BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年4月中旬 『大陸西遊記』~


雲南省 昆明市(中心部)五華区 ② ~ 区内人口 90万人、 一人当たり GDP 46,000 元(五華区)


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  5星ホテル「君楽酒店」の 21F から古城地区を眺望する ~ 翠湖公園、圓通山、五華山
  翠湖公園を 散策
  巨大邸宅「蘆漢(1895~1974年。国共内戦時に共産党側についた雲南省主席)公館」
  圓通山 から 五華山に連なる 丘陵斜面地帯(華山西路)を歩く
  永暦帝殉国処碑 ~ 南朝政権 最後の皇帝・永暦帝(朱由榔)父子の 慰霊碑
  最強ルートの ①路線バス(一律 2元) ~ 西北バスターミナル から 昆明市博物館まで
  二匹の 獅子モニュメント ~ 雲南省政府庁舎がある 五華山の南山麓 の 正義路スタート地点
  南門跡地 ~ 昆明最大の商業地区「南屏街」の ど真ん中にある 百貨店「百大新天地」
  【豆知識】南門(麗正門)と 城門楼閣「近日楼」
  南面城壁の跡地「東風西路」の 今昔
  護国路 と 護国国起義紀念碑 ~ 1915年、袁世凱を失脚に追い込んだ 雲南省の勝利宣言!
  巨大洋館の旧雲南省博物館 と 順城路 イスラム街にある「五一路」駅から、地下鉄に乗る
  小西門の 今昔
  雲貴総督府 役所の今昔 ~ バス停「文廟」南にあった 抗戦勝利紀念堂の緑地公園
  大都会にあって異空間を作り出す、昆明文廟
  東面の外堀・盤龍江 と 大東門
  大東門と小東門、そして東面城壁の地形イメージ ~ 圓通山の丘陵斜面のフル活用



五華区

雲南省都・昆明市(五華区)での初日は、翠湖公園の南西に立地する 5星ホテル「君楽酒店」に投宿した。
翌日にチェックアウトする前、この最上階 21階にあるフィットネスセンターから 翠湖公園(下写真中央)や 圓通山(下写真上辺の長い緑地帯。内部は動物園。かつて北面城壁が連なっていた。この西端の山裾に北門があった)、五華山(上写真の右上端)など、古城エリア遠景を写真撮影した。

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正午にチェックアウト後、いよいよ府城エリアの散策をスタ―トする。街歩きの中で、その巨大な城域に圧倒されていくこととなった。
まず、ホテル前の翠湖南路を東進し、翠湖公園へ入ってみる(下写真)。

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平日のお昼時とあって閑散としており、地元の高齢者や主婦層、家族連れなどがぽつりぽつりと散策していた。気温は 24度あり、乾燥した空気だったが、ほとんどの人が長袖を羽織っていたのが印象的だった。筆者は半そでで十分な気温なのだが、現地の人にとってはまだまだ肌寒いと感じる季節なのだろうか。。。
下写真左は公園内でパフォーマンスに興じる地元男性。メキシコのダンスを彷彿とさせられた。

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翠湖の東半分は水位がかなり低くなっており、底が見えている箇所もあって、ドブのような汚泥の匂いが立ち込めていた(上写真右)。

さて、10分程度で公園を突き抜け、東門から翠湖南路に出る。
ちょうど正面に、フランス風の 邸宅「蘆漢公館」があった(下写真)。
この館の主 盧漢(1895~1974年)は、辛亥革命直後から雲南省の軍部中枢でキャリアを積み、中華民国時代末期には雲南省政府トップにまで上り詰め、最終的に国民党を裏切って共産党へ帰順し、以後も中央政界で要職を歴任した人物である。

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その脇にあった圓通路を登って、華山西路 との交差点に至る。

北にある圓通山を頂点に、東から西にかけての丘陵斜面に位置しているようで(下写真左)、西隣に広がる翠湖へ向かって急斜面が形成されていたことが視認できた。そのまま華山西路を南下してみる(下写真右)。

