BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


ドイツ ベルリン州 シュパンダウ区 ~ 区内人口 25万人、一人当たり GDP 49,000 USD(州全体)


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  ベルリン地下鉄 に乗る ~ ミッテ地区 ― シュパンダウ 往復(一日乗車券 7 EUR)
  シュパンダウ城塞(Zitadelle Spandau)全景マップ
  城塞に入ってみる(入場料 4.5 EUR)~ 城塞の正門、博物館、ユリウスの塔、女王の稜堡
  恐怖の螺旋階段を 登頂後、ユリウスの塔上から 正門エリアを眺望する
  シュパンダウ城塞跡地から、城郭都市だった 旧市街地を遠望する
  城塞内の 皇太子の稜堡、ブランデンブルク王家の稜堡、中庭を俯瞰する
  王の稜堡から、皇太子の稜堡 まで歩いてみる ~ 東面城壁、外堀、塹壕、凹凸壁、見張り台
  北面城壁にあった 水門、船着き場、倉庫、運搬坂、ブランデンブルク王家の稜堡
  ハーフェル川を 挟んで立地した、城塞基地と 城郭都市の 今昔マップ
  旧市街地の北端 ~ 閑静な住宅街、コルク通り、聖マリア教会
  見事に現存する 北面城壁 と 外堀跡
  中世シュパンダウ 地図 ~ 城郭都市は 内外二重の堀で 囲まれていた
  旧市街地の 南半分 ~ 歩行者天国 カール・シュルツ通り、ブライテ通り、改革広場
  旧市街地の シンボル「聖ニコライ教会」と 国王 ヨアヒム 2世による 宗教改革政策
  【豆知識】ナチス政権時代、反政権派(告白教会)の 牙城となった 聖ニコライ教会 ■■■
  東面城壁 と 外堀 ~ ハーフェル川 と シュプレー川との 合流ポイントを歩く
  【豆知識】シュパンダウ区 の歴史 ■■■
  【豆知識】ゴティシエス・ハオス​ ~ シュパンダウ観光案内所 と 郷土資料館 ■■■
  【豆知識】旧ユダヤ人街「ユーデン通り」の史跡 ~ 西面城壁、水車小屋、富裕農家の母屋




午前中にベルリン中心部(ミッテ地区)を散策した後、13:10ごろにベルリン市内 1泊目のホステル(アレクサンダー広場駅近く)に戻って荷物を回収し、 2泊目の宿があるカイザーダム駅(下写真左)まで移動する。地下鉄 U2号線で東端から西端へ、ほぼ都市を横断する形になった

アレクサンダー広場駅にあった DBドイツ鉄道会社のカウンターで、一日乗車券を買いたい旨を伝える(13:15)。
午後から訪問予定のシュパンダウ往復も兼ねた範囲と地図を見せると、 ABゾーンで十分というので、7 EUR支払った。乗車前に打刻機で切符に打刻して、使用するように言われた。

しかし、肝心の アレキサンダー広場駅の地下鉄駅 を探すのに手こずった。 Sバーン(緑の案内板)のホームに上がると、ようやく Uの青色案内板を発見し、さらにホームから下へ降りてみると、小さな地下鉄入り口を発見できた。しかし、U2号線のホームはまた遠く、何度か階段をアップダウンして、ようやくホームにたどりつけた。。。切符を買ってから実に 30分弱かかった。

シュパンダウ シュパンダウ

13:47、地下鉄 U2号線に乗車する。体の大きなドイツ人にとって、窮屈すぎる車両幅にビックリした(上写真右)。東京の銀座線 よりもさらに足一つ分は狭い。ここから乗換なしで、約 30分間の乗車後、カイザーダム駅に到着する(14:15。上写真左)。先にホテルで荷物を置くべく、チェックインした(14:20)。
翌日早朝にポーランド(ヴロツワフ)へバス移動するため、バスターミナル(Berlin ZOB : Zentraler Omnibusbahnhof)から徒歩 3分の場所を選択したのと、溜まっていた洗濯物の処理も考慮し、ややいいホテル(コンコルド・ホテル・アム・スタジオ。52 ユーロ)に宿泊した。朝食は 6:00~10:00で 10 EURという(7Fで食事後、チェックアウト時に精算する仕組み)。このチェックイン時、 Wifi用のパスワードも発行してくれた。

