『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~


広東省汕尾市 海豊県 ~ 県内人口 85万人、 一人当たり GDP 27,000 元 (汕尾市全体)


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  宝塔山と道山塔
  海豊県城 南門跡地
  城隍廟と正殿「正直堂」
  海豊県城 北門跡地
  紅場(地元共産党政府の誇り)
  かつての孔子廟と学宮(今の紅場)
  地元の英雄「農民運動大王」澎湃の生涯(1896~1929年) ~ 日本の早稲田大学へ
  海豊県城の古絵図と今も残る南湖
  【豆知識】海豊県城 ■■■
  南宋とモンゴル軍との古戦場跡 ~ 文天祥 捕縛の地「方飯亭」「五坡正気」



汕尾市城区 にある坎下城を訪問後、その南門からバイクタクシーに乗り、中心部の東はずれにある汕尾市総合バスターミナルを目指していたが、バイクタクシーに海豊県への訪問意思を告げると、汕尾大道沿いのバス停で待っていれば、 5分に一本、バスや乗り合いタクシーが来るので、それに乗車するように言われた。バスだと8元、乗り合いタクシーだと10元という。
汕尾市総合バスターミナルからは、海豊県行きのバスは出ていないとのことだった。

実際に 1分ほど待っていると、普通車型のタクシーが、運転席前に「海豊」と書いたプラカードを貼って、走ってくる。
いちおう、止めてみて値段を聞くと、本当に10元というではないか!後部座席にはすでに先約の客が2名、乗っていたので、助手席に飛び乗った。

だいたい30分弱ぐらいで、海豊県の中心部に到着する。下車する際に、10元を運転主に支払う仕組み。

汕尾市海豊県

道中、海豊県の県域に入る辺りで、海麗大道沿いの道山村にある宝塔山の山頂に、道山塔の残骸遺跡が忽然と姿を現す(上写真)。低い山だったので、登ってみたい気もしたが、登頂後に「登っただけ」に終わりそうだったので、止めておいた。

海豊南湖バスターミナルを超えると、いよいよ海豊県の 旧市街地 である。
この中山南路との交差点で下車した。ここは、かつて海豊県城の南門があった一帯である。現在は警察署と、陶河鎮行きのローカルバス発着場になっている(下写真左)。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

上写真右は、古城地区内の海麗大道(汕尾市中心部から続く幹線道路)。この少し先の左手に、城隍廟がある。下地図。

汕尾市海豊県


海豊県城

海麗大道をさらに北へ進むと、紅場路と交わる交差点に至る。これと人民西路(市街地区に入ると、海麗大道から名前が変わる)との交差点に、城隍廟があった(下写真左)。その名も、「正直堂」という(下写真右)。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

ここの横の路地を回って、西側の城壁跡地を散策してみた。農林路沿いの西門市場(下写真左)などに、わずかな名残が感じられるのみだった。周辺には古民家が複数、残っていた(下写真右)。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

広富路 との交差点で、東へ向かう。この円形ロータリーが、かつての北門跡である(下写真左)。ちょうど人民西路と北門新街とが交わるポイント。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

上写真右は、北門新街へ入ったところ。
ここは北門社区というエリアで、その名が示す通り、古城時代、北側の城壁が連なっていた通りである。下写真左も。
この北門新街の裏通りにも、旧家屋や路地がいくつも現役で使用されていた。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

北門新街から解放路を南下し(上写真右)、紅場路を西へ戻る形で、紅場 を視察してみた。

県城時代は孔子廟と学宮を兼ねた施設だったが、共産革命以来、この敷地内で地元自治議会や海豊県人民政府の庁舎(下写真の下段左。もともと小児・産婦人科病院だった建物が1949年の建国時に政府庁舎へ転用された)が開設されたことから、共産党の象徴的エリアとなったわけである。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県
汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

その横に海豊県図書館と歴史博物館があった。
歴史博物館は広東省の科挙合格者、特にその最高位の状元を取得した者たちの人生経歴と解説に力が入れらていた。
2階が海豊県の郷土史フロアであった。

下絵図は、清代の学宮(孔子廟)の全体絵図。明代初期の1379年に建立されて以来、幾度もの建て替えを経ているという。

汕尾市海豊県

1927年11月18~21日、この学宮内で海豊全県工農兵代表会議が開催され、地元共産党政府の樹立が宣言された。
この会議に際し、会場となった学宮(孔子廟)の壁や、四方の街道沿いの壁すべてが赤色に塗り替えられ、また会場内も赤布で全面が覆われて、中国初の地方レベルの共産党政府成立が盛大に祝われることとなった。このイベント以降、学宮は紅宮と改称される。この後も、地元の共産政府により、当敷地内でさまざまな会議が催されたという。