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上写真右の華山西路の風景から分かる通り、やや登り坂となっている。ちょうど、この左手に雲南省政府庁舎があり、一帯は五華山という山になっているエリアだ。その標高差で、政府の威厳を高める効果を期待したと考えられる。実際、この丘陵斜面上には古くから、軍関係の庁舎が立地し、陣取ってきた所以もそこにある。

下の古写真は五華山上から南側の 滇池方向(現在の正義路あたりか?)を眺めたものと推察される。周囲に山影はなく、低地が広がっていたことが分かる。

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そして、華山西路を 3~5分ほど移動すると、右手側に「永暦帝殉国処碑」が見えてくる。

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高さ 1.96 m、横幅 72.5 cm、厚さ 12 cmの石碑がひっそりと建ち(上写真左)、市民らが憩う小公園に整備されていた。石碑の保護は非常に行き届いており、カバーする亭が増設され(上写真右)、その脇には 五華山区の歴史&観光案内板も設置されていた。


明末、この五華山の 西面麓(当時の地名は、蓖子坡)には金蝉寺があり、この境内で、ミャンマーの山岳地帯で拘束された南朝政権の最後の 皇帝・永暦帝(朱由榔。下絵図)父子が 1662年 4月25日(旧暦 6月1日)、絞首刑に処せられる(享年 40歳)。
清代、当時の地名だった「蓖子坡」の発音をもじって、地元民らは「逼死坡」と通称したという。

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清朝の治世時代、明朝最後の皇帝を慰霊することははばかれていたが、辛亥革命が全国で勃発すると、雲南省全土の部隊を統率した雲南都督の 蔡鍔(1882~1916年。日本の士官学校を卒業)が清軍を追放し、雲南軍都督府を新設すると(自身がそのまま初代都督に就任。実質的な雲南省のトップ)、その直後に漢民族の再興を記念して、南明政権の最後の皇帝の供養塔を建立したのだった(1911年)。

この時、蔡鍔は自らの名前は記さず、三迤士民(1730年に迤東道と迤西道、1766に迤南道という三行政区が雲南省に新設されると、以後、この三つを総称した「三迤」という語句が雲南省の別称・代名詞となっていた)として慰霊する、と刻印されたのだった。
この蔡鍔が、後に袁世凱の独裁政権に反対し、1915年に雲南省で護国運動を決起することになる(後述)。



ちょうど史跡公園の正面にバス停「華山西路」があったので、ここから①番路線バスに乗車して(2元)、「市博物館」前まで移動してみた(下写真)。15分ほどで拓東路沿いの 昆明市博物館前 で下車できた。

なお、この反対車線の バス停「華山西路」から同じく①番路線バスに乗車すると(2元)、終点が「西北部バスターミナル」となっている(下写真)。富民県禄勸県武定県元謀県東川区 などを訪問するのに必須の交通ターミナルで、今回の昆明滞在中には非常に重宝したバス路線だった。

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この①番路線バスは「華山西路」の次に「財盛巷口」というバス停に停車する。下写真の、木で組み上げられた二匹の獅子が目印。
筆者は二日目以降のホテルは、この バス停「財盛巷口(もしくは正義路)」から、東へ 2分ほどにある 7天酒店に住み替えることとした。

当地 には夕方に戻ってくることになるのだが、先に昆明中心部の繁華街地区を形成する正義路、南屏エリアに関し、見聞録をご報告申し上げたい。

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この正義路自体は五華山の南面の山裾に立地しており、今に残るなだらかな坂道が丘陵地帯を物語る。
この坂道上に雲南省政府の庁舎があり、上写真の二匹の獅子はその正面入り口前のモニュメントとしてデザインされていた。なかなか見応えがあったので、写真撮影してしまった。

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そのまま 正義路 を南下すると、市街区の東西メインストリートである人民中路に至る。正義路はさらに道路をまたいで続いており、巨大な歩行者天国へと姿を変える。