筆者は部屋へは行かず、フロントに荷物を預けて、そのままカイザーダム駅へ戻り(14:25)、再び地下鉄に乗車し、ビスマルク通り駅で U7号線に乗換えてシュパンダウ町へ向かうことにした。 14:50に Altstadt Spandau(シュパンダウ旧市街地)駅に到着するも、事前準備が不足し、駅出口と城塞(Zitadelle Spandau)や旧市街地との位置関係が全く分からず、途方に暮れてしまう。地元の人に質問すると、川の向こうだと教えてもらえた。
幹線道路 アム・ユリウストゥルム通り沿いに、ハーフェル川を渡っていると(ユリウストゥルム橋)、進行方向左手に要塞らしき赤茶色の巨大な建造物が見えてくる。下写真。

シュパンダウ

堀は二重に設けられていた。下地図。

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下写真は、正面入り口。往時から、吊り橋と城門櫓が装備されていたという。ここで、入場料 4.5 ユーロを支払うこととなる(15:05)。
この城門櫓がそのまま博物館となっており、城塞の解説や各種展示を閲覧できる仕組みだった。

ナポレオン戦争時代の 1806年、フランス軍がプロイセンの王都ベルリン攻撃のため当地に至った際、翌日には白旗を掲げて降伏した、というエピードが脳裏に焼き付いた。中世末期の築城当時(1559~1594年)には最強の要塞基地として建造されたものの(ルネッサンス様式)、王都陥落により戦意を失った守備隊は無血開城したのだった。

シュパンダウ

上写真中央に見えるタワーは「ユリウスの塔」で、この城塞の目玉となっている建物だ。
もともとは物見櫓として建造されたものだったが、後に住居棟としても使用されたようである。当初、天井は木造の屋根を有したと考えられているが、現在のような凹凸壁を有する櫓塔風(ロマネスク様式)に改築されたのは、1838年という。18世紀のドイツに流行った新古典主義の、代表的建築家だったカール・フリードリッヒ・シンケル(1781~1841年)の設計による。

1870~71年の普仏戦争後、敗退したフランスによって支払われた賠償金の一部、 1億2000万マルクもの金貨が、このユリウスの塔内で保管されたという。最終的にここに保存されていた金貨は、第一次大戦で敗退したドイツ帝国が 1919年にフランスにそのまま返金させられることとなった。以後、ドイツの学会や論壇では、政府機関の黒字に関し、「ユリウスの塔の金貨」という比喩用語が使用されるようになる。

シュパンダウ

上模型の右下の稜堡が、「女王(Königin)の稜堡」と言われる砲台。
下写真左は、これを正面入り口外から眺めたもの。ここの稜堡跡から、中世初期のユダヤ人の墓石が 70も発掘されており、河川交易集落の誕生期に、ユダヤ人らの避難所を兼ねた施設がこの中州島にあった、と推定されている。プロイセン時代に大規模に城塞化される中で、もともとあったユダヤ人墓地は破壊され、城塞資材に転用されてしまったようである

シュパンダウ シュパンダウ

博物館奥に出口があり、直接、「ユリウスの塔」に接続されていた。
この「ユリウスの塔」への登頂は、かなりスリル満点だった。外壁に打ち付けられた木製の階段を登っていくわけだが、その構造を知れば知るほど、足取りが壁側へと寄ってしまうのは筆者だけではなかっただろう。階段の中央部は、もう完全に「宙に浮いている」状態だった。。。。上写真右。

下写真は、「ユリウスの塔」から城塞正門、博物館、「女王の稜堡」を見下ろしたもの。
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下写真は、「ユリウスの塔」から旧市街地を遠望したもの。↓手前に見える聖ニコライ教会は、シュパンダウ区のシンボルとなっている。
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下古絵図は、往時の旧市街地を描いたもの。かつては、四方を城壁に取り囲まれていた。町の中心部には、上述の聖ニコライ教会がそびえ立っていた。

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下写真は、「ユリウスの塔」から、城塞北面を眺めたもの。中央部に「皇太子(Kromprinz)の稜堡」が見える。
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下写真は、北東方向。中央部に見える、河口側へ突起した砲台が「ブランデンブルク王家(Brandenburg)の稜堡」である。今は青少年文化センターの建物が建っており、この稜堡跡へは立ち入りできなかった。

また、中庭を囲んで建つ建物群は、もともと防衛に関する施設や管理者棟、住居棟などで構成されており、いずれもゴシック様式で設計されていた。現在、一般客はこれらの建物へは立入禁止だった。
シュパンダウ

