BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


神奈川県 川崎市 ~ 市内人口 154.5万人、一人当たり GDP 320万円(神奈川県 全体)


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  調布市郷土博物館
  多摩丘陵「多摩の横山」の 遠景
  小沢城跡、「富士山三十三度大願成就」記念碑
  小沢原合戦跡(北条氏康の初陣戦)、勝坂、隠れ谷公園、金程地区
  菅寺尾城(寺尾城)跡、八角堂跡
  枡形城跡、広福寺(築城主・稲毛重成の居館跡、墓所)
  作延城跡(緑ヶ丘霊園)
  有馬城跡



新宿から調布市へ移動し駅前に投宿しつつ、神奈川県川崎市や 相模原市 の史跡を訪問してみた。横浜駅前 から横浜線で北上するよりも、新宿、調布あたりから、京王線、小田急線でのアクセスの方が、圧倒的に安価、かつスムーズなエリアだった。

翌朝、まずは 調布駅南口 から多摩川河岸まで 1 kmほどを歩くことにした。最初に調布市役所を目指した後、京王線の線路を西へ渡ってさらに南進し、調布市郷土博物館(9:00~16:00、月曜日休館)を訪問する。かなり入り組んだ住宅街に立地していた。下地図。

見学後、さらに南進して多摩川沿いを目指す。途中、京王閣競輪場を通過して、多摩川堤通りまで行きついた(下地図)。この土手沿いから対岸の多摩丘陵の遠景を写真撮影しておく。この多摩地方の丘陵部は、武蔵国の 国府「府中」からは「横に長い山」が連なるように見えたことから、「多摩の横山」とも呼称されてきたという。これを由来に、同エリアで平安時代末期から勃興した 武士集団「横山党」や、江戸時代の 宿場町「八王子 横山宿」などの名称へ援用されてきたそうだ。

川崎市

少し戻る形で北へ移動し、京王相模原線「京王多摩川駅」から各駅列車に乗車してみる(上地図)。二つ目の 駅「京王よみうりランド駅」で下車後、駅南口から出てジャイアンツ球場までの緩やかな坂を 5分ほど登っていくと(途中で穴澤天神社を通過。下地図)、城址を示す案内板が見えてくる。ここから脇道を登ると、すぐに富士塚の石碑エリアに到着できた(江戸時代に設置された「富士山三十三度大願成就」記念碑が現存するポイント)。

かつて、この山頂部に造営されていた「小沢城跡(小沢天神山城とも。神奈川県川崎市多摩区菅仙谷)」は、現在、緑地公園化されているものの、往時の空堀や 物見櫓、土塁、馬場跡、井戸跡などの遺構がしっかりと保存されていた。いずれの遺構も室町時代に造営されたもので、馬場跡に城址の石碑、解説板が建てられていた。
また、周囲には「城下」「おきの鍛治屋」などの地名も伝えられており、かつて城主居館や城下町があった名残りとされる。

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なお、尾根沿いに三沢川まで歩きながら、周囲の景色も撮影しておきたい(上地図)。北に見える多摩川の河川敷で、鎌倉時代末期に新田義貞 vs 幕府軍による、分倍河原の戦いがあったわけである(東京都府中市)。


小沢城は多摩丘陵の端っこ部分に位置し、標高 51.8 m(麓からの高低差 30 m)ほどの険しい独立した高台上に築城されていた。多摩川の支流である三沢川を外堀とする要害で、鎌倉道や多摩川の 渡し(矢野口)を抑える交通の要衝だったという。下地図。
その特徴は、主郭が尾根の最高地点ではなく、斜面沿いに造営されている点で、戦国時代に主に北条家によって設計されたものであった。平安時代末期に築城された当時は、本当に簡易な避難用の 丘城(根小屋スタイル)だけだったと考えられる。山麓に居館や武家屋敷が配置され、日常空間としていたようである。

平安時代末期、桓武平氏の末裔である秩父氏の一門出身で、源頼朝配下の御家人として活躍した 稲毛重成(?~1205年)が、この小沢の地を下賜されると、その 子・小太郎(後の稲毛重政)らと共に移住し、最初に城館を築いたとされる。下地図。
1195年夏、妻(北条時政の娘。北条政子の妹)が死没すると、稲毛重成は出家し、妻との間の長男だった 稲毛重政(?~1205年)に家督を譲って、自身は枡形城へ移り住んだようである。

以降、父から本城を継承した稲毛重政は、地名の「小沢」を冠して、小沢重政と称するようになる(下地図)。しかし、1999年に頼朝が死去すると北条氏の専横が増し、1205年に幕閣の一人だった畠山重忠が謀反の疑いで滅ぼされると、その密告者ということで全面的に冤罪をきせられ、稲毛重成・小沢重政父子ともに誅殺されることとなり、以降は、一門の小沢信重が家督を継承したとされる。

