BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月--旬


神奈川県 鎌倉市 ~ 市内人口 17.5万人、一人当たり GDP 320万円(神奈川県 全体)


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  妙本寺、比企能員の 邸宅跡地(比企ヶ谷)
  日蓮上人辻説法跡
  宇都宮辻子幕府 跡地(1225~1236年、鎌倉将軍の 御所&幕府政庁)
  若宮大路幕府 跡地(1236~1333年、鎌倉将軍の 御所&幕府政庁)
  宝戒寺(北条執権家の 邸宅「小町亭」跡地)
  北條時政邸 裏門跡
  東勝寺跡(祇園山。北条氏の菩提寺。幕末時に北条高時ら一門 自刃の地)、腹切り曲輪
  大倉幕府 跡地(大蔵御所。源頼朝・頼家・実朝の 御所&幕府政庁)
  大倉山(源頼朝の墓、大江広元の墓、毛利季光の墓、島津忠久の墓、北条義時の墓など)
  杉本城跡(杉本寺。南北朝時代の「杉本城の戦い」の 戦死者 供養塔)
  畠山重忠の 邸宅跡地
  鶴岡八幡宮、筋替橋(鎌倉十橋)跡
  巨福呂坂切通し(小袋坂)、鶯谷山
  英勝寺(扇谷上杉家 屋敷跡、太田道灌 屋敷跡)、亀ケ谷坂切通し
  鎌倉歴史文化交流館
  極楽寺坂切通し、大仏切通し
  稲村ヶ崎(1333年5月22日、新田義貞が引き潮のタイミングに、鎌倉へ突入したルート)
  名越切通し・第 1切通し
  杉本城跡(正覚寺、住吉神社)



投宿先の 横浜駅前 から、丸一日を使って「鎌倉」を訪問してみた(JR横須賀線、横浜駅 → 鎌倉駅。所要時間 24分、交通費 350円)。
もしくは、ホテル代が最安値となる日曜日に 大船駅前 まで移動し、「相鉄フレッサイン 鎌倉大船駅東口」に投宿してから、より接近した鎌倉へアクセスしてみてもいいだろう(JR横須賀線、大船駅 → 鎌倉駅。所要時間 6分、交通費 160円)。

鎌倉市内はレンタサイクル料金が高いため(普通自転車 1日 1,600円。鎌倉駅東口前にある JRバス店舗内)、徒歩で巡ることにした。鎌倉の町はこじんまりとしており、 2~3時間ほどで一周ぐるっと散策できるサイズだった。前半は徒歩で旧市街地を散策し、後半は江ノ電や路線バスを駆使しつつ、山沿いの「切通し(極楽地駅、稲村ケ崎駅 など)」や、逗子市側の「住吉城跡」を見学することにした。

当地訪問テーマは「鎌倉幕府の行政府 巡り」とし、幕府の政庁跡地や 有力御家人の屋敷跡、墓所などをメインに散策してみた。おのずと、鶴岡八幡宮の東側一帯が”主戦場”となった(下地図)。

鎌倉市

まずは「比企能員の邸宅跡地」に立ち寄ってみる。その跡地は現在、「妙本寺」となっており、この総門脇に「比企能員邸跡」の解説板が設置されていた。上地図。


源頼朝の伊豆配流中、その乳母だった 比企尼(ひきのあま。生没年不詳。下家系図)が、京都 時代から引き続き、頼朝をよく支援したことから、尼の養子だった 比企能員(?~1203年。武蔵国の国人。下家系図)に対する頼朝の信頼も相当に厚かったようである。こうした背景から、1182年夏、 頼朝の 妻・政子は 嫡男・頼家の出産時、実家の北条家邸宅ではなく、この比企能員の邸宅に滞在したほどであった(この時、この比企尼が邸宅内に同居していた)。以降も頼朝に庇護された比企一族が邸宅を構えたことから、このエリアは「比企ヶ谷(ひきがやつ)」と称されることとなる。

