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訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~


広東省汕尾市城区 馬宮鎮 ~ 区内人口 55万人、 一人当たり GDP 27,000 元 (汕尾市全体)


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  馬宮鎮の中心部と武帝廟
  馬宮狼煙山と浪清狼煙台遺跡
  雄大な鶏籠山
  【豆知識】汕尾市の海防遺跡(長沙砲台、遮浪砲台、石獅頭砲台、鮜門砲台) ■■■
  【豆知識】汕尾市の海防遺跡(湖東狼煙台、大湖山狼煙台、大華狼煙台、浪清狼煙台) ■■■



汕尾市城区の古城地区にある通港路沿いでバイクタクシーを広い、馬宮鎮へ行けるバス停まで連れていくように依頼したら(6元)、筆者が宿泊していた 7天酒店前の交差点(汕尾市二号街)まで連れて行かれた。

ここで待てば、路線バス⑫(馬宮鎮 ⇔ 汕尾市街地)が来るし、もしくは白タクで行けると言われた。このあたりにタムロする白タクたちは、馬宮鎮まで行く客を 3名ほど集めて、乗り合い型にして馬宮鎮と汕尾市二号街を往復しているらしい。一人 7元だったので、すぐに飛び乗った。

汕尾市馬宮鎮

汕尾市馬宮鎮

だいたい30分程度で、汕尾市馬宮鎮の中心部に到着する。確かに、バスより快適で速い。
馬宮地区に到着すると、下車時に 7元を支払う仕組み。

汕尾市馬宮鎮

そのまま中心部から少し先にある馬宮南湖渡假村の近くまで歩いてみると(上地図)、ひっそりと武帝廟があった。下写真は、武帝廟と裏の馬宮山。

汕尾市馬宮鎮

そのまま引き返し、行きの白タクで通ってきた道路を徒歩で少し歩いてみることにした。途中、廃墟と化している馬宮鎮バスターミナルがあった(下写真)。

汕尾市馬宮鎮

その先の山には、鉄塔が立っており、山裾に真新しい観音廟が設置されていた。下写真。

汕尾市馬宮鎮

さらに、先へと進む。この一帯の山々はどれもはげ山で、樹木がきれいに伐採されている。

汕尾市馬宮鎮

山々の裏には海岸線が迫っており、明代、清代には、いくつかの山上に狼煙台が設置されていた。

汕尾市馬宮鎮 汕尾市馬宮鎮

下写真の後方のそびえたつ山は、その名も「馬宮狼煙山」で、ひと際高さの目立つ独立系の山だった。この山頂に浪清狼煙台遺跡がある。

汕尾市馬宮鎮

また 北側には、霧で全く見えなくなっている鶏籠山が見える。このすぐ後方にも海が広がる。

汕尾市馬宮鎮

この鶏籠山は正三角形に近い山らしく、昨日、広東省 深圳市 からバスで汕尾市へ来たときに、海岸線から見えた山であることは、容易に推察できた。下写真の右奥。

汕尾市馬宮鎮

道路を 30分ぐらい歩いていると、今度は「汕尾市」のプラカードを載せた普通車タクシーがやってきたので、7元か?と質問すると、そうだと言うので、すぐに飛び乗る。

約30分で、汕尾市霞洋バスターミナルや例の 7天酒店前に到着した。
すぐに荷物を回収して、交差点で路線バス⑥に飛び乗る。霞洋バスターミナルへ戻って、陸豊県 行きバスに乗車できた(毎時 13:00、14:00など、ちょうど発)。



 汕尾市の海防遺跡

汕尾市は東部の神泉(今の 恵来県)から、西部の平海(今の恵東県)までの長い海岸線を有しており、明代、清代にかけて、この沿岸エリアに衛所城 4城、狼煙台 14ヵ所、砲台基地 24ヵ所、城塞 2ヵ所が設置されていた。時に海上の小島、河口エリア、集落拠点など、その立地先は多岐に富んでおり、相互に連携して沿岸防衛ネットワークを構成していた。

清代に数多く建造されたこれらの防衛拠点であるが、当初は海岸エリアを度々襲撃していた台湾の鄭氏政権に対抗するためであり、また、減少傾向にあったが、引き続き、猛威を振るった倭寇の活動に対処する必要に迫られての判断であった。特に、砲台陣地の長沙砲台、遮浪砲台、浅澳砲台は当エリアでも重要な防衛拠点とされていた。これらの砲台基地はいずれも海上交通上の要衝で、県城や衛所城の水上交通ルートの出入り口に配置されていた。

