BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


海南省 臨高県 臨城鎮 ~ 鎮内人口 13万人、一人当たり GDP 51,000 元(臨高県 全体)


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  【二代目】臨高県城(現在の 臨高県中心部)
  臨高文廟(学宮)
  毗善県城(富羅県城。高山嶺の山麓)



この日は、海口市中心部(瓊山区)の投宿先ホテル澄邁県中心部(金江鎮) → 臨高県中心部(臨城鎮)の三角ルートをトライしてみた。下地図。

澄邁県(金江鎮)バスターミナルから、30分に一本ある臨高県行があるが、加来行(11元)と 龍波行(17元)の二便が交互に運行されており(下地図)、臨高県中心部を経由する龍波行バスに乗車する。
臨高県臨城鎮

臨高県バスターミナルは、旧市街地とは文瀾江を挟んだ位置にあり、徒歩で臨高大橋を渡って移動することになる(下地図)。臨高県中心部(臨城鎮)には博物館はないので、この日午後は、旧市街地を散策するだけとなった。

特に、かつて南面城壁が連なっていた江北路沿いにある、臨高学宮(文廟)が一番の見どころとなっている。海南省でも数少ない完全な形で現存する学宮遺跡で、島内最大規模を誇る。境内には、大成殿、大東門、東廡、西廡、名宦祠、郷賢祠など、大型の歴史的建築物がたくさん残る。もしかしたら、地元の郷土博物館を兼ねた資料館も併設されているのかもしれない。
もしくは、このすぐ後方に地元の図書館があり、ここに何らかの郷土資料館が併設されているか、確認してみたい。

臨高県臨城鎮

また、この江北路沿いに流れる文瀾江の堤防壁に、往時の古城壁の一部が転用されている可能性もあるが、すべての城壁や城門は完全に撤去されてしまっている。古城時代の記憶は、街角に残る地名から拾っていく他ない状態だった(西門農貿市場、中鎮街、新鎮街、臨城真武廟、臨高県文化公園、蘭河巷、蘭河村、南江村 など)。

なお、旧市街地の北側にある文化公園内には、文化会館や非物質文化遺産保護センターがあるが、一般に開放された博物館ではないようだった(下地図)。

あと、臨高県臨城鎮の中心部から北へ延びる「市政大道(江北路から改名)」の北端の、低湿地エリアに百仞灘自然保護区があり、海南省政府の指定史跡に定められた観光名所となっている。明代から清代に彫刻された石材や、数万年単位で自然河川が形成させた岩盤の造形美を堪能できる、自然公園となっている(上地図)。

臨高県臨城鎮

これら旧市街地を散策後、時間があれば、バイクタクシーをチャーターし、臨高県中心部から北西へ 4 kmに位置する高山嶺まで行ってみる(山中には、1314年建立の高山神廟遺跡がある)。標高 193 mで、臨高県の平野部では最高峰として君臨しており、この麓部分に、隋代後期の 607年、毗善県城が開設されていたわけである(唐代初期の 622年、富羅県へ改称されるも、同年中に閉鎖される)。

夕方に至り、路線バスで高速鉄道「臨高駅」まで移動し、ここから 海口市中心部(瓊山区)へ戻れる。もしくは、臨高バスターミナルから都市間バスで直帰したい。


南宋時代初期の 1132年、臨高県役所が、今の臨高県博厚鎮洋大村から、文瀾江沿いの 莫村(現在の臨高県中心部)へ移転されてくると(【二代目】臨高県)、以後、900年以上にわたって、臨高県の県都として君臨することとなる。
この文瀾江沿いには、古くから肥沃な平原地帯が広がっており、稲、イモ、サトウキビ、野菜類の生産に適し、島内でも屈指の穀倉地帯となってきた。

1443年、按察使の郭智檄、および県長官の徐瑄が、臨高県城の本格的な築城工事に着手すると、全長 1,000 m、高さ 3.3 mほどの城壁が整備され、楼閣付の城門 1か所と外堀が掘削されることとなる。こじんまりした城塞であったが、 1493年、県長官の林彦が補強工事を行った記録が残されている。

1510年代、県長官の周譲と梁高が二代にわたって、県城のさらなる拡張工事を手掛けると、全面石積み城壁の高さは倍以上の 7.7 mとなり、さらに城壁上には兵舎が 8棟、 857もの凹凸壁が増築されることとなる。あわせて、東門、西門、南門の三城門が設置され、同時に、幅 6.7 m、深さ 1.3 m、全長 1,723 mの外堀も掘削される。

1521年、大洪水により三つの城門が塞がれてしまうと、県長官の呉大裕が、北門を増設する。
1549年、県長官の陸湯臣が、城門上の楼閣と城壁上の兵舎群を大修築する。
1566年、通判の楊表増が、東門と西門外に甕城を増築すると、それぞれ東安城、西阜城と命名される(下絵図)。
1568年、県長官の李増棟が、城壁上の凹凸壁を 66 cmかさ上げし、また城壁上の通路を 33 cmほど拡張させる。
1572年、通判の阮琳が、外堀を大修築する。
1581年、県丞の黄思徳が、北門を西巷まで移築させ、城域を拡張させる。

清代初期の 1660年、河川氾濫が発生し、城郭都市の大部分が水没してしまうと、すぐに県長官の蔡嘉禎が復興工事を手掛けるも、1672年、再び台風の直撃を受け、大洪水により県城が水没してしまうと、県長官の陳垂が再建工事を主導する。
1686年、東門外の甕城部分が倒壊してしまうと、県長官の李縄祖が、修復工事を手掛ける。
1693年、県長官の史流芳が、城壁全体を全面改修し、四つの城門の門扇を新調する。
1703年、大洪水が発生して東城門が破損されてしまうと、県長官の樊庶が再建する。
1705年、南門が文明門へ改称される。

臨高県臨城鎮

現在、臨高県城の旧市街地区には、県衙(県役所)、学宮(臨高文廟。下絵図)、城隍廟などの重要施設群の建物が残されているが、それ以外はすべて喪失されてしまっている。

臨高県臨城鎮

臨高文廟(学宮)は、臨高県の中心部を流れる文瀾江の河畔に立地しており、海南島内でもかなり完全な形で現存する孔子廟となっている。規模も島内最大で、歴史的にも非常に由緒ある大型の 建物群(大成殿、大東門、東廡、西廡、名宦祠、郷賢祠など)が複数、現存する。往時には、大成門前に 欞星門、泮池、金水橋、東斋、西斋などが配されていた。
廟所の祭礼日には、城内の住民らが総出で祭事に参加する習わしとなってきたという。

臨高県臨城鎮

なお、郊外にも旧跡が点在する。
海沿いにある、臨城鎮昌拱村の東 800 mほどの場所(海岸線から約 20 m)に防風林があり、その中に廃墟と化した「沿海烽堠」遺跡が残されているという。海賊対策として明代に建造された烽火台跡で、海南省政府により史跡指定を受けているという(2009年5月)。ちょっと同日中に訪問するのは難しい距離だった。。。

また、この臨高県の海岸線は、国共内戦時代、共産党軍が海南島に渡海した際、最初に上陸した海岸でもあり、現在、革命教育史跡として神聖化されている。その他の沿岸部は、風光明媚なビーチが広がる。



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