BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


京都府 亀岡市 ~ 市内人口 9万人、一人当たり GDP 330万円(京都府 全体)


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  明智光秀公像(南郷公園、2019年5月建立)
  亀岡市文化資料館
  亀山城跡、みろく会館(2F ギャラリー)、古世親水公園
  旧城下町、移築城門、火の見櫓跡、高札所跡、惣構跡(城下町を囲んだ 土塁城壁)
  丸岡城跡(西岸寺)
  並河城跡(法然寺)
  保津城跡、明智越え 登山道
  丹波 国府跡、国分寺&国分尼寺跡、愛宕神社(全国 総本山)、江島里城跡、千歳車塚古墳
  古世城跡(昌寿院、亀山城下の惣構 出入口「京口番所」跡地)
  馬堀城跡
  篠村八幡宮(六波羅探題 攻撃へと、足利尊氏が挙兵を決意した場所。以降、2度参拝)



関西周遊では、この 大阪 中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

もしくは、夜のうちに京都駅から JR山陰線に乗り換えて「亀岡駅」まで移動し(28分、420円)、そのまま 駅前(南口)の安ホテルに投宿してみるのも良いだろう(ビジネスホテル ポニー、一人 5,500円)。下地図。

さて亀岡駅南口をまっすぐ南下すると、亀山城の内堀に行き当たる。ここが 馬場通り(クリニッテルフェルド通り)で、少し東進すると「南郷公園」に到着できた(下地図。徒歩 8分)。2019年5月に建立されたという、園内の「明智光秀公像」を見学してみる。

また、その道路向かいに「亀岡市文化資料館(開館時間 9:00~16:30。毎週月、木曜休館。入館料 210円)」があったので、亀岡市の歴史を予習した後(光秀の丹羽平定戦に関するビデオ資料などは必見)、いよいよ「亀岡城跡」へ足を踏み入れてみることにした。下地図。

亀岡市

現在、亀山城跡の城山は、宗教法人・大本教の本部敷地となっているため、まずは総合受付で見学を申し込む必要があった。そのまま内堀や 本丸、天守台(石垣の高さ 6 m)などを見学する。内堀跡に建つ「みろく会館 2F ギャラリー」では、亀岡城の模型などが展示されていた(下絵図の一番大きな建物)。

もともと亀山城は、JR山陰線の建設工事のため石材などが持ち去られ、荒廃するままに放置されていたものを大本教が買い取り、自力で修復したという(石垣の下層 3分の1は、本来の石垣がそのまま残存)、異色な経歴を持つ城跡であった。組み上げられた石材を丹念に見ていくと、さまざまな刻印を施された石が寄せ集められていたことが視認でき、非常に興味深い。

また、かつて城内や城下町にあった亀山城関係の建物や城門は、市内各所に移築されており、後で自転車を借りて郊外散策する際に、度々、目にすることになった。

亀岡市



明智光秀(1516/1528?~1582年)は織田信長により、丹波&丹後国の平定を命じられると、その 軍事・統治拠点として「亀山城」築城に着手する(1577~78年)。
この当時は、まだまだ丹波国の支配もおぼつかず、陣城的な突貫工事で縄張り整備が進められたと考えられる。光秀が目を付けた 荒塚山(標高 117 m)であるが、まだまだ敵対勢力が割拠した北丹波方面を、保津川と流域の湿地帯で防備する観点から立地が選定されたと考えられる。最終的に山頂部に 3重3階の天守も組み上げられたとされるが、正確な史料が現存せず、詳細は全く不明という。

1580年に丹波国の平定を成功させた光秀は、信長から所領として公認されると、本格的に城下町の整備と領国経営を進めていく。この時、近隣の集落から住民らを呼び寄せ、城下町拡張を図ったようである。

その途中でも、光秀は畿内や播磨など各地の戦線へ駆り出されていたが、最終的に中国地方へ侵攻中の羽柴秀吉の援軍として出兵を命じられることとなる。こうして 1582年6月、手薄だった 京都 を襲撃し「本能寺の変」を起こすわけである。秀吉への増援部隊を率いて丹波亀山城から出発し、大山崎を抜けて西国街道へ入る予定だったが、途中で京都襲撃を決行したという流れであった。
それから 10日後、光秀は 山崎の戦い で秀吉に敗れ、伏見の山道から近江方面へ逃亡途中に落命することとなる(明智藪)

