BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年6月下旬 『大陸西遊記』~


奈良県 奈良市 ~ 市内人口 37万人、一人当たり GDP 290万円(奈良県 全体)


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  山の寺念佛寺 と 正史「大阪冬の陣」 ~ 徳川家康 と真田幸村との 知られざる前哨戦 逸話
  於大の方、15歳で長男・徳川家康を、32歳で四男・松平定勝を 出産、伝説のNHK番組へ
  名門・奈良女子大学、そこは 江戸時代、奈良町奉行所だった ~ 今の寺社門前町を歩く
  聖武天皇陵 と 多聞城跡
  多聞城の主郭 と 大手門跡 ~ 奈良市立若葉中学校の 正門と 丘陵斜面
  かつての 栄光時代の多聞城 想像図
  佐保川沿いの 武家屋敷跡地 と 出丸の堀切遺構
  多聞城内の 松永秀久が見た 奈良の景色 ~ 間近過ぎた 東大寺大仏殿
  【豆知識】多聞城 と 松永久秀 ■■■
  近鉄・西大寺駅から 平城宮跡まで歩く ~ 秋篠川(都城時代の下水道)と 「二条町」交差点
  平城京の全体地図を 読み解く
  都城の政庁、天皇御所(内裏)を内包した 中枢施設・平城宮
  【豆知識】平城宮に勤務する 役人たちの 身分構成と 給与額 ■■■
  政治セレモニーの 巨大装置・大極殿、その壮麗な外観、華麗なる 内装デザイン
  第一次大極殿 と 第二大極殿の謎 ~ 藤原京から 移転後、恭仁京へ 再移築された後は?
  第二大極殿 と 天皇御所(内裏)跡地
  平城宮の朱雀門 と 正面のメインストリート「朱雀大路」、これに交差する「二条大路」跡
  平安京へ移転後も、度々、京都から皇族らが 荒廃化していく 平城宮跡を訪問していた
  水田地帯へ 変わり果ててしまった 平城京と平城宮
  江戸時代末から始まった 平城宮の発掘調査
  奈良時代後期の 称徳天皇の治世下、道鏡により 建立された 西大寺(⇔ 東大寺)



この日も雨模様だった。
投宿先の JR奈良駅前から近鉄奈良駅まで徒歩移動中に、国道 369号線 沿いのやや奥まった場所にあった寺院が気になったので、訪問してみた。
なんと、寺院の正門上には徳川家の 家紋「三つ葉葵」マークが付せられていたのだ(下写真左)。

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周囲は完全に民家群に取り囲まれており(上写真右)、浄土宗 降魔山善光院念佛寺(山の寺念佛寺)と掲げられていた。
その寺門の正面脇に、解説板があった。要約すると「大坂城 へ向け 二条城(京都)を出発した徳川家康は、1614年11月15日、木津で真田幸村軍の急襲を受け敗走する。そのまま奈良へと逃走し、この 地『子字山』の寺に落ちのび、桶屋の棺に隠れ九死に一生を得た。 後、天下治り、1622年、家康の異父弟で当時、伏見城代 だった 松平定勝(1560~1624年)が、ここ油阪・漢国町の地を買い上げ、袋中上人を開山として諸堂を建立した」とあった。この逸話は 正史「大阪冬の陣」では一切、触れられていない前哨戦の内容なのだが、徳川家紋の掲示を許された寺とあって、非常に信ぴょう性があるように思えた。
ちなみに寺の建立を支援した松平定勝は、NHK番組『その時歴史が動いた』で司会役を務めた、松平定知氏の祖先にあたる。松平定勝の 母・於大の方(1528~1602年。水野忠政の娘。下絵図)は 1543年、15歳で 長男・徳川家康を、32歳のときに 四男・定勝を出産している

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さて、近鉄奈良駅に到着後、さらに北へ移動し、多聞城跡まで歩いてみる。
一帯はかつての寺社門前町から発展したエリアで、今でも新旧の民家が入り乱れる閑静な住宅街となっており、細い路地が碁盤目状に入り組む。途中に名門国立大学の奈良女子大学前を通る(下写真左)。江戸期、このキャンパス内には幕府の 奈良町奉行所 があり、奈良の寺社門前町を直轄支配していた。今でも地元の町名には、江戸期の名残が色濃く息づく(北魚屋東町、押小路町、中御門町、雑司町、油留木町、鍋山町など)。

