BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2020年2月中旬


東京都(千代田区 /文京区 /台東区)~ 23区全体 972万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  JR東京駅周辺の 今昔マップ ~ 丸の内エリア(江戸城 外郭)と 道三掘跡
  八重洲口前の 外堀通り ~ かつての外堀城門だった 常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、神田橋
  「お茶の水」と「小川町」の由来 ~ JR御茶ノ水駅、昌平橋、中山道、神田小川町 を歩く
  【豆知識】江戸幕府で代々、老中職を歴任した 春日局の子孫たち(稲葉氏) ■■■
  ビジネス街・神田錦町のど真ん中にあった 錦城学園高等学校、田中角栄 元首相の母校
  【豆知識】将軍・徳川綱吉 庇護の「護持院」栄枯盛衰と 火除け地、大学の発祥地へ ■■■
  石垣が現存する 外濠川、一ツ橋(伊豆橋)、一橋藩邸の 今昔
  巨大な 枡形虎口スタイルの「平川門」裏に 姿を現す、平川濠の絶景!
  江戸城 東面マップ(本丸、二の丸、外郭、内堀、外堀跡)
  学士会館 ~ 日本における大学 発祥地と (同志社大学 創始者)新島襄 誕生の地
  幕府旗本・神保長治の 屋敷が立地したことから、「神田神保町」と命名 。。。
  伊達政宗の 外堀(神田川)掘削 と 水路(掛樋=「水道橋」の由来)~ 神田上水 マップ
  水戸藩の上屋敷跡に開発された 東京ドームと 小石川後楽園
  文豪たちの旧家エリア ~ 文京シビックセンターから 東京大学までの丘陵地帯を歩く
  【三代目】加賀前田藩の上屋敷だった、東京大学 本郷キャンパス
  【豆知識】歴代の名君たちが 家督を継承し外様 100万石を守った 加賀前田藩史 ■■■
  天澤山・麟祥院 ~ 文京区に数々の足跡を残した 春日局の後半生
  上野公園を歩く ~ 忠義と野望に燃えた 彰義隊士たちの 夢の跡



JR 東京駅に降り立つと、まずは大丸百貨店ビルの最上階 13Fに入居するバー「XEX TOKYO」に行ってみた。日中だったせいか、ガラガラだった(下写真は、この店内から望んだ「東京駅 丸の内」)。

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下写真は、東京駅東隣にある「シャングリラ・ホテル」ロビー階から撮影したもの(2023年3月中旬)。
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この丸の内エリアは、かつて江戸城の外郭があった場所で、道三堀で南北に隔てられていた(下地図)。

「道三掘」とは、徳川家康が 1590年に江戸入り後、すぐに江戸城と江戸湊との輸送ルート確保のために掘削した 運河(全長約 1 km余り)で、江戸時代当初は築城工事、町割り工事のための大動脈を担い、堀沿いに材木屋が多く建ち並んだというが、江戸中期以降は江戸城外郭として武家屋敷地となっていた。最終的に 1909年に埋立てられたという。名医で知られた曲直瀬 玄朔(1549~1632年。2代目道三)が、徳川秀忠(1579~1632年)の病気療養のため 京都 から江戸に招かれ(1608年)、そのまま堀の南岸に邸宅を与えられたことから、この水路は「道三堀」と通称されるようになったという。以後、京都と江戸を往復し、朝廷と幕府の典医として給仕する生活を送ったという。

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少し休憩後、八重洲口 から外へ出てみる。
ちょうど正面に大きな外堀通りが走る(下地図)。その名の通り、かつて外堀川が掘削されていた場所だ。
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下写真左は、八重洲ブックセンター本店前の横断歩道から、外堀通りの東側を臨んだもの。左手に東京駅、後方には鉄鋼ビルディングがそびえ立つ。
下写真右は、鍛冶橋交差点。かつて、外堀にかかる鍛冶橋御門が立地した場所にちなむ(上地図参照)。この先徒歩 5分のエリアが銀座界隈である(上地図の数寄屋橋御門付近)。

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さて再び、東京駅に戻り、中央線で JR御茶ノ水駅 へ移動する。
駅到着後、神田川沿いに線路脇を下って昌平橋交差点まで歩いてみた(下写真左)。ここを右折する国道 17号線が、かつての 中山道 という。このまま北へ進むと、東京大学本郷キャンパスが立地する。かつての加賀前田藩邸は、この中山道沿いにあったわけである。

筆者はここから外堀通り沿いに神田郵便局方向へ南下し(下写真左)、淡路町交差点で靖国通りと交差するポイントに到達する(下写真右)。続いて靖国通りを西進し、西隣の小川町交差点を経て神田神保町方向へ進んでみた。

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江戸時代初期、この一帯は鷹狩に使う鷹を飼育する鷹匠が住んでいだことから「元鷹匠町」と呼ばれたが、1693年に小川町へ改称される。一説によると、五代目将軍・徳川綱吉 が「生類憐みの令」を施行し鷹狩を禁止したため、鷹匠たちが廃業に追い込まれ、代わりに小川町へ変更されたと考えられている。