続いて、「ユリウスの塔」を下り、城塞東面を守備する「王の稜堡」と「皇太子の稜堡」エリアを散策してみる。
下写真は、「王の稜堡」から「皇太子の稜堡」、東面の外堀、城壁を眺めたもの。

シュパンダウ

稜堡の土塁部分もかなり見応えがあり、往時の原型に近い状態で復元されていた。上写真の通路は、塹壕を兼ねたものだったと推察される。

また稜堡土塁の地下は、弾薬庫や兵士の宿舎が立地した構造が見て取れた(下写真左)。
下写真右は、東面の外堀に浮かぶ、馬出し出丸「豚頭(Schweinekopf)の三角堡」跡。

シュパンダウ シュパンダウ

続いて、城壁沿いに北隣の「皇太子の稜堡」へ移動してみる。
下写真は、逆に「皇太子の稜堡」から「王の稜堡」側を遠望したもの。

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この稜堡内には、屋根付きの凹凸壁が復元されていた。厳寒期、この狭い空間で焚火をしながら、守備兵たちは見張りの任務をこなしていたのたのだろう。下写真。

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城塞の北面沿いには、水門の通用口もあった(下写真)。ここに船を停泊させ、いつでも外へ出入りできるように準備していたのだろう。

シュパンダウ

その外壁には一か所だけ、水門出口が設けられていた(下写真)。

シュパンダウ

この北面の城壁沿いが一番、城郭遺構的に見応えがあった。
下写真左は、大砲や軍馬などを城壁上へ運び込むための運搬口。
下写真右は、各種倉庫や兵舎跡の遺構が延々と残されていた。

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下写真左は、北面城壁沿いの塹壕通路から見た、青少年文化センターの建物。本来は「ブランデンブルク王家の稜堡」跡地なのだが、立ち入りできなかった。
下写真右は、中庭に残されていた古井戸。

シュパンダウ シュパンダウ

1時間半、たっぷりと見学した後、城塞遺跡を後にする。

ここの博物館で入手した知識をともに、今度は 城郭都市シュパンダウ の旧市街地エリアを巡ってみる(下地図)。近代以降、河川沿いに工場群が立ち並び、また郊外へと住宅が拡大されている様子が読み取れる。幹線道路アム・ユリウストュルム通りによって、旧市街地と城塞が、さらに旧市街地自体も、南北に分断される構図となっていた。

シュパンダウ

下写真は、城塞と旧市街地との間を流れるハーフェル川で、ユリウストゥルム橋上から、川下(北方向)を眺めたもの。

シュパンダウ シュパンダウ

下地図の通り、さらに上空から俯瞰すると分かりやすいのだが、これら城塞や旧市街地はもともと、ハーフェル川とシュプレー川(やや上流に、首都ベルリン がある)の 2河川が合流するポイントに立地し、それらが数千年かけて生み出した、中州の島々を改造したものだったわけである。ちなみに、シュプレー川の支流であるルーレーベナー・アルタルム川(上地図)は、第二次大戦後に掘削された新設の川である。

シュパンダウ

そのまま、北半分の旧市街地を先に訪問してみた。
下写真左は、コルク通り沿いの閑静な住宅街。小さな広場になっていた。左端の建物が、聖マリア教会(St. Marienkirche)。

シュパンダウ シュパンダウ

上写真右は、聖マリア教会の正面入り口。
ここは、シュパンダウ区における最古のカトリック系教会で、1847年と刻印された建物礎石が保存されているという。しかし、この個人所有の教会施設は 2000年代初頭に大規模に改装されており、今では真新しいだけの建物となっている。目下、週 2回の地元信者のためのミサ活動以外に、定期的に読書会や音楽コンサートなどの文化イベントも開催されているという。 毎日 14:00~16:00のみ、内部が一般開放される。

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そのままコルク通りを北上してみると(上写真)、突然、きれいに補修された城壁跡が姿を現した(メレントルダム通り)。下写真。

シュパンダウ シュパンダウ

城壁の外面も気になり、外堀の対岸側へ移動してみる。水辺には屋外レストランが営業中で、この店のためにデザインされたかに見える城壁遺跡だった。下写真。

シュパンダウ

下地図は、コルク通りから城壁跡までの移動ルート。矢印部分は、上写真の撮影角度。

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続いて、幹線道路(アム・ユリウストュルム通り)を渡り、旧市街地の南半分を訪問する。