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この大学の正面通り沿いに見える、後方の小山が多聞城跡である(上写真右)。そのまま直進すると、雨水で水かさの増した 佐保川 に行きあたる(下写真左)。
この橋を渡ると、そこには厳かに清められた聖武天皇陵が広がる(下写真右)。入場門もなければ、管理事務所もなく、通常よりも巨大だが一般的な神社の境内といった赴き。
写真右端には「宮内庁の掟書き」が列挙されていた。一、みだりに域内に立ち入らぬこと。一、魚鳥等を取らぬこと。一、 竹林等を切らぬこと。

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戦国時代、この聖武天皇陵、隣の光明皇后陵の上には、多聞城の出丸が設けられており、武士らがみだりに入り込み、動植物を根こそぎ殺傷し、さらに人間の殺し合いの場所と化していたのだった。。。

この佐保川を遡る形で、陵墓沿いに集落地を突き抜けると、奈良市立若葉中学校 の校舎下にたどり着いた。この敷地全体が多聞城の主郭部にあたる。

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正面奥の階段下の右脇には「多聞城跡」の石碑が立つ(下写真左)。
多聞城時代も大手門があった場所と考えられており、周囲の斜面角度は緩めだった(下写真右)。

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小山を城塞化し、幾重にも曲輪を設けていた当時の面影が、下写真左の自動車道路から妄想し得るのも筆者だけではないだろう。
中学校の正門脇には、発掘調査の過程で出土した無数の墓石類が手厚く供養されていた(下写真右)。中学校の正面入り口内の脇に墓石が並ぶ様は、全国でも非常に珍しいと思う。夜間などは心霊スポットになりそう。

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この主郭部の上に、戦国期の 17年間(1560~76年)だけ存在し、織田信長をも憧れさせたという豪華絢爛な城郭建築群があったのだ(1574年、織田信長が本城を訪問している)。
発掘調査では、石組の排水溝や 井戸、多数の瓦、建物の礎石などが見つかっているという。

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中学校正門から離れて、さらに 佐保川 を遡る形で多聞山の東側へ廻ってみる。
下写真の左手側の小山(多聞山)が主郭部で中学校校舎がある場所、右手側の 小山(善称寺山)上は学校のグラウンドになっている。

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ちょうど左右の小山の切れ目が峠道となっている(下写真左)。
この山裾から佐保川までの平地部分に武家屋敷などの日常空間が設けられていた。

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この峠道は、夜ともなれば、真っ暗で寂しい通路となるはずである。やはり肝試しコースなのだろうか。ちなみに、この峠部分は主郭部と出丸との間を分けた堀切跡とされる。

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下は校舎全体の航空写真。
多聞城の範囲は、この奈良市立若草中学校の校地と、西側の光明皇后陵、聖武天皇陵を含む範囲と考えられ、北面と東西には堀を巡らし、南面は佐保川で奈良の市街地と区切られていたとされる。

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主郭部分の小山斜面は緩やかで、城郭遺構かと思えなくもない地形も垣間見れる(下写真)。
これに対し、出丸部分の傾斜はかなり急峻だった。

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下写真 は峠道の出口あたりから、東大寺を眺めたもの(写真左手の奥に見える、巨大な大仏殿の屋根)。本当に目と鼻の先だったことが分かる。

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戦国武将・松永秀久がここで多聞城を築き、大和国の支配を目論んでいたころ、興福寺や東大寺などが集積する上写真の寺院エリアには、三好三人衆と大和国の土豪ら(筒井順慶 も含む)の連合軍が陣取っていた。この合戦で、東大寺の大仏が焼失してしまうことになる(旧暦 1567年10月11日)。



 多聞城と松永秀久

1559年、主君の三好長慶の命を受け、松永秀久が大和に侵攻する。そもそも室町時代を通じ、大和国は興福寺が守護職を務める寺社領で、その配下として 国人衆(豪族団ら)らが各所に棲み分けしていた。しかし、戦国時代に入って以降は、国人衆らが互いに勢力争いを繰り広げる内戦状態に突入する。
この混乱に介入し、興福寺から守護権限を奪取して大和国全体を占領することが、秀久の任務だったわけである。