江戸時代中期以降、この「小川町」は現在の神田地区の西半分を占める広大な地域を指すようになった。この辺りに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからとも言われる。 江戸城を築いた室町時代の武将・太田道灌(1432~1486年)はこのエリア一帯の風景を「むさし野の 小川の清水 たえずして 岸の 根芹(ねひき)を あらゆこそすれ」と詠んでおり、清水を称えた池があったのかもしれない
また、この清水のエピソードは北側の地名「お茶の水」とも関係している。付近にあった高林寺の境内から湧き出す清水を使って、二代目将軍・徳川秀忠がお茶を飲んだことから、御茶水・高林寺と通称されるようになったとされる。 やや南にある皇居東部はかつて平川村という集落があった記録もあり、これらの地名とエピソードから、 この神田地区に「清水のせせらぎ」が存在したことは間違いないだろう。

なお、下の絵図(1856年当時)にも見られる通り、この辺りには 山城国(現在の京都府)淀藩・稲葉家の 上屋敷(当時、上屋敷とは藩主とその家族の邸宅地を指し、中屋敷は先代藩主の隠居屋敷や世継ぎの邸宅地、下屋敷は国元から荷揚げされた物資貯蔵・管理のための敷地、と区別されていた)があり、その前を通る道が大きく湾曲されていたことが読み取れる。 150年経った現在でも、この湾曲は靖国通りの道筋として継承されている。下地図。

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ここで登場する稲葉家とは、3代目将軍・徳川家光(1604~1651年)の乳母となって大奥で権勢を振るった 春日局(1579~1643年)の子孫で、元夫である 稲葉正成(1571~1628年)との間にできた 長男・正勝の家系である。春日局との間で生まれていた 長男・正勝(1597~1634年)は早くから家光の乳兄弟として江戸城内に出仕しており、後に老中にまで出世し譜代大名として小田原藩 85,000石の大大名となる(大御所・秀忠の死去した直後の 1632年)。この子孫である 稲葉正知(1685~1729年)が 山城国淀藩 10万石の大名 として入封されて以降(1723年)、幕末まで継承されていた。

上絵図に記載された 稲葉正邦(1834~1898年)はこの淀藩第 12代目当主で、最後の藩主である。彼は幕末期に老中や 京都所司代 などの要職を歴任した人物で、大部分の時間をこの江戸藩邸で過ごした。 第一次・第二次長州征伐(1864年と 1866年)鳥羽・伏見の戦い(1868年1月末)などを幕府中枢から主導するも、国元の淀藩士らが朝廷軍に対し無抵抗のまま恭順したため、罪は不問とされるのだった。明治時代には三島神社宮司や大教正などを歴任し、神道の発展、整備に寄与したという。

また、上地図の稲葉家の屋敷隣に「富士見坂(今日の 御茶の水仲通り)」や「駿河台」の文字が見える。ここは本郷台地(神田山)の湯島一帯から続く丘陵地帯の南端に位置し、その高台から 富士山 が見渡せた名残りである。江戸時代前期、この丘陵地帯は 仙台堀(神田川)の掘削により南北に分かれ(神田山の切り崩し)、南側が駿河台、北側が湯島台と通称されたわけである。
なお、もともと稲葉家の屋敷神として五穀豊穣と武運長久を祈願され祀られていた鍛冶屋稲荷は、幸徳稲荷神社(上地図)として今も地元で継承されている。

明治に入り、周辺の武家地が整理されると、正式に小川町と命名される(1872年)。1878年、神田区に属した。 1947年に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町二丁目となり、今日に至る。
町内には 東京物理学校(1881年創立)、私立鳥海女学校、研精義塾、簿記学速記学速成教授所、天神真揚流柔術教授所、東京顕微鏡院(1891年創立)など、学校や病院などが多数、立地したという。なお、東京物理学校は現在の東京理科大学の前身で、夏目漱石の 小説『坊ちゃん』の主人公が学んだ学校として知られる。



さて、明大通り(千代田通り)との交差点、駿河台下を南下する(下地図)。このまま直進していると、ビジネス地区のコンクリート・ジャングルの中に、正則学園高等学校(私立・男子校。卒業生に歌人の斎藤茂吉、元首相の石橋湛山、詩人の石川啄木らがいる)と、錦城学園高等学校(私立、共学。卒業生に元首相・田中角栄がいる)を発見した。高校時代からこんなビジネス街で育つって、どんな感じなのだろうか??と素朴に疑問に思った。

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江戸時代、この界隈は江戸城 外郭に相当し、武家屋敷が軒を連ねて「錦小路」と呼ばれていた。幕府旗本の一色家の屋敷が二軒連なったことから「二色小路」と通称され、いつの頃からか「錦」の字に置き換わり「錦小路」となった、と伝承されているという。また別説では、京都 にある錦小路にあやかったとも、この地にあった護持院に錦のように美しい虫を祀った弁財天堂があったため、とも言い伝えられているらしい。