戦後、畿内で覇権を握った秀吉は、山陰道の入口にあたる要衝・亀山城を重視し、そのまま自らの直轄領に組み込むと、翌 1583年に 羽柴秀勝(1569~1586年。織田信長の四男で、羽柴秀吉が養嗣子となっていた。享年 18で病死する)を、 1590年には 羽柴秀俊(1582~1602年。秀吉の 正室・高台院の甥)を城主として送り込む。そして、この 羽柴秀俊(後の小早川秀秋)の治世下で、5重5階の 大天守(複合式層塔型)が完成されたという(1593年)。

しかし、間もなくの 1595年、羽柴秀俊が 小早川隆景(1533~1597年)の養子となり、小早川秀秋へ改名して、筑前国 名島城 へ移籍すると、続いて 前田玄以(1539~1602年。豊臣政権 五奉行の一人)が 5万石で城主に任命される。1600年の関ケ原合戦時、玄以は中立を保って 大坂城内 にあり、そのまま丹波亀山 5万石を追認される。2年後の 1602年に病死すると、三男(次男?)・前田茂勝(1582~1621年)が家督を継承するも、京都 を重視した家康により城主交代を命じられ、さらに奥地の 丹波国 八上城主 へ移封されることとなる(熱心なキリシタン大名であったことが問題視され、最終的に 1608年に改易されてしまう)。代わりに徳川家の譜代家臣で武闘派の 岡部長盛(1568~1632年)が、下総国 山崎(今の 千葉県野田市)より入封してくることとなった(32,000石)。

亀岡市

この岡部長盛の治世時代、天下普請により西国大名へ大動員がかけられ、近世城郭へと大規模に改修工事が加えられることとなった。この時、築城の 名手・藤堂高虎が縄張り設計を担当し、ようやく 1610年に完成を見るのだった。上絵図。
この時も、同様に 5層の 大天守(高さ 25 m、石垣の高さ 6 m)が組み上げられたというが、明治維新以降の 1877年に解体されてしまい、現存していない。今に伝わる大天守の古写真は、この明治初期に撮影されたものという。。

その後、岡部長盛は 丹波国・福知山へ転封され(1621年)、同時に三河国西尾より松平成重が 22,200石で入封されてくる。このまま江戸時代を通じ、菅沼氏、松平氏、久世氏、井上氏、青山氏らが藩主を務め、幕末期は松平家が藩主となっていた。

明治維新後、亀山城は廃城処分となって荒廃する中、宗教法人・大本が買い取って、現在に至るわけだが、前述の通り、現在、目にできる天守台の石垣は、この宗教法人によって自力で修復されたもので、その他の城郭遺構はもうほとんど残存していない。
ただし、城内にあった建造物は、その後、城下町や郊外へ移築されており、今でも 千代川小学校(新御殿門)や 西岸寺(移築城門)、保津地区の 第五区会議所(移築御殿)や文覚寺の 山門(移築城門)などで保存されている。

なお、もともとの城名や藩名が「亀山」なのに、なぜ現在、「亀岡市」となっているかというと、伊勢にある「亀山」との混同を避けるべく、明治政府により「亀岡」への改称を強制された、ということだった(城名に関しては、そのまま「亀山城跡」の使用が許される)。これは 1868年の戊辰戦争時、伊勢亀山藩が新政府側に与したのに対し、丹波亀山藩が幕府側についたため、敗れた丹波の方が改名を押し付けられた、という背景があった。



亀岡市

江戸時代に繁栄した亀山城の城下町は、明智光秀の治世下で基礎作りがスタートされ(1577年)、 1591年に 羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が入封したタイミングで、二ノ丸、三ノ丸、外堀の工事が完了し、1595年に豊臣政権 五奉行の 一人・前田玄以(1539~1602年。)が 5万石で入封した頃に、総構え 土塁「惣構」が完成したとされる。「惣構」内部の城下町は、さらに江戸時代を通じて発展、整備されていくこととなった。

この時、完成された「惣構」は、幅 10 m、高さ 4~5 mの巨大土塁で、総延長が 3 kmにも及び、その外側に幅 10 m、深さ 2~3 mの「惣堀」が掘削されていたという。この「惣構」には城門が設置され、城下町内外の出入りを監視しつつ、外的からの防衛ラインとしての機能が期待されたのだった。
目下、当時の惣構遺構はほとんど消失してしまっているが、その地形は用水路や道路の形にしっかり残されている(下地図)。