翌 1560年、奈良の門前町を見下ろす佐保山丘陵の一角にあった、眉間寺山上に多聞城の築城を開始する。そして、翌 1561年にここに本拠地を定める。入城後、眉間寺山は多聞山へ改称される。
できるだけ奈良の 市街地(大和国の守護所)に近い場所に拠点を設け、大和国の実効支配を推し進めようとねらったものだった。また、京都 と奈良を結ぶ 街道(奈良坂越京都街道)を抑える目的もあったとされる。

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その上で、大和国の実質的支配者のイメージを作り上げるべく、東大寺や興福寺に負けない圧巻の建造物をめざし、「見せる」ための絢爛豪華な城郭建築群が山上に築かれることとなった。
1565年、奈良を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダが本国へ書き送った手紙には、多聞城は全面が瓦葺きで白壁の城壁を備え、城内に飾られた障壁画は金箔地の上に描かれるなど豪華な造りであったと記されていた。また、能舞台や 庭園、茶室があったことも言及されている。
結果として、後世の「多聞櫓」と呼ばれる長屋状の櫓や、天守に相当する「四階建て櫓」が造られるなど、近世城郭の先駆けとなったと考えられている。

三好三人衆や寺社勢力との間で死闘を繰り返し、膠着状態にあった戦線を打破すべく、松永秀久は 1568年、義昭を奉じて 京都 に上洛した織田信長に接近し、これに臣従することとなる。
しかし 1572年、秀久は足利義昭による信長包囲網に参加し、信長に反旗を翻すと、すぐに信長軍に包囲される。翌 1573年正月に秀久は城の明け渡しに同意し、退去する。この頃に、「敵の敵は味方」ということで 筒井順慶 らが織田派に属したと考えられている。

翌 1574年、織田信長が多聞城を訪問する。引き続き、政情不安定であった大和国の平定戦を強化すべく、多聞城留守番役として 明智光秀、細川藤孝、柴田勝家 らが配される。
最終的に 1576年、大和国の平定がなり、同国守護として筒井順慶が信長によって任命されると、多聞城の織田軍も撤収することとなった。
直後に、信長は多聞城の破却を命じ、その御殿を 京都二条城 へ、その他の四層櫓を含む城郭建築群は 安土城(ちょうど、この頃から築城工事が開始されていた)へ解体・移築してしまう。また、残された石材などは筒井順慶により、本拠地の 筒井城 へ運ばれたという。

翌 1577年、松永秀久は、再び 石山本願寺 と結託して反信長で挙兵する。本拠地としていた信貴山城に籠城するも、ついに同年 10月10日、自爆死することとなったわけである。



続いて、近鉄奈良駅から 西大寺駅 まで移動する(運賃 260円)。
ここから徒歩 10分ほどで平城宮跡地を訪問する。
下写真左は、平城宮の西横を流れる 秋篠川。下写真右は平城宮の北西端に位置する「二条町」の交差点。道路のど真ん中に小さな祠があり、その奥深い由緒が気になってしまった。

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下地図はかつての平城京と現在の地図を合成したもの。
城内には、下水道作用を期待された小川が複数、存在していた(上の 秋篠川 など)。

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平城京は東西約 4.3 km、南北約 4.8 kmのやや正方形に近い範囲で造成されていたが、上地図にあるように東側に突き出る、いびつな張り出し 地区(東西約 1.6 km、南北約 2.1 km)が設けられていた。
北寄りの中央には 平城宮(天皇御所および政庁)があり、市街地は東西南北に走る道路にとって碁盤目状に区画されていた。平城京の南中央には正門として羅城門が建ち、門をくぐると 朱雀大路(横幅 74 mのメインストリート)が北へ 4 km続き、その突き当りには平城宮の正門である朱雀門がそびえ立つ(上地図の赤太線)、という都市設計だった。

都城内には 平城宮(下絵図)に出勤する 役人ら(約 7,000名)や一般庶民の住宅のほか、多くの寺院が建ち並び、東西 2個所には国営市場である東市と 西市 があった。当時、都城内の人口は 5万~20万と推定されている。

また、都城内に建設された 大安寺、元興寺、薬師寺らは、藤原京(飛鳥時代最後の都城。694~710年)内の 大官大寺、飛鳥寺(法興寺)、本薬師寺を解体、移築したものとされる(旧寺院はそのまま藤原京跡にも残留した)。
同様に、平城京の都市建設には膨大な資材が必要とされ、政庁であった 平城宮(下絵図)の大部分の建物も、このとき藤原京から移築されたという。