なお、この護持院であるが、もともと将軍家の祈祷寺である 真言宗筑波山中禅寺・知足院の別院として、紺屋町に立地した寺だったが、当時、住職を務めていた隆光(1649~1724年)が、5代目将軍・徳川綱吉(1646~1709年)の絶大な信任をうけ、1680年代中期に、現在の神田錦町から一ツ橋にかけての広大な地を与えられて寺院を建立していた。1696年、綱吉から護持院という独立称号が下賜される(開山)。
ところが 1717年、大火によって護持院の伽藍は跡形もなく全焼してしまう。江戸城のすぐ北で燃えさかった火事に、幕府関係者はよほど肝を冷やしたらしく、以後、護持院は当地での再建を許されず、大塚の 護国寺(現在・文京区)への移転を指示される。その後、護持院跡地と周辺の武家屋敷跡地は 火除け地(延焼防止の空き地)とされ、「護持院原」と呼ばれるようになる(下地図の紫色)。当初、将軍の鷹狩りなどが行われていたが、その後、散策公園として町人たちにも開放されたという。

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明治時代に入ると、この広い空き地を利用して大学などの教育機関が建設され出す。幕府の開成所の流れを組む 開成学校(後の東京大学)や 東京外国語学校(後の東京外国語大学)、学習院、商科大学(後の一橋大学。今 の如水会館一帯に開校された)も、当初、このエリアに立地されていた。そして 1872年、神田錦町三丁目と命名され、1911年にいったん錦町三丁目と改称されるも、最終的に 1947年、再び神田錦町三丁目に戻されて、現在に至っている。

なお江戸時代、この 火除け地(明地)の脇に 上野国安中藩主・板倉伊豫守(板倉勝明)の江戸藩邸が立地していた(上地図の赤枠)。幕末の 1843年、この藩邸内で 藩士・新島民治(1807~1887年。藩邸詰めの文部官・書記官)の子として 新島襄(1843~1890年)が誕生する。後に 京都同志社 を創立する教育者である。
彼は幕末における国家多難の中、日本の前途を憂いキリスト教の信仰と海外事情研究を志して、21歳のとき函館より密かに出国し(1864年)、米国に渡航して東海岸で神学校に通い、キリスト文化の根本を学びとる。 10年間の留学時代を経て 1874年に帰国すると、翌 1875年11月29日、京都 に同志社を立て、キリスト教をもって徳育の基本とする教育創造に生涯を捧げていくこととなる。
母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済改革のみによる表層的な近代化だけでは不十分で、人民一人一人が「知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め」る必要があり、こうした「良心の全身に充満した丈夫」となることこそ、富国強兵の国家樹立を達し得ると常々、主張したという。



そのまま前進すると、いよいよ錦橋を渡るポイントで 外濠川 に至る。上に首都高速道路が走っており、川沿いに石垣が一部残っていた。この石垣面は、北隣の一ツ橋まで続いていた(下写真左の奥の橋)。
下写真右は、一ツ橋側から南方向を見返したもの。錦橋から一ツ橋まで北上して、あえて一ツ橋を渡って外郭の中核部分に入ってみた。

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下写真左は、一ツ橋の傍に残っていた櫓台跡。かつて一ツ橋藩邸があった北端にあたる。

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江戸時代、この外濠川にかかる橋は一ツ橋御門といい、江戸城三十六見附に数えられる、番所付の枡形虎口スタイルの城門が立地していた。
徳川家康が江戸城に入った当初、大きな丸木が一本、架けられただけだったことから、この名がついたと伝承されている。 1630年ごろの江戸城絵図に初めて「一ツ橋」と言及されたのが公式記録の最初という。また一時期、橋の近くに 老中・松平伊豆守信綱(1596~1662年。3代目将軍・家光の信任が厚く、1628年から三の丸外に屋敷地を下賜される。その後、島原の乱、鎖国体制の確立などに辣腕を振るった)の邸宅があったので、伊豆橋とも通称されたという。

その屋敷跡に 1740年、8代目将軍・徳川吉宗(1684~1751年)が、第四子・徳川 宗尹(とくがわ むねただ。1721~1765年)に居を構えさせる。以後、この橋の名をとって、自ら一橋宗尹とも名乗ったと言う(御三卿・一橋徳川家の 初代当主)。
1873年に一ツ橋門が撤去され、1925年に現在の 橋(長さ 19.6 m、幅 28 m、コンクリート製)が架設されたのだった。



ここを越えると、丸紅本社ビル、国際協力銀行ビル脇を通過する。かつて、一ツ橋藩邸があった敷地である。その正面に大手濠があり、北側に平川門が残っていた(下写真左)。

下写真右は、平川門 の橋上から大手濠の南側を臨んだもの。中央に見える 白いビル(赤い電波塔を持つ)は、東京消防庁である。かつては、あのビルまでが一ツ橋藩邸であった。

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そのまま、巨大な枡形虎口スタイルの平川門に入ってみる。入城に際し、警備員がいたのでカバンの中を確認される。
枡形虎口の内面石垣などもきれいに保存されていた(下写真右)。

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この門は、江戸城三の丸から外郭への出入口に相当し、御三家と御三卿はここから登城していた。江戸城築城前には平川村という集落があったことから平川門と命名されたという。また、城内の死者や罪人がここから出されたことから「不浄門」とも別称されていたらしい。平時には、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用された。
江戸城正門の大手門は、もっと南側に立地していた(下地図参照)。

