BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~


広東省 汕尾市 陸豊市 大安鎮 ② ~ 鎮内人口 3.5万人、 一人当たり GDP 27,000 元 (汕尾市全体)


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  軍塞城(軍塞村)の 遠景 ~ 南門 と 西門
  西門 と 城壁 ~ いい感じに数百年もの年月を過ごしてきた 風格が漂う
  軍塞城の 築城工事エピソード
  西門楼閣 と 地元神
  城内の古井戸 と 古民家群
  痛みが激しい 東門
  北側の 城壁片
  【豆知識】軍塞城(軍塞村) ■■■
  環珠塞村 ~ 整備されず放置状態の街道 と 不釣り合いの最新型道標
  北門 と 城壁
  寂れ果てた古城の 旧家屋群と 路地
  南門 と 城壁片
  【豆知識】陸安県城(安陸県城、大安屯) ■■■
  卒業するなら ココ、陸軍小学校!

  石塞城(石城)
  南渓古鎮



陸豊市大安鎮

石塞城(石城)を視察後、石塞村の入り口まで戻り、その真正面に続く田舎道を向かいの集落地めがけて前進してみる(上写真)。

陸豊市大安鎮

遠方の集落地からも、石塞村の中学校へ通学している生徒たちがたくさんいた。ちょうど 14時前で、昼食を自宅で食べて午後の授業に戻っているようだった。


軍塞城

この田舎道を歩いていると、右手方向に古い城門楼閣や城壁らしき建物が見えてくる(下写真)。

陸豊市大安鎮

上写真は南門で、下写真は西門である。

陸豊市大安鎮

一本道の交差点を右折し、少しすると 軍塞村 の集落地に入る。
さらに右折して村道を進むと、忽然と西門が現れる(下写真)。

陸豊市大安鎮

城門沿いには城壁の一部も残っていた。

陸豊市大安鎮

全く修復作業が行われていない、手つかずの城壁は非常に見応えがあった。明末清初 の築城以来、400年以上もの間、風雨と人的損害によく耐えて現存してくれたものだ。

城壁を観察していると、各 3~4 mの幅ごとに地面から城壁上片まで切断面が整然と入り、その左右が全く異なる城壁模様となっている箇所が所々に見受けられる(下写真)。
これは築城当時、村の軍民らが輪番制で城壁建設工事に従事したためであり、その一グループの担当区画の城壁が完成すると、次の順番の軍民らが横列の城壁区画の工事を始めるという仕組みで建造されたことに由来するという。

陸豊市大安鎮

この古城の特徴は、ゆったりとした斜面を形成する丘陵部分に築城されてはいるものの、総じて平坦な土地に広がる集落地を城壁で取り囲んだだけの平城で、かつては城壁を積み上げるために掘削された外堀で外周を取り囲んでいたと推察される。現在は外堀の跡は一切、残っていない。

その代わりに、城壁上にはいくらかの道幅の 馬道(通路スペース)が設けられていたと思われるが、現在は一切、その痕跡はなく、この城壁の横幅部分の土砂を使って、外堀を埋め直したのではないかと思われる。そうして今日、城壁の外面のみが残されることとなったわけである。
城壁資材は他にも、城内や近隣の家屋建材にも転用され、はがされていったことだろう。

下写真左は、西門の城壁片と外堀跡と考えられる外周道路。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

上写真右 は、西門の城門楼閣の底面。床地は木製で、石積みの具合といい、村人たちの手作り感がにじみ出ていた。

陸豊市大安鎮

上写真は、西門を城内から見たもの。城門楼閣へ上がれる階段も健在だった。城内から見ると楼閣部分の傾き具合が生々しかった。何らの保護もされていないので、日々、棄損と崩落のリスクにさらされている。いつまでこの姿を堅持してくれることだろうか。

せっかくなので西門楼閣の上へ登ってみる。楼閣内には、地元の守護神が祀られていた(下写真左)。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

城壁面には水はけ口と通気口をかねた小さな穴が所々に開いていた(下写真左)。土壁の部分も内部は粗石を積み重ねて、粘土で固めたものである。築城作業班ごとにこれほど丈夫に丁寧に工事したところと、手抜きか?と思われる作業班との落差が目だって、おもしろい。

さて、古城内の散策を開始しようと、もう一度、西門をくぐると、古井戸を発見した(下写真右)。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

古城内は、廃墟となった古民家がたくさん放置されていた。旧家屋に使われている建築資材はあまりに城壁のそれと似通っていたため、やはり住民らの城壁破壊と部材転用との確信が強まる。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

古城中央部に密集する旧家屋群の 99%は無人状態だったが、城壁沿いや古城北側を中心に鉄筋コンクリートの住宅地も所々に点在しており、周辺部を中心にゆったりと宅地開発が進んでいる様子だった。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

そのまま古城内の中央を横切り、東側へ突き抜けると、朽ちかけた 東門 が目に飛び込んできた。下写真は城内から東門を見たもの。

陸豊市大安鎮

陸豊市大安鎮

陸豊市大安鎮

下写真は、城外から東門を見たもの。

陸豊市大安鎮

下写真は、城門楼閣の床面。やや傾きが気になる。楼閣横の階段も、もはや登れない状態で、いつ倒壊しても不思議ではない。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