汕尾市海豊県

下写真左は、澎湃(1896~1929年)の立像。地元では、「農民運動大王」の称号で呼ばれる。

彼はこの海豊県出身の地元民で、1918年に日本へ留学し、早稲田大学に学ぶ。この日本滞在時代から、積極的に中国留学生らによる反帝国主義運動に参加していたという。1921年5月に帰国後、しばらく政治運動から身を引くも、 1924年に中国共産党員となる。1927年3月には、全国農民協会臨時執行委員会の秘書長に就任する。

一方、自分の故郷である海豊県でも共産武装闘争が勃発しており、同年4月と9月の蜂起では失敗していた。これを聞きつけた澎湃は同年10月、南昌決起を構成した一部の軍人らを伴って帰郷すると、翌11月に農民武装闘争を主導し、3度目にして海豊県城の国民党軍を追放し、自治政権樹立を成功させる(しかし、翌1928年春に国民党軍の反撃を受け、間もなく共産党政権は崩壊する)。
この功績を評価され、澎湃は第五回と第六回中共大会で中央委員に選任される。最終的に、中央農委書記に就任するも、1929年8月24日、仲間に売られる形で国民党軍に捕縛され、厳しい拷問の後、8月30日に処刑される。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

上写真右は、紅場公園の片隅に残る倉屋敷。もともと、この公園内には明代、海豊県城の食糧庫が建ち並んでいたが、清末に消失し、以後は草むらとなっていたという。

この海豊県城の歴史は非常に古く、東晋時代 の331年に、東官郡下の博羅県から分離・新設されて以降、県城として地域行政の中心都市を自認し君臨してきたわけだが、その古城エリアを中心に近代都市開発が進められてしまったため、この過程で由緒ある城壁や城門などの遺構は完全に撤去されてしまうこととなった。現在、わずかに路地名や地区名に往時の記憶が託されているのみである。

汕尾市海豊県

旧市街地を一周見学した後、南門社区にある南湖バスターミナルまで歩く。この南湖は、かつて県城の南面に存在した大きな池が整備されたものである(下写真左)。上絵図の下の方に描かれている。

下写真右は、犬肉食堂。ちょうどバスターミナル前にて営業中だった。あまりに爽やかな店の看板で、犬たちが描かれていたので、思わずシャッターを切ってしまった。

汕尾市海豊県 汕尾市海豊県

このバスターミナルから、捷勝鎮 行きのバスに乗り込む。15元、所要時間約 45分。



 海豊県城

海豊県エリアでは、すでに 5000年以上前の新石器時代に人類の生息が確認されており、漁業や狩猟、簡単な農業活動などで生活が営まれていたとされる。
秦代、漢代には南海郡下の傅羅県に属した。

東晋時代初期の331年、博羅県から 宝安県、海豊県、安懐県(今の 東莞市)の3県が分離・新設されると、同時に、南海郡からも東部エリアが分割され東官郡が新設される。郡都は、宝安県城(後に揭陽県城へ移転)が兼務した。このとき、海豊県は現在の海豊県全域と 恵来県、普寧県、揭西県の一部をも統括した。
なお、「海豊県」の名称は「南海物豊」の語句から命名されたといい、至極、単純な理由だったようだ。

当時の海豊県城は土壁で、今の古城エリアから 500mほど東の城東鎮上埔村あたりに立地していた。現存する東岳廟、先農廟、三皇(薬王)廟などは、この旧城時代の名残と考えられている。
当時は、粘土とレンガで建造された平城で、外堀も有していた。土壁の上には、草や竹などを植えて、土質を固める効果を持たせていたという。元末の内乱期に荒廃するまで、この土壁の城が海豊県城を継承した。現在、当時の城壁遺構は一切、残っていない。

汕尾市海豊県

隋代初期の591年、梁化郡と東官郡、南海郡の一部が合わさって、循州(郡都は帰善県城。今の 恵州市)が新設されると、海豊県はここに属した。607年に循州が龍川郡へ改編されるも、行政区はそのまま踏襲された。

唐代初期の622年、龍川郡は再び循州(684年に雷郷郡、 742年に海豊郡、758年に循州へ改称)へ戻される。帰善県(引き続き、州都を兼務)、博羅県、海豊県、河源県、雷郷県(今の龍川佗城)、興寧県の6県を統括した。
また同年、海豊県の東部が分離され、安陸県(今の汕尾市陸豊県)が新設される(間もなくの627年、安陸県は廃止され、海豊県へ再編入)。

