BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


東京都 調布市 ~ 市内人口 24万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  深大寺城跡(都立神代植物公園)
  調布飛行場、武蔵野の森公園、掩体壕遺跡(大沢 1号、2号)、陸軍専用の戦闘機「飛燕」
  東京外国語大学、国際基督教大学
  幕末の新選組局長・近藤勇の生家跡、 近藤勇 墓(龍源寺)
  佐須街道



前夜、新宿のホテルを引き払って、京王線で調布駅まで移動してきた。駅前のホテル・リブマックス BUDGET調布駅前に 3連泊する。安くて清潔な全国チェーンで、筆者も度々、愛用させてもらっている。
もしくは、羽田空港から東京到着の際には、空港バス「八王子(1時間30分)」「調布駅(1時間10分)」行で直接、現地入りしたい(1,780円)

当地滞在の前半二日間は登山続きだったので、少し足を休めるべく、この日は、ようやく調布市中心部、及びその近郊を見て回ることにした。ただし、調布市のシェア自転車は、15分 60円と値段が高い
このため、この日は「京王バス」を駆使して調布市内を周遊することにした。当日、最初に路線バスに乗車する際、PASMOカードを提示して、運転手から「IC都区内一日乗車券(500円)」をチャージしてもらう。これで、都区内・三鷹市・狛江市・武蔵野市・調布市内のバス路線が乗り放題となる

調布市

まずは、駅から最も遠い目的地「近藤勇 生家跡」を目指してみる。
調布駅北口バスロータリーから、「多摩駅」行の路線バス(調 33)に乗車する。京王線「飛田給駅」「味の素スタジアム」「警察大学校」などを経由して、終点一つ手前の「東京外国語大学前」で下車する。上地図の黄色ルート。

ここから東へ進んで、東京外国語大学(1897年4月27日開学)キャンパス内を通過し、調布飛行場(戦前までは「東京調布飛行場」と呼ばれていた)に行きつく。現在は西半分が「武蔵野の森公園」となっており、「調布基地跡地運動広場」としてサッカー場、ラグビー場、野球場、テニスコートなど、複数のグラウンドが併設されている。これら運動場の北端に開設されていた「武蔵野の森公園サービスセンター」に立ち寄り、陸軍専用の戦闘機「飛燕」のプロペラ実物、などの展示を見学してみたい(2009年に三鷹市大沢総合グラウンドの地中で発見されたもの)。

そのまま東進し「展望の丘」を越えると、大沢グラウンド通りに行きつく(下地図)。
この道路反対側に、掩体壕遺跡(大沢 1号、2号)が保存されていた(下地図の赤▲=現在地)。「掩体壕」とは、太平洋戦争中、米軍の空襲から航空機を守るため、陸軍が建造したコンクリート製の格納庫で、この大沢 1号の前には、三式戦闘機「飛燕」が格納されている様子の模型(縮尺サイズ 10分の1)が展示されていた。
その他、周囲には戦時中に設置された門柱や高射砲台座なども保存されていた。

調布市

調布市



昭和 13年(1938年)、東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多磨村(現在の府中市)にまがたる約 50万坪の土地に、「東京調布飛行場」の建設計画が策定されると、もともとあった田畑、家屋、寺、墓地などの買収が半強制的に断行される。そして早くも翌 1939年には、東京府と逓信省航空局、陸軍省の予算で、建設工事が着手されるのだった(その基礎工事には、府中刑務所の受刑者や地元中学生らも動員されている)。こうして 1941年4月30日、南北方向に 1,000 mと東西方向に 700 mの 2本の滑走路、これらに付随する施設群が完成を見る。
当初は予備国際飛行場、航空試験飛行場、陸軍訓練飛行場として使用される予定であったが、戦争渦中にあったことから陸軍専用空港への転用が即決される。こうして首都防衛のため、三式戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配属されることとなった。

なお、この「飛燕」であるが、同盟国ドイツのダイムラー・ベンツ社製 DB 601エンジン技術をライセンス契約し、川崎航空機が国産化した液冷エンジン搭載の国内唯一の戦闘機(ハ40)で、エンジン出力は1,100馬力、最高時速 590 km/hで飛行できたという(現在、鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」に、当時の三式戦闘機「飛燕」の実物が保存されている)。1943年に陸軍の主力戦闘機として正式採用されるも、実際には生産、整備作業が非常に困難で、量産には限界があったとされる。