頼朝存命中、比企能員の 娘・若狭局(わかさのつぼね。下家系図)が、次期将軍・源頼家の側室となり(正室は不詳)、1198年に 一幡(いちまん)という長男を出産すると(若狭局 17歳)、次々期将軍が比企氏系へ決定的となっていく。比企氏の権力がますます増大し、次世代で北条家は勢力基盤を喪失してしまう絶体絶命のピンチ真っ只中だった 1198年末、頼朝が原因不明の体調不良となり、翌 1199年正月に急死することとなる(享年 52)。

鎌倉市

その後、鎌倉幕府の運営は 13人の有力御家人による合議制が決定されるも、2代目将軍・源頼家は幼少時より近しかった比企氏寄りの姿勢だったことから、 1203年7月末に頼家もまた謎の病に倒れることとなる。その危篤中に、母の 北条政子(頼朝が 1999年に急死して以降、未亡人となっていた)が頼家の 権力基盤(関西にあった複数の地頭職)を 2分割し、頼家の 弟・千幡(せんまん。後の源実朝。上家系図)に分与しようとすると、義父だった比企能員が激怒し、密かに北条氏を滅ぼそうと頼家と合作するようになる。しかし、この企てを隣室で聞いていた北条政子が父の北条時政に伝えると、逆謀略を計画し、すぐに北条時政は仏事と称して比企能員を自邸へ招いて、そのまま暗殺してしまうのだった。これに反発した比企一族はあわてて自邸に立て籠るも、北条方の手勢に攻め滅ぼされてしまう。この戦いで、若狭局や 長男・一幡(6歳)も死亡することとなる(9月2日)。
その後、この比企氏邸宅跡には、一族を弔う「妙本寺」が建立され、今に至るわけである。

直後より病状が急回復した頼家が比企氏滅亡を知ると大激怒するも、北条家によって表向き病死扱いされてしまい、将軍を廃位され伊豆の修禅寺へ幽閉される。そして翌 1204年7月、北条家の手の者により暗殺されてしまうのだった(享年 23)。



再び「若宮大路」まで戻る途中、「日蓮上人辻説法跡」に立ち寄りつつ(上段地図)、「宇都宮辻子幕府(別称:宇津宮辻子幕府)」跡地に足を運んでみる(下絵図)。

ここは、鎌倉時代前期の 1225~1236年の 11年間、宇都宮辻子(小路)沿いに開設されていた、鎌倉将軍の御所&幕府政庁の跡地という。1219年冬、3代目将軍・源実朝(1192~1219年)が暗殺され、次期将軍候補が不在となる中、朝廷内の 摂関家・藤原氏から男児に下向してもらい、名目だけの将軍に据えることが決定される(2代目将軍・頼家の 娘・竹御所【1202~1234年】と婚約し、婿養子に入るという形での将軍就任であった。正式に結婚するのは 1230年で、竹御所 29歳、頼経 13歳の時であった。。。)。こうして 1225年末に協議がまとまると、時の 執権・北条泰時(1183~1242年)は源頼朝が政務を行った大倉幕府から幕府政庁兼御所を転出させ、新たにこの場所に政庁兼御所を建設する。翌 1226年1月に鎌倉入りした、4代目将軍・藤原頼経(当時 8歳。摂関を歴任した九条道家の三男)をここに居住させたのだった。

しかし、成長と共に頼経は、執権・北条家の独裁体制に反感を抱いた他の御家人らに接近するようになったため、1236年、先手を打った北条泰時が、自邸を将軍御所および政庁として譲渡すると(以降、若宮大路幕府と呼ばれる)、この施設も廃止されることとなる(これより先の 1234年、藤原頼経の正室だった竹御所は、男児出産時の難産のため母子ともに死没していた【享年 33】。頼経 17歳のとき。この結果、頼朝の直系はなくなり、源氏将軍の血筋は完全に断絶してしまうのだった。上家系図)。
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続いて、北隣の「若宮大路幕府」跡地を訪問してみる。上絵図。
若宮大路幕府は、先の「宇都宮辻子幕府」から強制的に 4代目将軍・藤原頼経を移住させ、将軍御所兼幕府政庁とさせた屋敷であった。元々は、執権・北条泰時(1183~1242年)の邸宅だった場所で(下地図)、三浦氏 など将軍へ接近する御家人たちを分断する策略の一環であった。以降、1333年に幕府が滅亡するまでの 98年間、将軍御所兼幕府政庁を担うこととなる。元寇前後の 1275年(文永の役の翌年)に執権・北条時宗がモンゴルからの使者と謁見した場所も、ここであった。 1333年に新田義貞が鎌倉へ突入すると、この屋敷も戦火の中で灰燼に帰したという(なお、宮将軍で八代目将軍職にあった守邦親王は、この戦火の中で生き残っている)。