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山奥の多摩地方から海へと続く 水運ルート「多摩川」と、その河川敷につながる広大な平野、そして 関東の 中心部・鎌倉 へと通じる 街道「鎌倉道」が交錯するエリアだったことから、度々、大規模な合戦の舞台ともなってきた。特に、新田義貞の倒幕戦である、1333年5月の分倍河原の合戦が有名である。

その他、室町時代(南北朝時代)初期の 1351年、将軍・足利家の内紛により、足利基氏(尊氏の実子)の命を受けた 高麗経澄(こまつねずみ。桓武平氏の秩父氏一門出身)が、小沢城に籠もった 足利直義(足利尊氏の実弟)の軍勢を攻め落とした記録が残されている。この時、いったん 城館、城塞ともに全焼したという。

戦国時代の 1504年には、扇谷上杉家当主の 上杉朝良(1473?~1518年)を支援するため、駿河国 守護・今川氏親から打診された伊豆の 北条早雲(1456?~1519年)が援軍として多摩川河畔に着陣する。この戦いで早雲らは、武蔵国守護で山内上杉家当主だった 上杉顕定(関東管領)の軍の撃破に成功する。早雲はその帰路に上杉朝良配下の 武将・大森藤頼(?~1498/1503?年)の本拠地だった小田原城を不法占拠してしまい(1495/1501?年)、そのまま扇谷上杉家とも敵対関係に入るわけである。以降、早雲は相模国への軍事侵攻を繰り返すようになり、両上杉家と対立しながら死去する。

その家督を 北条氏綱(1487~1541年)が継承すると、引き続き、武蔵国の上杉領への圧迫を強め、多摩川を境としてにらみ合う展開となっていく。 この過程で、氏綱の 長男・北条氏康(1515~1571年)の初陣戦が、この 小沢城~新百合ヶ丘一帯の丘陵エリアで勃発する(小沢原合戦)。下地図。

1530年6月、最前線の小沢城に配置されていた北条氏康 1,000騎らは、上杉朝興(武蔵国守護)の軍勢 5,000の大軍が多摩川を渡河し攻撃してくると、まずは寡兵で打って出て敗走し、敵を油断させた上で、そのまま上杉軍を新百合ヶ丘の丘陵地帯に着陣させる(現在の「金程」地区。下地図)。そして、城外に潜ませていた別動隊に夜襲をかけさせて上杉陣営を大混乱に陥れると、再び小沢城から打って出て、上杉軍をさんざんに挟撃し多摩川北岸へ潰走させ、劇的大勝利を収めるのだった。この時、氏康が勝鬨を挙げるために上った坂が今も残されている(勝坂)。下地図。
この北条氏の支配時代、特に武蔵国との国境争いが続いた上記のタイミングで、小沢城は大規模に増強工事を施されたと考えられる。しかし、1590年の北条氏滅亡とともに、廃城となる。

その後、跡地は放棄されたままとなっていたが、江戸時代に入ると富士講が流行し、城山が富士塚として利用されるようになり、1806年に富士塚の祠が、 1860年に「富士登山三十三度大願成就」記念碑が建てられ、今も現存するわけである。
太平洋戦争中には山頂に探照灯が設置され、生田にある 桝形山(桝形城跡)に設けられた高射砲と呼応しつつ、空襲にやってくる B29を砲撃していたという。

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もし、余力があれば、小沢城から南進し、新百合ヶ丘駅まで歩きながら、北条氏康の初陣古戦場跡も巡ってみたい。北条軍が夜襲を決行するために別動隊を潜めさせていたと言われる「(上麻生)隠れ谷公園」、氏康が勝鬨を挙げたという「勝坂」などが、地名として今も残されている。途中にある 麻生川(陣川)、主な戦場地とされる 上杉軍陣地「金程(川崎市麻生区金程)」一帯なども巡ってみたい。上地図。



小沢城跡を見学後、北に流れる三沢川沿いを東進し、 新指月橋の次の 橋(菅親水広場近く)にある、 バス停「菅北浦三丁目」から、小田急バス(読 05、生田折返場 行)に乗車する。毎時 3本ほど運行されており、特に乗り遅れの心配も無いルートだった。
7分ほど乗車後、バス停「馬場南」で下車する
。下地図。

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ここから北へ 1分ほど移動すると、「菅馬場谷特別緑地(菅馬場谷森林保存地区、川崎市多摩区菅馬場 2丁目)」がある。この森林公園が「菅寺尾城跡」というわけだった。寺尾台団地 18号棟の西側に遊歩道入口がある。下地図。

