BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


京都府 京都市 伏見区 ① ~ 区内人口 27万人、一人当たり GDP 330万円(京都府 全体)


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  向島城跡、宇治川、太閤堤跡
  伏見港跡(伏見港公園)、三栖閘門資料館、伏見十石舟
  伏見・長州藩邸跡(禁門の変で敗退した長州軍が立てこもり、幕府軍の砲撃で全焼する)
  寺田屋跡(寺田屋騒動、龍馬襲撃事件の現場)、坂本龍馬 像、薩摩藩九烈士碑
  高瀬川(京都~伏見間の運河)と 角倉了以の記念碑
  材木置き場跡 ~ 定宿だった「寺田屋」で襲撃された龍馬が、夜半に身を隠した場所
  伏見・薩摩藩邸跡(寺田屋での龍馬襲撃直後、先に脱出したお龍が助けを求めて駆け込む)
  酒造の町・伏見、月桂冠大倉記念館
  伏見奉行所跡(1868年の鳥羽伏見の合戦時、会津藩兵が立て籠るも、薩摩藩の砲撃で全焼)
  指月山 伏見城跡(豊臣秀頼の誕生、元服の地。伏見大地震で倒壊)、御舟入跡
  木幡山 伏見城跡(秀吉死去の地。関ケ原合戦で落城後、家康が再建し、征夷大将軍を拝命)
  明治天皇の伏見桃山陵
  桓武天皇 柏原陵、大亀谷陵墓(本当の「桓武天皇 陵墓」と推定される場所)
  明智藪(明智光秀が坂本城へ逃走中、落ち武者狩りにあって落命した場所)
  宇治(槇島城跡、太閤堤跡、朝日山城跡、宇治市源氏物語ミュージアム、二子塚古墳公園)



関西周遊では、この 大阪中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

この日一日は、伏見城下町を散策するだけとした。
京阪本線に乗車して大阪から北上し、「中書島駅」で京阪宇治線に乗り換えて、一つ目の「観音橋駅」で下車する。この日の第一歩目は、駅南側を流れる宇治川対岸に位置する「向島(むかいじま)城跡」に定めた。下地図。

伏見区

宇治川(琵琶湖を水源とする大河)に架かる「観月橋」から南岸へ渡ると(上地図)、すぐの場所に「向島城」に関する案内板が設置されていた。

さらに国道 24号線の高架下を南進していくと、「向島本丸町」「向島二ノ丸町」「鷹場町」、「二の丸公園」など、城郭時代に由来する地名が続く(上地図)。かつて「巨椋池(おぐらいけ)」という巨大な湖があり、その中に複数あった島州の一つに築城されていたわけだが(下絵図)、今ではそのすべての湖面が埋め立てされ宅地開発されており、全く往時の面影は見い出せない状態だった。

本丸東側にあった馬場郭の北辺にあったという石垣跡が、かろうじて残存していた。また、本丸の西面と南面にも、建物礎石が保存されていた。上地図。

伏見区

帰路は、西側に走る府道 241号線(奈良街道)沿いに、宇治川まで戻ることにした。上段地図。

この道路は、かつて豊臣秀吉が宇治川の河道改変のために建造した「太閤堤跡」の遺構で、今でも盛り土によって高台となっている地形が残存したままだった。
秀頼誕生に伴い、翌 1594年にかけて秀吉が(指月山)伏見城の大規模拡張工事に着手すると、同時に複数の河川堤防群(槇島堤、淀堤、小倉堤など)が築造される(下地図)。太閤堤はこの時に整備された一つで、石積み護岸、石だし、杭だしなど、当時の太閤堤の実物復元が、宇治川の上流にある「お茶と宇治のまち歴史公園」に保存されている(下地図)。

再び京阪宇治線「観月橋駅」に戻ると、さらに終点まで移動し「宇治駅」で下車してみるのもよいだろう。駅前徒歩 1分のところに、この史跡公園がある。その他、宇治地区には「宇治市源氏物語ミュージアム」「朝日山城跡」「槇島城跡( 15代目将軍・足利義昭が反信長で挙兵し、幕府奉公衆の一人・真木島 昭光を頼って籠城した場所。すぐに織田の大軍によって包囲され捕縛されると、そのまま京都を追放され、室町幕府は滅亡する)」「平等院 鳳凰堂」など、見所がたくさんある。