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そして東側へ移動し「北条執権邸跡(現在の宝戒寺)」を訪問してみる。上地図。
先述の通り、執権・北条泰時が自邸を 4代目将軍・藤原頼経へ譲ったことから、新たに邸宅を構え直した地である。以降、「小町亭」と称され、歴代の北条氏本家がここに居住したという。
ここは、悪名高い最後の 執権・北条高時が、趣味と享楽にふけった生活を送ったとされる場所でもあるが、実はかなり病弱な人物だったようで、戦勝側の後醍醐天皇方がイメージ戦略として誇張した人物像だった、と解釈されている。

1333年5月22日に新田義貞が鎌倉へ突入した際、若宮大路幕府政庁とともに炎上してしまったという。戦後の 1335年、自刃して果てた北条一族の霊を鎮めるため、同じく炎上してしまった北条氏の 菩提寺「東勝寺」を移築する形で、屋敷跡地に「宝戒寺」が創建される。この寺院が、今も同じ場所で存続されているわけである。


JR鎌倉駅東口より徒歩約 10分ほどに位置する宝戒寺(ほうかいじ)の入り口脇に、「北條執権邸舊蹟」(北条執権邸旧跡)の石碑が建つ。
2代目執権・北条義時(初代執権・北条時政の次男)が自邸を、4代目将軍・藤原頼経へ譲った後に造営&居住し出した邸宅で、以降、1333年に鎌倉幕府が滅亡する瞬間まで、北条執権家の屋敷であった。当時は「小町亭」と呼ばれ、実質的に鎌倉幕府運営の中枢を担った場所である。

鎌倉時代、鶴岡八幡宮の東側に幕府の将軍御所や御家人ら邸宅が立ち並んでいたわけだが、1333年5月22日に新田義貞軍が鎌倉へ突入してくると、北条邸「小町亭」をはじめ、すべての居館に火が放たれ、生き残った者たちは東の祇園山へと逃げ延びていく。
当時、祇園山には東勝寺という避難要塞を兼ねた北条家の氏寺があり、これら山麓の邸宅から焼け出された幕府御家人一族や北条氏一門らが最後に立て籠ることとなる。しかし、男らの多くは鎌倉周囲の切通し防衛のために出払っており、ほとんどは女子供であったと考えられる。到底、攻め寄せる新田義貞の軍勢を防ぎ切れるはずもなく、焼け広がる鎌倉の町を見下ろしながら、ここで 14代目執権・北条高時はじめ、 870名近い人々が自刃して果てたという。

鎌倉市

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1331年に後醍醐天皇が 笠置山(笠置城)で挙兵するも失敗し(元弘の乱)、いったん隠岐島へ流されるも、島を脱出した後醍醐天皇は 1333年に再挙兵する。これに有力御家人だった 足利尊氏 や新田義貞、赤松則村 らも呼応し、前者により六波羅探題が制圧され、後者により鎌倉が攻め落とされて、幕府は滅亡してしまうわけである。

この時、新田義貞の軍勢は怒涛の勢いで幕府軍を撃破しながら南進し、鎌倉郊外に達している(幕府軍が大幅に後退し、鎌倉の地で迎え撃つ作戦を取ったことも背景にあった)。上地図。
こうして、現在の藤沢市中心部あたりに着陣した新田軍であったが、鎌倉が誇る「切通し」の要害に侵攻を阻まれ続けていた(上地図)。洲崎の戦いなど、鎌倉から出撃してくる幕府軍と抗戦しながら周囲の情勢を伺っていた新田軍は、稲村ケ崎の波打ち際が時間帯により 陸地化(干潟)することを聞きつけ、ここを突破口として新田義貞自らが突入することとなる。そのまま極楽寺切通し、大仏切通し、化粧坂切通しなどを守備する幕府勢を駆逐し、鎌倉外にいた自軍を鎌倉府中に引き入れると、鎌倉は阿鼻叫喚の嵐に包まれるのだった。最終的に生き残った北条氏一門や御家人らは、祇園山の東勝寺に追い詰められ、眼下で燃え盛る鎌倉の町を前に自刃して果てたという。その跡地は、現在、「北条高時 腹切りやぐら」として保存されている。