歩行者天国の正義路を南下し続けること 5分程度で、真新しいショッピングモールが四方を取り囲む交差点に到達する。ここが昆明最大の 繁華街「南屏街」で、その広大さに度肝を抜かれる。自動車はその 地下(東風西路)を走る二重構造になっていた。下写真の左端。

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この歩行者天国・南屏街の交差点に建つ 百貨店「百大新天地(上写真中央)」に、かつての 南門 あったわけである。この西脇に 地下鉄駅「五一路」が立地する。

下古写真は、かつての 南門(麗正門)とその 城門楼閣(近日楼)。

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拡大する都市部の交通問題を解決すべく 1924年に、中華民国政府はこの南門を含むすべての城門と城壁の撤去を決定する。この時、城門上にあった近日楼のみ移築・保存されることとなり、新規に開設された公園内へ移転され、近日公園と命名される。
しかし 1950年代、昆明市中心部を東西に貫通する道路「東風路」を敷設するため、その線上にあった近日公園と近日楼も撤去されてしまったのだった。

現在、昆明市西山区東寺街敬徳巷にて復元されている南門 は 2002年に建てられたもので、現物そのものでないにせよ、府城遺跡の唯一の名残となっている。



 南門(麗正門)上にあった 楼閣(近日楼)

1381年、モンゴル勢力を駆逐し、雲南省一帯を軍事併合すると、明の朱元璋は雲南布政司を新設し、沐英を鎮守国公に封じる。翌 1382年、沐英が昆明城に入城してくると、直ちに城壁の改修工事に着手する。

この時、昆明城の城壁は土壁からレンガ積みへ全面改修され、城門が合計 6ヵ所設置される。上空から見ると、四足と尾、頭部を城壁外に出した状態の「亀」形に設計されていたという。

特に、この亀の頭部に相当した、この南城門は特に大きく、最初、崇正門と命名され、その城門楼閣は向明楼と称された。もともと南方向が陽が当たる方角であり、かつ、明朝への敬意を表する意味が込められたという。

当時、かつて大理国時代の【二代目】拓東城(鄯闡府城)があった南郊外と、元代に北へ城域が拡張され五華山や圓通山まで内包される巨大な昆明府城との二重構造となっていたわけだが、この新旧の城域が重なっていたのが南門あたりで、外堀が滇池へと直接つながる交通の要衝であったことから、大いに繁華街として賑わったという(大南城エリアと通称されていた)。今日にもその名残は色濃く継承され、最大の 歩行者天国・三市街~南屏街を形成しているわけである。
近日楼の両サイドには、高くそびえ立つ城門楼閣と庶民の商店が軒を連ねていた(下写真)。

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当時から最大規模を誇った南門であるが、清代の 1700年ごろに雲貴総督として当地に赴任した范承勛が「向明楼」の名称が、明朝への敬意だけを表し、清帝国に対し不敬であることから「近日楼」へ改称するように指示し、また同時に、城門自体も 麗正門(外門側の通称。内門は尚明門と呼ばれていた)から近日門へ改名されたのだった。

その改称の由来であるが、南門(大南城)自体が北を背に南向きに立地し、その楼閣建築物の底辺は東西約 60 m、南北約 40 mもの巨大さで、その高さは約 20 mを越えていた。この楼閣からの眺めは壮観で、湖水一帯を見渡すことができ、まさに太陽に近づける場所という意味が込められていたという。

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1924年に城門、城壁が撤去された後も、付近の公園に移築されていた楼閣・近日楼であるが、1950年2月、陣賡、宋任窮がこの楼閣上から解放軍の入城式を見守った記録が残る。
1950年代に自動車道路「東風路」の建設のため、公園と共に近日楼も撤去されるに至り、古城遺跡の残骸は完全に消失されてしまうのだった。現在、往時の楼閣内部の様子は、護国紀念博物館内に展示されているという。

