BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


大阪府 高槻市 ~ 市内人口 35万人、一人当たり GDP 470万円(大阪府 全体)


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  高槻市立しろあと歴史館、歴史民俗資料館
  高槻城跡(城跡公園)、北大手門跡、高山右近 像、高槻まちかど遺産 外堀道、蔵屋敷跡
  上宮天満宮、天神の馬場(1582年6月の山崎合戦前に、羽柴秀吉が本陣を置いた)
  霊松寺、三好長慶の 嫡男・三好義興の墓、歴代 高槻城主らの墓
  江戸時代の 宿場町「芥川宿」、一里塚、本陣跡、水門跡、芥川仇討ちの辻跡
  芥川城館跡
  芥川山城(新・芥川城)跡



関西周遊では、この 大阪中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

この日は、大阪府高槻市エリアを訪問してみた。
新大阪駅前から JR京都線で北上し「高槻駅」で下車する(新快速で 11分、快速で 15分。260円)。

駅前にあった レンタサイクル店「グリーンフラッグ高槻店」で、自転車をレンタルした(一日 150円)。この店舗は、ネット上の書き込みでは接客態度が最悪と書き連ねられていたので、要注意

高槻市

そのまま駅東側の史跡をめぐってみる。
「高槻市立しろあと歴史館(入館無料。10:00~17:00。毎週月曜休)」は、かつての高槻城三の丸跡の一角に立地し、戦国~江戸期における地元高槻の歴史を効率的に学べる施設だった(館内は写真撮影 OK)。ロビーにある視聴覚映像コーナーも、大いに役立たせてもらった。上地図。

続いて、「しろあと歴史館」の 分館「歴史民俗資料館」も訪問してみた(入館無料。 10:00~17:00。毎週月曜休)。この白壁と本瓦葺きの建物は、江戸時代中頃、城下の紺屋町に建てられていた商家が移築復元されたもので(上地図)、市の有形文化財に指定されているという。内部では、庶民層の暮らしが垣間見れる 生活用具、農具・漁具などが保存、展示されていた。

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そのまま高槻城跡公園に立ち入ってみる。
そもそも、高槻城自体の北側に西国街道があったことから、城下町も城の北面に発展していた。駅から城跡公園へ向かう途中に、自然とこの大手御門跡や大手口があった「大手町」を通過することとなった。上地図。
北大手門跡を示す解説板を過ぎると(上地図)、その南側一帯が、かつての「三の丸」に相当し、家老や郡奉行などの上位家臣団の屋敷が立ち並ぶ区画が広がっていたわけである。

さて、城跡公園(高槻城の三の丸御殿跡地に相当。上地図)では、模擬復元された石垣や天守台、高山右近像が設置されていた。公園東端には、三の丸にあった外堀の 段差(土塁跡)も保存されていた。また、本丸跡に立地する「大阪府立 槻の木高校(偏差値 60)」内には、高槻城跡の記念石碑が建立されていた。

城跡公園の北に隣接する「高槻市第一中学校」の東端にも、外堀跡の遺構が残されていたので、ここを基点に外堀跡を一周してみることにした(全長 2.3 km、徒歩 30分弱)。ちょうど「高槻まちかど遺産 外堀道」として周遊できるように舗装されていたので、快適に散策することができた。下地図。

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その途中、三の丸跡地にある「野見神社」と「永井神社」にも立ち寄ってみた(上地図)。ここには、高槻城が解体される際、移築された壮麗な 城門(唐門)が保存されていた(外堀道の北側にある「本行寺」にも、移築城門が保存されている)。また道を挟んだ高槻商工会議所前には、「高山右近天主教会堂址」の碑が設置されていた。この野見神社が建立される前には、キリシタン大名・高山右近 が建てた天主堂(教会)が立地していた場所という。キリスト教禁令により破却後、江戸時代を通じて神社となっていた(下絵図)。

外堀道の南西端には、蔵屋敷跡の解説板が設置されていた。
この外堀の外周に広がっていた城下町エリアは、今でも 大手町、上本町、本町、八幡町、出丸町、城北町、城東町、城南町、城西町などの町名が継承されている(この城跡エリアは、「城内町」という地区名だった)。上地図。

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高槻城の築城時期は特定されていないが、南北朝時代、摂津国島上郡高槻村周辺を支配した 入江資義(生没年不詳)が居館を開設していたことが伝えられており、以降、室町時代を通じ、入江氏は 摂津国守護・細川家に従い、高槻村一帯を領したようである。このため高槻城は、入江城とも別称される。

その後、摂津国の守護であり、幕府管領であった細川晴元や 将軍・義晴らを より追放し、畿内を支配した 三好長慶(1522~1564年)が、近くの芥川山城に居城を構えるようになると(1553年)、当時の 城主・入江春継(?~1569年)はそのまま長慶に臣従したようである。
しかし、1564年に長慶が急死すると、畿内は再び不安定化し、摂津国は三好三人衆の一角・三好長逸が支配するようになるも、1568年9月下旬に信長が 京都 へ上洛してくると、織田軍との抗争に敗れた三好長逸は、本拠地だった芥川山城も失陥し、四国への逃走を余儀なくされる。この時、高槻城主・入江春継も開城・降伏に追い込まれたようである。下地図。