平川門の内門を過ぎた直後に目に飛び込んでくる、平川濠に折り重なるように映える石垣群は見事だった(下写真)。

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上写真の右手の石垣面は、平川濠 の中に伸びた帯曲輪と呼ばれる細長い渡り堤である。
下地図参照。
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三の丸の見学もそこそこに平川門から再び退出する。
下写真左は、先程の平川濠の外側に掘削されていた 清水濠(大手濠)。左手に連なる石垣面が、帯曲輪である。

さて正面に見える平川門交差点から白山通りを北上してみる。先程の一ツ橋を通過し、再び 江戸城・外郭地区へ移動する(下写真右)。かつて諸藩や旗本らの武家屋敷が連なっていたエリアだ。

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白山通りの途中、オフィス街のど真ん中にまたまた学校を発見する。共立女子大学 だった(1886年創立)。その向かいには学士会館があった。トイレのために立ち寄ってみると、内部は旧帝国大学に関連する解説コーナーや図書スペースが設けられ、複数の高級レストランが入居していた(下写真)。
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この学士会館の所在地こそが、日本における大学の発祥地という。
すなわち 1877年4月12日、この神田錦町三丁目にあった東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた 東京医学校(もともとは幕府によって 1861年11月に新設された西洋流医学校だった)が合併し、東京大学が創立された地という。結成当初は 法学部、理学部、文学部、医学部の四学部で編成されており、前者の三学部はそのまま当地に開設され、医学部のみ本郷に立地されていた。

1885年、文学部中の政治学科および理財学科が法学部へ編入されると法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が新設される。このようにして東京大学は徐々に充実されると同時に、同年までに全学部の本郷キャンパスへの移転が完了されるのだった。
翌 1886年3月、東京大学は帝国大学と改称される。その際、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となる。その後、東京農業学校が農科大学として加えられ、法、医、工、文、理、農の六分科大学と大学院から成る総合大学が誕生し、帝国大学と名付けられた。さらに、1897年には京都帝国大学の設立にともない、東京帝国大学と改称される。
その後、1907年に東北帝国大学、 1911年に九州帝国大学、 1918年に北海道帝国大学、 1931年に大坂帝国大学、 1939年に名古屋帝国大学が設立された他、 1924年に京城(ソウル)帝国大学、 1928年に台北帝国大学がそれぞれ新設された。
1947年に至り、先の七帝国大学はそれぞれ 東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と改称される。 1886年7月創立の学士会は、以上の九帝国大学の卒業生等をもって組織され、その事業の一環として当地に学士会館を開設し、その経営を担っているというわけだった。

なお江戸時代、この敷地が前述の 上野国安中藩主・板倉伊豫守(板倉勝明)の江戸藩邸だった場所で、幕末の 1843年、この藩邸内で京都 同志社大学の 創立者・新島襄(1843~1890年)が誕生している。



さらに白山通りを北へ進むと、神保町駅の交差点に至る。下地図

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上地図の白山通りと靖国通り との 交差点一帯(今の 地下鉄・神保町駅辺り)は江戸時代、一橋通小川町と通称され、 東側(上地図の 北神保町郵便局の辺り)は表猿楽町と呼ばれていた。

「猿楽」とは能楽の古称で、高名な猿楽師であった 観阿弥、世阿弥父子によって芸術性を高めた猿楽は、江戸幕府の「式学」(儀式に用いる音楽、舞踊)に指定されていた。それが 観世座、宝生座、金春座、金剛座、および喜多流の「四座一流」で、このうち観世座は徳川家康と縁が深かったこともあり、筆頭の地位を付与されていた。その家元・観世太夫や一座の人々の屋敷がこの界隈にあったことから、「猿楽町」という町名が生まれたとされる。
明治期に入った 1872年、一帯はそのまま猿楽町と継承され、猿楽町一丁目、猿楽町二丁目、猿楽町三丁目、裏猿楽町、中猿楽町という町名が連なっていた。 1911年、猿楽町はいったん江戸期と同じ「表猿楽町」へ戻されるも、関東大震災後の区画整理の際、西神田一丁目と神保町一丁目に改称され、「猿楽」の名は完全に姿を消すこととなった。

また、この区画整理で、町割りも大きく変更される。道路を中心に両側を町域とする「両側町」という伝統的スタイルが採用されたため、以降、当地の住所番地は靖国通りを挟んで南に奇数、北に偶数の番地が交互に振られている(上地図)。

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なお、この神保町という町名は、江戸時代に幕府旗本の 神保長治(1641~1715年。主な担当は、家康の 墓所・日光山の管理で、1712年に佐渡奉行となった)とその子孫が、神田小川町に屋敷を構えたことに由来している。その屋敷前を通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになっていた。現在の 商店街「神田すずらん通り(さくら通り)」である。上地図。