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さて、平城京の中央北端に立地した平城宮であるが(上絵図)、南北約 1km、東西約 1.3kmの同じく正方形に近い形状で高い 土塀(築地塀)で囲まれており、天皇の御所である内裏、政治や儀式を執り行う大極殿と 朝堂院(饗宴などを行う場所)、さまざまな 役所(官衙)、宴会の場となる 庭園(東部の張り出しエリア)などが設けられていた。当時、この中で約 7,000名の役人が働いており、彼らの食事を用意する 役所(食堂)までも完備されていたという。



 平城宮に勤務する 役人たちの身分構成と 給与額

律令制下の平城京内では、二官八省と呼ばれる役所が置かれていた。
二官とは政治全般を総括する太政官と、宮中の祭りごとや全国の神社を統括した神祇官で2トップをなしており、太政官の下に式部省、大蔵省など八省が配され、さらに各省の下に職、寮、司という各部局が設置されていた(下絵図)。

政庁を兼ねていた平城宮内部にはこれらの 役所建物(官衙)が立ち並び、およそ 7,000人の役人が勤務していたという。これまでの発掘調査で 神祇官、式部省、兵部省、馬寮、造酒司などの役所遺構が発見されている。

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これらの役所施設では机と椅子が並び、役人たちが日々書類や帳簿の作成などの仕事に励んでいた。紙の書類だけでなく、木の札(木簡)も使用されていた。字を書くための 墨、筆、硯石に加え、紙を切ったり、木簡に書いた字を削って訂正するための小刀も、役人の重要な文房具だったという。書類は大型の棚に整理され、櫃とよばれる箱に収納し保管されていた。下写真左。

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これに対し、兵士らは平城宮の門や建物を警備しており、地方役人の子弟や、地方の軍隊に徴兵された 人々(主に九州南部の隼人民族ら)が都へ赴き、兵部省(隼人司、衛門府)の管轄の下、警護任務にあたっていた。上写真右は「隼人楯」と通称される兵士の楯で、表面には独特の逆S字型デザインが描かれており、儀式の際はこの楯と槍をもって門前に整列し、独特の発声法で邪気を払ったと考えられている。
その他、役所や作業場の下働きや雑用をする労役として地方から集められた人々も大勢いた。また天皇の住まいである内裏で働く女官もいた。


なお、各省庁で勤務する役人らの位は、30段階に明確に分かれていた。彼らの 服装(朝服)は、衣服令という法律によって、かぶりものや履物に至るまで色や材質が細かく決められており、服装を見れば身分が分かるようになっていた。

  最上級の 幹部役人(太政大臣や右大臣、左大臣など。閣僚クラス)
  年収 3億 7,460万円、邸宅面積 60,000 m2(宮殿近くに優先的に立地)
  キジやオウムなどの珍しい生き物をペットとして飼うこともできたという。

  上級役人(現在の省庁の 長官、次官などに相当) 年収 4,120万円、邸宅面積 15,000 m2
  宴会時、即興で万葉歌にふさわしい歌を作れることが重要な教養だった。

  中間管理職の 下級役人(各役所の中間管理職。課長補佐や係長クラス) 年収 700万円、邸宅面積 7,500 m2
  下級役人とはいえ、貴族出身ではない者にとっては最高の出世クラスだった。
  地方豪族の出身者らが、中央の人脈を得るために頑張って目指したステータス。

  下級役人(各役所の実務担当者。主任や主幹クラス) 年収 360万円、邸宅面積 480 m2
  このレベルは本職の給与だけでは生活が厳しく、アルバイトやその他で副収入を得たり、
  畑を耕したりなど、家計を維持する努力でひたすら働き通しだったとされる。




下写真は天皇の御所・内裏と政治儀式を執り行った 大極殿 の模型。

大極殿(下写真の右端)は、天皇の即位や元日の式典、外国使節が天皇に対面するなど、特別な儀式だけに使用され、都城内で最も豪勢かつ巨大な建築物となっていた。すべての建材は解体され、そのまま藤原京から移築されている。

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現在、この初期の 大極殿(第一大極殿)が復元され、その壮麗な外観、そして華麗な内部装飾を目にすることができる。