さらに、これらの防衛拠点をつなぐ連絡網として、その中間地点に狼煙台(煙墩)も複数、設置されていった。昼夜交代で駐留兵らが監視を続け、夜間は火を焚き、日中は砲声で交信を取り合ったという。
石積み、煉瓦積み、粘土類で長方形型の台座が建造され、狼煙火を絶やさないために、内部には可燃性の資材がたくさん蓄えられていた。同時に、投石器や武器なども常備され、それら単体でも十分に独立して軍事行動や長期的な籠城が可能となる工夫がこらされていたのだった。

汕尾市馬宮鎮

汕尾市馬宮鎮


 長沙砲台

汕尾市内に設置された最古の砲台施設は、南宋時代建造の倚壁虎砲台と考えられており、現在の城区馬宮金埕郷北山村の北側で、倚壁虎という地名になっている山裾一帯にあった(下地図参照)。
その名が示す通り、地形は急峻で、海岸線を一望できるロケーションにあり、戦船が 坎下城捷勝所城 などの水軍基地に出入りする様子を監視できたという。
南宋時代に設置されたこの砲台は、元代、明代にも継承されるも、徐々に港湾エリアに土砂が堆積し、平野部が延伸される中で移転を余儀なくされ、新たな砲台基地が石亀山の傍らに 建造されることとなる(亀城砲台)。

明末清初の混乱期、さらに長沙村の北側へ再移転される。現在、砲台山と通称されている場所である。現存する砲台陣地の防塁壁は縦横 20mの正方形をしており、総面積は 400m2という。

汕尾市馬宮鎮

1804年、海豊県 長官の張瑞瑛の指示により、長沙村の北側にあったこの小規模な砲台施設が長沙湾の湾岸部へ再移転され、新たに長沙砲台として新築されることとなる。現在の城区馬宮鎮長沙の港湾部の出入り口にあたり、東へ 500mには長沙村が控え、北西側に長沙湾を臨み、西側約 2kmには大金籠山が控えていた。

長沙湾を遡ると、そのまま海豊県城まで河川で直接つながっており、当時、この一帯の政治、経済の中心都市であった海豊県城を防備する軍事力が期待されたのであった。

砲台基地は、東西 50m、南北 40mのだ円形状(総面積は 2000 m2)で建造され、海へ向けて大砲が 7門、配備されていた。背後に山、前面に海を臨ぶ絶好のロケーションが選ばれており、ここに高さ 5.2mの防塁壁が不規則な形状の花崗岩の石材を積み上げる形で建造されていた。

汕尾市馬宮鎮

南面の山沿いには見張り台が設置され、また、要塞の東西には兵舎が一部屋ずつ、付設されていた。
砲台陣地の東面には入り口が設けられ、その門の上には「鎮海」の二文字が石板に大きく刻印されていた。砲台陣地への入り口は、ここ一カ所だけだったという。上写真。

現在、この砲台要塞は、地元の城区政府から文化遺跡に指定されており、保護策が講じられている。

また、地元民だけに知られた遺跡としては、長沙湾の出入り口にある浪清村の近くの海域で、海賊船らの侵入を防ぐために水面下に、蚝石と乱石の組み合わせで障害物(蚝石攔)が設けられていた。その長さは約 500mで、通常は、海面下に沈んで見えないという。 史書によると、この石攔は清代の 1800年前後に建造されたもので、当時の両広総督の那彦成が設置を指示したとされる。ちょうど、この長沙砲台が再移転、新築されたのと同時期ぐらいにあたる。


 遮浪砲台

遮浪砲台遺跡は、紅海湾に突き出た遮浪半島に開発された紅海湾旅游区の先端部に、砲台公園として保存されている。観光地開発された市街地から、南西 1km ほどの海沿いにあり、東、西、南の三面を海に囲まれる岬部分に立地する(下地図参照)。
捷勝所城 の前衛ラインを担い、南東方向 15km離れた海岸線を守備すべく、 清代中期の1717年に建造されており、東に海路 25 km離れた 碣石衛城 が輪番制で駐留兵を派遣していた。

この砲台要塞の防塁壁は花崗岩の石材で構成されており、厚さ 2.2m、高さ 2.5mの重厚なもので、四方の全長は 123mにも至り(内部面積は 900m2強とかなり広い)、防塁壁上には凹凸壁が 36ヵ所、付設されていた。
砲台陣地の北面は岸壁がそり立ち、要塞全体は長細い棚状になっていた。その北面に横幅 1.74m、高さ 2.4mの門と、内部に兵舎 8部屋が設けられていた。
砲台正面の 10段の階段上に大砲 8門が配備され、東、西、南の三方向へ向けられていた。それら土製の大砲台座のサイズは縦 3.5m、横幅 1.3mで、各大砲台座の間には通路が設けられていた。