明治に入ると、多くの武家屋敷が新政府によって没収される。そして1872年、新政府が正式にこのエリアの町名を決める際、この神保小路にちなんで神保町と命名するのだった(地下鉄・神保町駅の南側、すずらん通り、さくら通り一帯)。この時、南神保町、北神保町、表神保町、裏神保町が誕生する。関東大震災を経て町が再編成されると、猿楽町(地下鉄・神保町駅の北側、日本大学南辺り)、今川小路(地下鉄・神保町駅の西側、専修大学辺り)なども吸収し、神保町の町域が北へ大拡張されて今日に至る。



しばらく北上を続けると、JR水道橋駅 に到達する。そのまま神田川を渡って、ようやく江戸城外へ出られた。
なお、この 神田川(江戸城の外堀跡)であるが、すべて人工的に掘削されたものという。江戸時代、仙台藩 初代藩主・伊達政宗(1567~1636年)から 4代目藩主・綱村(1659~1719年)の時代にかけて、仙台藩が担当して開削したため(1661年開通)、仙台堀と通称された。その距離は、飯田橋駅近くの牛込橋から秋葉原駅近くの和泉橋の区間に相当するという。

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なお、「水道橋」の地名であるが、江戸時代、この外堀(神田川)をクロスする形で、飲み水用の 水路(下絵図)が架橋されていたことに由来するという。上写真右の左岸に見える緑地あたりに、かつて掛樋(かけひ。木や竹などで作られた水を送るための管が、川を横切ったり谷をまたぐ場合に架橋されたもの)が付設されていた。下絵図。

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この飲み水の水路(神田上水)は 井の頭・善福寺・妙正寺池あたりを水源としており、小石川を伝って流れて来た水を 関口大洗堰で左右に分水し、左側を江戸城内で上下水道に使う水として、水戸藩の江戸上屋敷方面に流してきたものだった(下地図の赤ライン)。他方、右側は余水として江戸川へそのまま流していたという(下地図の青ライン)。

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なお 下地図は、水戸藩の上屋敷周辺。「江戸川」と「神田上水」が平行して流れていたことが分かる。また外堀沿いには「水道」の文字も見える(下絵図の赤〇)。

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東京ドームや「後楽園ゆうえんち」を横目に白山通りをさらに北へ直進すると、真上に地下鉄丸の内線が往来していた。。。ちょうどこのエリアが、江戸時代、水戸藩の上屋敷だった場所である。

その先の春日通りとの交差点を左折すると、高層ビル風の文京区役所があった(文京シビックセンター)。最上階 25Fが展望ラウンジということで、エレベーターで上がってみる。普通にフロア間を往来する区役所職員や手続訪問の区民、そして最上階レストランや景色見学のための利用者が一緒くちゃに乗るエレベータで、非常に非効率な気がした。。。

ただ最上階からの景色は圧巻だった。本来は江戸城一帯がある南方向を遠望したかったが、南面はレストランが入居しており、その他の東西北三方向のみが無料開放されていた。
下写真は、南西方向。眼下には 東京ドーム、小石川後楽園が広がる。その先の右手に見える摩天楼群が新宿副都心、左端は赤坂・渋谷方面である。

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下写真は、北西方向を臨んだもの。眼下の春日通りが池袋へ延びる。
中央左の巨大校舎群は、中央大学 後楽園キャンパス(1885年創立。1951年に購入した敷地で、現在は理工学部とその大学院、およびビジネス・スクールが入居)。

なお、この春日通り沿いは西へ池袋、東へ 浅草橋、両国、錦糸町、亀戸を往来する路線バスが何本も運行されていた。

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下写真は、東方向
江戸時代、ちょうど左右一直線に 中山道 が貫通しており、街道沿いに町屋や寺院が広がりながら土地開発が進んでいたわけである。左半分の茶色のビル群が建ち並ぶエリアが、東京大学・本郷キャンパスで、かつての加賀前田家の上屋敷が立地した場所だ。中山道沿いに邸宅を構えていたわけである。この藩邸の周辺に商人らの町屋が建ち並び、一定の繁華街が形成されていたに違いない。

さらに後方の緑地部分は上野公園。幕末期の彰義隊による上野戦争があった場所だ。これから訪問する最終目的地である。

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なお、上写真手前の 交差点(白山通りと春日通り)に立地する集合団地は、都営本郷一丁目アパート。あまりに立地が良すぎる公営住宅にビックリした。東京ドームの目の前って。。。

下写真は、南東方向。「後楽園ゆうえんち」のジェットコースターが見える(先程の都営住宅も左下端に写り込んでいた)。その脇の 自動車道(白山通り)の突き当りが、先に見た 水道橋(神田上水の終着ポイント)である。

なお、この後楽園とは江戸時代に水戸藩の上屋敷跡地で、初代藩主の 徳川頼房(家康の 11男)が屋敷内に造営した庭園を、その子・光圀(1628~1701年)が中国風の趣向を加えて完成させたもので、自ら「後楽園」と命名したことに由来している。最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として、この上屋敷内で誕生している。