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特に 1944年以降、B29爆撃機による本土空襲が激しくなる中、度々、迎撃のため出動するも、物量に勝る米軍の攻撃に対し、あまり戦果を挙げることができなかった。最後は「体当たり」戦術で抵抗するも、ますます戦況が悪化する中、「本土決戦」のための貴重な戦力として飛行機を温存するため、滑走路の周辺にコンクリート製の掩体壕(有蓋)約 30基と、土嚢で造ったコの字の掩体壕(無蓋。上写真)約 30基の合計 60基が短期間に建設され、この中に格納されるだけになっていく(掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で移動させていた)。なお、この建設作業は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生らも大量動員されたという。

現在、東京都内に残るコンクリート製の掩体壕は、この大沢 1号、大沢 2号(三鷹市域に含まれる)、府中市白糸台の 1基、府中市朝日町の住宅地(私有地)の 1基、練馬区内の 1基の合計 5基のみとなっている(日本全国では、約 100基が現存する)。

この米軍による本土空襲では、軍事施設だった「東京調布飛行場」にも当然、米軍の B29爆撃機や艦載機が攻撃を加えており、飛行場や近くに設置された高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ている。

戦後に至り食料供給がひっ迫する中、飛行場の西側の一部には、「進駐軍」(アメリカ占領軍)のための野菜菜園「水耕農場」が開墾されていたという。今でも付近はアメリア駐留軍時代の名残りから、アメリカン・スクール、国際基督教大学などの施設が点在する。なお現在、この府中飛行場は、伊豆大島・新島・神津島を往来する小型機(新中央航空の定期便)のみが発着されている。



この大沢グラウンド通りを北上し、人見街道(都道 110号線)との交差点(野川公園入口)を渡ると、正面に「近藤勇 生家跡」があった。下地図。

現在、建物自体は撤去されており(1943年、陸軍調布飛行場から飛び立つ戦闘機の妨げになるとの理由で取り壊されてしまった)、その跡地を示す解説板が設けられた公園として無料公開されているだけだった。なお、敷地内には、近藤勇が生まれた時に産湯に使ったと伝えられる「古井戸」が残されている。往時の様子は、調布市郷土博物館内で旧家模型(縮尺 30分の1)が復元展示されているので、是非、立ち寄ってみたい。

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幕末に活躍した新選組局長・近藤勇は、1834年、武蔵国多摩郡上石原村辻(今の調布市野水)の宮川久次郎の三男として誕生している(幼名 : 宮川勝五郎)。当時、この実家は、甲州街道上にあった「石原宿」の北方約 2.4 km、人見街道と小金井に通じる道の辻にあり、約 2,120坪(約7,000 m2)もの敷地を有する富農の家であった。敷地内には、主屋のほかに、蔵屋敷や文庫蔵、納屋などが併設されていたという。また、庭には築山が築かれ、屋敷の周りにはケヤキやカシなどが植樹されており、裏手には竹林があったという。
実父の宮川久次郎は、天然理心流の師範・近藤周助を招き、屋敷内の納屋を剣術道場として貸し出すと、宮川勝五郎も 15歳の時、2人の兄とともにこの道場に入門する(1849年)。そのまま同年中に、子供のいなかった周助の養子として引き取られると、近藤勇と名乗るようになる。以降、この宮川家の剣術道場は成功し、調布・三鷹エリアへやってくる剣士たちにとって、有名な出稽古先として知られるようになっていったらしい。

その後、近藤勇は 1860年に結婚し、翌 1861年には天然理心流宗家の四代目を襲名して、本格的に道場経営に関わるようになっていく。そんな中の 1863年1月、江戸幕府が 14代将軍・徳川家茂の上洛警護のため、幕府直轄家臣団以外にも浪士組織「浪士組」の参加者を募集して警護を担うとの知らせを聞いた近藤勇は、嬉々としてこれに参加し、将軍一行と共にて京都へ向かい(2月8日、江戸 出発。2月23日、京都 到着)、そのまま幕府の指示を無視して京都に留まることとなる。その後、会津藩旗下に組み込まれ「新選組」を発足するも、京都や 大坂 で乱闘騒ぎばかりを起こし、 大いに人々の反感を買うも、翌 1864年6月5日に池田屋事件での大功を挙げ、一気に”時の人”となるわけである。



この前のバス停「野川公園入口」は小田急バスなので利用せず、さらに北に隣接する「都立野川公園」を踏破して、東八道路まで出ると、 バス停「野川公園一の橋」に行きつく(この北隣には「国際基督教大学」があった)。冒頭地図。
ここから「調布駅北口」行の路線バス(武 91)に乗車し、いったん調布駅前に戻った



