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訪問日:2017年8月中旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省深圳市南山区 ~ 人口 832万人、 一人当たり GDP 67,000 元


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  南頭古城(宝安県城、東官郡城、東莞守御千戸所城、新安県城)
  赤湾砲台
  宋少帝陵と陸秀夫像(崖山の戦いで入水後、その遺品が赤湾に流れ着いたことによる)



 南頭古城と博物館、中山公園

さて、明代初期の1394年に築城された南頭古城跡であるが、現在、南門と東門の城門・楼閣が残るのみである。城内には清代にあった行政庁跡や郷土会館跡などが無料公開されている。また、中山公園内やその駐車場あたりに、かつての北側の城壁の土塁がそのまま残されている。

深圳市

東晋時代の331年以来、今の深圳市、東莞市、恵州市、香港、マカオ、珠海市、中山市一帯を統括する拠点として君臨する、珠江河口エリアの政治、経済、軍事の中心都市であった。

隋代から元代まで、広州配下の一城塞へとなり下がるも、倭寇の活動が脅威となってきた明朝後期の1573年、新安県として県役所が再設置され、以後、エリア拠点として君臨しつつ、海岸線の防衛拠点網の一角を担っていくこととなる。

なお、現在の城郭は明代初期の1394年に千戸城として築城された当時のものを踏襲しており、その範囲は東西最大で 680m、南北最大で 500mで、上から俯瞰すると台形に似た不規則な長方形型をしていたという。城壁の周囲には外堀もめぐらされていた(下絵図)。

南山区

現在、南北の城壁はまだ現存しており、特に南城門の保存状態が良好である。
南門の城門台座の幅は10mで、高さ4.5mあるが、城門楼閣はすでに撤去されている。城門上には、長方形の石碑があり、南寧と彫られていた。

現在見られる新安県故城であるが、すでに大規模な修復工事が施されており、牌楼、南城門、県衛、新安監獄、海防公署、東莞会館、関帝廟、文天祥祠、アヘン吸引者らの家、接官庁、聚秀楼、義利押当舗(質屋)、陶米公銭庄など、十余りの旧家屋類が復元・保存されている。

南山区

東莞会館(宝安公所)
清末の1868年に建設されたもので(面積は53m2)、清代の東莞商人が新安県城内で設立した商工会に相当する。 1984年9月に市文化保護遺跡に指定され、1996年に南山区の政府出資により修築工事が進められた。

海防公署
新安県城内に位置した海防役所は、今日で言えば、当地の海軍司令部に相当する。
史書『新安県志・海防』によると、南頭寨は今の深圳市、香港など一帯6ヵ所の海防を司る本部拠点とされていた。
明末の1591年には、戦闘船 112隻、駐留兵 2000人余りが配備されており、広州の前衛基地・虎門の外部防衛ラインの一角を担っていた。
1520年に広東巡海の道汪宏が南頭城へ派遣され、その翌1521年、屯門海戦でポルトガルに大勝利を収めることとなる。
以後、アヘン戦争に至るまでの間に、このエリアでは幾多の海戦が行われ、都度、明朝、および清朝側の海防指揮拠点として機能し、歴史上、常に重要なポジションにあった。

1841年にアヘン戦争が勃発すると、新安県の管轄区域から香港島が割譲されたりと、世界史の渦中に大いに巻き込まれることとなった。日中戦争時代には、日本軍が新安県城を占領している。

南山区

新安関帝廟(別称:南頭関帝廟)
史書『新安県志』によると、「関帝廟……は南門外にある教場演武庁の左に建立されており、明末の1612年に参将の張万紀により建設された」と言及されている。中華民国時代には、本殿で宝安県議会が開催されていたという。
もともとは、前殿、神殿部分、後殿の3段が存在したが、後殿はすでに消失されてしまっているという。現在、横幅 13m、奥行き 25.3mのみ、現存する。

新安文天祥祠
新安県古城内に残る文天祥祠は、文天祥の弟である文壁の末裔により清代の嘉慶年間(1796~1820年)に建立されたものという。


 赤湾砲台

赤湾砲台は 蛇口半島の先端部に位置する鷹嘴山の山裾に建造された、 左右の砲台基地 2ヵ所で構成されており、3方面の海域を見渡せる要衝となっていた。この半島を境に、東は赤湾港、西は伶仃洋と命名されており、その両者を射程範囲に分け合う配置となっていたわけである。

今日、海抜 170mの鷹嘴山の山頂には、面積約 360m2の左砲台基地のみが現存しており、すでに復元が完了している。
砲台の防塁壁は、花崗岩を切り出した大きな石材が組み上げられており、高さは約3m余りという。

南山区

上絵図のように、砲台基地の北面に入り口があり、内部は両サイドに駐屯兵らの兵舎が並んでいた。南側は横幅8m余りの高台となっており、当時、大砲 6門と監視台が配備されていた。左右砲台それぞれには、20名の砲兵が常駐されていたという。

砲台基地内には望遠鏡もあり、伶仃洋の海面がよく見渡せる工夫がこらされている。
交通アクセス: 赤湾古砲台行きのバスは、226路と355路の路線バスにて、天后宮で下車する。あわせて、宋少帝陵は少帝路沿いにある。

南山区


史書によると、古代より広州と南洋諸国とを往来した船舶は、皆、この赤湾半島沿いを航海したと 記述されており、海上交易ルートとして非常に重要な位置を占めていた。

明代以降、倭寇の活動が活発化する中で、南山の山頂に狼煙台が設置される。

清代の康熙年間(1662~1722年)、福建提督の楊琳調が広東巡撫に着任し、沿海エリアの砲台基地や城郭都市、防衛拠点などの軍事基地 126ヵ所を新設する。その中で、砲台基地は 26ヵ所を占めていた。 赤湾砲台も当時建造されたうちの一つで、 1717年設置という。

南山区

赤湾砲台では、左右の砲台基地にあわせて数十名の兵士が配備され、ポルトガル伝来の鉄製のファランキ砲 計12門(弾丸前詰め式)が配備されていた。これらの大砲は、北宋時代にすでに広州エリアに伝えられており、清国内でも自己製造されていた。

アヘン戦争直前の1839年、林則徐が珠江口の守備につくと、珠江河口部の防衛ラインを強化すべく、この赤湾砲台の増強工事も図られることとなった。
対英戦争が勃発すると、広東水軍提督の関天培が伶仃洋上の英国艦隊を砲撃したとき、赤湾砲台もこれを支援すべく砲撃を加えた、という記録が残る。

中国共産党時代にも引き続き、人民解放軍が駐留し、東南沿岸エリアの守備にあたり、赤湾の天后宮内に守備部隊の兵舎を設けていた。改革開放政策が開始されるまで、 赤湾砲台施設は軍直轄エリアで、その当時の遺構が、この砲台基地の木々に埋もれて残るコンクリート建造物群という。

しかし、経済の改革開放以後、海岸防衛の軍事的な意味合いは薄れ、最終的に1997年に香港返還がかなうと、 駐留軍も撤収されることとなった。



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