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さて、ひと通り見学後、文京シビックセンターを再び下り、今度は春日通りを東進して上野方面を目指した(下写真左)。
白山通りは低地の谷間を貫通しており、東西に丘陵斜面が連なっていた。その緩やかな坂を登った尾根の頂上部に立地していたのが、東京大学本郷キャンパスだった(下写真右)。ちょうど大学前の本郷通りがかつての 旧中山道 で、丘陵地帯の尾根上に敷設されていたことが伺えた。

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江戸時代、加賀藩邸周辺の中山道沿いには商業地区が形成され、後方の空間には町人らの町屋や小役人らの宅地が広がっていたという。その斜面下の白山通りに至る所まで、宅地開発が進められていたようである(下地図の「西片」という地名が、これを象徴する)。
しかし明治時代に至り、武士階層が廃止されると小役人らは住宅を失い、その跡地は農地へと再開拓されたという。しばらく後、この本郷、文京区エリアに政府の兵器工場や教育機関、病院などが開設され、また都心部から移転されてきた学校なども加わって、大々的に再開発が進められると、 その過程で白山に大規模な遊郭街が誕生し、裏表に渡る庶民空間が形成されていく。こうして誕生したアカデミック文化と俗文化との狭間がこの丘陵斜面であり(上写真左)、そこに数多くの文豪たちが居を構え、名作の題材としていったわけである。

現在、この斜面部分には 石川啄木終焉の地、高村光太郎旧居跡、坪内逍遙旧居跡、夏目漱石旧居跡、新渡戸稲造旧居跡、樋口一葉旧居跡、宮沢賢治旧居跡などが保存されている(下地図)。

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本郷通り旧中山道)では昭和時代から続く食堂や本屋なども散見され、東京のど真ん中にあって異空間に来たような感覚にとらわれた。せっかくなので赤門から東大構内を見学してみる。

そのまま 安田講堂(下写真左)地下にある 学生食堂(中央食堂)で食事してみた。部外者でも自由に飲食できるスペースらしく、子連れの主婦やサラリーマン風のお客もちらほら目についた。レジでの清算時に学生証を見せることで学食料金となるようだった。筆者はもちろん、部外者料金で食べることになった。

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海外からの留学生と思わしき人も多く、さすが日本の最高学府だ、と勝手に感心した次第である。
食事後、三四郎池を見学する(上写真右)。


この広大な東京大学・本郷キャンパスには、もともと加賀前田藩の 上屋敷、加賀藩から分派された 富山藩(前田家 上屋敷)と 大聖寺藩(前田家 上屋敷)、また他家の 安志藩(小笠原家 下屋敷)と 水戸藩(徳川家 中屋敷)などの諸藩邸の敷地が広がっていた。下地図。

そのメインを成した加賀前田家の上屋敷であるが、もともとは江戸城に近い 辰ノ口(竜口。たつのくち)の道三掘沿いに立地していた。ちょうど、今日の 地下鉄・東西線 大手町駅東辺りである。1605年に徳川家康から 2代目藩主・前田利常(1594~1658年。1601年から秀忠の娘婿となっていた)に下賜されたものだったが、明暦の大火(1657年)で全焼してしまう。この敷地は幕府に返納することとなり、代わりに中山道の出入り口にあたる筋違橋門(今の JR秋葉原駅の南付近)近くに新しい屋敷地を分与される。しかし、この上屋敷も天和の 大火(1682年末)で焼失してしまうのだった。下絵図。
こうして翌 1683年から、それまで下屋敷であった 中山道 沿いの本郷邸が正式に上屋敷として使用され出したという。

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この本郷の下屋敷であるが、秀吉死後の加賀前田家と徳川家との対立解消策として 徳川秀忠 の次女・珠姫(1599~1622年。3代目将軍・徳川家光の実姉)が、2代目藩主・前田利常(1594~1658年)の正室として嫁いでいたわけだが(1601年)、二人の間に 嫡男・光高が誕生すると(1615年11月)、秀忠の外孫となって両家はますます親戚関係を深めることとなる。これを記念し 1616~17年ごろに秀忠から下賜されたのが、この中山道沿いの山頂部の広大な敷地であった。当初は江戸城下から遠い僻地で、郊外過ぎて放置されたままだったが、1626年頃になってようやく周囲が木柵で囲まれたという。

1629年4月23日、この 嫡男・光高(当時 14歳。10年後の 1639年に 3代目藩主となる)の元服式を執り行うに際し、祖父である 秀忠(大御所。50歳。1579~1632年)と叔父にあたる 将軍・家光(25歳。1604~1651年)も招待されることとなり(将軍御成)、ようやく 前田利常(35歳)はこの広大な本郷の下屋敷地の開発に着手する。豪奢な御成御殿や数寄屋が新築され、その庭園として育徳園が造園されたのもこの時であった。この建設工事は加賀藩を挙げて一年がかりで進められ、国元はもちろん 大坂 など各地から、将軍らをもてなすための様々な物資が本郷邸に集められることとなる。
無事に元服式、および将軍御成を終えた後も、この本郷邸は下屋敷のままであった。引き続き、利常は上屋敷である辰ノ口邸に滞在するも、その敷地は手狭であったため、度々、補助施設として本郷の下屋敷を訪問していたという。