現在、城跡の遺構は北端の緑地公園内に空堀と切通し、土塁がわずかに残るだけとなっている。南半分に寺尾台団地が建設されたことで、遺構の大部分が喪失されてしまったという。あわせて、近くにあった八角堂跡にも立ち寄ってみた。下地図。

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かつては「寺尾城」と称されていたが、横浜市 鶴見区馬場 3丁目にある「寺尾城」と混同を避けるため、現在の地名を取って「菅寺尾城(すげてらおじょう)」と表記されるようになったという。両城ともに、諏訪氏が城主を務めたようである。
戦国時代初期に寺尾若狭守によって築城され、北条氏の家臣に組み込まれて以降、諏訪氏を名乗ったのだった。この諏訪氏に関する歴史資料は皆無で、両城を含め詳細は一切、不明という。なお、埼玉県川越市の寺尾城も、この 諏訪氏(寺尾氏)に関係する城と考えられている。

多摩川の河畔に突き出す標高約 66 mの河岸段丘の、先端部分を切断する形で築城された根小屋スタイルで、小沢城と 枡形城(下地図)の中間に位置する「中継拠点」的存在だったようである。



菅寺尾城跡(下地図 左上端)の見学後、 再び、バス停「馬場南」に戻り、同じ 小田急バス(読 05、生田折返場 行)に乗車してもよいが、乗車時間は 3分ほどの距離なので、小田急線「読売ランド前駅」までの直線道路を徒歩移動することにした。上段バス・ルートマップ参照。

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「読売ランド前駅」から小田急線に乗車し、「向ヶ丘遊園駅」まで移動する(上地図)。この駅南口から線路沿いを 500 mほど西進すると(徒歩 10分強)、枡形(ますがた)山の山麓に立地する「広福寺」に行き着く。下地図。

鎌倉時代初期に、枡形城跡を築城したとされる稲毛重成の居館跡という。もともと平安時代初期の 840年前後に慈覚によって開山された寺院があったが、その後、荒廃したようで、稲毛重成の居館造営とともに再興されたというわけだった。
稲毛重成(?~1205年)の妻は北条政子の妹であり、源頼朝とは親族関係ということで有力御家人として出世するも、1205年に 忠臣・畠山重忠(1164~1205年)の謀反を誤伝したとして言いがかりをつけられ、当地で北条執権家により攻め滅ぼされてしまうのだった。こうした背景から、この跡地に残る広福寺には、復興の恩人であり、悲劇の最期を遂げた稲毛重成の供養塔が、今も大切に保存されているわけである。

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稲毛重成は居館をここに建設するとともに、南にそびえる枡形山に避難用の簡易な 城塞(根小屋スタイル)を築城したのだった。現在、一帯は生田緑地と呼ばれる自然公園となっており、その北端にある小山が「枡形山」であった。

登山にあたっては南側からの方がアクセスが容易らしかったが、北面の急斜面から登山を決行した。約 10分ほど登ると枡形門をくぐり、曲輪跡地の 広場(東西 130 m × 南北 80 m)に行き着ける。この展望台エリアに城址婢が設置されていた。四方は急こう配の崖斜面が続いており、なかなかの要害の地形であったことが窺い知れる。このような外観が「枡」の形に似ていることから、そのまま「枡形山」と呼称され出したようである。


秩父平氏の一門だった小山田有重の 子・稲毛重成(?~1205年)により築城されたという。稲毛重成は北条政子の妹を妻に迎えており、源頼朝の親類縁者として幕閣の一人に加えられ、その縁で多摩川西岸の一帯を下賜されていた。直後に居城として小沢城を築城していたが、1195年に妻が死没すると出家し、家督と小沢城をそのまま子の 重政(?~1205年。小沢姓を名乗っていくこととなる)に譲渡した後、枡形山の山麓へ隠遁し、ここに居館と避難用の城塞を造営した、というわけだった。下地図。

枡形山は多摩丘陵の西端に位置する小山で、四方を断崖で囲まれた天然の要害だったことから、築城の目星がつけられたのだろう。しかし、1199年に頼朝が死没し、執権北条家が台頭してくると、次々と有力御家人らが滅ぼされていく中で、 1205年の畠山重忠の誅殺と同時に、稲毛重成・小沢重政父子も誤伝密告の冤罪を着せられ、北条軍によって攻め滅ぼされてしまうのだった。