2002年、昆明市政府は観光地開発を目的に、 西寺塔と東寺塔との間の 歩行者天国ストリート(元の場所から 900 m南)に南門と近日楼を復元している



さて、この南門跡に建つ百貨店「百大新天地」に登ってみることにした。 9階に映画館があり、この非常階段から西側一帯を見渡せた。巨大モスクとキリスト教会が向かい合って並び立っていたのが印象的だった。下写真。

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続いて、その向かいにあるショッピングモール順城購物中心からも撮影してみた。かつて、南面城壁が連なっていた東風西路が一望できる(下写真)。下写真右端のキリスト教会は、上写真右と同じ。

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下写真の古城模型は、昆明市博物館 にあったもので、ちょうど南東の方角から府城一帯を眺めてみた。南面城壁とその外堀は現在、東風西路になっている。

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下は南門と城壁を、上空から俯瞰してみたもの。

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さて、再び歩行者天国・南屏街まで戻り、正義路を北上して一つ北隣にある 路地「慶雲街」を東進してみる(下写真左)。その突き当りに護国路があった(下写真右)。

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交差点脇に護国国起義紀念碑があり、また隣接して護国ビルがあった。下写真左。


1915年 8月以降、独裁を強める袁世凱がついに皇帝を称して中華民国を廃止すると、同年 12月25日、雲南省トップだった 蔡鍔(前述の「永暦帝殉国処碑」を建立した人物)が主導して中華帝国からの独立を宣言する。この雲南省独立を皮切りに、広西省広東省四川省 などが一斉に同調し独立戦争に加担する(護国戦争)。この戦争で袁世凱政権の諸軍は各地で敗走し、ついに翌年 3月、袁世凱は失脚し、そのまま失意の中、6月に病死することとなる(56歳)。

中華民国時代、護国戦争を成功に導いた雲南省政府により当地に 護国門、護国橋、護国路が新設されていたが、門や橋はすでに撤去されており、その跡地に、護国戦争勃発 100周年を記念して 2015年 12月25日、この石碑が設置された、というわけである。


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そのまま南下して東風西路沿いに西進し、歩行者天国ストリート南屏街まで戻る(上写真右)。

その西側にある地下鉄駅「五一路」を通過し、さらに東風西路を西進し続けると、五一路との交差点に巨大な洋館の雲南省茶文化博物館が立地していた(下写真左)。かつては、雲南省博物館だった建物だが、現在は 昆明市官渡区広福路沿い(官渡古鎮の南側) へ移転されている。

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ここから 順城路を南下するとイスラム街へと至るのだった(上写真右)。昆明府城の南郊外にあった出城部分に相当するエリアである。

さて、続いて地下鉄駅「五一路」から一駅だけ電車移動し、「潘家湾」で下車する(初乗り料金 2元)。地下鉄車両はあまり座席を設けず、立ち乗車を前提としたスペース重視の構造だった。

駅出口脇にはバス停「小西門」が立地しており、東西メインストリートの人民西路沿いだけあって、非常に多くの路線バスが往来していた(下写真)。

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上写真の奥手に見える路線バスが走行中の地点は、亀背立交橋という高架陸橋になっており、東西の自動車道が交差する交通の大動脈を形成している。ちょうどこの真下に、かつて小西門が立地していたのだった。
この辺りはちょうど、初日に泊った君楽酒店ホテル附近でもあった。

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上模型は、往時の小西門あたりの風景。

下写真は、小西門(威遠門 と 康阜楼)。当時、昆明府城下にあって、翠湖は運河で滇池と直結されており、小西門周辺は水陸の重要な出入口を成していた。

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そして、バス停「小西門」から東向きのバスに適当に乗車してみる。バスは亀背立交橋を渡って、そのまま人民西路を東進し、筆者は 2つ目のバス停「文廟」で下車した。

