BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年5月下旬 『大陸西遊記』~


(陝西省 漢中市)秦嶺山脈 ~ 市内人口 342万人、 一人当たり GDP 24,000 元(漢中市 全体)


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  蜀の 桟道
  西県城(風県城)



秦嶺山脈

筆者は、孔明の北伐ルートの過酷な 秦嶺山脈 越えを期せずして体験してしまった。。。。その行程は想像を絶する厳しさであった。

天水市(秦川区) バスターミナルから、朝 9:30発、漢中 行のバス出発。運賃 110元。
ちょうど秦嶺山脈を南へ突き抜けて行くこととなる。孔明の第一回、第四回の北伐ルートの撤退パターンに該当するものである。

秦嶺山脈

秦嶺山脈越えは、自動車を使った今日でも相当にハードであった。直線距離ルート 300 km、一般道利用で 500 kmの超長ルートである。急峻で、分厚い山々が続く、文字通りの難所であった。
それでも、高速バスは猛スピードを出して先を行くトラックなどを追い越しながら、峠道を加速していく。その揺れとスリルたるやすさまじく、また何もこんな崖路を 100 km近いスピードを出して急がなくてもいいだろう。。。と突っ込みたくなるジェットコースター路線である。途中で、車酔いになって吐いている乗客もいた。これなら崖からの転落事故がいつ起きても不思議ではないはずだ。

秦嶺山脈

秦嶺山脈

天水市 内は祁山の古戦場あたりまでは乾燥した土質の山々が続いていた(上写真)が、南に接する隴南市に入るころから、日本でよく見かける背丈の高い木々が緑々と生え岩盤を露出した山々が続く土地柄となる(下写真)。
ここまで自然環境ががらりと変わるものかと驚いた次第である。

秦嶺山脈 秦嶺山脈

また、隴南市下の両当県と微県との間の山脈地帯はすごかった。標高も最高レベルであった。
午後 13:30ごろ、両当県の中心エリアで 20分間の昼食休憩が入った。

それから、再び山間部のハイスピードなバス運転が続く。風県に入ったあたりからは、断崖絶壁ときれいな渓谷が現れるようになる。これが 漢水市 へと注ぐ褒河の水源地帯らしい。蜀の断崖絶壁の桟道のイメージ通りの地形が永遠と続く。バスは、この小川がどんどん大きくなるのを横目に突き進むこととなる。上写真。

また、途中、秦嶺山脈内の 名所旧跡(西羌文化公園や 霊官峡など)もいくつか通過していった。

秦嶺山脈

筆者の 訪問当時(2015年5月)、山間部では高速道路の建設工事が進められており、あと3年もすれば、秦嶺山脈の移動はトンネルを交えた、高速道路で南北が結ばれることとなるだろう。
筆者の訪問時、この道路工事で大量のダンプカーが動員されており、細い山道を大渋滞させていた関係上、 最終的に 19:30に 漢中市 バスターミナルに到着できたのであった。

秦嶺山脈 秦嶺山脈

褒河の上流域を下っていく中で、巨大なダム湖が現れる(上写真)。これが、漢中市街地に入る目印となっている。このダムを抜けた瞬間、視界に平野が広がり、長時間のバス乗車にうんざりしていた乗客からは一斉に安どのため息が漏れていた。

秦嶺山脈

なお、このダムの下流部分が石門古道となっている。前漢代に開設された絶壁を堀削したり、トンネルを開通させたりの労作の間道である。 陳倉 や、五丈原、眉県まで続いていたという。蜀軍の北伐はこのルートを 2回、利用したらしい。この山々の風景を、多くの蜀兵が目にしたことであろうか。

秦嶺山脈

また、漢中や四川平野は水田ばかりが広がる地域だが、当地出身の兵士らは秦嶺山脈を超えて見る乾燥した大地にさぞかし驚かされたことであろう。

秦嶺山脈 秦嶺山脈

そもそも、当時、重装備の兵士は時速 4 kmの行軍で一日 30 kmが目安とされていたわけであるが、このような山岳地帯につき、一日 25 km程度の移動距離だとすると、漢中 から 天水 までの 500 kmは、 2週間かけての道のりであったと推察する。毎回、北伐時の出陣と撤退、食糧輸送の往来だけでも大変、苦労したことであろう。

秦嶺山脈

上の写真は、かつての 陳倉城跡 から秦峰山脈を眺めたもの。この山々を超えて、蜀軍は攻城戦を挑み、そして撤退していったのである。


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