1639年に家督をこの 光高(3代目藩主)に譲って隠居すると、ようやく利常は本郷邸を定住の地に定める。こうした経緯もあり、この当時から下屋敷とはいえ本郷邸にも大規模な邸宅や多数の藩士住居が装備されていたと考えられている。
なお、藩主を継承したタイミングで、長男・光高が辰ノ口邸の上屋敷に居住することとなると、次男・利次に十万石、三男・利治に七万石を分与し、富山藩と大聖寺藩の 2支藩を立藩させる。同時に、本郷邸の一部をそれぞれの支藩邸へ分割したのが、下の絵図である。以後、幕末まで継承されていくこととなった。

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さて、二度にわたる火災を経て、1683年から加賀前田家の上屋敷となった本郷邸であるが、当時、加賀藩は駒込に 中屋敷、平尾(板橋)に下屋敷、深川に蔵屋敷も有していた。
この大大名家はその後も将軍家や名門藩主家から嫁を娶っており、特に子だくさんで知られる 11代将軍・徳川家斉(1773~1841年)の 息女・溶姫(1813~1868年)の降嫁もその一環であった(1827年結婚。1830年、加賀藩最後の藩主である前田慶寧を産むことになる)。溶姫が 13代目藩主・前田斉泰(1811~1884年)に輿入するに際し、その前年に藩主邸の 正門(黒門)であった南側に新たに門が増築されることとなり、門前の町家が撤去されて建てられたのが、今の赤門という。 朱塗りの 御守殿門(徳川将軍家の娘が降嫁した御殿前に建てられた 門の総称)で、現在、国の重要文化財に指定されている(大学敷地の拡張に伴い、もとの場所から南へ移築されている)。

なお、大学構内に残る 三四郎池(正式名称は育徳園 心字池。池の形が「心」という字をかたどったことに由来)であるが、1629年の将軍御成時の造園に始まり、1639年に前田利常が隠居して以降、本格的に整備が進められたと考えられている。彼はその後、国元の 小松城 で隠居生活を送るも、息子の三代目藩主・光高(29歳。1616~1645年。3代目将軍・家光の従弟にあたる)が早くに死去したため、孫の 4代目藩主・前田綱紀(2歳。1643~1724年)を補佐することとなる。この綱紀の治世時代に前述の二度の火災を経て、上屋敷が本郷邸に定められたわけである。
上屋敷として入居後、綱紀はさらに補修工事を加え、最終的に「御殿空間」のうち殿舎屋敷群が占めるのは半分強だけとなり、残りのスペースは広大な 庭園(育徳園)と馬場等が配置された。特にその庭園は心字池を中心にした池泉回遊式庭園で、泉水、築山、小亭等が配置され、当時、江戸諸侯邸の庭園中、随一と称えられたという。
なお、この庭園のメインを成した池は、明治時代に入り夏目漱石の 小説「三四郎」で登場して以降、三四郎池の名で親しまれるようになる。



そのまま東大病院脇の道路から南下し、龍岡門を経て 春日通り に戻る。さらに東進し上野を目指していると、天澤山・麟祥院を発見する(下写真左)。春日局の墓所であり、菩提寺である。内部は凛とした空気が漂う 和の空間が広がっていた。

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春日局(1579~1643年)は、3代目将軍・徳川家光(1604~1651年)の乳母で、本名を斎藤 福といった。
稲葉家に婿養子として入った 稲葉正成(1571~1628年)との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る(1604年7月)。同月、家光(竹千代)が生まれるとその乳母となり、生涯、家光に仕えた。
二十歳を迎えた 1624年、将軍・家光は彼女のために麟祥院を新築し、郊外の邸宅として下賜する。こうした二人の信頼関係は春日局が死去するまで継続され、彼女は幕府内で絶大な権力を誇り、江戸城の大奥制度を確立していくことになる。
徳川政権の安定化に貢献する一方、少女時代にお世話になった三条西家の 三条西実条(当時、朝廷内で武家伝奏役を担っており、春日局とは幼馴染だった)とのパイプを活かし、京都 の朝廷との折衝を一手に担うこととなる。 1629年と 1632年の上洛時、直接、後水尾天皇に拝謁し、「春日局」の称号を下賜される。それまでは単に大奥「御局」と称されていた。

また 1630年、春日局の願い出により、将軍・家光は原野であった今の 文京区「春日」の地を彼女に下賜し、その下男 30人の宅地や町屋が整備されることとなる。以後、春日殿町と通称されたという。下人らはここから春日局の郊外別邸であり、後に隠居所となる麟祥院まで通い、奉公していたようである。
彼女の死後、隠居邸であった麟祥院はそのまま彼女の菩提寺となり、その法名にちなみ、「天澤山 麟祥院(報恩山 天澤寺)」と通称されていくこととなる。墓地奥にある春日局の墓は、無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形となっているという。その後、寺敷地一帯は 1694年、町奉行の直轄となった。

なお、離縁した稲葉正成との間の子・稲葉正成は、3代目将軍・徳川家光の乳兄弟として春日局と共に江戸城入りしており、後に老中となる。また譜代大名として小田原藩 85,000石の大大名にまで出世する。その子孫は 1723年に 山城国・淀藩 10万石 の大名となり、前述の小川町に上屋敷を所有することになるのだった。