北半分の閑静な住宅エリアと異なり、ここは賑やかなショッピング街が広がっていた。その歩行者天国カール・シュルツ通りを南下していると、改革広場に至る。下写真。

シュパンダウ シュパンダウ

その途中のブライテ通り沿いに、地下鉄駅があった(下写真左)。この先の改革広場に、シュパンダウ区のシンボル「聖ニコライ教会(St. Nikolai-Kirche)」が鎮座していた。下写真右

シュパンダウ シュパンダウ

上写真右の教会前にある銅像は、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム 2世(1505~1571年)。王都ベルリンを中心に、ドイツ北部での宗教改革を推進した人物で、カトリック教会派の広大な領地を差し押さえて国庫に組み入れつつ、代わりに新教の拡大を後押しし、この「聖ニコライ教会」を新教徒用の地区教会に定めた人物として称えられ、銅像が設置されているわけだった(実際には、彼の実母で、前皇后であったエリザベート・ア・ダンマーク【1485~1555年】が新教に熱心だったため、このシュパンダウの地に隠居した母の信仰生活を後援する形をとったのが、第一の理由であった)。教会内部には、新教に改宗した国王自らが、臣下の貴族たちと語り合っている様子を描いた絵画が保存されているという。


聖ニコライ教会は、もともとカトリック派の地区教会であったが、16世紀初頭に勃興したマルティン・ルター(1483~1546年)の宗教改革の波が、ブランデンブルク王国や 王都ベルリン へと急速に伝播されると、1539年11月1日、ブランデンブルク選帝侯領ヨアヒム 2世(1505~1571年)によって、正式に新教徒派の地区教会として認定を受けることとなった。

これは、その父で前国王ヨアヒム 1世(1484~1535年)が新教派を認めず、逆に新教派に心酔していた皇后エリザベート(1485~1555年)が、国外へ 10年以上も脱出するほどに宗教に不寛容であったことの反動であった。最終的に、国王が崩御し、息子のヨアヒム 2世が即位してようやく、前皇后エリザベートはブランデンブルク公国に帰還し、王都べルリン 郊外のシュパンダウに移住したのだった(1545年~)。彼女は、シュパンダウ城塞内に小さな宮殿を与えられ、ここで隠棲しつつ余生を宗教活動に捧げたという。この時、息子のヨアヒム 2世が、母のために聖ニコライ教会を新教徒派の地区教会に定めたわけである。彼は自らも新教徒派へ改宗しているが、その実は親孝行の結果であったと言える。
以後、現在に至るまで、聖ニコライ教会はシュパンダウ区の新教徒派の地区教会として君臨することとなる。

シュパンダウ

それ以前まで、この施設はベネディクト女子修道院が運営するカトリック派の地区教会であった。

この教会はすでに 12世紀には当地に存在しており、当時は「市場の教会」と通称されていたという。
当時、ハーフェル川と シュプレー川(この上流に、べルリンが位置する。上地図)の合流ポイントの交易集落として栄えたシュパンダウの特性上、船乗りや交易商人、その家族らを支持母体としていた。自ら費用を出し合い、小さな宗教施設を建立したと考えられる。以後、司祭ニコラス・ミラ-の後援を受け、シュパンダウ町の地区教会として機能するようになる。

ブランデンブルク辺境伯(アスカニア家)に属するヨハン 1世(1213~1266年)と、オットー 3世(1215~1267年)の分裂政権時代であった 1239年、シュパンダウ町に参入してきたベネディクト女子修道院がこの宗教施設の管理を委ねられることとなる。翌 1240年、ベネディクト女子修道院はその経営難から、教会の後援権(司祭の任免権など)の払い下げを住民らへ提起するも、拒否されると、以後、上述の 1539年まで、ベネディクト女子修道院が司祭を雇用して、施設を管理し続けることとなるのだった。

当初は、自然石と材木で設計された教会施設であったが、規模が小さすぎたこともあり、 1370年ごろから全面改装工事が着手され、14世紀末ごろには見事な屋根を有する、巨大なレンガ積み教会施設が完成を見たという。以後、600年以上もの歴史を紡いでいくこととなる。
また、1431年から共同墓地も付属されるようになる。前述の教会改装工事の最終段階を指揮した司教シュテファン・ボーデッガーが死去すると、この教会脇に葬られ、以後、多くの死者を弔う墓地も兼ねることとなったわけである(ベネディクト女子修道院の管理以前にも、一時期、集落の墓地が営まれていた)。以降、1750年まで墓地管理を兼ねる地区教会としても機能した。
1467~1468年には、後期ゴシック様式の巨大な西塔が増築される。