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もともと京都の南側には「巨椋池(おぐらいけ)」という、巨大な淡水湖が立地していた(周囲の全長約 16 km、面積約 8 km2 = 現在の東京都国立市のサイズ)。これは、琵琶湖から流れ出てくる唯一の河川・宇治川が、長年の間に形成させた広大な自然の遊水池で(下地図)、内部には複数の島州があり(槇島や中書島などの地名は、現在でも継承されている)、そのうちの一つが向島というわけであった。

この広大な巨椋池や島々を一望できる景勝地・指月の丘(現在の桃山丘陵南麓)には、平安時代より貴族らの別荘が設けられていたという。この丘に早くから目をつけていた秀吉は、1591年に長男・鶴松(3歳)を病死させ悲嘆に暮れていた中、翌 1592年晩秋に淀君の再妊娠が分かると、急遽、この丘に産所としての城館を造営し、風光明媚な環境下で、淀君に出産までの日々を送らせることとしたのだった。

なお、この時代、すでに巨大な巨椋池内を往来する水運ネットワークが構築されており、その代表的な港町が「岡谷の津」や「与等(淀)の津」というわけだった。淀殿が鶴松を生んだ 淀古城 は、この巨椋池と淀川とが連結する出入口にあたり、当時から水運ネットワークの中心拠点として発展した港町だったわけである。

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そして、翌 1593年8月末に秀頼が無事に誕生すると、これを大いに愛しんだ秀吉は、そのまま伏見城館を大規模に改修させ、秀吉一家の居城に定める。こうして翌 1594年にかけて工事が進められる中で、5層5階建ての天守閣なども組み上げられ、巨大城郭が出現するのだった。

同時に、秀吉は巨椋池内部に大規模な堤防を構築し、宇治川の河道を改編させ、(指月山)伏見城のすぐ南面を流れるように改造する。こうして、この巨椋池の最北端にあった島が宇治川を挟んで、秀吉の伏見城の対岸に位置するようになったことから、秀吉が「向島」と命名させたというわけだった。当時、これらの巨椋池内の島州上には、漁業兼農業を生業とする集落が点在しており、以降、向島にあった村は向島村と称されるようになったという。

そして、向島村は槇島堤と太閤堤に挟まれる形となり、かなり土地が盛り土されるわけだが、そのまま秀吉により伏見城の出城・支城としての「向島城」の築城工事が着手されることとなる。城郭建設が進む中で、かつて向島村だった場所は城下町へと一気に変貌し、伏見城下町と連結された都市空間が広がるようになっていく(この両岸は豊後橋で結ばれていた ー 現在の観月橋。当時、豊後橋の北岸側に、九州豊後の大名・大友氏の屋敷があったことから「豊後橋」と称されたという)。

なお、槇島堤の築造工事は前田利家が担当しており、その完成後は、 1595年3~4月にかけて、全国から桜の名木 500本が集められ、この槇島堤沿いに移植されている。
そのまま宇治川が西進して淀川と合流すると、一気に水量が増えるため、度々、河川氾濫による水害を発生させていたことから、このタイミングで、毛利輝元吉川広家小早川隆景 らに命じ、淀堤の建造工事 も同時に進めることとなる。下地図。
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こうして伏見城や向島城、淀川河道などの土木工事が完成しつつあった翌 1596年9月5日、畿内で慶長伏見大地震(マグネチュード 7.0)が発生し、 京都の町 や伏見城、城下町などは壊滅的被害を被ってしまうのだった。

特に天守など大規模な楼閣を組み上げていた伏見城のダメージは大きく、秀吉一家は、まだ半分ほどの建設途中だった向島城へ転居し、いったん仮住まいすることとなる。結局、翌年春まで余震が続き、人々を恐怖に陥れた天災により、修復不可能な状態となっていた(指月山)伏見城は放棄され、代わりに木幡山に新・伏見城の築城工事が着手されるわけである。この作業は突貫工事で進められ、わずか 3ヵ月で本丸部分が完成すると、秀吉一家はこの向島城から出て、新・伏見城へ転居する。

その後、向島城も完成するも、秀吉は月見のための遊興用の城館として度々、訪問する程度だったという。最終的に 1598年9月18日、秀吉が伏見城で没すると、徳川家康の横暴が表面化し(禁止されていた大名家どうしの婚姻政策を勝手に進めるなど)、五奉行筆頭の石田三成らと対立するようになる。この豊臣政権の安寧を守るべく、前田利家が仲介し、徳川家康の婚姻政策を中止させる代わりに、三成の屋敷がある伏見城治部少輔曲輪の直下だった屋敷地から、より安全な向島城への移住を提案されるのだった。この直後に利家も体調を崩し、翌 1599年4月27日、62歳で死没することとなる。
前田家の世代交代も終えて落ち着いた翌 5月、徳川家康は正式に向島城へ屋敷を移転させている。この家康転居の行列では、前年の婚姻政策時に反対した奉行らが、その非礼を詫びるために皆、坊主頭にして豊後橋まで見送ったとされる。下絵図。

