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(中心部)呉興区
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
浙江省 湖州市(中心部)呉興区 ~ 区内人口 310万人、一人当たり GDP 86,000 元(湖州市 全体)
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【二代目】烏程県城(呉興郡城、帰安県城、湖州府城)
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湖州子城(項王城)遺跡
湖州市の中心部にあった 烏程県城(呉興郡城、安吉州城、湖州府城)であるが、 今日では城門も城壁も完全に撤去されてしまっている。しかし、湖州城を 取り囲んだ外堀はほぼ当時のまま残されており、その巨大な 城郭都市のスケールを体感するには十分な環境である。
また、古城エリアの路地名や地名には多くの当時の記憶が刻み込まれており、 往時の様子を妄想する手助けになる。
環城北路、環城東路、東街、南街、承天寺巷、東門バイク修理店、西門、環城河、環城西路、南門バス停留所、湖州子城城壁遺跡(項羽築城の城塞跡)、府廟、北街、所前街など。
項王城遺跡
秦末で全国で農民反乱の軍閥勢力の乱立が巻き起こる中、 紀元前 206年、項羽もまた 呉県(今の 江蘇省蘇州市)一帯で挙兵する。
それ以前、項羽とその叔父である項梁は秦軍に隠れて呉県下に潜伏していた と考えられており、項羽が反秦で挙兵する際、彼の下に集った兵士らは、 同じく呉県、烏程県エリアで隠遁生活を強いられていた旧楚国の 軍人らの子弟や、付近の各県下から募集された傭兵たちだったと考えら れている。彼らは、後に烏程兵と総称されることとなり、 項羽旗下の最古参兵として君臨していく。
項羽は挙兵直後に、烏程県城(旧菰城)の北側に 立地していた弁山の山系に駐屯基地を設け、その中心に 簡易な城塞を築城したと考えられている。これが、後に項王城と通称される 古城遺跡である。
最終的に秦王朝を滅ぼした項羽は西楚の覇王として江南、江東エリアを 治めるも、最終的に反旗を翻した劉邦に敗北し、戦死に追い込まれることとなる。
直後に前漢王朝を建国した劉邦により、烏程県の県役所が北へ 移転され、この項王城内に開設されて、烏程県城に定めるられる。
唐代初期の 621年には、李孝恭が子城の外周に外城壁を建造し、 二重構造の城郭都市を完成させると、引き続き、湖州府城の 中核部分(子城)として 君臨し、湖州衙署所が開設され続けた。中華民国時代以降、 子城跡地は公園として一般開放され、 現在、愛山広場となっている。
宋代に至ると、その外城壁は全長 12 kmに達し、東西 5 km、7 kmにもなる巨大な 城域を構成することとなる。6ヵ所に城門が設置され、そのうち清源門と臨湖門の 2つが水門で、他の 4門が水門と陸門を兼ねるものだったという。
なお、清末当時、子城の外周は全長 3,570 m(東西 1,980 m、南北 1,140 m)にまで 拡張されていた。城壁には東門、中門、西門の三門が設けられ、 それぞれの城門上には楼閣内が設置されていた。中門の楼閣内には打刻用の 鐘が設置されていた。東門外にはもともと府城隍廟へと 通じる城隍橋が架設されており、子城の周囲には掘割と運河が掘削され、 舟で城外まで往来できるようになっていたという。
【 呉興区の 歴史 】
当地を含む江東エリアは、西周王朝時代の紀元前 1066年~春秋時代の紀元前 494年 まで越国の支配下に、そして越支配を排除した呉が紀元前 473年に滅ぼされるまで 占領した地で、呉国と越国が死闘を演じた場所であった。
最終的に紀元前 334年、越国を滅ぼした楚が全域を併合することとなる。
戦国時代に活躍した四公子の一人として名高い 春申君(黄歇)が、楚の考烈王により紀元前 248年に江東地方の地を与えられると、一帯は彼の封邑となる。その直後、領地内に 菰城(今の 湖州市呉興区雲巣窯頭村にある南菰城遺跡)を築城する。当時、周囲には菰草が生い茂り、城塞が菰草に埋もれたように見えたため、菰城と命名されたという。
しかし、春申君の功績で国力を回復させ、紀元前 241年には盟主として 趙・楚・魏・韓・燕の五カ国連合軍を率いて秦国を攻めるまでに台頭した楚国であったが、朝廷内の権力争いに巻き込まれ春申君が暗殺されて以降、国力は急激に減退し、 ついに紀元前 223年、秦に滅ぼされることとなる(下地図)。
秦占領下の翌紀元前 222年、郡県制が導入され、江東地方に会稽郡が新設されると、その下には 烏程県、由拳県などの諸県が配される。
このとき、春申君が築城した菰城内に烏程県役所が開設されたため、以後、烏程県城となる。これが現在の湖州市における最初の県城設置となった。
なお、烏程の地名であるが、この地に旧越系の土着住民で、手広く酒造家を営む烏巾と程林の両家が存在し、その名が一帯で広く知られていたことから命名されたという。
始皇帝の死後、秦帝国が大混乱に陥ると、全国で農民や群雄らが挙兵する。後に表舞台に躍り出ることになる項羽は当初、その勢力を温存すべく、今の湖州市呉興区愛山広場付近に駐屯基地を設け、簡易な城塞を建造していた。今に残る「項王城」遺跡である。