上写真右は、東門外から北へ続く城壁沿いを見たもの。このまま前進すると、自動車道路へ出ることができた。
下写真 は、この自動車道路沿いにあった北側の城壁片。この道路沿いに新しい鉄筋コンクリートの住宅地が立ち並び、古城の北面と少し融合しかけていた。この道路も、かつては外堀の跡地だったと考えられる。

陸豊市大安鎮

南門も見たかったが、民家の敷地に立ち入りそうな雰囲気だったので、やめておいた。

それにしても、地元民は筆者を外来者とすぐに判別できるのか、道を歩いていると、じーっと見てくるのが気になった。何もすることがなく暇で眺めているのか、外来者だとすぐに察知されたためであろうか。



 軍塞

そもそも、いかにも物々しい印象を醸し出す「軍塞」の名称であるが、これは、共産党中国時代の 1976年に、人民解放軍所属のある部隊が軍事訓練のため、大安鎮一帯に駐留した際、この軍塞村に 2つの小部隊が駐屯したことに由来するという。

当時、ある村民がこの小部隊の団長に質問して、「あなたの部隊はどこの所属ですか?」と問うと、団長は冗談交じりに「陸軍大隊」だと答えたとされる。当時、このような田舎エリアにあって、軍隊の駐留は地元民らに相当なインパクトがあったらしく、以後、軍塞村と通称されるようになったそうだ。

ここに集落地が設けられるようになったのは、北西隣にある安陸県城の新設に関係があるという。
唐朝が天下を統一し、618年に王朝を建国した直後の622年、 海豊県 の東部が分離されて、安陸県の県役所が開設される。このとき、その一部駐留兵らが小川の南東対岸に駐留拠点を建造しており、これが軍塞村の起源と考えられている。
当時、安陸県城(今の環珠塞)とは、北側の 三溪水(現在もダムがある)を水源とする小川で隔てられていた。背後には丘陵エリアの獅子嶂があり、東には八万群山が控え、螺河の流れが北西から大きく湾曲して、駐留基地(軍塞村)の南門前を通過していたという。
この小川と螺河が接続するあたりに小さな池が形成されており、まさに三方面を水に囲まれた天然の要害の地であったとされる。この地形に由来する大湾と小湾の旧名称が、今日の大安鎮、小安鎮の地名の語源となっているという。

しかし、早くも 627年に安陸県は廃止され、海豊県下に再編入されると、5年の短い県城の歴史は終わりを告げるも、旧県城とその支部にあたる駐留陣地跡を基礎に、集落地は継承されていったものと考えられる。前者が環珠塞村、後者が軍塞村へとつながっていくのだった。
倭寇の襲撃がピークを迎えた明代、軍塞村の軍民らは 碣石衛城 の管轄下に組み込まれた。

現在、この村には、黄、張、朱、呉、高、陳、徐、龚、王の九姓の宗族らが同居する形で住民を構成しており、相互に密接な婚姻関係を結んでいるという。

古城エリアの城域は、直径が約 150 m、総面積は 2万 m2余りで、東、南、西の 3城門を有し、だ円形をしていた。城内の中央部分がやや高台になっており、四方は緩やかに低くなる地形であった。そして、要塞内の民家は、すべて低い位置から村中央部の高台に向けて門を設置する設計パターンとなっており、これは、有事に村人たちが即席の軍民となって出撃伝令にすぐに対応できるように工夫されていたということだった。
当時、城内は東西の 5つの横巷と、南北の一つの縦巷の路地があり、それぞれが交差し合って、城内の路地網を成していた。

さて、城塞には唯一、北門が設置されなかったわけであるが、これは北面の 500 m先と環珠塞の北東面の大山がそれぞれつながっており(獅子嶂と通称された丘陵エリア)、軍塞村の最北の 路地(横巷)の東端に一つの 地下道(高さ × 横幅 2 m)入り口が掘削され、秘密通路でつなげられていたのだった。
そして、地下道は二手に分かれており、一つは環珠塞(安陸墟)へ、もう一つは村の北部へとつながっていた。これは、戦乱時に逃げ道を確保するためであり、また、増援を要請するための命綱的な通用口となっていたのだった。
共産党中国の成立後、村民によって古城北面を中心に鉄筋コンクリートの新家屋が建てられるようになり、地下道は埋められてしまったという。

なお、軍塞村に伝わる伝説によると、南宋末期、文天祥が率いる軍隊が 海豊県城 に入城すると、軍塞村からも 99名の勇士が積極的に義軍部隊に参加することとなった。
1279年に文天祥が海豊県下の方飯亭で大敗し、捕縛されたとき、この 99名の勇士らも全滅したと考えられており、実際、誰一人として帰郷したものはいなかったという。



大安環珠塞(安陸県城跡、大安屯)