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その後、徳川家康の勧めで、淀殿と秀頼らが 大坂城 へ移住すると、家康自らが伏見城へ入居し、ここで政務を司ることとなる。こうして翌 1600年8~9月に関ケ原の戦い を迎えるわけだが、徳川方の拠点だった伏見城は西軍の攻撃で落城し、多くの建物群が破壊されてしまっていたので、戦後に家康が伏見城に復帰すると、すぐに再建工事に着手する。この時、向島城が廃城とされ、その建築資材の一部が伏見城へ転用されている(その他の廃材は、東本願寺伏見別院の建立に寄付されている)。

廃城後、向島城跡地は緑地だけが広がるようになったようで、現在、「鷹場町」の町名が残されていることから、一部が鷹狩り地として利用されていた可能性が指摘されている。

しかし、その後も槇島堤と太閤堤上に整備された街道は、現役で使用され続け、それぞれ宇治街道、新大和街道(奈良 への街道)となっていた。そして、向島城の城下町は「向島橋詰町」として残存し、さらに堤防沿いに町屋が立ち並ぶようになって、向島中之町、向島下之町が誕生していったようである。これら三町は、いずれも伏見奉行所の管轄下に組み込まれ、村高 529,679石が記録されている(1729年)。
明治 6年(1873年)当時の統計によると、向島村の戸数は 130軒 人口 699人が記録され、その家業は主に魚鰕、水鳥、采種、実綿、茶などであったという。

その後も巨椋池は存在し続けたが、最終的に 1933~1941年に実施された干拓事業によって完全に埋め立てられ、一面が農地へ生まれ変わることとなる。現在、京都競馬場の中央にある池は、この巨椋池の名残りといわれている。



伏見区

再び、 「観音橋駅」から「中書島駅」へ戻り、この駅北口すぐにある京阪中書島駅前ポートのレンタサイクル所(PiPPA 伏見区ポート)で自転車を借りる(年中無休)。デイパス半日レンタル 5時間500円+税、追加 30分100円+税となっている(身分証明証の提示要)

そのまま駅南側にある「伏見港公園」を訪問する。 京都 の玄関口、かつ東海道(京街道)沿いの宿場町「伏見」の河川港跡地である。
この一帯には、京橋、表町、柿ノ木浜、金井戸、北浜、西浜、南浜、東浜、弁天浜、材木町など、当時の港町・伏見に由来する地名が継承されていた。公園先端に立地する三栖閘門資料館には、三栖閘門と伏見港、そして伏見の歴史に関する模型(下写真)や解説板が展示されており、是非、訪問してみたい。

また、この伏見港公園から、50分ほどの遊覧船「伏見十石舟(運賃 1,300円)」に乗船することもできる。
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先述の通り、1593年8月末に秀頼が伏見城で誕生すると、秀吉一家はそのまま伏見城に居住することとなり、翌 1594年にかけて伏見城の大規模拡張工事と、その城下町の整備が急ピッチで進められ、全国から集められた多くの建築資材が、淀川の水運により搬入されてくる。その陸揚げのための港湾整備も同時に手掛けられ、それが伏見港へと発展していったわけである。この伏見の町造りは、秀吉の死後、伏見城主となった徳川家康により継承され、さらに進化を遂げていくのだった。

この港湾整備に際し、巨椋池(おぐらいけ)に 京都 側から注いでいた濠川(別名:宇治川派流)の河口付近が着目され(下地図)、伏見城の南面へと河道を改編された宇治川と合流させることで、淀川に直結する水運ネットワークが設計されたのだった。それまでは、巨椋池を中心とする全く別の水運ネットワークが存在し、「岡谷の津」や「与等(淀)の津」などの港町が形成されていたが、これ以降は環境が全く激変してしまうのだった。

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以降、大坂 から三十石船で運ばれてきた物資は、この伏見港で陸揚げされ、伏見街道を通って 京都 まで陸路で運ばれることとなるも、この陸路運搬にもさらなる合理化が図られ、角倉了以・素庵父子によって高瀬川開削が手掛けられて(1614年完成)、完全に水路だけで大坂~京都間が直結されるわけである。特に水深の浅かった高瀬川では、角倉家が製造した高瀬舟が専属で航行したことから、角倉家は莫大な利益を上げることとなり、同時に、伏見と京都の結びつきを飛躍的に発展させることに貢献したのだった。