大極殿・朝堂院は瓦を葺いた中国風の建物で、高さ 2mの基壇上に建てられていた(下写真左)。
これに対し、天皇御所である 内裏(上写真の左半分)は屋根に檜の樹皮を葺いた檜皮葺きで、日本の伝統的技術を用いて作られた建物だったという。

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上写真右は、その復元された大極殿の内部で、中央部には 高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座が設置されていた。高御座とは、皇位を象徴する重要な調度で、即位式や元日朝賀などの国家儀式の際に、天皇が着座した玉座という。貴族らは大極殿の南に広がる 内庭(下写真中央の広場)に立ち並び、大極殿上の天皇に拝謁していた。

大極殿の 基壇上(高さ 2 m)から大極殿院の南門まで平地が続くように見える空間は、実際には 5 mもの高低差が意図的に設けられており、大極殿院に立ち並ぶ全ての人々は大極殿を仰ぎ見て、また天皇は大極殿の中から南門の果てまで見晴らすという大掛かりな舞台装置になっていたという。

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筆者が訪問した 2018年6月下旬当時、平常宮跡地は復元工事の真っ最中だった。数多くの展示物が陳列、解説された博物館や資料館を含め、この大極殿もすべて入場無料だった。ここまでの巨額費用と手間をかけ続ける国家プロジェクトに大いに感心した次第である。

さて、我々が目にしている復元された大極殿であるが、「第一大極殿」と通称される。そもそも「大極」(太極)とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味し、平城宮の中心的建物として、天皇が様々な国家儀式を行う施設で、 715年にはすでに完成していたと考えられている。

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そして、25年後の 740年、恭仁京への遷都が行われる際、この大極殿はすべて解体され、恭仁京へ移築されたという。5年後の 745年に再び、平城京へ王都が戻されたとき、以前の大極殿があった 東側(内裏の南側)の「大安殿」を大極殿とし、やがてこれを建て替えて使用したという。
つまり、藤原京から移築した元々の大極殿は恭仁京から戻ってくることはなかったわけである。こうして、恭仁京移築前までの大極殿を「第一次大極殿」、 再設置された大極殿を「第二次大極殿」と区分されている。
天皇の即位など大切な儀式が行われる平城宮内でも最も重要な建物である大極殿を、なぜ同じ場所に建てなかったのか、その理由は不明という。

下写真は、基壇のみが復元されている「第二大極殿」の跡地。
下写真右の奥側に見える、整備された木々が建ち並ぶエリアが、かつての 内裏=天皇御所跡だ。そのさらに後方に見える小山は、平城天皇陵(後述 ↓ )である。

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ただ、今回の当地訪問で最も興味をそそられたのは、この平城宮跡地が普通に市民らの通学路や 自動車道路となっている現状だった。
下写真左にある通り、文化庁が管理する 国有地「皇居跡」なのだが、日常空間の一部として接する地元の方たちにとっては、見通しのよい緑地公園の認識ではないのだろうか。。。

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平城宮跡地内でも所々に用水路があり、奈良時代当時の生活実態を調べる重要な視点になるかも、と閃いてしまった(下写真左)。

さらに驚かされたのは、近鉄線が平城宮内の敷地を横断していることだった(下写真右)。歴史公園内に普通に踏切があった。
写真後方に見えるのは平城宮正門の朱雀門である。筆者は、大極殿から南へ移動中だった。

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下写真左は平城宮の南端に到達し、南北に平城京を貫通していた メインストリート「朱雀大路」側から朱雀門を見たもの。
下写真右は、朱雀門を西側から眺めたもの(若犬養門のあたり)。朱雀門の東西両側には高さ 6 mもの巨大な大垣が、総面積 120ヘクタールの宮城を取り囲んでいた(全長 4.5 km2)。左手の緑地部分はその跡地で、前面に側溝があり、さらに右手には、東西の大通りであった二条大路という順に並んでいたことが分かる。

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都が 平城京(710~784年)から 長岡京(784~794年)へ移ると(つまり、史上有名な「奈良時代」というのは、75年間しかなかった !!)、平城京跡地は 100年を経ずして、大部分が水田と化してしまったという。
しかし、御所の転出後も、古を偲ぶ皇族らが度々、当地を訪問した記録が残る。