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その後、しばらく歴史の表舞台から遠ざかった枡形城であったが、戦国時代初期の 1504年9月、関東の兵乱に首を突っ込んできた北条早雲が入城した史実が突然、書き込まれることとなる。
この時代、関東管領・上杉家は山内上杉家と 扇谷上杉家に分かれて対立しており、関東の武士団を二分して、度々、武力衝突を繰り返していた。この時、扇谷上杉家 当主・上杉朝良の支援要請により、駿河の今川氏親が関東入りすると、伊豆の北条早雲も加わって、この多摩川沿いの枡形城に着陣したのだった。
そして、多摩川の河原で山内上杉家 当主・上杉顕定の軍と激突し、山内上杉軍を打ち破るわけである(立河原の戦い)。

また 1569年秋に甲斐の武田信玄が関東出兵してきた際、その別動隊が相模国東部や武蔵国西部を蹂躙する中、この地の豪族だった横山式部少輔弘成が、枡形城を補強して武田の侵攻に備えた記録も残されている。



見学後、 枡形山の東面から山麓へ下り、バス停「生田緑地入口」から川崎市路線バス(溝 19)に乗車し(1時間に 1~2本あり。上段地図)、バス停「宮ノ下」か「下作住宅前」で下車する。下地図。

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この小高い丘陵上にあった作延城であるが、現在は、丘陵全体が 市営墓地「緑ヶ丘霊園」となっている(上地図)。周囲を広く見通せる高台で、多摩丘陵の端っこをうまく加工して築城されていたようだが、目下、城郭遺構は皆無で、墓地の管理事務所の隣に城址記念碑と解説板が設置されているだけだった。

そのまま西側へと連なる多摩丘陵沿いにハイキングコースが整備されており、生田緑地の枡形城跡まで歩けるらしかった(長尾山 妙楽寺を経由。下地図)。


本城は、鎌倉時代初期、幕府の 御家人・稲毛重成(?~1205年。桓武平氏の 末裔・秩父氏の一門)が、隠居城である 枡形山城(今の生田緑地)を築城した際、その支城として造営したと考えられている。

重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の近親者&側近として出世するも、1195年に妻が死去するとすぐに隠居してしまい、家督と 居城・小沢城を実子の 稲毛重政(小沢重政)に譲るのだった。その際、枡形山の山麓へ隠棲するわけだが、1999年に頼朝が死去すると、執権北条氏が台頭し、有力御家人らの排除が開始される。この一環で 1205年に畠山重忠が誅殺されると、そのあおりを受けて北条義時により父子ともに粛清されてしまうのだった。このタイミングで、作延城も廃城となったようである。江戸時代にはすでに遺構は存在していなかったと記録されている。

そもそも、多摩川の右岸に沿って伸びる多摩丘陵は自然の要害をなし、中世を通じて 鎌倉 を守る外側防衛ラインとして期待され、小沢城や枡形城などの丘城が点々と配置されていた(下地図)。その一つが作延城であり、多摩川の防衛ラインを構成していたと考えられる。

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なお、もともとこの丘陵一帯には、平安時代初期の 851年に円仁が建立したという「長尾寺」が立地していたといい、長らくの兵乱で荒廃していたため、1180年に頼朝の挙兵で 京都 から駆け付けた頼朝の 異母弟・阿野全成(1153~1203年。源義朝の七男。北条家により後に粛清される)に与えられ、再興を託されたという(1180年11月)。平治の乱直後から、幼かった 阿野全成(7歳)は出家させられており、修行僧の姿で頼朝と面会したことから、そのまま長尾寺の住職と所領を与えられたようである。以降、源氏の祈願所として「威光寺」と称されるようになる。

その後、阿野全成自身は駿河国沼津に領地を与えられ転出すると、阿野全成の 妻、稲毛重成の妻ともに、頼朝の 妻・北条政子の妹であり、お互いに親族関係ということもあって、当地に隠棲した重成に「威光寺」や周囲の所領が譲渡される。直後より、これを主郭とする簡易な城塞に改造されたと考えられる。しかし、1203年に阿野全成が、1205年に稲毛重成が、それぞれ北条氏によって滅ぼされると、そのまま作延城も廃城となる。以降、「威光寺」としてのみ存続し、その一院として妙楽寺が丘陵上に開設されると、これが現在まで「長尾山 妙楽寺」として継承されているというわけだった(上地図。威光寺は現存せず)。



その後、丘陵斜面を下りながら 10分ほど歩くと「JR津田山駅」に行き着く(上地図)。そのまま南武線で投宿先の 八王子駅前、もしくは 調布駅前 まで帰り着いた。

もし、まだ余力があれば、「溝の口駅」から東急双子多摩川線に乗り換えて「鷺沼駅」まで移動し、有馬城跡(戦国時代、北条氏の家臣で御馬廻衆だった 窪田又五郎の城館跡。高さ 20~30 mほどの丘陵上に造営されていたが、目下、城塞遺構は全く現存せず)にも立ち寄ってみたい。上地図の右下。


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