引き続き、伏見の町はその中継拠点として繁栄し、江戸時代初期の 1615年に東海道が 京都 から 大坂 まで延伸されると、54番目の宿場町に選定され、参勤交代時の大名らの滞在所「本陣」や大名屋敷などが開設されるようになっていく。この参勤交代では、西国から 江戸 に向かう大名らは大阪から船に乗って伏見港へ移動し、東海道か中山道を通って江戸を目指したとされる。また、本陣の他、幕府の伝馬所(問屋場)、脇本陣、旅籠屋、船宿などがが立ち並び、町は大いに賑わったという。特に、幕末期に坂本龍馬が定宿とした船宿「寺田屋」はそのうちの一つ、というわけだった。

また、伏見の町は、良質な地下水が採取できたことから、酒造りが盛んとなり、今も酒蔵や酒造場が操業を続けていることでも知られる。日本酒の老舗メーカー「月桂冠」の酒造工場や大倉記念館などが、特に有名であろう。

1600年代末に至ると、幕府の援助と商人らの共同出資により、新たに伏見舟が導入され、ますます水運効率が高められる。これに合わせて、大阪湾から大型の三十石船がさらに盛んに出入りするようになり、沿岸には多くの問屋が建ち並ぶこととなった。
しかし、幕末期に勃発した鳥羽伏見の戦いにより、伏見市街地の南部一帯が大きな被害を受けると、一時、経済は停滞するも、明治期に入り、蒸気船が就航すると、再び活気を取り戻す。と同時に、明治期には鉄道敷設が進み、次第に陸上交通機関がとって代わるようになると、淀川の水運は徐々に衰退し、1962年に完全消滅することとなるのだった。現在、かつての伏見港や水運ネットワークの一部を遊覧する「十石舟(じっこくぶね)」サービスが営業されている。



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この港から、幕末に坂本龍馬が新婚旅行へ旅立ったわけである。
京都滞在中、龍馬は、伏見港に近い船宿「寺田屋」を定宿としていたとされる。これから、その跡地を訪問してみる。上地図。

その道中に「長州藩邸跡」があった(上地図)。


もともと「長州藩邸」は旧伏見城下町の西端(今の毛利橋東側。上地図の左上端)にあったが、 1699年に市街地が広がる中書島への移転が許可されると、以降、幕末までここに藩邸を構えることとなる。
当時、周囲には船大工町が広がっており、船や船具製造業者らが集住していた。その町屋群の中央奥あたりに藩邸が設けられたことから、屋敷地自体は通りに面していなかったという。

1864年7月19日未明、長州藩家老の福原元僴(福原越後。1815~1864年。長州藩支藩である周防徳山藩主・毛利広鎮の六男であったが、家督の継承権がなく、家老・福原親俊へ養子に出されていた)が、この伏見長州藩邸から武装した約 500名の藩兵を率いて への進軍を図るも、途中の伏見街道の稲荷付近から、竹田街道を守備する 大垣・会津・桑名・鯖江藩兵らの妨害を受けて武力衝突へ発展し、禁門の変が勃発するわけである。鉄砲傷を受けた福原らは敗走し、そのまま伏見藩邸に立て籠るも、彦根藩 や諸藩連合軍がすぐ北隣の京橋(上地図)から砲撃を加えてくると、そのまま伏見長州藩邸は全焼してしまうのだった。

そのまま 第一次長州征伐 が決行されると、幕府の大軍勢を前に長州藩は降伏を余儀なくされ、家老の福原元僴ら 3名が責任を取る形で、自刃に追い込まれている(同年 11月12日)。



さて、この船宿「寺田屋(伏見区南浜町263)」であるが、坂本龍馬(1836~1867年)が襲撃(1866年3月)された現場であり、また薩摩藩志士どうしの粛清事件「寺田屋騒動(下絵図。1862年5月、尊皇派 7名暗殺、後に 2名切腹)」の舞台ともなった、有名歴史スポットである。

現在、当時の建物は残っておらず、その跡地には坂本龍馬像、薩摩藩九烈士の石碑が設置されるだけだった(開園時間 10:00~16:00。入園料 400円)。その隣の敷地には、当時の寺田屋を再現した「旅籠 寺田屋」が立地し、その庭園として一般開放されている形だった。

伏見区



江戸時代、伏見の町は 京都大坂 の中継港町として栄え、淀川を往来する船荷業者や旅人らのための船宿がたくさん営業されていた。そのうちの一つが寺田屋で、当時は未亡人の女将・お登勢が経営を切り盛りしていたという。