その後、1335年、北条氏の怨霊を恐れた後醍醐天皇の命により、足利尊氏が北条一門の慰霊のために宝戒寺を建立することとなる。一門が自刃した東勝寺を再興させる形で、北条家の 邸宅「小町亭」跡地に社殿が造営され、「宝戒寺」へ改称されたというわけだった。



そのまま東進し滑川を越えて、祇園山の麓にあったという「東勝寺」跡を訪問してみた(下地図)。

鎌倉時代当時は、北条家の菩提寺であり、また避難用の要塞施設でもあったという。新田義貞軍に追い詰められた北条高時ら北条一門や生き残った御家人らが立て籠もり、最後に自ら火を放って自刃して果てた地である。「腹切り曲輪」と通称される、主郭のような平坦地が残っている。

鎌倉市

そして、再び山麓に戻り、滑川を北上する形で、「大倉幕府(大蔵御所)跡地」を訪問する。上写真。
この地はもともと「相模国鎌倉郡大倉」と称されており、1180年に挙兵後、同年 10月に鎌倉入りした 源頼朝(1147~1199年)が居館を構えた場所である。 1192年に正式に征夷大将軍に任じられるまで、この地が頼朝政権の中枢であり、鎌倉幕府が成立して以降は、そのまま幕府政庁となっている(1219年に 3代目・源頼実が暗殺されるまでの 39年間)。その後、将軍職が空位となるも、1225年末に 京都 から 4代目将軍・藤原頼経(8歳。摂関を歴任した九条道家の三男)の下向が決定されるまで、そのまま実質的に幕府政庁であったと言える。
そして、この宮将軍の下向にあわせて、2代目執権・北条義時(1163~1224年。北条時政の次男。北条政子の実弟)が 新御所(宇都宮辻子幕府)を建設し、幕府政庁ごと移転させるわけである。

続いて、後方にある大倉山に登ってみる(下地図)。
この山中には、源頼朝の墓、大江広元(1148~1225年)の墓、毛利季光(1202~1247年。大江広元の四男。毛利元就の祖先にあたる)の墓、島津忠久(1179~1227年。薩摩島津氏の祖)の墓、北条義時の墓など、幕府初期の重鎮や功労者らの墓所が集中して立地する。鎌倉時代を通じ、将軍や御家人らは度々、この山に登り、鎌倉の町や由比ヶ浜を見渡したに違いない。

鎌倉市

下山後、再び大倉幕府跡地に戻り、ここから東 600 mの場所にある 杉本寺(鎌倉市二階堂 903)を訪問する(上地図)。
この裏山(大蔵山)上に、かつて「杉本城」という城塞があったという。ただし今日現在、大蔵山自体は私有地となっており、勝手に散策はできないので、杉本寺の境内に立ち寄るだけとなる。

この杉本寺は、行基が開山した鎌倉最古の寺であり、苔むした階段、茅葺き屋根の山門などは実に見事で、市街地の喧騒とは全くの別世界を現出させていた。この観音堂横の五輪塔群は、南北朝時代に勃発した「杉本城の攻防戦」で戦死した者の供養塔、と伝承されているという。
また余力があれば、大蔵山の北斜面側からも少し登山を試みたい(上地図の矢印)。


三浦氏の 当主・三浦義明(1090年代~1180年。下家系図)は、三浦半島の中央に位置する衣笠城を本拠地としつつ 、その勢力圏の西端に位置する鎌倉から三浦半島へと通じる 街道「六浦道」「三浦路」を抑える 要衝(鎌倉郡杉本郷)に、長男の 三浦義宗(1126~1164年。下家系図)を派遣し城塞を築城させ、そのまま居城とさせていた。以降、義宗は地名を冠し、杉本義宗と称するようになる(杉本氏の祖。下家系図)。