明治維新後、公寺の資格を失った麟祥院は庶民に解放される。そうした中、東大通学中から縁があったであろう井上円了が 1887年9月16日、この境内の一棟を借りて 私塾「哲学館」を開校することとなる。彼は 1858年、越後国(新潟県)の寺に生まれ、1885年に東京大学文学部哲学科を卒業した秀才で、哲学と宗教の普及と啓発のためにその後の人生を捧げた。この 私塾「哲学館」が後に「東洋大学」へと発展するわけである。
哲学館での授業以外に、講義録を毎月 3回発行(現代の通信教育の走り)するなど熱心な教育活動を展開する一方、同時に自身は各地で哲学普及のための講演活動に奔走した。そんな中の 1919年、大連 での講演旅行の途上、病死するのだった(享年 61歳)。



さらに東へ進むと、湯島天神の裏門があった。正月シーズンは受験の神様ということで、大混雑するエリアである。
その先の交差点に、地下鉄 千代田線「湯島」駅があった。ここから北上し、上野公園 を目指す。

下町風俗資料館と不忍池を横目に弁天島や上野動物園入口がある北側へ進み、寛永寺の境内へ登ってみる(上写真右)。さすが観光地・上野公園に立地する寺院だけあって、寛永寺の 清水観音堂(1631年建立。国重要文化財)には外国人の訪問客が多かった。

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そして、西郷隆盛 銅像と 彰義隊 慰霊碑(上写真左)を見学し、上野駅前の繁華街へ至った(上写真右)。上野山と言われただけあり、周囲より 10mほど高台になっているようだった。

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かつて、彰義隊はこの上野山の寛永寺に立てこもったわけだが、新政府軍は不忍池の対岸にある加賀前田藩の 上屋敷(東京大学・本郷キャンパス)に大砲を配備し、側面から撃ち込んだのだった(上写真左の後方に見えている高層ビル辺り)。
そして、薩摩軍は上野駅前の正面から肉弾戦の攻撃を加える形をとり、新政府軍は二正面攻撃で圧倒しつつ、わざと北、東の二方向には兵を配置せず、彰義隊の逃げ道を作って敗走させたという。「窮鼠猫を噛む」の教訓から、新政府軍の被害拡大を恐れた 大村益次郎(1824~1869年)の作戦であった。

この時、加賀藩主・前田慶寧の父であった 前田斉泰(12代目藩主で、 1866年に隠居していた。先の東大・赤門を造った人物)が主導して尊皇派をアピールすべく、新政府軍へ積極的に強力し屋敷地を砲台陣地として提供したわけであるが、戊辰戦争後、薩長主導の新政府に食い込むことができずに他藩と同様、外様に排除されることとなるのだった。


江戸幕府第十五代将軍・徳川慶喜(1837~1913年)は大政奉還後、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月末)に敗れて江戸へ逃げ帰る。薩長で構成される 東征軍(嘉彰親王を総大将とする官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋藩主時代の側近であった 小川興郷(椙太。1837~1895年)らは、上野寛永寺に自ら蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を募って 対抗しようとする。徳川政権を支持する各藩士をはじめ、 新政府への不満武士、変革期に立身出世を目論む人々が続々と結集する。翌 2月にメンバーらは同盟「彰義隊」を結成し、 そのまま上野山を拠点として新政府軍と対峙する(4月上旬に、新政府軍が江戸城を接収した)。

この彰義隊の暴走に危機感を抱き、また 無事に江戸城内の家臣団の退去を見届けた徳川慶喜は急遽、上野山を脱出し、そのまま自領の水戸へ帰還して自主蟄居を継続する(4月11日~7月)。その後も、徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山 寛永寺)に立てこもり続けた彰義隊らに対し、5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍が総攻撃を加える。武力に勝る新政府軍は半日で彰義隊を壊滅させ、同夕刻には上野山の占領に成功する。いわゆる上野戦争である。

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戦後、賊軍扱いされた彰義隊員の遺体は上野山に放置されたままだったが、南千住・円通寺の住職・仏磨らによって、当地で茶毘に付されることとなる。現在の墓塔正面に配置された小墓石は翌 1869年、寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が、密かに付近の地中に埋納したものだったが、後に掘り出され、他の墓石とともに上野公園内に保存されたという。

生き残った 元彰義隊員・小川興郷らは、1874年にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士らの火葬場となった当地に、私財を投じて彰義隊戦死の大墓石を伴う墓塔を建立する(1881年12月)。彰義隊は明治政府にとっては賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字は付記されず、旧幕臣・山岡鉄舟(1836~1888年。剣・禅・書の達人であり、維新後の徳川家と明治政府との間を最後まで面倒を見た)の筆になる「戦死之墓」の文字を大きく刻むだけとなった。また前述の経緯から、彰義隊員らの遺骨の一部は 南千住・円通寺内にも合葬されている。
以後、120年余りに渡り、墓塔は小川一族によって守られてきたが、後に東京都に移管される。1990年、台東区有形文化財に指定された。



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