時は激動の幕末を迎え、1862年に薩摩藩内のいざこざにより、薩摩藩士どうしの殺し合い事件「寺田屋騒動(7名即死、後日 2名切腹。事件後、薩摩藩から改装工事のための見舞金が給付されている)」が、また、1866年には投宿中の坂本龍馬が襲撃されるという「龍馬襲撃事件(後に妻となるお龍の機転によって逃走に成功する)」が発生するわけである。
そんな物騒な事件が相次いだことから、危険人物を匿う要注意人物として女将・お登勢も伏見奉行所から監視対象に手配されるも、結局、1868年正月に勃発した鳥羽伏見の合戦で、周辺の町屋群と共に「寺田屋」も焼失してしまうのだった。その後、女将・お登勢は仮設の旅籠屋を再建するも、 1877年に病死すると、以降の「寺田屋」経営者一族の行方は全く不明となってしまう。
その後、明治に入って、隣の敷地に建てられたものが、現存する【二代目】寺田屋で、そのオーナーは全く別の経営者一族ということだった。



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続いて、西側の湊川まで行ってみる。江戸期には「高瀬川」と呼ばれていた小川である。

もともとは江戸時代初期、大商人の角倉了以(1554~1614年)・素庵(1571~1632年)父子が掘削工事を主導し、京都大坂 間を直接つなぐ航路を開拓したものという。「伏見であい橋」の西端に、その記念碑が設置されていた(上地図)。


京都 と伏見の間をつなぐ全長約 11 kmの運河 = 高瀬川は、江戸時代初期の 1611~1614年の工事で完成されたもので、総工費 150億円近い資金を、京都の大豪商・角倉了以(1554~1614年)が工面していた。

もともと吉田家は、足利将軍家に仕えた医者の家系であったが、その後、土倉業(金融業)へ事業を拡大し、「京の三長者(角倉家、茶屋家、後藤家)」の一角へとのし上がった資産家一族であった。
この吉田家四代目として生まれたのが角倉了以で、自身は家業である医者にはならず、実業家として生きることとなる。この「角倉」という姓は、 京都 の東西南北四方にまたがって土倉業を展開した様から、地元の人々から「角倉家」と呼称されるようになった、ことに由来するという。

了以は早くから南蛮貿易にも乗り出しており、1603年に家康が江戸幕府を開府して以降は、徳川家から直々に朱印を得て、安南(ベトナム)などと交易していたようである。この角倉家の朱印船貿易特権は、了以の晩年まで付与され続けたという。
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まずは 1608年、了以は幕府の許可を得て、保津川(大堰川)の開掘に着手し、これにより丹波の農産物や材木が、手早く へ供給できるうようになる。

同年、徳川家康の勧めにより、大坂城の豊臣秀頼京の方広寺(今の京都市東山区)の大仏殿再興工事に着手すると、了以がその資材や木材運搬業務を受注する。この時、了以は鴨川の水運を利用して搬入を試みるも、大坂湾から川の流れに逆らって上っていくことは非常に困難な作業だったようである。なんとか任務を完遂したものの、河川の水流の影響を受けない運河の開削を考えるようになり、こうして京と伏見を結ぶ「高瀬川」の建設を幕府に願い出るに至るのだった。

直後より、角倉了以(1554~1614年)・素庵(1571~1632年)父子が主導し、運河工事がスタートすると、途中で合流する鴨川から水が引き入れられる設計となる。そして、この全長約 11 kmの途中途中に、9か所の船溜りが設けられることとなった(現在、二条通南側にある「一之船入」のみが保存されている)。

なお、水深が約 30 cmという浅い高瀬川において、船底が平らな高瀬舟(もともとは備前国の和気川の浅瀬で使用されていた平底の高瀬舟を、1604年ごろに目にした角倉了以が伏見への応用を思いついた、と伝えられている)が運用され、舟には船頭が乗りつつ、曳き子が岸から綱で引っ張って移動していた。その際、曳き子の掛け声だった「ホイホイ」が転じて、「ホイホイ舟」と通称されたという。最盛期には、700人の曳き子、159隻の高瀬舟が従事していた。下写真。
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この運河の開削費用は約 150億円にも上り、その全額を了以一族が負担しつつ、かつ、この高瀬舟の造船も私費で賄ったが、開通後に運河や高瀬舟の使用料を徴収することで、莫大な利益を得たようである。