しかし、杉本義宗は 1163年秋、父の命令により房総半島へ出兵した際、戦傷を負ってしまい、翌 1164年にこの杉本城内で死去すると(享年 39)、義宗の 次男・杉本義茂(生没年不詳。下家系図)が杉本城主を継承する。なお、義宗の長男は 和田義盛(1147~1213年。下家系図)で、すでに三浦郡和田郷に領地を分与されていたことから、和田姓を名乗っていた。
鎌倉市

1180年に源頼朝が平家打倒を掲げて伊豆で挙兵すると、三浦義明 もこれに呼応し、孫の杉本義茂も杉本城で軍備を始める。そのまま西へ向けて先発し頼朝らとの合流を図るも、相模国西端の石橋山で頼朝が早くも大敗してしまうと、あわてて杉本城へ引き返してくるのだった。しかし、平家方として出兵してきた 畠山重忠(17歳。父に代わって出陣していた。上家系図)の軍もちょうど鎌倉入りしたタイミングで、両軍は鉢合わせになってしまう。
畠山重忠は、自身の母親が三浦義明の娘であったことから、杉本義茂とは親族関係にあり戦いを避けるために和睦交渉をもちかけるも、弓の名手で武芸に自信のあった杉本義茂はこれを拒否し、逆に杉本城から打って出て畠山軍と激突する。しかし多勢に無勢の中、間もなく杉山城は落城し、杉本義茂らは祖父のいる 衣笠城 へ撤退することとなった。

そのまま 住吉城(神奈川県逗子市。末尾参照)を攻略し、衣笠城下まで押し寄せた平家の 大軍(畠山重忠ら)は、当主・三浦義明を自刃に追い込むも、他の 三浦一族(三浦義澄、杉本義茂、和田義盛らも含む)らを房総半島へ脱出させてしまうのだった。彼らは、同じく房総半島に落ち延びていた頼朝一行と合流を果たし、再決起することとなるわけである。以降、杉本義茂は頼朝挙兵の当初から臣従した古参武士として、頼朝から厚い信頼を寄せられ、幕府開府後も頼朝の最側近の一人として幕閣に加わっていく。

その後、杉本城は引き続き、鎌倉府内にあって重要な城塞として機能したようで、東の朝夷奈切通しからの敵の侵入に対応する前線基地として活用され続ける。鎌倉時代末期には、堀切や溜池、複数の曲輪群が増築されていたという。

鎌倉市

鎌倉市

しかし、1333年5月の鎌倉滅亡に際しては、特に戦火に巻き込まれることなく、残存したようである。その後、京都で後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、第六王子の 成良親王(7歳だった。1326~1344?年)が鎌倉府将軍に任じられ、足利尊氏の 実弟・直義が執権として同じく鎌倉へ派遣されることとなった。この時代、鎌倉府の町の復興が進められるわけだが、杉本城は引き続き、東の防衛拠点として継承されていたようである。

1335年7月、鎌倉幕府残党による反乱が関東で勃発すると(リーダ-は、最後の執権だった北条高時の 遺児・北条時行)、足利尊氏が後醍醐天皇に無断で実弟・直義の救援に向かい、反乱軍を掃討した後も(同年 8月)、そのまま鎌倉府に居座ってしまう。これに激怒した後醍醐天皇が尊氏追討令を発すると、尊氏軍も 京都 へ攻め上がり、北畠顕家(義良親王を封じ、陸奥将軍府の執事として東北へ赴任中だったが、京都へ駆けつけてきた。上地図)や 楠木正成、新田義貞の連合軍と、京都市中で激戦を繰り広げ、そのまま九州へ敗走するのだった(1336年)。