なお当時、聖ニコライ教会の補助的な施設として、聖モリッツ教会も建立されており、同様にベネディクト女子修道会によって管理運営されていたという。実際には聖モリッツ教会の方が歴史が古く、シュパンダウ地区における最古の地区教会であったが、聖ニコライ教会が建立されて以降、力関係が逆転したと考えられている。聖モリッツ教会は、旧市街地の南西端のユーデン通り(Jüdenstraße)の南端の、市城壁沿いに立地した施設で、最初に史書に言及されたのは 1461年という。当然、これより以前に建立されていたと推察されるも、1806年にバロック様式へ改修された後、1920年に住宅開発が優先される中で破却され、今日その痕跡は完全に消失されている。

シュパンダウ

ナポレオンが欧州を席巻した時代、王都ベルリン攻略のため、衛生都市のシュパンダウにまで侵攻してきたフランス軍は、都市を包囲して砲撃を加えたという(1806年)。この時、聖ニコライ教会も一部、被害を受けたとされる。戦後になり(上地図は、1812年当時のもの)、余った多くの砲弾が集められ、教会の外周壁に埋め込まれて(1839年)、戦後の平和を祝う記念碑とされたという。これは、カール・フリードリッヒ・シンケル(18世紀ドイツの新古典主義建築を代表する建築家で、前述のシュパンダウ城塞内の「ユリウスの塔」改修工事も監督した人物)の指揮の下、教会施設の大規模な修復工事が手掛けられた一環でもあった。宗教改革から、ちょうど 300年目を記念する式典に合わせ、大規模に改装工事が進められたわけである。この式典には、 皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム 3世(1770~1840年)とその家族も参列している。

100年後 のナチス政権時代(1933~1945年)、この聖ニコライ教会に属した新教徒派は、親政権派(ナチス支持)と反政権派(告白教会と通称された)に分かれて長い反目期間に突入する。前者は司祭のクルト・ドレーガーとゲオルグ・ベンらが率いて全体の 75%もの信者が追随しており、後者は司祭マーティン・アルベルツが率いた少数派で、以後 10年にもわたり、宗教活動の担当や説教スケジュール、部屋の割り当て、役職や役目などの打ち合わせの度に反目し合ったという。少数派となった告白教会派の司祭らは度々、多数派の親政権派から公開尋問を受け、またナチス当局からも職業訓練と称するイデオロギー教育を受けたり、時に役職解任や投獄も行われたという。
例えば、告白教会派リーダーだった司祭アルベルツに対し、政府当局は 1934~1936年と 1938~1945年の期間中、聖ニコライ教会での宗教行為を禁止していた。都度、告白教会派は彼の復職を求めて抗議、嘆願を繰り返したという。こうした政治弾圧があっても、彼は司祭職を解任されることはなく、告白教会の指導者として、終戦まで当地で在職し続けたのだった。新政権派は教会からの追放を主張するも、当局はそこまでは介入しなかったようである。逆に 1936年春には、一時的にアルベルツの司祭活動の再開が当局から許可されると、この最初のミサとなった 4月5日には、実に 650~700人もの教区内の信者が参列したという。
この宗教団体における反政権(告白教会)運動は、ダーレム地区教会の司祭マルティン・ニーメラー(1892~1984年)が代表的人物とされるが、その第二の活動拠点となったのが、このシュパンダウ地区教会の聖ニコライ教会であり、そのリーダーが司祭アルベルツだったわけである。

シュパンダウ

戦時中に空襲被害を受けた聖ニコライ教会であったが、早くも翌 1946年に復旧工事が着手される。これは、シュパンダウ地区教会として地元の新教徒派の信者らにとって不可欠な宗教施設であり、町のシンボルだったためであった。市民生活の復興とともに再建が手掛けられ、とりあえずの応急措置が完了した後は、数年かけて細部の復元作業が進められたという。1966年、最新式オルガンが搬入されると、いよいよ完全復旧が成ったのだった。
1989年には、バロック洋式の屋根を有する西面の尖塔が、19世紀の古典主義建築家シンケル風のデザインで増築される(1839年当時の様子が再現された)。
今日、この復旧された教会施設は、シュパンダウ地区における宗教活動やさまざまな地元文化活動の中核として機能し、シュパンダウ区のシンボルとなっている。