亀岡市

そして、この「惣構」内に整備された城下町の名残りも、今日まで継承されていた。「紺屋町」「本町」「京町」「魚屋町」「呉服町」「旅籠町」などの地名や、その道路沿いに残る切妻、京格子スタイルの商家など(上地図)。これらの旧家や 門跡、櫓跡が旧市街地に点在しており、案内板が道路脇のあちこちに設置されていた

そして、亀山城と 城下町(惣構内)との間には外堀があり、五城門(大手門、古世門、雷門、保津門、西門)によって接続されていたという。現在、南東方向への出入り口として機能した城門「古世門跡」のみが保存されている。上絵図。

なお、亀山城の本丸御殿は手狭であったことから、藩主の居館別邸が三の丸内にも設けられており、政庁と住居を兼ねた典型的な大名屋敷の設計であったという。当時の御館前に設けられていた 正面玄関「長屋門」は「新御殿門」として、現在、千代川小学校に移築されている。
また、この付近には亀山藩の 御勘定所(財務会計を担当)も設けられており、その跡地が今も保存されていた。

その他、旧城下町エリアには、桜の馬場跡(馬見所。馬廻り関係の藩士らの居住エリアだった)、火の見櫓跡(櫓に鐘を吊り下げ、火災時に鐘を撞いて知らせる設備。呉服町付近に設置されていた)、高札所跡(新発布の法令や、罪人の罪状などを記して掲げた板札。大手門へ向かう街道筋に設置されていた)、寺町地区跡(穴太寺など)、古世親水公園(当時、外堀としての機能の他に、田畑への用水路、馬の洗浄地ともなっていた)など、見所がたくさんあった。

亀岡市

続いて、郊外に点在する史跡群を巡るべく(上地図)、自転車を借りることにした。
JR亀岡駅前ポートで借りて、隣駅の JR馬堀駅前ポートで返却できる仕組みだった(かめまる観光レンタサイクル。利用時間:9:00〜16:00)。

1時間半ほど借りる予定とし、基本料金 220円 + 延長 165円(30分毎)を計画する。電動アシスト付き自転車ではなく、普通のシティサイクルだと半額らしい。いちおう、亀岡駅前に到着したら、先に料金明細を確認し、安ければ、午前早々からすぐにレンタルしたいと思う


亀岡市

そのまま自転車に乗って、曽我谷川の北岸にある「丸岡城(余部城)跡」へ向かう(上地図)。亀岡駅前にあった亀岡市文化資料館でも詳しい解説があり、事前予習はバッチリで臨めた。

かつての本丸跡は西岸寺の境内となっているが、城跡記念碑と解説板が設置されるだけで、城塞の遺構は全く残っていない。ただ、周囲より小高い地形となっており、亀岡市街地を一望できるロケーションだったことから、当時は眼下の河川や湿地帯をあわせた要害の地形、だったことは容易に想像できた。また、周囲には「古城(ふるしろ)」「政所」「古城浦」などの小字名が残っており、往時の城塞時代の記憶がしっかり地元で継承されているようだった(上地図)。


戦国時代末期になると、八上城(今の 兵庫県丹波篠山市)を居城とした 波多野秀治(?~1579年)が丹波国を支配するようになっており、丸岡城主・福井因幡守貞政もこれに従属する関係にあった。そこに、織田信長の命を受けた明智光秀が侵攻してくることとなる。当初、光秀は武力行使を避け開城交渉を進めるも(1577年)、福井氏が頑なに拒否したたため、翌 1578年早々、光秀軍は総攻撃を決行して攻め落とし、そのまま福井氏一族は自刃して果てる。

以降、一時的に光秀軍の前線拠点として転用されたと考えられる。丹波国でも有力国人だった福井氏が力負けしたことにより、丹波の他の国人衆らは戦わずに光秀に帰順するようになるも、八上城主・波多野秀治は最後まで抵抗したため、すぐに八上城への兵糧攻めが行われることとなる(1578年9月~1579年6月)。
その丹波平定戦の一方で、光秀は荒塚山に亀山城の築城をスタートすると、丸岡城はその前線の支城として機能したようだが、最終的に江戸時代の 1654年に廃城となっている。