809年には、平城上皇(桓武天皇死後に皇位を継承した)が、側近の藤原仲成・薬子の兄妹らを帯同し 西宮(第一次極殿院の跡地に建てられた宮殿)に拠点を設け、対立関係にあった 平安京 の 実弟・嵯峨天皇と決別し、平城京への再遷都を勅令している(翌 810年に鎮圧。そのまま当地に滞在し続け、 824年に崩御。平城宮の北側に陵墓が建造され埋葬された)。その後も、宮殿は政庁として一部機能し、また 東院庭園(平城宮の東部分)も 800年代中期までは整備されていたが、864年には平城京の市街区の街道は、ことごとく水田へ変貌してしまっていたという。
898年、宇多上皇が「旧宮」跡地に立ち、古の姿を偲んだと記録されている。

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実際、今の平城宮跡地を歩いていると、かつて水田地帯になっていたのだろうな。。。と思いをはせるには十分すぎるぐらいの環境だった。

下写真左奥は朱雀門。ちょうど南面の若犬養門から農道を通って、西面の玉手門へ移動中で撮影。
下写真右は、西側の城壁跡。玉手門を出て、西大寺駅まで移動する途上で撮影。

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今日、JRと近鉄線の奈良駅がある奈良市街地だが、平城宮を含む都城全体が水田化され荒廃する中、東側の外京地区は 東大寺、興福寺などの有力寺院が健在で、その門前町として発展することとなった。これが大和国の 守護所「奈良町」へと継承されていったわけである。そして戦国期に、この奈良町の支配権をかけ、松永秀久や大和国の国人衆らが戦火を交えることとなった。
その頃には、この大極殿や内裏のあった平城宮跡地など誰も見向きもしない農村エリアと化しており、完全に忘れ去られていたという。

しかし、江戸時代末期、北浦定政(1817~1871年)が平城京跡地の特定調査を開始し、明治時代には 東大教授 の 関野貞(1868~1935年)がさらに実地研究を重ね、1900年、その 成果「大黒の芝」を新聞に発表すると、遺跡の保存運動がスタートすることとなった。ここは長い間、水田地帯であったことで地下に眠る当時の遺物などがそのまま保存され得たといい、詳しい調査研究が今も続けられる遠因となったわけである。
下地図は大正 11年=1922年作成のもの。同年、平城宮跡が国の 指定史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に選定される。

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続いて、西大寺 へ向かう。
駅南口から徒歩 5分弱で到着できるのだが、周囲は完全に駅前商店街と住宅街だけの雑多なエリアにあって、西大寺の境内だけは全くの別世界が広がっていた(下写真左)。
月並みなコメントで申し訳ないが、時代空間をタイムスリップしてしまった錯覚にとらわれる。

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上写真左は、江戸期の 1808年に再建された 本堂(国の重要文化財。本堂の入館料 400円)から、境内中央エリアを眺めたもの。右手には愛染堂と呼ばれる 本坊(お坊さん方の生活、修行空間)が、また正面には東塔の基台跡が配されていた。

かつて、この基台の上には 五重塔(高さ約 46 m)が建てられていたが、戦国時代初期の 1502年に兵火に遭い焼失してしまったという。また境内には同規模の五重塔であった西塔もあり、東西並んでそびえたっていたが、西塔の方は平安時代に落雷により焼失し、以後、再建されなかったという。

なお、上写真左の奥側には南門があり、西国三十三カ所観音が安置されている。

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上地図は奈良時代の境内と現在の規模を比較したもの。

奈良時代後期の 765年、称徳天皇の側近として権勢を振るった、道鏡らが主導する「仏教による鎮護国家政策」の一環として創建され(東大寺と対を成した)、当時、平城京内にあった(南都)七大寺の一角として壮大な伽藍を誇ったが、御所が 京都 へ移転された平安時代には他の寺社勢力と同じく衰退し、興福寺の配下に組み込まれて、ぎりぎりの存続を余儀なくされる。
鎌倉時代の 1238年、叡尊により「興法利生」の道場として復興され、以後、全国でも真言宗派の重要拠点として君臨するも、明治中期の 1895年に真言宗から独立し真言律宗を打ち立てて、その総本山となっている。

境内を見学後、駅反対側へ移動し、駅前のショッピングモールで食事をとって近鉄奈良駅へ戻った(260円)。そのまま JR奈良駅前から高速バスで 名古屋 へ移動した(19:20発 → 21:55着)。


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