1336年5月、陸奥へ帰還した北畠顕家であったが、ちょうど同時期に畿内で湊川の戦いがあり、九州から舞い戻った足利尊氏が京都を再占領する。同年末、北畠顕家は後醍醐天皇から再上洛の命を受け、翌 1337年8月、再び義良親王を総大将として陸奥を出発する。そして、同年 12月23日に道中にあった鎌倉を攻撃し、翌 24日には占領に成功する(上地図)。この時、北畠顕家の軍には、新田義貞の 子・新田義興や、鎌倉幕府の 残党・北条時行らが合流するなど、関東一円の武士団も参陣しており、大軍勢に膨れ上がっていたという。その後、北畠顕家は翌 1338年1月2日に鎌倉を出発し、東海道を走破して 2~5月に畿内で足利尊氏らとの激闘を戦い抜き、最終的に戦死することとなるわけである(享年 21)。
なお、この 1337年12月23日の鎌倉攻めの際、足利方の 斯波家長(初代関東管領)が鎌倉府を守備すべく、この杉本城に籠城していたという。北畠顕家軍は東の朝夷奈切通しから鎌倉へ突入し、足利方を杉本城下まで押し込むと、城兵はことごとく討ち死にし、斯波家長や相馬重胤らも自刃、そのまま杉本城は落城したという(杉本城の戦い)。
以降、杉本城は破却され、その跡地に杉本寺が建立されて今日に至るという。



鎌倉市

下山後、横浜国立大学教育学部附属 鎌倉小学・中学校(偏差値 57。横浜校の方は偏差値 61)の脇を通って、「関東武士の鑑」と称えられた 名将・畠山重忠(1164~1205年)の居館跡を見学する。といっても、石碑が設置されているだけだった(上地図)。

そして、いよいよ西隣にある鶴岡八幡宮を参拝する(大倉山から徒歩約 10分、杉本城跡からは 15分ほどだった)。ここは当地随一の観光名所でもあるので、軽く散策するだけにしておいた。そのまま境内を東西に横断し、鶯谷地区まで進む。上地図。

ここから鶯谷山の坂を登り、鎌倉七切通しの 一つ「巨福呂坂(こぶくろざか)切通し」を見学してみる(上地図)。当時の古道は途中で行き止まりとなっており、山越えができなくなっている。行き止まりの直前に、江戸時代に設置されたという庚申塔や道祖神などの石塔群が見られる。
1886年に新たな山越えルートが整備され、その後に巨福呂坂トンネルが開通すると、現在はこちらの新道路のみが利用されているという。


現在、「小袋坂」と呼称されているが、 かつては 巨福呂坂、巨福路坂、巨福礼坂などと呼ばれた山越えルートであった。鎌倉から北へ通じる道は非常に急な坂道が続き、交通が不便だったため、1240年、3代目執権・北条泰時(1183~1242年。2代目執権・北条義時の長男)がこの「巨福呂坂切通し」を整備、開通させたという。

1333年5月の新田義貞軍による鎌倉攻めでは、左翼部隊を率いた糸口貞満が攻撃を指揮し、北条方の 北条(赤橋)守時(1295~1333年。16代目・最後の執権を務めた)との間で激しい攻防戦を繰り広げた場所である(5月19~22日、巨福呂坂の戦い)



鎌倉市

再度、鶯谷地区に戻り、鶯谷山の南端まで回って護国寺まで至る。すぐ前に JR横須賀線が通っており、この線路沿いにある英勝寺付近に、「太田道灌 屋敷跡」と「扇谷上杉管領 屋敷跡」の解説板が設置されていた(線路を挟んで、南北に立地)。


そもそも「扇ヶ谷」という地名は、鎌倉時代後期から存在していたようで、鎌倉府の北西へ通じる 街道「亀ヶ谷坂切通し」に続く谷間地区を指していた。もともとあった地名「亀谷山」や「亀ヶ谷」と兼ね合わせて、公家出身の 名門・上杉氏の居館がこの谷間に立地したことから、「扇谷殿」と称されていたという。そのまま 旧地名「亀ヶ谷」が廃れ、「扇ヶ谷」という名称が定着していったらしい(今日まで継承されている。上地図の左上)。