時は下って後漢時代の 129年、会稽郡が 浙江(錢塘江)の南北で分離され、北岸に呉郡が新設されると、烏程県はこの呉郡に属した(下地図)。
三国時代後期の 266年、呉第 4代目皇帝・孫皓が呉郡下の 陽羨県、永安県、餘杭県、臨水県と、丹楊郡下の 故鄣県、安吉県、原郷県、於潛県、烏程県の 9県を分離し 呉興郡(長年の懸案事項であった山越族らを平定し、これからますます呉国は繁栄していく、という意味の「呉国興盛」の文言から命名された)を新設する。郡内を流れる水脈がすべて 項王城跡(今の 湖州市呉興区呉興区愛山広場)に通じていたため、ここに郡役所が開設されたのだった。
その管轄域は、今の 湖州市一帯、銭塘県(今の杭州市)、陽羡県(今の宜興)にまで及んでいた(下地図)。
280年、西晋が呉を滅ぼし三国を統一すると、282年に烏程県の東部が分離され、東遷県が新設される(下地図)。東遷県役所は今の湖州市南潯区旧館鎮あたりに設置される。
また同年に烏程県の西部も分離され、長城県が新設される(下地図)。
間もなくして、烏程県役所も項王城跡へ移転されることとなり、【初代】烏程県城となっていた旧菰城は廃城とされる。以後、旧項王城が【二代目】烏程県城となり、呉興郡都を兼ねて、現在に続く湖州市の 中心部(呉興区)を形成していくこととなる。
南北朝時代、劉宋政権(420~479年)下の 476年、東遷県が東安県へ一時的に変更されるも、翌 477年には元の東遷県へ戻される。この時代、基本的に呉興郡は 烏程県、東遷県、武康県、長城県、原郷県、故鄣県、安吉県、余杭県、臨安県、于潜県の 10県を統括した。梁朝(502~557年)の末期、呉興郡は一時的に震州へ改称されることとなる(太湖の古い名称であった震澤から命名される)。
梁朝から権力禅譲を受けて陳朝が建国された直後の 557年、震州が呉興郡へ戻されるも、北朝の隋が南朝の陳政権を滅ぼし中国を統一すると(589年。下地図)、全国的に郡制が廃止されるに伴い、呉興郡が湖州へ改編される。同時に、東遷県が廃止され、烏程県に吸収合併される。
以後、湖州は 烏程県、武康県、長城県(今の 湖州市長興区)を統括することとされた。
唐代初期の 621年、李孝恭が 湖州城(烏程県城)の外周にさらに城壁を建造し、外城と 内城(子城)の二重構造の城塞都市を完成させる(下絵図)。 かつての項王城や烏程県城跡はそのまま子城という形で残され、以後、 湖州衙署が入る中核部分と位置づけられていく(現在の呉興区愛山広場公園のあたり)。
742~758年の間、湖州が呉興郡へ変更されるも、再び、湖州に戻される。
北宋朝が五代十国の統一に乗り出し、974年に南唐を帰順させると(上地図)、それまで「敵の敵は味方」として友好関係にあった呉越国も北宋と直接、国境を接するに至り、978年、呉越国の第 5代目国王・銭弘俶は自ら国を献じ、政権を消滅させる。
こうして江東地方を一滴の血も流すことなく併合できた北宋朝はその和平を祝賀し、湖州府烏程県下の南東部 15郷を分離して、新たに帰安県を新設する。両県役所はそのまま 湖州府城(今の 湖州市呉興区)内に併設されることとなった。
宋代を通じ、両浙路十二州の一角を成した湖州府であるが、1034年に昭慶軍節度へ昇格され、 さらに南宋時代の 1225年、安吉州へ改称される。
この時代、湖州府(安吉州)は 烏程県、帰安県、安吉県、長興県、徳清県、武康県の 6県を統括し、域内の登録戸籍数は 162,335戸で、人口 361,689が記録されていた。
元代初期の 1276年、安吉州が湖州路へ昇格される。配下には、 錄事司、烏程県、帰安県、安吉県、徳清県、武康県、長興州(1295年に長興県が昇格) を統括した。
元末の混乱期、群雄が各地に割拠していた 1366年、軍閥勢力の張士誠を破り、 江東地方を掌握した朱元璋により、湖州路が湖州府へ 改称される。
以後、明代を通じ、湖州府は 烏程県、帰安県、長興県(1357年に長興州から長官州へ改称されるも、1362年に長興州へ戻され、1367年に長興県へ降格される)、徳清県、武康県と安吉県の 6県と、安吉州を統括したが、1507年に安吉県が安吉州へ昇格されると、安吉県と孝豊県が分離される。そのまま引き続き、湖州府の管轄下に置かれた。
清代中期の1774年、安吉州が再び安吉県へ降格され、孝豊県が湖州府の直轄下に 戻されると、 以後、清末まで湖州府は 帰安県(今の 湖州市の南東部エリア)、 烏程県(今の 湖州市の西北部エリア)、長興県(今の 湖州市長興県開発区)、 徳清県(今の 湖州市徳清県徳清鎮)、武康県(今の 湖州市徳清県)、 安吉県(今の 湖州市安吉県安城鎮)、孝豊県(今の 湖州市安吉県孝豊鎮) の 7県を統括することとなる。
時は下って、中華民国が建国された直後の 1912年、この併存状態だった烏程県と帰安県が 合併され呉興県が新設されるも、1981年1月に廃止され、全県域が湖州市に吸収合併される。 2003年に湖州市下で呉興区の名が復活設置され、今日まで踏襲されている。
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