亀岡市

さらに北上し、犬飼川と桂川の北岸にある「並河城跡」へ向かう(上地図)。
現在の法然寺とその東隣の竹薮一帯が、主郭跡地という。目下、土塁のような隆起した地形が残っており、過去の発掘調査でも、石垣や虎口などの存在が確認されている。上地図。

もともと並河城は、犬飼川と桂川など 3河川が合流する湿地帯に築城されており、2~3 mほど盛り土して 主郭部(縦横 70~80 mサイズ)が造営されていた(下絵図)。現在でも、この高台の地形はそのまま残存し、明らかに周囲より一段高い地形のままであった。

亀岡市

本城は両河川を外堀に活用しつつ、京都 まで通じる船着き場も装備されていたという(上絵図)。
平時には、この川船用の船溜港は干し上がっていたが、桂川や周囲の水田をせき止めることで水が満たされる仕組みで、そのまま主郭部から乗船してすぐに川を下ることができたという。かなりの内陸部にありながら、河川水運により大阪湾にまでつながる体制が整っており、城主・並河氏の経済&情報ネットワークを大いに支えたと考えられる。


城主は丹波国の 国人・並河氏で、室町時代にあって、丹波国 守護・細川氏や 守護代・内藤氏に仕えた在地豪族であった。ただし、いつ並河城を築城したかなどの詳細情報は、全く残っていない。

戦国期の 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、最初は丹波の国人衆らも 信長・義昭政権に臣従する。その後、三好三人衆が畿内で再挙兵し、さらに信長と義昭が対立するようになると、丹波勢も反信長包囲網に加わることとなる(1575年ごろ)。そんな中、並河城主・並河氏(丹波国船井郡代に任じられていた)は周囲に迎合せず、織田方に組することを選択し(南隣の 丸岡城主・福井貞政との反目があったと推察される)、いったん地元丹波を離脱したと考えられる。

畿内各地の平定を果たした信長は、1577年、家臣の明智光秀に本格的に丹波平定を命じると、並河家の当主だった並河易家も光秀の与力衆に加えられ、道案内役を任されることとなる(八上城攻め、など)。そのまま、1579年の 明智光秀・細川藤孝 連合軍による、丹後国 守護・一色義道(?~1579年)の討伐戦にも参加したのだった。

しかし 1582年6月に本能寺の変が勃発し、明智光秀が秀吉との決戦に挑むこととなると、この 山崎合戦 にも参陣して光秀を支えるも、戦死に追い込まれている。以降、丹波国が秀吉の直轄領に組み込まれると、並河城もそのまま破却されたと考えられる。



亀岡市

ここから一気に東進し、大堰川を渡って「保津城跡」を訪問する。上地図。

山麓にある大師堂に到着後、その 200 m背後ぐらいに「明智越え」登山口の案内板が設置されていた。この裏手すぐの竹林から、すでに城域ということだった。
登山道沿いを少し進んでいくと、コンパクトにまとまる城域や縄張りの全体像を見通せる。曲輪群を 3つに分断する 2本の深い堀切もしっかり健在で、見ごたえ抜群だった。この曲輪内には 土塁、空堀、櫓台などの遺構も残存しており、その規模から城主や家臣団の屋敷が立地した場所だったと推察できる。
また、登山口の案内板に、東側山麓にも砦があったことが言及されており、ここにも深い堀切が残っているということだった。

このまま 250 mを登ると、山頂「峯の堂(むねんどう=無念堂)」に至るわけだが、途中に「空池」と呼ばれる水のない池跡があり、そこに土橋のような地形が残存するも、これは城跡と関係するかどうかは不明。
この 山頂「峯の堂」には、引退した清和天皇が出家後、879年10月より始めた畿内巡幸の道中に立ち寄った、という伝承が残されているという。また、明智光秀が本能寺攻めの直前に愛宕山を参拝した 際(愛宕詣で)、この山道を通行したという説もあるという(「明智越え」登山道)。下写真。

亀岡市

なお、この保津城自体の歴史であるが、築城時期は全く不明で、わずかに南北朝時代初期の 1352年に攻め落とされたという記録が残っているだけという。戦国期に大規模改修され、現在の遺構の状態となったという説もあるが、今も全く謎のままの史跡であった。