汕尾市馬宮鎮


 石獅頭砲台

石獅頭砲台は、紅海湾に突き出た紅海半島の東部にある、施公寮半島の北側にそびえる田下山の山頂部に建造されていた(上地図参照)。北面に碣石湾を臨み、施公寮村から西へ 2kmの地点に位置する。清代中期の1700年代始めに建造されたものという。
大砲群は直径 6mの半円形の台座上に配備されており、東、西、北方向の三方面を射程圏としていた。各大砲のサイズは長さ 2m、横幅 1m、高さ 0.5mであった。大砲台座の南側には 兵舎スペースがあり、幅 4mの通路が設けられていた。兵舎スペースの東西両側には 9部屋ずつ兵舎(床面積 4m×4m)が配されていた。各兵舎には横幅 0.7mの出入り口が設けられ、すべての壁面は土壁であった。 砲台陣地全体を取り囲む防塁壁の高さは 4mで、内部面積は約 400m2強あったという。


 鮜門砲台(后門砲台)

鮜門砲台は海豊県後門鎮の西側の海沿いに立地し、鮜門港とその先の海面全体を見渡せるロケーションにあった(上地図参照)。
周囲を囲む防塁壁の全長は 119mで、高さは 4.5mで建造されていた。もともとは兵舎 13部屋と大砲 7門が配備されていたが、現在、保存状態の良い南東面と北西面の2面の防護壁以外は、海水の浸食を受け、倒壊、消失してしまっている。
清代後期の1794年に建造された当時は、倭寇や海賊集団に対抗する目的であったが、 海外の帝国主義勢力の接近が間近となる中で、1834年、地元の紳士であった林光佩が提唱し、増強工事が施されている。清代後期の1850年代、農民反乱軍により砲台基地が一時、占拠される事件があったという。


その他、汕尾市下の海岸エリアには、これら以外にも複数の砲台遺跡が残るが、明代にすでに砲台設備も兼備していた坎下城、碣石衛城を除き、すべて清代に建造されたものである。

汕尾市馬宮鎮


 湖東狼煙台

湖東煙墩(狼煙台)は、陸豊市湖東鎮の港湾エリア入り口の東面の山上に立地しており、明代に建造されて以降、幾度も修築が繰り返されてきたという。 1950年代に灯台が増築され、現在でも現役で使用されている。


 大湖山狼煙台

大湖山狼煙台は、陸豊市東海鎮 にある広汕公路の北側に 位置する大湖山の山頂に建造されていた。
土砂や粘土を練り合わせた土壁で構成されており、底辺部は横幅 6.7m、上部は 6mの台形型をしていた。その高さは 4.5m、厚さは 1mほどという。
先の湖東狼煙台と、白仔嶺狼煙台( 陸豊市 博美西面白仔嶺の山頂)とあわせて、清代初期の 1662年に同時設置されており、これら 3狼煙台はその形状がすべて同型であったとされる。


 南町山狼煙台(沙角尾烟墩山)

南町山狼煙台は、紅海湾に面する海抜 200mの城仔山上に立地する。田墘南町郷まで 1km、北にある田墘まで約 3kmの距離にあり、捷勝所城 からでも、南東へ 5kmで、徒歩で行けなくもない。
狼煙台は 1717年に建造され、縦 5.3m、横 5.1m、奥行 2.8mの台形型で設計されており、四面の防塁壁は土壁で構成されている。狼煙台内には柴草や硝薬が保管されていた。市内でも特に保存状態のよい狼煙台遺跡という。下写真。

汕尾市馬宮鎮


 大華狼煙台

大華狼煙台は、汕尾市城区の湾岸エリア対岸に位置しており、城区新港大華郷の北西の、海抜 400mの山上に建造されている。北東側には汕尾港の海域が、南西側には 捷勝鎮 の海域が全面に見渡せる、非常に良好なロケーションに立地していた。清代の康熙年間(1662~1722年)に建造されたものという。
狼煙台の土台は高さ 4mで、赤土と粘土の混成でできたレンガ材が積み上げられており、縦 5m×横 5mの正方形で設計されていた。 また、西側には石積みの階段が設けられており、石階段の西側 7m先には縦 5m、横 4mの兵舎跡の建物土台が残されている。それら狼煙台陣地の全体を取り囲む防塁壁は 34×25 m 長方形型をしていた。


 浪清狼煙台

浪清狼煙台もまた同じく、清代の嘉慶年間(1796~1820年)に建造されており、城区馬宮鎮浪清村の後方にある煙墩山の山頂(海抜 218.5m)に位置していた。馬宮港からは約 3.5 kmの距離にあった。その規模は小さく、約 5m× 5m× 3mの台形型という。




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