五代十国時代、嶺南地方一帯は南漢国の領土下にあり、958年、循州が禎州へ改称される。
北宋時代の1021年、皇太子の趟禎(第四代皇帝・仁宗、1010年~1063年。1022年即位)の名前に漢字が重なったため、禎州が恵州へ変更され、海豊県はそのまま広南東路下の恵州に統括された。

なお、宋代に入って駐屯兵や南海貿易に従事する人々の人口流入が始まるまで、この海豊県エリアは原野と地元民だけの寂れた 土地柄 であったという。

汕尾市海豊県

南宋末期の海豊県は、モンゴル軍と南宋亡命政権との死闘が演じられた場所となる。

1276年12月、福州 より逃亡を続けていた南宋亡命政権(端宗の趙昰ら)の一行が、甲子鎮 まで至る。このとき、当地の郷紳(地元名士)であった范良臣が、皇室やその軍民一行に食料を提供したとの記録が残る。また、漁民の鄭復翁が当地の義勇兵を率いて、この南宋亡命政権に従軍することとなった。

1277年初旬、南宋亡命政権の右丞相兼枢密使であった文天祥が、転戦先の江西省より脱出し、嶺南山脈を越えて広東省内に至ると、恵州を平定して、ここを本拠地とする。

陸秀夫と端宗(趙昰)の本隊と文天祥ら別動隊の両者は、この海豊県内で一時的に合流し、南宋亡命政権の一大勢力拠点となった。下地図。

汕尾市海豊県

この時、陸秀夫の率いる水軍と当地の住民らが協力して、黄江を東西につなげる大運河を掘削している。海豊県城から最短で港湾部へアクセスできるよう、東西に分かれて流れていた黄江の支流を約1200mの運河でつなげて、どちらのルートからでも河を下れるように設計されたのだった。

1278年3月、恵州を平定した文天祥が麗江浦(海豊県の県境)に駐屯する。
同時に、陸秀夫に守られた端宗の趙昰と弟帝の昺ら一行はさらに南へと逃れるべく、鲘門の南山嶺で一晩を野営する。

同年8月、南宋亡命政権が文天祥を欽差大臣に任じ、少保信国公となると、野営先の麗江浦の陣中で小さな宴が催されたという。
文天祥はさらに水軍大臣に任命され、自ら水軍を率いて麗江浦より東海湾へ出航する。
11月に潮陽地区に到着すると、反乱軍の頭目であった陳懿と劉興を討伐する。下地図。

南宋亡命政権に合流した将軍の鄒風、劉子俊らと協力し、劉興の捕縛・処刑に成功するも、陳懿は海路を逃れて、元軍と合流してしまう。文天祥は再び兵を率いて、海路、海豊県城へ帰還する。下地図。

汕尾市海豊県

兵士らの休息も束の間、手狭となっていた海豊県城をすぐに出発し、北の郊外に位置した五坡峰に野営して、北に連なる蓮花山一帯に軍事要塞の建設を開始する(下地図の上部)。一部の兵士らのみ赤岸の渡しと県城に待機させ、大部分の軍勢は五坡峰と工事現場の蓮花山一帯の野営陣地内に駐屯していた。

12月20日昼時、元側の追討軍を率いていた総大将の張宏范により派遣された、実弟の張宏正と陳懿(潮陽地区の海賊で、先の文天祥による討伐戦から逃げ延びていた)の率いるわずか 1000騎の先鋒隊が、この作業途上の南宋軍を急襲する。

南宋軍は建設工事に注力し、武具を十分に準備していなかった中で、さらに昼食の真っ最中を襲われる形となり、完全に不意を突かれる展開となった。本陣は包囲され、兵士らは十分な応戦ができないまま、多くが戦死に追いやられる。
将軍の鄒渢はその身に十カ所以上も負傷しつつ奮戦するも、最後は力尽き自刃して果てる。また別の将軍・劉子俊は苦戦の中で捕縛されてしまうも、最初は自身を総大将の文天祥と偽っていたが、モンゴル軍にとらわれた兵士らの証言で嘘が暴かれ、生きたまま煮え殺されることとなる。
その他、兵士らはちじりじに離散するも、多くは殺され、合計 7000名余りの死体が白昼の五坡峰の丘陵エリアを真っ黒に染め挙げたといわれる。以後、五坡峰は血淋溪とも別称されることとなったという。