また時間があれば、ここからさらに北上し、かつての丹波国の国府跡地や 国分寺、国分尼寺(御上人林廃寺)跡などと共に、愛宕神社(全国の愛宕神社の総本山。本能寺の変前に、明智光秀が連歌会に参加した地)も訪問してみたい。他にも周囲には、江島里城跡や千歳車塚古墳などの史跡も点在していた(上段地図)。

亀岡市

続いて大堰川を渡って南進し、「古世城跡」を訪問する。上地図。
現在、昌寿院と墓地が広がる一帯に立地したとされる(今も周囲により高台の地形が残る)。ここが二の丸跡地で、南側に本丸、西側に三の丸を配する、三曲輪体制で設計されていたようである。現在、昌寿院の山門前に解説板が設置されるのみで、一帯は完全に宅地開発されてしまっていた。

当城に関する詳細情報は一切、不明であるが、城主に菱田介次郎、あるいは楠氏があったと伝承されている。安土桃山時代に亀山城が築城される際、その総構えの南東端に組み込まれ、古世城の空堀がそのまま亀山城の「惣堀」として転用されたようである。1697年にはここに京口番所が設けられ、城下町の出入り口の一つとなったという。

亀岡市

そのまま東進し、JR山陰線(嵯峨野線)の馬堀駅前に到着する。上地図。
ちょうど、この駅がある一帯が馬堀城の本丸跡地で、駅南側にある高台部分が、当時の本丸の名残りという。この駅舎は、もともと高台だった本丸の北辺を掘削し、平地化して建設されたということだった。下絵図。

現在、全く城郭の遺構は残存していないが、地元の地名や寺院などに往時の記憶が刻み込まれていた(本丸西端にあった 徳寿院、小字「東垣内」「南垣内」「池ノ下」「見晴」など)。上地図。

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1570年代、山田家当主・山田五兵衛が馬堀城の城代を務めた記録が残されており、1577年から明智光秀が亀山城を築城する際、当地から人夫を動員し、城塞の設計から建設までを担当させたという。当時、丹波国内でも最も 京都 に近い集落だったことから、職人や商人らが多く集まる城下町を有していたと考えられる。

その後、光秀は三層の天守を完成させた後、築城の秘密を秘匿するため、山田氏一族を抹殺したという話が残されている。山田五兵衛以降、当主が代わっても、山田家には亀山城の絵図面を提出するようにとの指示が出され続け、これを嫌った山田家は男子を外へ養子に出すか、出奔させるかして、完全に男系を断つこととなったようである。
地元の人々は、旧領主の山田氏は亀山城の鯰になったと信じ、以後、鯰を食すことはなくなったと言い伝えられているという。


軽く駅前周辺を散策後、ここから徒歩 20分(自転車 7分)ほど南東にある「篠村八幡宮」にも立ち寄ってみる(上段地図)。ここは、京都府と亀岡市から登録文化財指定を受けた史跡で、室町幕府 初代将軍・足利尊氏(1305~1358年)が三度も足を運んだ神社という。

一回目は、1333年1月に再挙兵した後醍醐天皇を討伐する直前、当地で数日間、陣を敷いた際、この八幡宮に参拝したという。ここで後醍醐天皇方への寝返りを決意し、京都 の六波羅探題を急襲したのだった(同年 5月)。下写真。
二回目は、鎌倉 から京都まで攻め上がるも、 豊島河原合戦(1336年2月)で 楠木正成・北畠顕家・新田義貞らの連合軍に敗れて逃走する際、この八幡宮で敗残兵らの再集結を待った時であった。そのまま九州へと落ち延び、 3か月後には大軍勢を率いて京都まで攻め戻ってくることとなる(1336年5月に湊川の戦い、 8月に北朝の光明天皇即位、11月に権大納言に任命されて幕府開府)。
三回目は、室町幕府開府後の 1349年8月10日、自身の運命の瞬間に常に立ち会った謝意を示すべく、再訪したという。
亀岡市

そのまま自転車を JR馬堀駅前ポートで返却し、JR線で 大阪 まで戻ることにした。
なお、亀岡市中には、なかなか充実した史跡が残るので 2~4連泊ほどして、 JR山陰線沿いの 城跡(八上城 など)巡りも視野に入れつつ、ゆっくり滞在してみたいものである。


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