BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年6月上旬 『大陸西遊記』~


四川省 南充市 順慶区 ~ 区内人口 86万人、 一人当たり GDP 19,000 元(南充市 全体)


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  安漢県城
  白塔公園 と 王平墓(三国志遺跡)
  前漢王朝の 功臣・紀信の記念塔
  三国時代の 安漢県城
  西山風景区 と 万巻楼風景区(三国時代の譙周 と 陳寿の出身地)



南充市 は四川省第三の大都市であり、また 2200年以上もの歴史を有する文化都市である。

新石器時代にはすでに先住民が居住していたことが確認されている。
夏の時代、「有果氏の国」との記述が残されていた、という。殷商の時代には巴国に帰属し、周代になると巴子国に属した、とされる。春秋戦国時代の前 330年に、巴子国は国都を南充市閬中へ移している。紀元前 316年、秦により巴子国は滅亡させられ、前 314年に閬中県が設置され、今の 重慶市 を郡治役所とする巴郡の管轄下となった。

劉邦が前漢を建国後、閬中県を廃止し、安漢県(今の南充市の始まり)と 充国県とを設置する。前漢が滅亡し、新朝の時代には安漢県から改名され、「漢」帝国の名前を「新」に変えて「安新県」とされた。新滅亡後、後漢の時代に再度、安漢県へ戻される。

後漢末の 194年、劉璋が父の益州牧の地位を継承する。そして、すぐに統治改革を進め、新しく巴郡を設置し、安漢県、閬中県、西充国県、南充国県を統括させた。その郡治役所は 安漢県(今の南充市)に置かれた。そして 202年、巴郡を巴西郡と改名し、郡治役所をより北側の閬中へ移設した。これは 2年前に漢中にて独立勢力となった張魯に対抗するために、最前線の防備体制の整備を進めた結果と言える。そして、この巴西郡の太守に「龐羲」を赴任させた。劉璋が劉備に降伏した後、「龐羲」は劉備配下の将軍として出世し、営司馬という官位まで上った、という。
その後、巴西郡太守は張飛が司ることになり、221年、その郡治役所の閬中城内にて部下に暗殺されることになる。

南充市

さて、引き続きの 南充市 の歩みだが、しばらく現状維持が続いた後、東晋時代、北巴西郡が新設され、閬中が郡治役所となる。その後も、閬中はこの巴西地方の政治、経済の中心地であり続けた。唐代末期、閬州に保寧軍が、果州に永寧軍が設置される。このとき、南充市は果州と呼称された。以後、「果州南充」の名が定着することになる。現在の市街区のメインストリートにも、「果城路」という名が残されている。

南充市


さて、城壁都市であるが、ここは完全に撤去が進められ、全く残骸すら残されていない。
しかし、かつての城壁都市を形成した旧市街地には、古の名残りを感じさせる路地名が多く目についた。すなわち、「府街」「米倉街」「小東街」「大北街」「内小北街」「外小北街」「小西街」「西門坝街」「紅墙街」などなど。
ちなみに、今の市街地随一の繁華街である 五角形広場(人民路、文化路、涪江路の交差点)のうち、河側へ通じる「模範街」沿いが、かつての城壁跡という。そして、ちょうど、蘇寧電器が入る百貨店脇の KFC横側に「諸葛孔明」の壁画が描かれている路地があるが、ここが当時、最も大きな城門があった跡地である。

南充市 南充市
南充市 南充市
南充市 南充市

また、市街区をそれぞれ遠巻きに眺めてみる。
市街地の北側はのどかな農村が広がる。写真は三角州の上を走る 陸橋「上中壩大橋」から撮影。

南充市

市街地の南側はすさまじい勢いで不動産開発が進められていた。濾蓉高速 の陸橋より撮影。それにしても、南充市 の長距離バスターミナルは高速出口のすぐ脇にあり、市街地をぐるぐる巡る必要のないスムーズ感がいい。

南充市

下の写真は、旧城壁都市側から対岸の白塔公園を眺めたもの。陸橋は最も古い「白塔大橋」。

南充市

さてさて、この 白塔公園(鶴鳴山景区)だが、清代に設置された王平墓がある。とりあえず、本物の王平墓はこの南充市街地より更に南へ 15kmのところ(南充市高坪区青居鎮)にある。
ここの白塔だが、北宋の 960年に建設されたもので、その後も度々修築されたらしい。現存する塔は清代の 1672年に建て替えられたものという。この塔は宝寿寺の一部を成している。
また、1000年の歴史を有する古井戸もある。北宋年代に掘られたもので、まだ水は枯れていない。
塔から続く楼閣に上ってみた。中国では珍しく、トランペットを屋外で練習する中国人青年の姿があった。

南充市 南充市
南充市 南充市

市内西側には、「西山風景区」と呼ばれる、所謂、「三国志 三昧の山」となっている一帯が広がる。この風景区には、「三国の源 知恵の旅」という副題が付けられていた。
その一番、北に位置する「栖楽山景区」。ここは下の写真右のようなきつい階段を上ることになる。その上にあった全体案内板が下の写真。