ここは人民西路と華山西路との交差点となっており、このままと華山西路を北上すれば、昼過ぎに訪問した明永暦帝殉国処碑の遺跡公園へとつながる位置関係だった。

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なお、バス停「文廟」の南側は、勝利広場という緑地公園が整備されており、そのさらに南には 勝利堂文化芸術中心劇院と 雲南勝利堂(抗戦勝利紀念堂)、人民英雄記念碑が並び立つ。
ちょうど上写真の緑地部分がこれに相当する。

下模型にある通り、この敷地には、かつて雲貴総督府の役所本部が開設されていた。清朝の中央政界から地方へ派遣された最高レベルの大臣職が総督で、全国でも 9ヵ所しか設置されなかった総督府の長官であった。雲南省、貴州省下の軍民、食糧を統括する最高権限を有し、清代を通じて歴代 77名が着任したという。

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さてさて、人民西路を渡って、文廟を訪問してみる。
かなりチベット仏教を影響を受けたと思わしきデザインの外門をくぐると(下写真左)、内部は完全なる中国伝統スタイルの庭園、正門、本殿が広がっていた(下写真右)。

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こんな大都市のど真ん中にあって、コンパクトながら整備の行き届いた境内と、巨大な社殿は、全く異空間に迷い込んだ印象を訪問者に与えるのに十分過ぎるものだった。

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また、外門の東端の事務所内では、京劇の発声練習をしている役者さんたちがいた。ちょうど、あの裏声を高く発声させる練習中だった。香港人俳優 レスリー・チャン主演の『さらば、わが愛(覇王別姫)』をふと思い出した。


この昆明文廟であるが、元代の 1276年、当時、雲南行省の平章政事として派遣されていたムスリム系の サイイド・アジャッル(中国名:賽典赤・贍思丁。1211~1279年)が雲南地方の開発と統治に尽力していた傍ら、五華山西面の麓あたりに孔子廟を建立したことが最初と伝承されている。
なお、現存する文廟本殿は 1690年に建立されたもので、すでに 300年以上の歴史を有するという。

辛亥革命後に清朝の支配が崩壊すると、文廟の公的な管理が行き届かなくなり、昆明城内の市民らの集会広場と化していったようで、飲茶する人々、将棋や碁を打つ人々、書籍を読みふける人、卓球に興じる人など、さまざまな人々が集うリクリエーション広場へと様変わりしていったという。

共産党中国時代、昆明市政府の文化局が度々整備を施すも、地元民らの芸能活動エリアであることに変わりはなく、地元では「大衆游芸園」や「昆明市群衆芸術館」と比喩されるようになっていた。近年に入り、公費が投じられて園内の整備が進められ、今日の神殿風の空間へ生まれ変わったという。しかし、現在でも市民らの芸能活動の空間としては現役であった。



そのまま 東へ歩くと、1分ほどでホテル近くの正義路を通過し、さらに 10分ほど人民中路を進むと、かつての東面城壁の跡地である青年路を越え、東面の外堀を成した盤龍江まで至る(下写真左。この橋上から南側を臨む)。

下写真右は他日、逆に、一つ南側の東風西路上の南太橋から北側を臨んだもの。両橋の距離は 400 mほどだが、盤龍江がやや蛇行しているため、見渡すことができない。

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続いて、下写真は盤龍江上の橋から人民中路の西面(古城エリア。下写真左)と、東面(かつての城外。下写真右)を撮影したもの。
下写真左の奥に見える、路線バスが走る青年路との交差点に、かつて大東門が立地していた。

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下写真は往時の 大東門(成和門 と 殷春楼)。

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下写真は、古城模型に見る 大東門 一帯。外堀を成した盤龍江は特に石垣などで整備されず、河川のままで蛇行していたことが分かる。三角州などもあり、かなり川幅は広かった。

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下写真は、さらに遠景から眺めた東面城壁。手前が小東門、後方が大東門。圓通山の丘陵斜面がフル活用されていたことが分かる。

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