BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年6月上旬 『大陸西遊記』~


四川省 綿陽市 梓潼県 ~ 県内人口 37万人、 一人当たり GDP 32,000 元(綿陽市 全体)


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  三国時代の 梓潼県
  梓潼県城(梓潼郡城)
  すべて自転車タクシー
  テーマパーク・両弾城(核兵器研究基地跡)



梓潼県は今では小さな一地方都市であるが、かつて益州蜀の北東にあって、重要な交通・防衛の要衝であったようである。春秋戦国時代、秦が 巴、蜀の 2国を滅亡させてた後、統治制度を一新し、益州広漢郡の下に梓潼県を設置した、という(益州内に 31県を設置したうちの一つ)。漢王朝 の時代になっても、この行政区分は継承される。

三国志時代、益州奪取に乗り込んだ劉備により、荊州牧の元劉表配下の武将であった霍峻が、葭萌(広漢郡)の梓潼県城の防備を任される。劉璋vs劉備の対劉備戦で共闘することとなった張魯は、馬超を派遣する。 このとき、守将の霍峻は張魯側より反意を打診されるも拒否し、その後、劉璋軍により県城を包囲される。霍峻は、劉備が益州を奪取するまで県城を守り通し、劉備から厚い信任を得るに至る。劉備は 400年続いた 葭萌(広漢郡)の一部から梓潼郡を独立させ、その太守として霍峻を任命する。ここは益州北東部で中原や 漢中 と接する重要拠点であったわけで、蜀建国後の劉備、諸葛亮にあっても、対魏戦略上、重要人物を配した、と推察される。

梓潼県


その後も、この梓潼県は三国志にまつわる逸話が尽きない。

蜀軍の漢中侵攻の際、、梓潼県七曲山の東側にある瓦口関にて、張飛軍が魏の張郃を撃破し、この戦いをもって 漢中 は蜀に帰属することになる。張飛は酒癖を披露して、張郃を油断させ、砦内から引っ張り出して撃破したとされる。

また 231年秋、李厳は諸葛亮北伐中に嘘言により強制撤兵させた罪で庶民に降格された際、ここに流された。地元民は、彼の死後、ここに墓を建てていたらしいが、文革の中で破壊されたという。

梓潼県

孔明死後の蜀後期にあって、病気中の楊戯が梓潼太守に任命された地でもある。

魏の蜀進行後、蜀は 2州に解体される。すなわち、益州(成都)と 梁州(漢中)となる。このとき、益州側は 7県のみ統治となり、梓潼県は梁州管轄下となる。



このような 梓潼県 の街だが、残念ながら古城跡は全く残されておらず、例のごとく、各道路や街の地名にその名残が残るだけである。写真は 東門跡、南門跡、西門跡付近で撮影した。

梓潼県

梓潼県 梓潼県

梓潼県


堀川があった 場所(東門側:濱河路)。

梓潼県 梓潼県
梓潼県 梓潼県

時は下って、唐の玄宗皇帝の治世時代、安史の乱において中原、華北地域が戦乱に巻き込まれる中、皇帝は楊貴妃とその一族を連れて、蜀の地へ遷都する。その際、この梓潼県にも立ち寄ったようで、地元官吏や名士らによって振る舞われた地元料理が絶賛し、これを記念する、という石碑があった(下左写真。場所:五丁目南段)。見た感じ、自分の食堂の宣伝のために、わざわざ石碑を建てたような印象だったが。

右の写真は、旧市街地の南北中心通りである「文昌路」。現在でもメインストリートである。南側で五丁目南段と交差する地点が、街のバスターミナル。綿陽徳陽 などへ行ける。ここはローカル路線バスがない分、遠距離バスの停留所が市街地内にあり、すべて徒歩圏内で便利。

梓潼県 梓潼県

街中の様子だが、前述の通り、この地で特筆すべきことは、市内を走る 公共路線バス が全くない、ということである。すべて写真のほうな自転車タクシーだ。これらも一台一台、自動車登録番号が付与されていた。この街では、これがバス代わりらしい。もちろん、自動車タイプのタクシーも市内に走っている。
梓潼県


左の写真は、市街区の西側を流れる「梓江河」。遂寧市、重慶市を経て長江へとつながる。
真ん中の写真は、市街地の対岸にある農村地帯。山間部に、大きな寺院がそびえたっていた。
右の写真は、道路標識。

梓潼県 梓潼県 梓潼県

この道路標識に、「両弾城」という観光地表示がされているが、この梓潼県から 5Kmのところにある。これは、かつて中国の第二位の規模を誇った核兵器研究基地の跡。 1992年に、研究基地が綿陽科学城へ移動して以降、10年間は放置され荒れ放題であったらしい。そして、2002年夏より、山中の地下基地などを活用したテーマパークが開園されている。

ついでに触れておくと、綿陽市 と梓潼県の間に、関帝村というところがあった。魏城という村の一部らしいが、綿陽市は全市上げて、三国志テーマの観光ビジネス開発に熱心な印象を受けた。

それだけに、梓潼県にはこれだけ豊富な三国志エピソードが存在する街にもかかわらず、未だに歴史博物館や郷土資料館は開設されていなかった。非常に残念である。


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