文天祥もまた最悪の戦況の中、防虫剤の一種である龍脳を飲んで自殺を図るも、モンゴル軍の捕虜となる。そのまま元朝の王都である大都(今の 北京市)まで連行され、 3年後に処刑されるのであった。また、この戦いで海豊県内にいた南宋の臣下や儒土らも捕縛され、すべて処刑されている。
残った南宋軍の兵士ら 3000余りは 捷蘭埔(今の汕尾市捷勝鎮の中心部)へ退避し、現地の住民らと共同で籠城戦を図るも、1年後にモンゴル軍の総攻撃を受け、全員戦死の結果となる。

古戦場となった五坡峰は、文天祥の昼食時の合戦にちなみ、「方飯亭」という公園に整備され、汕尾市政府により市内名所旧跡ベスト 8の一角として管理されている(文天祥紀念公園、五坡正気)。
近代以前の五坡峰は海豊県下でも荒れた丘陵エリアであったが、現在は海豊県の市街区が拡大し、五坡峰も街中の市民公園として機能しているという。

汕尾市海豊県

先の南宋末や元代末期に中原地方が戦火で混乱を極める中、多くの人々が嶺南山脈を越えて華南地方へ移住してくる(客家の誕生)。特に、南宋軍として当地まで従軍してきた多くの軍民らは戦後、この地で帰農し、広大な土地が開発されたという。

モンゴル軍により占領された海豊県は再び、平和を取り戻すも、元王朝の支配体制は 100年と持たず、崩壊する。再び、全国で反乱が勃発し(紅巾の乱など)、各地で群雄が割拠する戦乱時代に突入すると、海豊県も戦火に巻き込まれる。県城内は無人状態に陥ったという。

1368年に朱元璋が 南京 で明王朝の建国を宣言すると、その治世下の 1379年、荒廃した海豊県城とその役所が再建される。同時に、 県役所の東側に学宮(すなわち、孔子廟)も再建された。当時、境内はかなり広大な敷地を誇ったという。
もともと孔子廟は県役所の西側にあったが、北宋時代の1041年の建替えの際、県役所の東側へ移転され、 1251年に再度の建て替えを経て、元末の混乱期に海豊県城とともに荒廃してしまっていたのだった。

1388年、海豊県城内に海豊千戸所が新設されると、恵州衛に帰属した。
倭寇の襲撃を度々うけており、翌1389年、海豊県内の碣石湾の東岸に 碣石衛城 が築城されると、甲子所城捷勝所城、平海所城、海豊諸千戸所(今の陸豊、海豊、恵東の各千戸所城)、南海護衛、及び東沙群島までを統括することとされた。
1391年、当地で田畑の検地が行われた際、全県に里(郷村)が整備され、住民らの軍役が定められる。

汕尾市海豊県

1393年8月、明朝廷より安楽侯に任命された呉傑と、永定侯に任ぜられた張全が当地に赴任すると、広東沿海の衛所守備を担当し、軍民らを訓練して対倭寇戦に備えさせる。

翌1394年、千戸馬帖木の愛度が都指揮の花茂の意見を取り入れ、倭寇対策として沿岸地帯の復興と防衛拠点の建造を朝廷に上奏し、この一環で海豊県城が新たに築城されることとなる(黄江の西岸へ移転)。千戸馬帖木の愛度自身が築城工事の陣頭指揮を執った。

高さ 6.6m、全長 1303mの城壁となり、東西南北に城門 4門が設けられ、すべてに楼閣が備えられていた。また、城壁上には凹凸壁が 781ヵ所設けられ、掘削された外堀は深さと幅はそれぞれ 3.3mであったという。以後も、台風や年月経過による建物崩壊、外堀の土砂堆積などで、幾度となく修繕工事が施されることとなった。

汕尾市海豊県

明代は倭寇の活動で悩まされた海豊県であったが、県下の人口増加が顕著となり、明末には登録住民数が 2万人に達していたという。こうした人口爆発を受け、 1524年、海豊県東部の龍溪都などが分離され、恵来県 が新設されることとなる。ともに、恵州府に属した。

清代に入り、鄭氏台湾が降伏した後、福建省や広東省の他のエリアからも多くの流民が流れ込み、海豊県の人口はついに 3万人を超える。これを受け、1731年、海豊県から出石帆、吉康、坊廓の3都(集落地の単位)が分離され、陸豊県 が新設される(上地図)。以後、海豊県下には存興賢、石塘、楊安、金錫の4都のみ残されることとなった。

海豊県は潮州、恵州の中間にある重要な海上交通ルート上に位置し たため、広東省東部の重要な沿岸防衛ラインの一角を担うこととなった。明代、清代を通じ、県下には 12の狼煙台、24の砲台基地 が新設されている。

中華民国時代の1922年2月、広汕公路の建設工事のため、海豊県城の城壁はすべて撤去され、 道路部材として転用されてしまい、現存する城壁は一片もない。



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