軍塞村の北側にある舗装道路を西へ戻り、舗仔墟(村)を経由した際、アスファルト道路が西と北へと別れる地点で、地元の人たちに「環城塞」はこっちかと確認し、北へと歩みを進める。

田舎道を5分ほど歩くと、朽ち果てた旧家屋群と 鉄筋コンクリート住宅が入り混じる集落地に到着した。その手前には、 かつての外堀と集落池を兼ねたと思わしき沼地が残っていた(下写真左)。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

道路先の交差点まで進んだところで(上写真)、地元民にここは「環城塞ですか」と確認すると、その通りという。

陸豊市大安鎮

「ここに古城があったんですよね?」と確認すると、後ろにいた別の老人が自分が案内すると言ってくれたので、ついていくことにした(下写真左)。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

この古老が言うのは、自分が小さい 当時、この城内で成長し、まだ周囲に城壁が取り囲んでいたという。しかし、どんどん撤去されて、今ではこの北門周辺と南門周辺のみにわずかに残るだけという。

陸豊市大安鎮

このアスファルト道路沿いに北門と城壁の残骸が残っていた(城外から外観を撮影)。

陸豊市大安鎮

下写真は、城内から北門を撮影したもの。構造としては、先の軍塞村の城門と同型、同サイズだったと思われる。

陸豊市大安鎮

先の 古老 に連れられて、城内の無人と化した古民家の集落地を抜けていく。信じられないかもしれないが、下写真はいずれも古城内の中央通りだ。異様な寂れ様が伝わってくると思う。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮
陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

下写真右は、古城内にあって、ひと際きれいに整備されていた向氏宗祠。向一族の先祖を祀る宗廟だ。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

と、その先に、朽ち果てた 南門 と楼閣が忽然と姿を現した(古城内から見たもの)。
もう完全に木々に侵食され、いつまで持つかわからない状態だった。古老も、このままあと 5年、存在できるかどうかも分からない、と言っていた。。。

陸豊市大安鎮

無法ゴミ投棄場と化していた。。。。

陸豊市大安鎮

下写真は、この南門を城外から見たもの。外面が 木々に覆われて、ほとんど全容が確認できないが、城壁の一部も残されていることが分かる。

陸豊市大安鎮 陸豊市大安鎮

南門跡を撮影していると、地元の人たちが話かけてくる。それを見た周囲の住民らも寄ってきて、物珍しそうにさらに話かけてくれる。皆、本当に人なつっこい田舎の人たちだった。


大安環珠塞 は、もともと 海豊県 下の村落の一つであったが、唐代初期の 622年、海豊県の東部が分離されると、安陸県が新設され県城へ昇格される。 しかし、間もなくの 627年、安陸県は廃止され、再び海豊県へ編入されてしまうこととなった(安陸郷へ降格)。
五代十国時代の南斉朝の治世下、再び、海豊県の東部が分離され、陸安県が再設置されるも、 16年後の梁朝初期に再廃止され、海豊県へ編入される(陸安郷へ再降格)。合計 20年にも満たない短期間であったが、県役所が設置された由緒ある古城跡地である。

かつて北門、南門、西門の 3城門を有し、内部面積 2,000 m2余りを誇ったという古城も、現在、西門はすでに倒壊して消失し、周囲の土壁城壁もわずかな土片の一部のみを残すだけとなっている。
かろうじて、現存する南門と北門には、石門と楼閣、一部の城壁が周囲に残る程度となっている。これらは、明代以降に建造されたものという。

清代中期の 1731年に 陸豊県(今の 広東省汕尾市陸豊県中心部)が 立県されると、これに帰属された。陸安郷城として、引き続き、大安鎮エリア一帯の村々を統括したと考えられる。
陸安郷城時代の三城門には、それぞれ「安」の文字を入れて別名が当てられており、 後世の人がこれを「大家安居楽業」の意と解釈して、当地の地名が大安鎮と通称されるようになったという。



ここから、さらに自動車道路沿いに西へ進むと、陸軍村を通過する(下写真)。
この名前も特徴的で、いろいろ妄想を巡らせてみたが、 かつて陸安郷城の名称が関係すると思われた。すなわち、「大安鎮」で「安」が使用されたので、 「陸」の文字を使って、東の「軍塞村」にならい、西の「陸」「軍(塞)」村と決定されたのでは ないだろうか。。。と。

陸豊市大安鎮

道中、陸軍小学校前 を通過したとき、思わず、シャッターを切ってしまった。
履歴書に「陸軍小学校卒」とか書けると、かっこいいだろうな、という妄想を抱きながら。「陸軍小学校」を卒業したければ、ここ!!

陸豊市大安鎮

そして、S240の大通りをさらに一本西へ移動し、それと並行に走る道路(旧 S240)からバスを待つことにした。確かに、旧 S240 道路沿いの方が旧市街地っぽく、道沿いの商店街や住宅地も圧倒的に多かった。ここが大安村の中心街にあたるわけだ。
間もなく、陸豊市 中心部へ向かう路線バス ⑧が来たので、飛び乗る。5元、30分。


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