BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2019年 4月中旬 『大陸西遊記』~


雲南省 昆明市 宜良県 ~  県内人口 46万人、 一人当たり GDP 37,000 元(宜良県 全体)


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  宜良県城(羅裒籠、羅普籠、大池千戸所城、宜良州城)
  昆澤県城(新豊県城。今の 宜良県北古城鎮)



昆明市内から地下鉄 2号線で、東部汽車客運駅にて下車し、すぐ北隣にあるバスターミナルから宜良行の近郊路線バスに乗車する(10分に一本あり)。運賃 25元、約 1時間。

蓬莱大道沿いにある宜良汽車バスターミナルに到着後、正面の迎賓路を南下すると古城地区に到着する。
当地に郷土博物館はないので、そのまま古城地区を巡るだけとなった。

宜良県

宜良県はまさに古城地区から近代都市開発がスタートしてしまったため、城門、城壁、そして古民家群は壊滅的なまでに喪失されている。それでも、数多くの往時の記憶が路地名や地名など刻み込まれていた。
環城西路、土橋村、土橋路、西山営、老営盤小区、営盤路、里仁街、東環路、馬草街、大石橋、鈺橋路、石埤坊、学府路、蛍火巷、文廟、環西路、東升路牛石橋步行街、鑫橋路など。

なお、古城地区の東郊外にある宜良本熊博物館であるが、これは地元の郷土史家・肖本熊が個人的に収集した歴史的な文物を展示したもので、いわゆる私設博物館らしい。寺院や商店、廟所などの木片額縁、活版印刷の鉛字盤、文化大革命時代の旧型機械などが、ざっくばらんに保存されているという。

 【 宜良県の 歴史 】

旧石器時代にはすでに古代人類の生息が確認されており、以降も、周辺では複数の集落地が誕生していったと考えられている。
紀元前 109年、前漢時代の武帝により雲南省一帯が武力併合されると、益州郡が新設される。今の 宜良県一帯(当時、太池の湖畔エリアと呼称された)は、昆澤県(県役所は今の 昆明市宜良県北古城鎮あたり)に統括された。下地図。

宜良県

三国時代の 225年、益州郡が建寧郡へ改称されると、昆澤県は引き続き、これに統括された。
西晋時代の 308年、建寧郡が晋寧郡へ改称される。
南北朝時代の後期、昆明北部に割拠した爨族が東西に分裂すると、西爨派の本拠地となった白蛮地区に属した。

隋代初期の 597年、昆州(今の昆明市)に属する。
唐代初期、昆澤県(今の 宜良県北古城鎮)が新豊県へ改称される(郎州に帰属)。下地図。

宜良県

南詔国の治世時代の 748年、東西分裂した爨族のうち東爨派に押される形で、西爨派が西側へ大移住すると、今の宜良県中心部に西爨族の 集落(羅裒部)が形成されるようになり、ここに大規模な 城塞集落「羅裒籠(羅普籠)」が建造される(拓東節度府に帰属)。下地図。
なお、「籠」は地元の爨族の言葉で、城塞集落を意味する。

南詔国の領地を継承した大理国は、そのまま善闡節度府を維持し、その行政区も踏襲される。
後期に入ると、三十七部中の 落蒙部(今の 昆明市石林彝族自治県)、伽宗部(強宗部。今の昆明市呈貢区)嵩盟部(今の 昆明市嵩明県嵩陽鎮)などの諸部に分かれて統括された。下地図。

宜良県

元代の 1257年、羅普籠(今の 宜良県中心部)が大池千戸所へ改編される(嵩明万戸所 に帰属)。
1276年、この大池千戸所が宜良州へ昇格される。この時、初めて「宜良」の地名が登場することとなった。
しかし、1284年に宜良州が宜良県へ降格される(中慶路に所属)。

なお、「宜良」の地名の由来であるが、一説によると、県内にある、モンゴル軍の将軍・紀良から命名されたという紀良山が、現地でなまって宜良と発音されるようになった、もしくは、彝族の言葉で当地を通称した「弥良(山間部に開発された土地の意)」という方言の発音が漢字転換されたもの、と指摘されている。

宜良県

明代、清代を通じて、そのまま宜良県が継承され、雲南府に属した(上地図)。
中華民国時代の 1914年には滇中道に属し、1918年に滇中道が廃止されると、宜良県は雲南省の直轄となる。

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