BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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浙江省 湖州市 南潯区 ~ 区内人口 310万人、 一人当たり GDP 86,000 元(湖州市 全体)


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  菰城(【初代】烏程県城、菰城県城)
  東遷県城(東安県城)



早くも新石器時代には、原始的な部落社会の存在が確認されているという。
当地を含む江東エリアは、春秋戦国時代を通じ呉国と越国が死闘を演じた地であったが、 最終的に紀元前 334年、越国を滅ぼした楚 が全域を併合することとなる。

戦国時代に活躍した四公子の一人として名高い 春申君(黄歇)が、楚の考烈王により紀元前 248年に江東地方の地を与えられると、 一帯は彼の封邑となる。その直後、領地内に 菰城(現在の 湖州市南潯区道場郷窯頭村東苕溪路、金蓋山の山裾にある菰城遺跡。 現在は外城 20万 m2、内城 8万 m2 が残る。下写真)を 築城する。当時、周囲には菰草が生い茂り、城塞が菰草に埋もれたように見えたため、菰城と命名されたという。

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しかし、春申君の功績で国力を回復させ、紀元前 241年には盟主として 5ヵ国連合軍を率いて秦国を攻めるまでに台頭した楚国であったが、彼の死後、国力は急激に減退し、ついに紀元前 223年、秦に滅ぼされることとなる。

秦占領下の翌紀元前 222年、郡県制が導入され、 江東地方に会稽郡が新設されると、その下には 烏程県、由拳県などの諸県が配される。 このとき、菰城内に烏程県役所が開設されたため、以後、烏程県城となる。 これが現在の湖州市における最初の県城設置となった。
なお、烏程の地名であるが、この地に旧越系の土着住民で、 手広く酒造家を営む烏巾と程林の両家が 存在し、その名が一帯で広く知られていたことから命名されたという。

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紀元前 210年の始皇帝の死去後、秦帝国が大混乱に陥ると、全国で農民や群雄らが挙兵する(上地図)。 後に表舞台に躍り出ることになる項羽は当初、その勢力を温存すべく、 今の湖州市呉興区愛山広場付近に駐屯基地を設け、 簡易な城塞を建造していた(紀元前 206年ごろ)。今に残る「項王城」遺跡である。

時は下って後漢時代の 129年、会稽郡が 浙江(錢塘江)の南北で分離され、北岸に呉郡 が新設されると、烏程県はこの呉郡に属した(下地図)。

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三国時代後期の 266年、4代目皇帝の孫皓が呉郡下の 陽羨県、永安県、餘杭県、臨水県と、丹楊郡下の 故鄣県、安吉県、原郷県、於潛県、烏程県の九県を分離し 呉興郡(長年の懸案事項であった 山越族らを平定し、これからますます呉国は繁栄していく、という意味の「呉国興盛」 の文言から命名された)を新設する。郡内を流れる水脈がすべて 項王城跡(今の 湖州市呉興区呉興区愛山広場)に通じていたため、ここに 郡役所が開設されたのだった。

280年、西晋が呉を滅ぼし三国を統一すると、282年に烏程県の東部が分離され、 東遷県が新設される(下地図)。東遷県役所は今の 湖州市南潯区旧館鎮あたりに設置された。
現在、旧館鎮の東部に位置する 東遷鎮(今日はすでに南潯鎮に吸収合併されているが)とは全く 無関係であることに注意したい。
また同年に烏程県の西部も分離され、長城県が新設される(下地図)。
間もなくして、烏程県役所も項王城跡へ移転されることとなり、【初代】烏程県城となっていた旧菰城は廃城とされる。以後、旧項王城が【二代目】烏程県城となり、 呉興郡都を兼ねて、現在に続く湖州市の 中心部(呉興区)を形成していくこととなる。

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南北朝時代、劉宋政権(420~479年)下の 476年、東遷県が東安県へ一時的に変更されるも、 翌 477年には元の東遷県へ戻される。この時代、基本的に呉興郡は 烏程県、東遷県、 武康県、長城県、原郷県、故鄣県、安吉県、余杭県、臨安県、于潜県の 10県 を統括した。梁朝(502~557年)の末期、呉興郡は一時的に震州へ改称されることとなる(太湖の 古い名称であった震澤から命名される)。

梁朝から権力禅譲を受けて陳朝が建国された直後の 557年、震州が呉興郡へ戻されるも、 北朝の隋が南朝の 陳政権を滅ぼし中国を統一すると(589年)、全国的に郡制が廃止されるに伴い、 呉興郡が湖州へ改編される。同時に、東遷県が廃止され、烏程県に吸収合併される。 以後、湖州は 烏程県、武康県、長城県(今の 湖州市長興区)を統括することとされた。

唐代初期の 621年、李孝恭が 湖州城(烏程県城)の外周にさらに城壁を 建造し、外城と 内城(子城)の二重構造の城塞都市を完成させる(下絵図)。 以後、子城内で脈々と継続されていく湖州衙署であるが、中華民国時代に入ると愛山広場公園へと 整備されてしまうこととなるのだった。

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唐代中期の 741年、湖州刺史の張景遵がもともとの 東遷県城跡(今の 旧館鎮のあたり)に太湖館を開設する。
翌 742~758年の間、湖州が呉興郡へ変更されるも、再び、湖州に戻される。
774年には湖州刺史の顔真卿が太湖館を東遷館へ改称させる。
794年、湖州刺史の于頔が東遷館と升山館の距離が近すぎるということで、 東遷館を東へ 10 kmにある厳村鎮へ移転させる。
ここに至り、厳村鎮が東遷鎮へ改称され、もともと東遷館があった場所が旧館鎮と 通称されることとなったわけである。

北宋朝が五代十国の統一に乗り出し、974年に南唐を帰順させると、 それまで「敵の敵は味方」として友好関係にあった呉越国も 北宋と直接、国境を接するに至り、978年、呉越国の 5代目国王・銭弘俶は自ら国を献じ、 政権を消滅させる。
こうして江東地方を一滴の血も流すことなく併合できた 北宋朝はその和平を祝賀し、湖州府烏程県下の南東部 15郷を分離して、 新たに帰安県を新設する。両県役所はそのまま 湖州府城(今の 湖州市呉興区)内に 併設されることとなった。

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明代、清代も引き続き、帰安県と烏程県役所は湖州府城内に 併設される。

時は下って、中華民国が建国された直後の 1912年、この併存状態だった 烏程県と帰安県が 合併され呉興県が新設されると、今の南潯区エリアもこの呉興県に帰属された。


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