改革広場からカマー通りを東進し、ハーフェル川 方面へ移動する。

かつて市城壁が連なっていた河川沿いは、現在、広い市民公園(マーンマール=アム=リンデンウーファー)となっていた。下写真左。
下写真右は、ハーフェル川沿いから対岸の工場地帯を眺めたもの。ちょうど、シュプレー川とルーレーベナー・アルタルム川の二つが、ハーフェル川に合流するポイントでもあった。

シュパンダウ シュパンダウ

下の古絵図は、全盛期の城塞都市シュパンダウの全景図。 2大河川の合流ポイントに形成された中州地帯をうまく加工し(ルーレーベナー・アルタルム川は、シュプレー川の支流として戦後に掘削されたもの)、城郭都市、城塞、前衛陣地群が配置されていたことが分かる。

シュパンダウ

そのままハーフェル川沿いを南進し、シャルロッテン橋まで行きつくと、シャルロッテン通りを経由して、再びブライテ通りから旧市街地の中央部へ戻り、地下鉄駅入り口に戻ってきた。そのまま地下鉄 U7号線に乗る。だいたい 25分でビスマルク通り駅に到着し、U2号線に乗換えて、ホテル最寄りのカイザーダム駅に帰り着いた。

駅前の商店街エリアは小さく、あまり食べるところの選択肢もなかった。ただ、日本食レストラン(ビュッフェ形式)は満員御礼状態だった。対して、道路向かいの中華レストランは客足も少なめだった。筆者はトルコ料理屋で安めの定食を食べる(6.5 EUR)。これに加えて、巨大ペットボトル水(3 EUR)とピザ(3.5 EUR)もテイクアウトした。そのままホテルに戻って(18:50)、早めに就寝した。
翌朝 7時半過ぎに 7Fへ出向き、朝食を食べる。ハム、ソーセージ、卵料理、パン、コンフレークなど、欧州らしい朝食だった。さすがにビジネスホテルとあり、宿泊客はお上品な人が多かった。 8:05に部屋に戻り、身支度を整えて 8:15にチェックアウトした。この時、朝食代金 10 EURを支払うこととなった。
徒歩 3分ぐらいでバスターミナル(Berlin ZOB : Zentraler Omnibusbahnhof)に到着できた。
電光掲示板でバス発着ホームをチェックしてみたが、都市名が英語表記とポーランド語で異なるので、最初は戸惑ったが、総合時刻表の方に両方の文字が記載されており、ポーランド(ヴロツワフ)行バスが 20番ホームから発車することを確認できた



 【 シュパンダウ区 の歴史 】 

史書における、シュパンダウの初登場は 1232年の記述という。当時、ハーフェル川とシュプレー川の二大河川の合流ポイントに発展しつつあった交易集落のルーキー的存在であり、また国境沿いの前線拠点として着目されたタイミングであった。
この時代は、11世紀頃から神聖ローマ帝国配下の領邦君主として台頭していたアスカーニエン家の率いるゲルマン民族国家が、スラブ民族が跋扈した広大な土地を征服し、その国境を東へ東へと拡大する途上に相当していた。当地を占領したアスカーニエン家は両河川が合流する中州の島の一つに、この河川集落を守備する城塞陣地を建造したのだった。

さらに国境を東へ拡大し、ブランデンブルク辺境伯領を建国したアスカーニエン家は、王都をブランデンブルクに定め、領地経営に乗り出す。この支配下で 1242年、都市ベルリン が誕生することとなり、その下流(シュプレー川)の交易都市だったシュパンダウも、さらなる発展を遂げていくのだった。
時代と共に、シュパンダウの城塞都市化が進み、城壁や外堀が整備されていく。そして 1557年、イタリア人建築家フランチェスコ・シアラメラ・ガンディーノが設計し(1年で交代した)、同郷人であった同じイタリア人建築家リナール伯ロクスが工事を引き継いで作業が進められ、近代式の城郭都市と城塞基地が完成されるのだった。
4つの稜堡を対照的に配置しつつ、その隙間に馬出し出丸を設けて、完全に死角をなくした砲台要塞の建造は、1559年の開始から 35年を経て、1594年に完成されている。工事途中であった 1580年、最初の守備隊が配属されるも、そのまま建設作業が続行されたという。 16世紀当時、完璧に近い理想形の城塞設計と称えられ、最強のルネッサンス様式城塞と評されることとなる。

シュパンダウ

フランス vs オランダ戦争(1674~1678年)において、それぞれの同盟国となっていたスウェーデンとブランデンブルク軍も参戦を余儀なくされると、1675年6月、北から侵攻してきたスウェーデン軍がシュパンダウ城塞を攻撃する。ブランデンブルク軍は大砲と守備兵をかき集めて応戦した結果、このスウェーデン軍を撃退することに成功している。