運河完成の 1614年、これを見届ける形で没した了以(61歳)は、現在、息子・素庵とともに嵯峨野の二尊院に葬られている。また、彼はこの高瀬川の開削工事の途上、1595年8月に三条河原で斬られた豊臣秀次と妻子 30人以上を埋めて秀次の首を曝した「悪逆塚」が荒れ果てていたのを憐れみ、「悪逆」の 2文字を削って塚を修復し、供養のために瑞泉寺を建立した、と伝えられている。



この湊川沿いをしばらく北上していると、寺田屋襲撃から逃走した龍馬が隠れた、という「材木置き場跡」があった。このままさらに湊川沿いを北上していくと、当時、龍馬が保護を頼った「伏見・薩摩藩邸」が立地していたわけである(寺田屋から 1 kmの距離)。上段地図。

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さて「薩摩藩邸跡地」を見学後、東へ移動し、旧伏見街道沿いに出る(上地図右)。ここから南進し、鳥羽伏見の戦いの現場を写真撮影しつつ、幕府軍が立て籠っていた「伏見奉行所跡」に至る。現在は跡地に記念碑が設置されるだけとなっている。

江戸幕府の遠国奉行の一つで、伏見の民政・御所の警護・西国大名の監視を担うべく、 関ケ原合戦 直後の 1600年に創設されていたが、実際の稼働は、1666年に水野忠貞(1597~1670年)が伏見統治に専念するようになって以降という。与力 10騎、同心 50人名が所属し、主に伏見市街地と周辺 8ヵ村(1700年代以降は 9ヵ村)を統括する役所として機能した。
1867年に廃止されるも、直後の翌 1868年正月に鳥羽伏見の戦いが勃発すると、会津藩を主力とした 1500名が伏見奉行所に立て籠り、御香宮神社(上地図)に陣を張った薩摩藩兵 800名と対峙することとなる。新撰組も加わった幕府軍であったが、結局、火力で圧倒され、伏見奉行所は灰燼に帰すこととなった(先の伏見・薩摩藩邸もこの戦火で全焼する)。

その後、明治維新~終戦までは陸軍工兵 16大隊の敷地となり、戦後は駐留軍駐屯地となっていた。進駐軍撤収後は、桃陵団地として開発され、現在はこの団地内に記念碑が設置されるだけとなっている。
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「伏見奉行所跡」を見学後、さらに南進して宇治川沿いを走る京阪宇治線の線路に至る。ここを東進すると、間もなく「指月山 伏見城」の跡地に到達する(下地図)。

なお、この「指月山 伏見城」は、秀吉が最初に造営した初代・伏見城だが、絵図が残されておらず、長年、正確な規模や位置が判明しなかったことから、「秀吉の幻の城」と言われ続けてきた。そして、ようやく近年になって石垣遺構などが発見され、世間の注目を集めた史跡である(2016年11月には、長さ 14.5 m、高さ 2.8 m、6~7段に積まれた大規模な石垣列が発掘されるも、すぐに埋め戻されている)。

今は、マンション(UR観月橋団地)の一部に石垣を構成した石材群が保存され、その脇に「指月山 伏見城」を示す案内板が設置されるだけとなっている。また京阪宇治線沿いでは、今は駐車場となっている「指月伏見城 御舟入跡」も見学できる。上地図&下地図。

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そのまま北上し、JR奈良線を渡って「木幡山 伏見城」跡地を巡ってみる。

ここが秀吉が病死した現場であり(1598年9月18日)、関ケ原合戦 で西軍が猛攻を加えて落城させた城郭で(1600年7月18日~8月1日)、徳川家康によって再建後、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けた場所である(1603年3月24日)。まさに豊臣政権から徳川政権へ移行する過渡期のメイン舞台となった場所で、この時代にまつわる史跡群が残されていた。上地図。
石垣遺構、二ノ丸濠跡、弾正丸跡、治部池、松ノ丸跡、徳善院丸跡、大蔵少輔丸跡、藤城惣構跡、万畳敷惣構跡、海宝寺惣構跡、黒田長政下屋敷跡参考地、など。

そのまま木幡山にそびえる伏見城天守閣を目指していくと、明治天皇陵に行き着いた。かつての本丸跡地は、明治天皇の伏見桃山陵となっていた。長い階段を上った後に目にする、この高台からの景色は抜群だった。
また、近くには桓武天皇 柏原陵や、大亀谷陵墓(本当の「桓武天皇 陵墓」と推定される場所)も点在する。

現在、この本丸跡地や二の丸、治部少丸跡地などは、上記の事情から宮内庁管轄区として立入管理されているエリアが多く、広大な城跡をくまなく散策して回ることは不可能な状態だった。下地図。