そもそも上杉氏は、鎌倉時代中期の 1252年、宮将軍として 宗尊親王(6代目将軍。1242~1274年。後嵯峨天皇の長男であったが、母親の身分が低いため皇位継承権がなかった)が 京都 から鎌倉へ下向する際、側近として随行してきた 貴族・上杉重房(生没年不詳。中級貴族だった藤原清房の次男。下家系図)を祖としており、彼の子孫がこの谷間に居館を構えたのだった。
1266年、11歳で下向していた宗尊親王も 25歳となると政治に口出しするようになっており、執権の 北条政村・時宗父子によって鎌倉から追放される。以降、その実子だった 惟康親王(3歳。1264~1326年)が 7代目将軍職を継承すると、側近だった上杉重房はそのまま鎌倉に留まり、武士となって鎌倉幕府に出仕し続けることとなった。

鎌倉市

その後、有力御家人・足利泰氏(1216~1270年。上家系図)・頼氏(1240?~1262年。上家系図)父子に接近し、重房の娘が足利頼氏の側室となり 家時(1260~1284年。上家系図)を生むと、そのまま足利氏の当主を継承する(2歳)。こうして足利氏の外祖父となった上杉家は、ますます足利家との姻戚関係を深め、重房の孫にあたる 上杉清子(1270?~1343年)が、家時の 子・足利貞氏(1273~1331年。上家系図)に嫁いで、足利尊氏・直義兄弟を生むわけである(上家系図)。

鎌倉幕府の滅亡後、足利尊氏が室町幕府を開くと(1336年)、鎌倉府には 三男・足利義詮(1330~1367年。後の 2代目将軍。その長男が足利義満)が派遣されることとなり、すでに足利家中で絶大な存在となっていた上杉家の 当主・上杉憲顕(1306~1368年。山内上杉家の祖。尊氏とは従兄弟の間柄。上家系図)が執事を任され、義詮を補佐することとなる。その後、義詮が 2代目将軍を継承すると、代わり 基氏(1340~1367年。足利尊氏の四男)が鎌倉府に赴任し(以降、鎌倉公方と呼ばれる)、引き続き、上杉憲顕がその補佐役として関東管領に就任するのだった。以降、そのまま上杉家が関東管領を 独占&世襲していくわけである。
なお、上杉憲顕が当主を務めた山内上杉家が事実上の本家だったことから(上家系図)、分家筋にあたる扇谷上杉家には、ほとんど関東管領職が回されることはなかった。室町時代を通じ、これが両上杉家の対立と関東での武家騒乱の火種となっていくわけである。



鎌倉市

そのまま線路沿いを南進し、いったん JR鎌倉駅前に戻ると、今度は江ノ電を駆使して南の海岸線を目指し、「極楽寺坂切通し(上地図 右端)」「稲村ヶ崎(1333年5月22日、新田義貞が引き潮のタイミングを狙って、鎌倉へ突入したルート)」を訪問してみた。上地図&下写真。

鎌倉市

軽く散歩した後、再び JR鎌倉駅に戻る。
さらに時間と余力があれば、東隣の逗子市境にある「住吉城跡」も訪問してみたい。基本的に路線バス往復なので(下地図)、追加での体力的な疲労はないと思われる。そのまま JR鎌倉駅へ戻るか、もしくは JR逗子駅まで移動し、電車で投宿先の 横浜駅前 へ帰還することにした。



 東隣の逗子市にある「住吉城跡」を訪問する

JR鎌倉駅東口前 ロータリーにあるバス乗車口 ⑦から、路線バス(逗子駅行、鎌 40)に乗車する(1時間に 3本あり。下地図)。13分のドライブ後、バス停「飯島」で下車し、とりあえず正覚寺、住吉神社を訪問してみる。

この境内には、城跡記念碑と 洞穴(抜け道跡)があるのみで、遺構自体には全く見ごたえはないが、この 扇山(標高 41 m)から眺める鎌倉の由比ヶ浜、さらに西端の 稲村ヶ崎、富士山は絶景であった。すぐ眼下には逗子マリーナが広がっており、海岸線に突き出た 岬(飯島崎)上に築城されていたことが分かる。
なお、城跡の敷地はまだまだ後方へと広がっているが、マンション「シーサイド​コート​逗子​望洋​邸」の敷地となっており、立ち入り不能だった。

