BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


大阪府 大東市 ~ 市内人口 12万人、一人当たり GDP 470万円(大阪府 全体)


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  大東市立歴史民俗資料館
  堂山古墳群
  野崎城跡(飯盛山城の出城)
  飯盛山城跡(畿内の覇者・三好長慶の居城。43歳で急死&仮埋葬された場所)、楠公寺
  【豆知識】戦国期の 河内国 ~ 守護・畠山氏、天下人・三好長慶、織田信長の時代 ■■■
  四條畷市 歴史民俗資料館



関西周遊では、この 大阪中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

この日、投宿先の JR大阪駅前から大阪環状線に乗車し「京橋駅」で下車後、 JR片町線(学研都市線)に乗り換えて「住道駅」に向かう(24分、220円)。 そのまま 改札口より東へ 100 mほどの場所にある、JR西日本運営のレンタサイクル店「駅リンくん」で、一日利用料金 400円を支払い、自転車を借りる(受付時間は 6:30~9:30 /15:30~21:00のみなので、早朝 9:00には現地到着が必須!いちおう事前に電話確認してみる)。場合によっては、この住道駅前に投宿することも検討したい。

ただし、この「住道駅」は、今回のメイン訪問地である JR片町線(学研都市線)上の「野崎駅」や「四條畷駅」からは距離があり、もしかすると、自転車よりも徒歩移動だけの方が気楽に散策できるかもしれない(特に、野崎城跡 → 飯盛城跡 → 四条畷神社のメインコースでは、自転車が逆に足手まといとなる)。

大東市

早速、「住道駅」から北へ進み、まずは「大東市立歴史民俗資料館(9:30~19:30、火曜休館、入館無料)」を訪問してみる。上地図。
古代には大阪平野一帯は海であり、弥生時代に入って徐々に海岸線が後退し出すと、古墳時代に至り、沿岸沿いに多くの集落や古墳が形成されるようになる(下絵図)。さらに時代と共に、ますます海岸線が後退していくと、豊かな湿地帯が広がることとなり、これらの平野部は、後に勃興する 京都奈良大阪 の巨大都市へ通じる、陸の交通路として繁栄するようになる。と同時に、畿内で戦乱が続いた室町時代中期以降、多くの軍事的衝突の現場となったということだった。北新町遺跡から出土したという、土器や瓦、鏡などの古代遺物も展示されていた。

資料館を退館後、続いて東にそびえる巨大な生駒山地の山麓部へ向かい、「堂山古墳群」を訪問してみる。
山の斜面上には古墳時代中期~後期にかけての古墳がたくさん保存されており、その高台は大阪平野が一望できる好立地となっていた。古墳時代当時には、眼前に大きな河内湖が広がっていたことだろう(大和王権が成立した当時は、大阪湾から河内湖へ、さらに飛鳥や 奈良 まで河道を伝って水上移動できたという)。下絵図。

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上絵図の通り、古代の畿内において、生駒山地の西面一帯には、巨大な入り江が形成されていた。旧石器~縄文~弥生時代を通じて海岸線は徐々に後退し、古墳時代後期には河内湖という内海となり(上絵図)、さらに奈良~平安時代を通じて、それもどんどん縮小されていったわけである。

その過渡期だった古墳時代、生駒山地の西面山麓と河内湖との間に形成された、南北に細長い平野部に人々が居住するようになり、当時の支配者層は、それらの高台部分で、支配の象徴である墳墓造営や祭祀活動を行っていた、と考えられる
その一環で、飯盛山の一部が西側(海側)へ突き出した小高い尾根上に、堂山古墳群が築造されていたのだった(8基)。この小山部分は古くから「堂山」と呼ばれ、そのまま古墳群の名称へ転用されることとなる。下地図の下端。

1969年からスタートされた大阪府水道部大東浄水池の建設工事に際し、地元住民が古代の遺物を発見したことが発端となり、1969~1972年にかけて断続的な発掘調査が行わる。そして、1号墳(下地図)から出土した甲冑や刀剣などが大阪府指定文化財に定められることとなり、そのまま浄水池の建設工事が中止される。 2012年に大東市自身も史跡指定するに及び、ようやく大東市立堂山古墳群史跡広場として整備されるに至ったわけである。