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そのまま伏見桃山城の模擬天守まで徒歩移動してみた。この模擬天守は、もともと遊園地の一施設だったらしいが、閉園の際、取り壊しに反対した地元の要望に応え、残されたものという。耐震性の問題で内部の見学は不可能だった。
続いて、北堀公園にある外堀跡にも立ち寄ってみる。その巨大な遺構は圧巻だった。

そのまま旧城下町エリアを歩き直してみると、「御香宮神社」などあちこちに、解体後に伏見城から移築されたという城門や建物遺構が残っていた。



 伏見城は 3度にわたって建造されている。

 指月山 伏見城(豊臣秀頼の誕生、元服の地。伏見大地震で倒壊)

最初の築城は、1592年に指月の丘(光明天皇 大光明寺陵)の南山麓に築かれたもので、俗に「指月山 伏見城」と称されるものである。前年の 1591年9月にわずか 3歳で長男・鶴松(淀古城 で誕生し、 大坂城 にいた秀吉正室の大政所が養育していた)が死去し、失望のどん底にあった秀吉だったが、翌 1592年秋に再び淀殿の懐妊が判明すると、淀殿の産所として、新たにこの伏見城を建造したのだった。平安時代以降、指月の丘には、巨椋池(おぐらいけ)を愛でる貴族らの別荘が点在していたが、長らくの兵乱の中で荒廃しており、それらの跡地に城館程度の施設を建設したわけである。
そして、翌 1593年8月にこの城で秀頼が誕生し、そのまま淀殿自らが養育することとなる。

京都の拠点・聚楽第(1587年9月完成)は甥の豊臣秀次に譲っていたので(1591年12月)、秀吉一家はそのままこの伏見城に居を定めることとすると、さらに大規模な拡張工事が施され、 5階5層の天守閣を含む、絢爛豪華な建物群が造営されるわけである(翌 1594年内に居住空間である本丸部分が完成)。 1596年には秀頼がこの伏見城で元服するも、同年 9月5日、直下型地震の伏見大地震が発生し、城内の建物群がことごとく倒壊してしまう。この年、引き続き大小の地震が頻発したことから、元号が「慶長」へ改元されることとなる。

この当時、秀吉は 大坂城淀古城京都 間を淀川の水運を使って往来していた。秀吉が伏見の地に目をつけたのも、この水運ネットワーク上に位置したためであった。
以降、伏見城をこの水運ネットワークの中心とすべく、巨大な巨椋池内にあった島州上に堤防群(太閤堤、淀堤など)を構築し、宇治川の河道を大幅に改変して、伏見城下のすぐ南側を流れるように設計し直すこととした(この堤防上には陸路交通用の「大和街道(京都 - 奈良)」も整備される)。こうして宇治川を伏見の城下町に引き込んで港町化することに成功し、伏見~大坂間の水運ルートが開通されて(南進 4時間、北進は倍の 8時間を要した)、日本最大の内陸河川港へと発展していくわけである。

当初しばらく、伏見~京都間は陸路交通のみが継続されるも、江戸時代初期に高瀬川が開削されると、さらに京都の市街地まで水路交通が延伸されることとなる。いずれにせよ、伏見の町は 京都大坂 間の中継都市として機能し、一気に都市発展が進行していくわけである。こうして秀吉は、伏見城下にヒト、モノ、カネが集まる仕組みを構築していったのだった。
と同時に、巨椋池の北端にあった向島に、支城である向島城を築城し、時折、秀吉はこの向島城を訪問しては、遊興していたようである。

伏見区


 木幡山 伏見城(木幡城。豊臣秀吉 死去の地。関ケ原合戦での落城まで)

しかし、 1596年9月5日に発生した慶長伏見大地震により、指月山 伏見城が倒壊してしまうと、いったん向島城へ避難して居住するようになる。直後より、秀吉はすぐ北側の木幡山(標高 105 m。現在は明治天皇陵が鎮座する)に新・伏見城の建造に取り掛かると、昼夜を徹した突貫工事と、旧伏見城の資材を転用することで、わずか 3か月の工期で完成にこじつけるのだった(翌 1597年)。この時、破却した 聚楽第 の部材の一部も転用されたと伝えられている。

秀吉は、ここで晩年を過ごし、翌 1598年に死没するのだった。その後、秀頼は 大坂城 へ移住することとなり、代わりに徳川家康が向島城から伏見城に転入してくる。
そして、1600年に関ケ原の戦いが勃発すると、畿内にある家康直轄の拠点として、石田三成ら西軍の最初の攻撃ターゲットにされるわけである。上杉討伐へ出立した家康は、畿内で三成らが挙兵することは想定済みで、その”おとり”として伏見城を攻撃させることを企図するわけだが、その決死の役目を最古参の家臣・鳥居元忠に託すのだった。わずか 1800の守備兵であったが、40000もの西軍に対し、元忠らは 10日もの間、死闘を演じ続け、最後の一兵まで討ち死にを遂げることとなる。同時に、城内の建物の大半が焼失してしまうのだった。