しかし、ナポレオン戦争期の 1806年には、進軍してきたフランス軍に対し、王都ベルリン陥落もあって、守備部隊は一切の抵抗もせず降伏することとなる。1813年、反攻を強めたプロセイン軍(旧ブランデンブルク軍)、ロシア軍により、フランス占領軍は駆逐され、再び、プロイセン軍が入居することとなるも、この攻防戦で城郭都市の防塁壁はかなり損壊してしまっており、大規模な復旧工事が必要とされる状態だったという。間もなく、さらなる大規模強化工事を加えつつ再建工事が進められると、プロイセン王国でも屈指の防衛力を誇る城塞都市が完成する。以後、同時に大整備された城塞は防衛施設として以外にも、収監施設として国家級の犯罪者用監獄としても利用されることとなった。その一環で、フランス革命に感化されたドイツ国民運動リーダーで、愛国主義者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852年)も収監された記録が残されている

シュパンダウ

こうして強化された城塞と城郭都市であったが、近代化が勃興していた時代とも重なり、城壁や稜堡、堀などは都市化や産業発展を阻害するだけの存在になり果て、徐々に城壁や稜堡の撤去工事が進められるようになる。最終的に 1903年には城塞基地も放棄される。
この時代まで、シュパンダウは軍需関連の業者や工場施設への免税措置が採用されており、都市の産業育成や自治政府の収支を大いに悪化させていた。軍事部門に傾斜した経済環境は戦争や政治情勢に大きく左右されるばかりでなく、その需要に応じて求められる労働力や住宅事情など住民生活をも大きく左右したため、非常に脆弱な都市経済構造だったわけである。シュパンダウの町が武装解除されると、間もなく一般消費者向けの産業が勃興することとなり、さらに河川交易の立地の良さから、製造業の工場群も当地に進出してくるようになる。

一般都市化が進展途上だった 1935年、2年前に政権を奪取したナチス・ドイツ政権により、シュパンダウ城塞跡地に秘密のガス兵器開発研究所が開設される。以降、研究者やスタッフなど総計 300人近い従業員が城塞内に勤務し、動物実験や人体実験を絡めて化学兵器開発が進められたという。ナチス・ドイツが開発した神経ガスのほとんどは、この研究所で開発されたものだった。
こうして軍需産業が再建されてくると、シュパンダウの町も連合軍の攻撃ターゲットに晒され、第二次大戦末期の 1944年後半~1945年初期にかけて、度々、大規模な空襲を受ける。この被害により、町全体が瓦礫と化す。
いよいよ陸路でも連合軍が 首都ベルリン へと迫る中、シュパンダウの町もベルリン防衛線の一角として期待されることとなる。ベルリンに迫ったソ連軍の一部隊がシュパンダウにも布陣するも、直接的な砲撃は加えず、交渉による武装解除を勧めたため、1945年5月1日午後 3時、守備部隊は開城することとなった。こうして、多くの将兵の命とルネッサンス様式の城塞基地は無傷のまま終戦を迎えることができたのだった。

戦後直後はそのままソ連軍がシュパンダウを占拠するも、米英仏の連合軍もベルリンに進駐し、四か国間でベルリン分割統治が進められると、 シュパンダウは英軍統括地に組み込まれる。その後、城塞跡地は、しばらく地区レベルの収監所として利用されることとなった。1950~1986年の期間中には、オットー・バルトニング職業訓練学校の用地に転用される。時とともに、その史的価値が評価され、内部の建物は徐々に博物館施設へと改装され、今日に至るという。 2005年夏以降、中庭は野外コンサート会場としても使用されるようになっている。

シュパンダウ

これに対し、都市シュパンダウでは、空襲後の更地の上に急激な都市化が重なり(1950年代)、かつ 1980年代に地下鉄の開通工事が進められたこともあり、古い建物はほとんど現存していない。しかし、上空写真からも明らかな通り、かつての城塞都市時代の地形の面影は今もしっかり保持されており、住民らの誇りとなっているという。1978年からは旧市街地区の歩行者天国化の整備がスタートし、10年以上の年月を経た 1989年に完成を見ることとなる。
しかし、2001年に開業した郊外型のショッピングモール(125店舗が入居)が出店してきたため、現在、旧市街地の商店街はかつてない競争にさらされているという。


