BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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海南省 文昌市 文城鎮 ~ 鎮内人口 16万人、一人当たり GDP 19,000 元(文城鎮)


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  文昌県城(紫貝県城、武徳県城、平昌県城)
  文昌宮(文昌歴史文化展館)、蔚文書院、孔廟(学宮)、弄堂、明倫堂、尊経閣、文昌公園
  文南老街(騎楼群)



海口市 瓊山区(中心部)の 高速鉄道「海口東駅」から、文昌駅まで移動する(20分に一本あり。28分、23元)。
文昌駅下車後、市中心部までの 4 kmを、⑯番路線バスで移動する。下地図。

文昌市文城鎮

旧市街地に到着後、早速、一帯を散策してみる。城郭都市時代の城壁や城門は、すべて撤去されてしまっているが、文東里沿いには、今でも明代、清代の伝統的な建築物が多数残っており、特に清代の 1802年に建立された 文昌宮(現在は文昌歴史文化展館も併設)、蔚文書院、孔廟、弄堂、明倫堂、尊経閣などが見どころとなっている。その間を縫うように、レンガと材木で組み立てられた串堂式建築スタイルの古民家なども複数、保存されており、これらは明代、清代の海南島北東エリアに見られる地方文化の貴重な生き証人となっている。
この文東里一帯は、かつて衙前街と呼ばれ、清代には城内の中枢部として、官公庁が軒を連ねていたという。

特に、文昌孔廟(文昌学宮。文城鎮文東路 20号。入場料 15元)は有名で、海南島でも最も完全な形で、明代、清代の伝統的建築物が保存されるということで、毎年、国内外から多くの訪問客を受け入れており、「海南第一廟」と称えられる。現在、中央政府により史跡指定を受けている、当地筆頭の歴史遺産である。
北宋時代の 1040年代に創建され、明代初期の 1375年に当地へ移転されて以降、今日に至るという。
規格通り、礼門、欞星門、大成門、大成殿が一列に配される、厳格な伽藍配置で設計されるも、全国唯一、開門不可の正門(しかも、南向きではない)を有する孔廟として知られている。敷地総面積は 12,000 m2(建物面積の合計は、3,300 m2)。下写真。

文昌市文城鎮

また、古城地区に設けられた緑地公園「文昌公園」内には、郭母李太夫人王夫人紀念亭、文昌革命烈士紀念碑などが設置されている。下地図。

その他、古城地区には、地名にも往時の記憶を感じ取ることができた。沿江東路(東面城壁跡)、沿江西路(西面城壁跡)、攻関橋、霞洞橋など(下地図)。

文昌市文城鎮

ここから、攻関橋沿いに文昌河を渡って南岸側へ移動する。
かつて城塞都市は、この文昌河沿いに立地しており、まさに 北岸側(現在の沿江西路)には城壁面が連なって見えたわけだが、1922年に全面撤去されると、その資材が河川埋め立てと堤防建設へ転用されてしまうのだった。この中華民国時代は、古城地区から郊外へと都市が急拡大したタイミングであり、川の南岸側へ集落や商業地区が急ピッチで形成されていくこととなる。

この南岸側の集落は「文南街(現在の文南老街。上地図)」と通称され、この 1920年代に流行した 東南アジア風(南洋風)の洋館が街道の両側に建ち並ぶようになっていく。南岸側の街道自体はそもそも広さもなく、かつ川沿いに形成された関係上、湾曲しており、わずかに全長 700 m のみ、となっている。現在、文昌老街として観光名所となっている騎楼群が、これである(下写真)。

文昌市文城鎮 文昌市文城鎮

文昌市の見どころは、すべて中心部に集中されているが、古城地区の南やや郊外に 文昌閣(文南路沿い)が立地する他、市街地東側 12 kmには、湿地自然公園がある八門湾が整備されている(特に史跡はない)。
午後は、高速鉄道に再乗車してさらに南下し、万寧市 まで移動する。


文昌市 文城鎮(中心部)は、海南島でも三大歴史古都に挙げられる土地で、その起源は紀元前 110年、前漢朝により紫貝県城が設置された時までさかのぼる。
隋代の 607年、旧・紫貝県城の跡地に武徳県役所が新設されると、唐代初期の 622年に平昌県へ、627年に文昌県へ改称され、今日に至るわけである。その県名は、この県城の南側に 文昌江(今の文昌河)が流れていたことに由来するという。それから一環して、海南島南東部エリアにおける、政治、経済、文化の中核都市であり続け、元代後期の 1331年に、文昌県城の第一次拡張工事が手掛けられることとなる。

明代後期の 1572年、第二次拡張工事が着手され、楕円形型の巨大都市が誕生する。以降、城内の西側は 左文(文昌学宮などの施設)、東側は 右武(師衙、武営、火雷廟などの施設)と称され、左右対称に文化的空間と軍事的空間が棲み分けされることとなった。特に教育熱の高い土地柄で、明代、清代を通じ、県下から 16名の科挙合格者を輩出したという。

中華民国時代の 1922年、都市化の進展に伴い、城壁がすべて撤去されると、外堀の埋め立てや、河川の堤防資材へ転用される。 同時に、Y字型で形成された文昌河の両岸に、便民街、三角街、竹行街、樹東街などの集落が形成されると、旧古城地区の南北に 2か所の船着き場が設けられ、人、モノの往来が活発化していった。

文昌市文城鎮

共産党時代の 1950年に便民郷が新設されると、1951年に文昌県文城区へ、さらに 1957年には城郊郷へ、そして 1986年に文城鎮へ改編される。 1995年に文昌市制がスタートすると、以降も、市中心部として君臨することとなった。



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