下山後、再び、 バス停「飯島」から乗車し、終点の JR鎌倉駅、もしくは反対方向の JR逗子駅まで移動する。下地図は、鎌倉西部~逗子駅前へのバス路線図。

逗子市

平安時代後期、鎌倉と 三浦半島 との間にあった小坪漁港には、すでに一定規模の水運集落が形成され、その岬の高台部分には物見台のような軍事施設が設営されていたと考えられる。ちょうど三浦半島への出入り口付近に位置し、水上・陸上交通の要衝であったことから、三浦氏管轄の何らかの拠点が存在したことは容易に想像できる。

1180年、伊豆で源頼朝率いる 300騎が挙兵し、相模国への侵攻を開始するも、大庭景親の率いる平家軍 3,000騎に大敗してしまう(石橋山の戦い。9月14日)。これより前に三浦氏も援軍を派遣して相模国西部へ急行していたが(三浦義澄、和田義盛、杉山義茂ら 500騎)、頼朝大敗の知らせを聞いて、急遽、本国の三浦半島への帰路を急ぐこととなった。しかし、平家方の援軍として武蔵国秩父地方より駆けつけてきた畠山重忠の軍と、鎌倉で遭遇してしまう。この三浦家と畠山家は姻戚関係にあり、両者は積極的に戦火を交えることを避けるも、平家方から裏切りを指摘されることを恐れた 畠山重忠(17歳)は、とりあえず三浦軍を追って鎌倉の杉山城、さらに小坪漁港の住吉城まで迫ると、ついに両軍は衝突したようである(小坪合戦。9月20日ごろ)。
この時の戦いで、三浦軍は岬上にあった 物見台(後の住吉城)に布陣し、畠山軍を迎え撃ったと考えられる。

人数に勝る平家方はこれら三浦氏の防衛ラインを突破し、一気に三浦半島までなだれ込み、三浦氏の 本拠地・衣笠城まで追い詰める(9月26日)。高齢だった 当主・三浦義明は殿を務めて城内で自刃して果てるも、三浦家の 残党(三浦義澄、和田義盛、杉山義茂ら)は対岸の房総半島への海路脱出に成功する。このタイミングで、同時に亡命中だった頼朝らと合流し、房総半島で再挙兵に踏み切ることとなる(9月末)。この頼朝の逆襲に、当初は平家方に与していた畠山重忠も寝返り、後に幕閣として出世していくわけである(最終的に、頼朝は 10月6日に鎌倉入りする)。

その後、歴史の表舞台から姿を消した住吉城であるが、再び、歴史の脚光を浴びるようになるのは、室町時代中期、小田原の北條早雲が相模国の完全占領を目論み、東相模の 雄・三浦氏を攻め立てた戦役であった。下地図。

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この時、西相模を占領したばかりだった北条早雲は、東相模に楔を打ち込むべく、元々、三浦氏の勢力下にあった小坪漁港の住吉城跡を占領し、大規模に改修して自軍を配置したのだった。
これに対し、当時、三浦家の当主だった 三浦道寸(三浦義同)は、関東管領上杉氏の支援を受け、住吉城を攻略後、さらに西進して、平塚・岡崎城(今の 神奈川県伊勢原市。上地図)まで攻め込み、自らこの最前線に滞在して本拠地に定める。本領の 三浦半島 との中継拠点だった住吉城には、実弟の三浦道香を配置し、北条方と全面対決体制を整えていた。

しかし、翌年、北条早雲は瞬く間に岡崎城を攻略すると、敗走した道寸らは住吉城に逃げ込むも、ここもすぐに落城させられてしまうのだった。この時、三浦道寸・義意父子は三浦半島へ無事脱出するも、住吉城に残って殿を務めた 城主・三浦道香ら主従 7人は延命寺へ逃れ、自害して果てたという(1512年8月)。上地図。

北条早雲は、この三浦半島の西付け根に位置する住吉城を前線拠点とし、すぐに三浦半島攻略に取り掛かる。以降、三浦義同は 3年にわたって新井城に篭城するも、最終的に一族滅亡に追い込まれることとなる(1516年。上地図)。そのまま住吉城は廃城となったようである。



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