大東市

さらに北上し、野崎城跡を訪問する。上地図。
山麓にある慈眼寺(野崎観音)から、飯盛山へのハイキングコースの階段を登っていくと、その最初の休憩スペースが野崎城の曲輪跡だった(登山開始から 15分ほど)。ここからの眺望はすでに抜群で惚れ惚れするほどだった。下地図。

さらにハイキングコースを進み、野崎城の本郭跡(標高 115 m、麓からの高低差 65 m)に至ると、城跡記念碑、解説板が設置されていた(下地図)。その東面には、幅 10 m以上もある堀切が掘削されており、さらに西面と北面の守備として、3段にわたって腰曲輪 4つが配置されていた。下地図。

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野崎城の立地する場所は、生駒山地に属する飯盛山が西へと出っ張る高台斜面となっており、かつて西の平野部にあった深野池がすぐ山裾まで迫っていた。この細長い平野部に東高野街道(京都~高野山への参詣道)が南北に走っており、その街道を抑える要衝として設計されていたわけである。上地図。

この高台の山頂部(標高 114.4 m)が整地され、本郭が造営されていた。当初、南にある若江城(今の東大阪市若江南町)の支城として、守護代の遊佐氏が築城工事を手掛けたと考えられており、後に守護代・木沢長政(1493?~1542年)によって、北側に飯盛山城が築城されると、その支城として組み込まれ、さらに大規模改修が加えられたようである。

しかし、応仁の乱以降、畿内の名門・畠山家でも、畠山義就(1437?~1491年)・義豊(1469~1499年)父子と、畠山政長(1442~1493年)・尚順(尚慶。1476~1522年)父子の陣営に分かれて、血で血を洗う家中騒動が勃発していた。紀伊国・河内国・越中国の守護職を継承した畠山義豊(1469~1499年)は、宿敵の畠山尚順を野崎城に追い詰め、これを攻めたという記録が残されている。結局、畠山尚順は紀州に逃れた後、再び挙兵して河内国へ攻め込み、畠山尚順は山城国へ逃亡することとなる。その後、尚順は細川家の支援を受けて、再び、河内国へ侵攻し、尚順は紀州へ再逃亡に追い込まれるも、この両家の争いはそのまま戦国時代まで継承され、守護代・遊佐氏(後に木沢氏、安見氏 に交代)の台頭を許すこととなる。

最終的に 1575年4月、守護・畠山氏に代わって河内国を占領していた三好家残党が、織田信長によって駆逐され飯盛山城も占領されると、河内国は信長領に併合され、筆頭家老の佐久間信盛(1528?~1582年)が配置されるわけである。その信盛の治世下で、中世型の山城だった飯盛山城、野崎城は共に廃城とされる(1576年)。



さらにハイキングコースを進み、生駒山地東端の要衝「飯盛城跡」を目指す。
山頂近くにある「キャンピィだいとう(大東市立野外活動センター。下地図の下端)」休憩所の受付では、石垣情報が掲載された資料をゲットし、またスタッフの方が丁寧に見どころをアドバイスしてくれた。

そのまま直接、飯盛城の虎口跡を目指す(下地図)。そして城内の曲輪群を視察途中に、楠公寺にも参拝した(下地図)。山頂の本丸まで徒歩 20分ほどの山歩きとなったが、その眺望は抜群で大満足だった。城跡には土橋、石垣、竪堀、堀切、土塁千畳敷郭跡、倉屋敷跡、南丸、高櫓郭跡、三本松郭跡などが保存され、見どころ満載の史跡だった(下地図)。

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さらに 40分ほどハイキングコースを進むと(三好道を経由)、山麓の四条畷神社に到着し、ようやく下山できた(上地図の上端)。かなり傾斜がきつい階段だったが、下り坂だったので気楽だった。

ただし、自転車を野崎観音に置きっぱなしの場合は、四条畷神社からいったんタクシーに乗車し、野崎観音まで戻ってから、再北上する必要があるだろう。


生駒山地の北端に位置する飯盛城(飯盛山城)の築城時期は、南北朝時代初期だったと考えられている。楠木正成や高師直など、畿内で兵乱を主導した有力武将らにより、臨時の陣城か、物見台程度の施設が設けられていたようである。

戦国時代の 1530年ごろ、河内国守護の畠山氏(斯波氏、細川氏と並び、三管領家を成した)に仕える、守護代・木沢長政(1493?~1542年)によって本拠地に定められ、本格的な城塞へと大改修されることとなる。しかし、主家の畠山氏を追放し、早い時期に畿内へ覇を唱えたことから、旧勢力の細川氏やその家臣・三好氏らと対立し、最終的にその追討を受けて戦死に追い込まれる(太平寺の戦い)。

