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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省雲浮市 ~ 人口 240万人、 一人当たり GDP 19,000 元


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  東安県城
  羅定州城(龍郷県城、瀧水県城)
  開陽県城



【 雲浮市の歴史 】

雲浮市一帯ではすでに数千年前からの人類の生息が確認されているという。
秦、漢代以降、度々地名や行政区の変更があり、交州蒼梧郡下の端溪県、晋化県、永聞県などに帰属されてきたようである。
唐代初期の621年、勤州が設置され、銅陵県と富林県の2県を統括するものとされる。 玄宗皇帝の治世下の742年には中国全土の行政区改編が実施され、州制から郡制への変更が進められるにあわせ、勤州は雲浮郡に改名される。これが、史上初めて「雲浮」の名が登場した瞬間となる。

時は下って、明代中期の1575年、羅旁山区(今の羅定、雲浮、郁南の3県)に住むチワン族らは明朝からの過酷な政策に耐え兼ね、反乱を起こす。 当時、16世紀以降の明朝は北にモンゴル勢力(庚戌の変など)、南は倭寇など海賊の攻撃にさらされるという北虜南倭の時代を迎え、 国力が疲弊し、増税と官僚の腐敗がまかり通っていた。

雲浮市

翌1576年、明朝は広東広西総督で都御史であった凌雲翼を総大将に10万余りの兵を派兵し、 4か月に及ぶチワン族中心の反乱軍との戦闘を繰り広げ、ついに武力平定に成功する。山岳地帯での戦闘となり、明軍は相当に苦戦を強いられたようである。この過程で、羅旁山(上写真)一帯に反乱軍が構築していた山上の要塞や集落など564箇所が破壊され、 また反乱民兵16,100が殺害され、23,151人の投降者が捕縛された(最終的には全員斬殺される)という記録が残る。
翌1577年、羅旁山地区への統治を強化すべく、明朝は瀧水県(今の雲浮市羅定)を羅定州へと昇格させ、広東布政使司の直轄下に置く。また、徳慶州の一部(晋康郷、高要県の楊柳、都騎、思労、思弁などの4都、新興県の芙蓉一、二図、および瀧水県の南郷、富林の2箇所)を分離して、東安県を新設する(羅定州の管轄下に入る)。これが今の雲浮市域の誕生のきっかけとなる。
また、東安県の県役所は麒麟山(別名:石麟山)の山上、今の雲城街道にある烈士公園一帯に開設される。初代県長官となった肖元岡により、1577年夏から半年かけて県城の築城工事が進められた。 翌1578年冬にも城壁が完成し、城内にも順次、県衛、軍署(参将府)、学官、分司、社学、食料倉庫管理局などの各部署が建設されていった。

清代もこの行政区が継承される。中華民国時代、羅定州が廃止され、雲浮県制が開始される。 中華人民共和国時代の1994年に市制が導入され、今日に至ることとなる。

雲浮市

なお、現在の雲浮市街区(雲城区)だが、明代中期に築城され清末まで継承された東安県城があったはずであるが、今日では全く残されていない。わずかな地名にその名残を感じるのみである。城北村、西塘(かつての堀川跡)、城西バスターミナル、城南村など。

雲浮市

また、雲浮市街区から西南へ75kmの場所に、雲浮市羅定がある。市内ではここの方が歴史は圧倒的に古い。秦の始皇帝により紀元前214年に嶺南地方も平定された後、翌年に南海郡、象郡、桂林郡が新設される。羅定地区一帯は、南海郡下の18県のうち、開陽県(県役所は今の羅定市船歩鎮に開設)下に帰属された。
その後は廃れていったようで、前漢時代には交州蒼梧郡下の端溪県域に帰属される。この現在の羅定の旧市街地に県城が築城されるのは、東晋時代の344年、蒼梧郡から晋康郡が分離・新設され、晋康郡下に配された14県のうちの一県役所の所在地(龍郷県城)に選定された時とされる。このとき、あわせて端溪県も分離され、龍郷県と夫阮県の2県が新設されている。この龍郷県こそが瀧水県の旧名であり、後に羅定古城へ発展していくことになる。南北朝時代から隋、唐代には瀧州や永熙郡の中心都市となる。明代中期のチワン族反乱平定後、 羅定州の州都となり、清代までこの一帯の中心都市として君臨した。

現在でも、羅定空港を有し、居住人口は120万人を超え、雲浮市(総人口240万人)の中でも最大都市となっている。

なお、これだけの歴史を有する古都であるが、残念ながら城郭都市の跡形は微塵たりとも残されていない。旧市街地に残る地名だけがかつての栄光を誇示 しているようであった。西門巌路、羅定市羅城鎮、南区衛生駅、城南幼稚園、羅定学宮(孔子廟)など。


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