南充市

南充市 南充市

上の写真左下は、現在、西山風景区に流れる「西渓河」沿いに造成中の「三国志英雄像が並ぶ公園」。おそらく、年内にも完成しそうな 雰囲気(2014年6月現在)。

ここを通過して、西山風景区の南側へ移動する。この先は、「万巻楼風景区」(写真下)。

南充市 南充市

実は、「三国志」正史が書かれたのは、三国時代の蜀滅亡後すぐに建国された晋王朝の司馬炎の時代においてである。
蜀と西晋に仕えた文官、陳寿(233~297年)によって執筆された。魏呉蜀 3書と 65篇からなる大作。
この「万巻楼風景区」には、陳寿像や復元された陳寿の生家などが展示されている(下写真右)。
また、陳寿の師匠であった 譙周(?~270年)を祭る廟もある(下写真左)。譙周、陳寿ともに、この巴西郡の南充市出身で、同郷のつながりも深かったと言える。南充市 が 自称「三国志の里」というのも、ここに関係がある。

南充市 南充市

この「万巻楼風景区」は、城門、城壁のモチーフ模型まで用意されている徹底ぶり。でも、風景区内の大部分は、実は寂れた遊園地が広がっている。。。。歴史エンターテインメントパークを目指したのであろうか。

この学者「譙周」であるが、劉禅に降伏を進言した、ということで批判的に取り扱われるこも多かった。特に、明代に書かれた『三国志演義』において、このマイナス解釈が反映されている。この公園内展示では概ね好意的に解釈されていた。「譙周」はこの南充市にあった自宅で死去し、その近くに葬られたようである。かつては墓標があり、彼を祭った廟も設けられていたそうだが、都市開発の中で撤去され、この地に移設されたらしい。ちなみに、陳寿はこの「譙周」が誇った弟子の Best 4 のうちの一人だった。
陳寿もまた死後、この地に廟を建てられ祭られたそうである(唐の時代に昭徳文恵候という称号を送られ、元の時代に南充古城の西側城外に 祠『昭護廟』が作られたという)。近年の都市開発の中でこの地に移設された。
まだ三国時代の蜀統治下にあった 南充古城(かつての 安漢県城)にあって、この城外西側の果山山麓にある屋敷にて、陳寿はこの世に生を受けたようである。その生家もこの公園内にて復元されている。
ちなみに、この陳寿、譙周にかかわる「三国志の里」公園だが、その「万巻楼風景」の名称は、かつて 幼少、青年期の陳寿が学問を学んだ 楼閣「万巻楼」(蜀後期の劉禅時代に最初に建設されたものらしい)を復元したことにちなんで名付けられている。一度、破却されていた楼閣が、唐代に建甘露寺の一部として再建されている。そして、明清の時代に、果山山麓へ移設された。現在、この公園内にあるものは 1991年に移設、復元されたものという(下写真の右)。

南充市 南充市

この公園南側に「陳寿路」という大通りまである。上の写真左は陳寿路から見た「万巻楼風景区」入り口。

この「陳寿路」を通って市街地へ戻る陸橋の歩道枠には、三国志の英雄たちをモチーフにした壁面画が飾られている。しかし、その画面エピソードは「桃園の誓い」「三顧の礼」「天下三分の計」「空城の件」の 4場面の絵柄のみで、これらが交代ずつに貼られている形式であった。

南充市 南充市

そして、「万巻楼風景区」のさらに山上部分に、「開漢風景区」なる公園が整備されている。
ここは、秦滅亡後に 楚漢の戦い(紀元前 206~前 202年)が起こるが、これに勝利して漢王朝を建国した劉邦により、家臣であった紀信の出身地である当地において、その漢王朝建国の重要功労者に報いるべく、「開漢県」という県城都市が開設され、南充市 の歴史が始まったことに由来している。
ちなみに、紀信は、紀元前 204年、項羽軍に完全包囲された滎陽城にあって劉邦に扮して降伏とみせかけ、劉邦を逃すことに成功し、代わりに自身は火あぶりにされて処刑となった。下の写真左は、紀信の立像と、開漢楼。この楼閣に上るのは有料。

南充市 南充市

街中では、「百度焼肉食べ放題店」に行ってみた。昼食は 39元、夕食は 42元で食べ放題。一人の場合は 50元。アイスクリーム、ビール、ワイン、ジュース、肉類、野菜などなどが食べ放題、飲み放題。食べ物の保存状態はかなり劣悪で、食欲が失せてしまうが、この値段でアルコール類が飲み放題というのはすごい。
焼肉の由来について、大きな解説板が掲げられていた。

呉の周瑜が、ある戦場にて出撃する際、時間、材料に限りがある中で、料理人に即席の料理を命じた。そのとき、料理人は思案を巡らし、焼肉形式にて料理を準備する。とにかく腹の減った周瑜らは腹ごしらえをし、そして戦争にも勝利した、という逸話である。この焼肉と調味方法は周瑜により絶賛され、その後も形を変え焼肉料理は大陸中国全土に広がり、朝鮮半島まで伝わっていった、ということらしい。

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