その後、再び河内守護として畠山氏が返り咲くと、その重臣・安見宗房が飯盛山城主に配置される。しかし、その宗房も主君の畠山高政を河内国から追放し下剋上を行うのだった。これに対し、1559年、すでに京や畿内一円の覇権を握りつつあった三好長慶(1522~1564年)へ救援要請が出されたことで、三好軍が河内国に軍事介入することとなり、宗房は大和国への亡命に追い込まれる。
しかし、この三好長慶の河内進出に脅威を感じた高政は、大和に亡命中だった宗房と和解し、再び飯盛山城に復帰させるも、これに激怒した長慶によって再び河内侵攻が強行され、そのまま畠山高政と安見宗房は追放され、河内国を完全占領されてしまうのだった。こうして翌 1560年11月13日、三好長慶はさらに東に隣接する大和国への侵攻を企図し、本拠地を 芥川山城(今の大阪府高槻市)から飯盛山城へ移すこととなる。
直後より大規模な改修作業に着手し、現在の姿になったというわけである。下絵図。

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その規模は、南北約 700 m、東西約 400 mもの巨大さで、西日本有数の中世山城となり、まさに天下人にふさわしい大城郭へ変貌することとなった。当時としては最新技術だった石垣を多用し、城の威容と自らの権威を誇示すべく、平野部から見える西面をメインに石垣を組み上げていたようである。東面は、もともとあった自然の崖面が城壁として転用されていた。上絵図。

なお、これらの石垣は各曲輪ごとにふんだんに用いられ、その石材をほぼ垂直に積み上げていたという。また、中には数段に分けて構築している箇所もあり、山を改造した際に盛った土の押さえのために組み上げられていたと考えられている。後世の城郭のように、石垣の上に直接、建物が乗っかっているわけではなかったようだ。上絵図。

それでも、織田信長の安土城 よりもずっと先に建造された、本格的な石垣の城郭ということ、また、今日でも城内に堀切や土橋などの遺構が良好な状態で残存していることが評価され、2021年に国指定史跡となっている。

以降、長慶はこの城を拠点に畿内 5か国(大和、山城、河内、摂津、和泉)と四国の所領を支配し、追放した幕府将軍、管領・細川家、名門・畠山家に代わって、畿内の政治を動かしたのだった。彼は積極的に兵農分離、鉄砲、石垣城郭の導入を進めつつ、連歌(れんが)の会や茶の湯など 京都文化 への接近も図り、将軍家の権威を借りずに自力で畿内の実効支配を進めた人物として、織田信長に先駆ける天下人であったと評価されている。さらに、飯盛山城下でのキリスト教布教も許可し、 73名の家臣が城中で洗礼を受けた記録が残されている。
しかし、その支配もわずか 4年で終わりを告げることとなる。 1564年7月24日にこの飯盛山城内で、わずか 43歳で急死してしまうのだった。彼の死は 3年間にわたり秘匿され、その遺体は御体塚曲輪に仮埋葬されていたと伝えられている。
その後も、跡を継いだ三好義継や三好三人衆が飯盛山城を統括していたが、 1568年に畿内入りした織田信長・足利義昭政権に帰順すると、新たに畠山秋高(1545~1573年。河内・紀伊国守護・畠山政国の子)が飯盛山城主に配置されることとなる。
しかし、間もなく河内国守護代・遊佐信教(1548~1575?年)の反乱によって秋高が自刃に追い込まれると(1573年6月25日)、これに激怒した信長の攻撃により信教は敗死し(1575年、高屋城の戦い)、以降、河内国は織田家の筆頭家老・佐久間信盛(1528?~1582年)の直轄支配地となる。畠山家の旧臣らはそのまま信盛の旗下に組み込まれ、翌 1576年には飯盛山城も廃城とされるのだった。



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さらに北上し、「四條畷市 歴史民俗資料館(9:30~17:00、月曜休館、入館無料)」を訪問する(上地図)。国の登録有形文化財となっている明治時代の土蔵が転用され、内部では、市内で出土した遺物や昔の生活用具などが展示されていた。

見学後、自転車を返却すべく JR住道駅を目指して南進し、そのまま投宿先の JR大阪駅前 へ戻ることにした。

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