当地の観光案内所、および、郷土史博物館であるが、現在、ゴティシエス・ハオス​(Gotisches Haus)という、古民家の 1Fと 2Fにそれぞれ入居している。内部では、城郭都市の変遷に関する資料や古写真などが閲覧できるという。

この古民家であるが、15世紀末に建設されたもので、中世期の特徴を今に伝える貴重な建造物として地元で大切に保存されている。当時、全面もしくは半分以上が木材で建設するのが一般的だった時代、この民家は、全面が石積みの設計となっており、非常に特徴的という。往時から残る曲線美が見事な、後方のアーチ形天井とこれに続く通路が見どころらしい。しかし、18世紀に発生した大火により、建物の大部分が焼失されてしまい、現在は復元された建物となっている(この時、内装のレイアウトは一新されてしまった)。このまま第二次大戦を経て 1950年代末まで保持された後、ようやく 1987年に改修工事が施され今日に至る、というわけだった。

シュパンダウ シュパンダウ

また、旧市街地の西端にあるヴィクトリア=ウーファー通り沿いには、現在でも 14世紀に建造された市城壁が 116mほど残存しているという(上写真左)。この南端には Stadtmauer という古い水車小屋の建物も残っており、市城壁の水門を管理したものと推察される(上写真右)。
さらに付近には、Wedenschloss という、かつての富裕農家の母屋が保存されており(白色壁に、木材で縦横に補強されたデザインのもの)、旧市街地の観光スポットとなっている。 1700年ごろに建てられたものであったが、老朽化のため 1966年に破却されるも、その後、往時のデザインを模して再建され今日に至るという。

これらの史跡が連なるエリアは、ユーデン通り(Jüdenstraße。下地図)との交差点でもあり、城郭都市シュパンダウの南西端という開発の隙間となった場所だったわけである。ユーデン通りとは、その名の通り、かつてユダヤ人らが多く住んだ地区であり、 他のヨーロッパ都市と同様、中心部から最も不便な場所に集住させられていた様子がうかがい知れる。もともとは 14世紀に整備された街道で、その後、ユダヤ人らが多く居住したことから、1537年に「ユーデン通り」へ改称され、今日に至るという。

シュパンダウ

なお、シュパンダウにおけるユダヤ人の存在に関しては、1307年に史書で初めて言及されており、また別の資料では、1342年にはすでに現在のユーデン通り南端にユダヤ人学校が開校されていた、との記述も発見されている。
なお、シュパンダウ城塞基地が 1244年に整備された際、この中州島にあったユダヤ人の墓が壊されて、その石材が城壁資材へと転用されたことも判明しており、これよりも以前にすでにユダヤ人らが当地に入植していたと考えられている。なお、シュパンダウの交易集落に関する最初の言及は、これよりも 47年早い、1197年のことであり、ユダヤ人らはかなり早期にここに移住していたと推察される。

15世紀末から、ベルリン など各地で社会の不平等が拡大し、商売熱心なユダヤ人らを糾弾する言説が跋扈するようになる。そうした時代の渦中にあった 1510年、ドイツ人系の教会から「聖体を盗んだ」というデマが広まり、その罪を着せられたユダヤ人らはドイツ各地から追放されたり、また処刑される事件が勃発することとなる。このとき、ベルリン 市内外でも 39名のユダヤ人が焼き殺され、ブランデンブルク辺境伯領からユダヤ人がことごとく追放されてしまうのだった。ユーデン通りにあったユダヤ人のための宗教施設兼学校「シナゴーグ」も閉鎖され、その建物や敷地は市政府に強制没収されることとなる。それらの空き家にはドイツ人らが流入するも、1620年5月13日に発生した大火災により、ユーデン通りにあった 40軒もの家屋が全焼してしまう事件が起きる。
その復旧工事が難航する中、1626~1637年にペストが大流行し、さらに 30年戦争の勃発によりドイツ全土が荒廃したこともあり、ユーデン通りエリアが完全に正常化されるのは、1688年まで待たねばならなかったという。皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム(1688~1740年)が自領復興のため、ユダヤ人の再移民を認める勅令を発すると、オーストリア帝国、ポーランド、チェコなどからユダヤ人が流入し、再びシュパンダウの町にもユダヤ人コミュニティが再建されることとなる。19世紀に入り、再びユーデン通りにシナゴーグ建立が計画されるも、当時すでに十分な敷地はなく、実行されずに終わる。最終的に 1894年、ようやくリンデンウーファー通り(カマー通りとの間の一角。上地図)にシナゴーグが建設されることとなるのだった。



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