この秀吉時代から継承された伏見城も相当に堅牢に設計されていたようで、その遺構が現在の北堀公園に残る、幅 150 m、深さ 15 mという巨大な堀とされる。豊臣家のために集った西軍らも、秀吉設計の要塞に攻め込まねばならないという、皮肉な戦いとなってしまったわけである。

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 木幡山 伏見城(木幡城。徳川家康・秀忠・家光が三代にわたって、征夷大将軍の宣下を受けた場所)

関ケ原の合戦後、伏見城主に復帰した徳川家康は、1602年、藤堂高虎を普請奉行に命じ、天下普請として焼失した城の再建工事に着手させると、同年中にも本丸部分が完成し(同時に向島城が解体され、その資材などが転用された)、家康が再入居する。そして翌 1603年3月、ここで家康は天皇勅使から征夷大将軍の宣下を受けるわけである。
その後、家康は隠居城である駿府城へ移住すると、伏見城の再建工事はストップされ、城内に保管されていた宝物や什器類などは、ことごとく駿府城へ移送されるのだった。

そして、1614年の大坂冬の陣 の直前、家康は 二条城 から、将軍・秀忠はこの伏見城からそれぞれ出陣している。この時、奇しくも秀吉が築いた伏見の河川水運は、徳川勢の武器や食料、兵士らの運搬用に使用されることとなる。大坂冬の陣・夏の陣あわせて、淀船 3,560艘、水夫 7,260人余りが動員された記録が残されているという。

最終的に、翌 1615年に豊臣家が滅亡すると、徳川方の西国拠点としての役割を終えた伏見城は役割を失い、1619年に廃城が決定される。
1623年、この伏見城内で三代目将軍・徳川家光が天皇勅使より将軍宣下(征夷大将軍への任命)を受けると、そのまま解体工事が着手されることとなる。ちなみに、家康や家光と同様、二代目将軍・秀忠の将軍宣下もこの伏見城で行われていた(1605年)。

その後、城跡は完全にはげ山になるまで解体されてしまい(~1625年)、城内の建築物や石材は全国各地へ移築され、有効活用されることとなる。特に京都の寺社や 二条城淀城福山城 などへの建物移築、また淀城への石材搬出がその代表例と言える。その他、全国各地の「伏見城からの移築建築物」と伝えられるものは、この当時の遺物である。

完全はげ山となった跡地は、その後、「伏見山」「古城山」などと称されていたが、徐々に桃の木が植えられるようになり、1674年ごろには広大な桃林となって、以降、「桃山」と呼ばれることとなる。明治時代に入ると、「桃山時代」や「桃山文化」という名称が生まれ、1964年、この城山に近畿日本鉄道のグループ会社が、伏見桃山城キャッスルランドという遊園地を開園すると、初めて「伏見桃山城(桃山城)」の名称が使用されるのだった。
その後、全国各地の遊園地と同様、入場者減の苦境により、2003年1月31日に閉園されてしまい、現在、その跡地は野球場(伏見桃山城運動公園)となっている。この時、地元民の請願により模擬天守のみが残されることとなり、今日に至るわけである。



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さらに余力があれば、JR奈良線で「桃山駅」から隣の「六地蔵駅」へ移動し、ここから地下鉄東西線に乗り換えて、1つ目の「石田駅」で下車する。駅西側へ出て、徒歩 5分ぐらいに「明智藪」という史跡があるので、是非、訪問してみたい(上地図の右上)。

「三日天下」明智光秀が 山崎の合戦 に敗北し(1582年7月2日)、その日深夜に籠城中だった勝龍寺城を抜け出して、家族のいる坂本城 まで落ち延びていく際、この山道で落ち武者狩りにあって落命した、と伝えられている場所である。

その後、再び京阪本線に乗車し、大阪駅前 へ戻った。
なお、この伏見の町も歴史遺産がたくさんあり、一日で巡るには不可能な規模と内容だった。先述の「明智藪」も含めて、宇治訪問(槇島城跡、太閤堤跡、朝日山城跡、宇治市源氏物語ミュージアム、二子塚古墳公園など)を別スケジュールに立て、合計 2~3日は割きたい訪問地である。


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