に死去。これにより、蜀へ一時的になびいた荊州や交州の諸勢力が呉へ再度、帰順してくることになる。蒼梧郡の梧州にあった士燮も、益州の豪族であった雍闓らを蜀から離反させ呉に帰順させる手土産で呉へ再服従を誓った(この雍闓らは後に孔明の南蛮遠征で平定される)。この劉備の大敗は、蜀の領土を大きく減じることになったわけである。

そして226年、老獪な蒼梧郡広信県城主の士燮の死とともに、呉は広大な面積を要した交州の直接支配を本格化させる。まず、交州の東側を分割し、広州(南海郡 ·蒼梧郡 · 鬱林郡)を新設する。広州の州長官には呂岱を、交州の州長官には戴良が任命され、士氏一族の排除が図られることとなる。このとき、広州の州都は番禺城とされ、蒼梧郡の中心都市であった広信県城もこの広州の管轄下に組み込まれた。

なお、後漢末期から三国時代の戦乱の世にあって、この州都(梧州)をはじめ、交州全土は一貫して平和な世を謳歌していたようである。その当時の実質的な統治者であった士燮も、『士燮集』、『春秋経注』、『公羊注』、『谷梁注』などの著書を残している。また、中原や荊州あたりの難民もここまでたどり着いて定住した者も多く、文化や経済発展が大いに進んだと言われる。
その一人として、三国時代にその名を馳せた、有名な学者の牟子もいた(下写真右)。

梧州市 梧州市

三国時代も末期の280年、呉の孫皓により、広信県より新寧県(今の大坡鎮、広平鎮の地)が分離・新設され、県役所が大城村(今の大坡鎮城村)に開設される(西晋朝以降は、寧新県へ改名)。同じく、広州蒼梧郡の管轄下に帰属された。


その後も、東西晋朝、南北朝時代を通じて、広信県城は広州蒼梧郡の中心として君臨し続けることとなる。

隋代の583年、寧新県が廃止され、蒼梧県(広信県から改名)へ吸収合併される。引き続き、蒼梧郡の郡都とされる。そして、唐代初期の621年、広信県が梧州へと改名されるに至る。

明代の1470年、明皇帝の宪宗が梧州に総督、総兵、総鎮からなる「三総府」を新設する。これが中国史上初の総督府であり、梧州府は広西と広東の全域を監督する軍事都市となる。 1564年、両広総督であった呉桂芳が総督府を肇慶へ移転させる。そして、明末の1644年には広東総督が広州へ再移転され、ここが広西の管轄も兼ねることとされた。

梧州市

清代初期の1655年、総督府が再び梧州へ戻される。しかし、1664年に広西総督が廃止され、広東総督が両者を同時監督することとされ、肇慶へ再移転される。1746年に両広総督が広州へ移設される。

清朝末期になると、全国的に反清、排外運動が巻き起こる。
広西省の地でも、反乱の手が上がることとなった。その代表が陳開(1822~1861年)で、 李文茂らとともに、反清決起軍を組織し、1854年、広州城を包囲する。 しかし、両広総督の葉名琛は、イギリス香港総督のJohn Bowringの支援の下、 半年間の籠城戦で広州城を守りぬく。陳開らは広州攻略をあきらめ、広西省方面へと転戦する。 大水軍を率いて広西の潯州(今の桂平市)を占領し、1855年8月、潯州城内にて大成国を建国する。 このとき、陳開は平潯王(当初は鎮南王)と称し、功臣らを諸王へ封じていく(李文茂は平靖王へ、 梁培友は平東王へ、區潤は平西王へ、梁昌は定北王へ)。 潯州城は秀京へと改称され、潯州衙門は王府として利用されることとなる。
同年、梧州府も占領され、蒼梧県は秀平県へと改称される。
1858年、陳開は東路軍を率いて梧州から進軍、李文茂は西路軍を率いて柳州から出発し、桂林攻略を図るも、 蔣益澧の率いる湘軍が清軍の籠る桂林城を支援し、西路軍の李文茂が敗退することとなり、東路軍の陳開も撤退を 余儀なくされることとなる。その後すぐに清軍に柳州と梧州を奪われてしまう(秀平県から蒼梧県へ戻される)。
1861年には清の大軍が、陳開が王都を置いた秀京へ攻め寄せる。 陳開の水軍は全滅し、陳開は王都・秀京から脱出を図り、太平天国軍の石達開らに帰順しようと するも、途中で清軍により捕縛され刑死する。

中華民国時代下の1921年、梧州市が成立し、今日まで継承されている。


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