そのまま同じ北口バスロータリー 11番乗り場から発車する路線バスに乗車し、深大寺城跡を目指してみる。この北方面の路線バスは複数あり、いずれも深大寺城跡に行きつける。冒頭バス路線図参照。

深大寺城跡は、都立神代植物公園の水生植物園(9:30~16:30、月曜日休園。入園無料。調布市深大寺元町二丁目)内の一角に、史跡公園として保存されていた。

調布市

当時、関東平野南部に広がっていた武蔵野台地(標高 50 mほど)の南端部分を、空堀と土塁で切断するように設計されていたようである。 南面は高さ 15 mの崖斜面が続き、そのまま多摩川へと繋がっていた。また東面と西面には谷があり、眼下に湿地帯が広がる要害堅固な地形であったという。
城の北面は、谷を挟んで古刹・深大寺が立地していた。

城塞は 3曲輪で構成されており、主郭は台地の最南端にあって、四方を土塁が取り囲んでいた。北側に虎口スタイルの城門があって二郭へつながっており、空堀上に土橋が整備されていた(西側は櫓台が配置されていた)。現在、二郭跡地は芝生で覆われた広場となっており、その一部に建物の柱跡が復元されている。この南面にも土塁と城門跡が残存する。


築城年代の詳細は不明であるが、打ち捨てられていた城跡を大改修する形で、1537年、扇谷上杉氏が手を加え、武蔵国の南部から迫る北条氏に対抗する前線拠点として城塞を整備したことが、史書に伝えられている。

この戦国時代前期は、伊豆・相模国より台頭していた北条氏(二代目・北条氏綱)が、関東の旧体制の象徴だった古河公方や関東管領・上杉氏(武蔵国守護を兼務)に真っ向から挑戦し、武蔵国の支配権をかけて北へ北へと侵攻するタイミングであった。1524年に 武蔵国南部の拠点・江戸城 を北条氏に奪取された上杉氏は、武蔵国北半分の防衛を徹底するため、当地の古城跡を大改修し「深大寺城」として要塞化したわけだが、それはちょうど 1537年ごろとされ、扇谷上杉家当主の上杉朝興が死去し、上杉朝定(1525~1546年)がわずか 12歳で家督を継承した時期でもあった。工事を担当しのは、当時の上杉家の最重要家臣だった難波田 憲重(?~1546年。下写真)で、多摩川を挟んで南岸に立地する、北条方の拠点・小沢城跡に対抗すべく、一門の難波田 広宗(生没年不詳)を守将に配置し、最前線を守備させていた。

しかし、北条軍はこの深大寺城をスルーする作戦を採用し、周囲に付城や陣城を配置させて動きを封じ込めるだけして、そのまま主力軍を北上させ、同年 7月には、直接、扇谷上杉氏の本拠地である河越城を攻略してしまうのだった。上杉朝定は難波田 憲重の居城・松山城へ逃走することとなり、これにより扇谷上杉氏の武蔵支配は終焉を迎える。
このタイミングで深大寺城の守備軍も開城し、そのまま廃城となったと考えられる。

調布市

その後も、難波田 憲重と上杉朝定は、川越城の奪還をめざし、度々、武蔵国へ侵攻するも、1546年の河越城の戦いで大敗を喫し、両者はそのまま戦死、病没するのだった。

城跡は、1998年に東京都指定史跡となり、2007年7月には国定史跡に指定されている。



深大寺城跡の見学後、 公園東側にあるバス停「中央道深大寺バス停下」か「深大寺小学校」から、「杏林大学病院」行の路線バス(調布 35)に乗車し、終点「杏林大学病院」まで移動する(下地図)
このすぐ東側を流れる仙川沿いを南進すると(三鷹市域に入る)、柴田勝家子孫の史跡や天神山城跡を訪問できる。下地図

調布市

帰路は、往路と同じく、路線バス(調布 35)沿いのバス停「都営団地前」か「中原三丁目」からバスに乗車し、同じルートで調布駅前まで直帰するか(上地図。1時間に 3~4本あり)、他の路線バスで「仙川駅」へ移動し、京王線各駅停車で「調布駅」まで戻ることにした。

なお、調布駅南側にある郷土博物館(開館時間 9:00~16:00。月曜日休)の訪問は、雨天のタイミングや半日訪問など、予備的な時間調整の選択肢としたい。


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