約 1か月に及ぶ畿内鎮定を終えた信長が、いったん 岐阜 へ帰国すると、すぐに三好残党勢力が力を盛り返し、翌 1569年1月5日、10000の大軍で 本圀寺(京都市山科区)に御所を構えていた 15代目将軍・足利義昭を襲撃することとなる。この時、摂津国の国人衆らは真っ二つに対応が分かれたようで、2,000ほどの兵が義昭側につき本圀寺を警護する一方で(1月6日、本圀寺の変)、高槻城主・入江春継は三好派に加わり反信長として攻撃に参加したのだった。しかし、1月10日には急報を受け岐阜から駆け付けた信長軍が再上洛してきたため、三好軍はいったん撤退を余儀なくされると、その後の織田軍による掃討戦で三好軍は圧倒され、入江春継もその戦闘中に自刃して果てたようである。

こうして伝統的支配者だった入江氏が放逐されると(その後、春継の子・景秀と景光は、肥後細川氏の家臣となり、江戸時代を通じて生き残ることとなる)、先の本圀寺の変で義昭警護の武功を立てた 芥川山城主・和田惟政(1530?~1571年)に、高槻城が与えられる。惟政は、直後より自身の居城を高槻城へ移し、初めて本格的な堀を造営したと考えられている(代わりに、家臣の 高山友照・右近父子が芥川山城主に配置される)。下地図。

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しかし、三好派残党勢力は引き続き、畿内で暗躍しており、新興勢力をそそのかしては、各地で挙兵を誘発させていた。1571年、これに乗って荒木村重や中川清秀らも挙兵すると、信長方に与した和田惟政らを白井河原の戦いで撃破し、城代として高槻城の留守を預かっていた 高山友照・右近父子は、そのまま籠城戦に追い込まれる。度重なる信長への救援要請の結果、ようやく 1か月後に明智光秀の援軍が到着すると、荒木村重らは撤兵に合意し危機を脱するのだった。

信長は荒木村重や中川清秀らの新興勢力を公認し、新たに家臣団に取り込むことで、摂津国の安定化を図ることとすると、高槻城には和田惟政の 嫡男・惟長が配置され、引き続き、高山友照・右近父子が臣下につけられる。しかし、間もなく和田惟長と高山父子は不仲となり、暗殺を計画した和田惟長を、逆に高槻城から追放すると、そのまま高山父子が高槻城主として公認されることとなる(1573年)。直後より、高山父子は城下町の外周部にも外堀を掘削し、二重の堀を持つ大城郭へ改修工事を施している。
この時代、すでに城下町自体は、古くからあった西国街道側の北面に発展していたと考えられる。下絵図。

和田惟政・惟長父子の統治時代から、高槻城下ではキリスト教が手厚く保護されていたが、これを継承した 高山友照・右近父子はより熱心で、自身もキリシタンに入信しつつ、引き続き、キリスト教を手厚く保護していくこととなる。
1576年に念願の第一号教会が完成すると、 1583年には修学寮も整備するなど、領内に 20ヶ所もの教会関連施設を建設して回り、当時の高槻領人口の 60%以上、実に 1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、布教活動がかなり活発に展開されていたようである。ただし、一方でこれに反比例するかのように、領内の神社仏閣は破壊され、神官や僧侶らは 直接的、間接的な迫害を加えられたと伝えられている。史書には廃寺となった資材が、次々と教会建設の材料へ転用されたことが記録されている。

しかし、1582年6月に 本能寺 の変が勃発し、信長の後を豊臣秀吉が継承すると、高山右近は引き続き、秀吉に臣従していくこととなり、間もなく、秀吉は摂津国を自身の直轄領とすべく、1585年に右近を明石・船上城へ転封させる(6万石)。さらに、1587年には秀吉によって全国にバテレン追放令が発布されると、右近は信仰を守ることと引き換えに、領地や身分を喪失するも、前田利家の客将として迎え入れられ、加賀へ移住することとなる。

1600年の関ヶ原合戦後、高槻城は徳川家の直轄地に組み込まれる。特に、1614~1615年にかけての大坂の陣 では、徳川方の補給基地として大いに活用されたという。

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豊臣氏滅亡直後の 1615年6月、徳川家譜代家臣の 内藤信正(1568~1626年)が入封してくる。高齢であったことから、間もなくの 1617年、土岐定義(1580~1619年)が城主交代すると、同時に、幕府命令による天下普請で大規模な拡張工事が着手されることとなる。このタイミングで、三重の堀に守られた 本丸、二の丸、三の丸、出丸の縄張りが完成するとともに、3重3階の天守が組み上げられたという。

その後、松平家信、岡部宣勝、松平康信へと目まぐるしく藩主が交代していくも、この間に西側の出丸にも堀が掘削され、上段模型のような縄張りが完成することとなる(最終形態の城域は、南北 630 m × 東西 600 mとなった)。
1649年に永井直清(1591~1671年。作家の 永井荷風や三島由紀夫は、彼の子孫にあたる)が入封すると、引き続き、侍屋敷の拡張、城下町の整備を進める一方、郊外の水田開発や文化行政にも力を注ぎ、以降、幕末まで 13代にわたって永井家が高槻藩 3万6千石を領していくのだった。

明治維新下の 1871年7月に廃城が決定され、1874年より解体が開始されると、石垣や木材などがはがされ、東海道本線の敷設工事へと転用されて、いったん城郭は完全に姿を消すこととなった。
現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられて、大阪府指定の史跡に名を連ねているが、これは発掘調査によって確認された堀障子や強固な土手の建造工法が特殊で(地盤が緩い土地柄にうまく対応していた)、江戸時代の高度な土木建築技術を今に伝える史跡として高く評価されたためであった。また、武家屋敷跡地では、親井戸の水を竹筒で何か所にも配水する上水道の存在も確認されている。



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次に駅西側へ移動し、「上宮天満宮」を訪問してみた。

駅前から石鳥居へ続く直線の参道は、かつて松の並木が続いており「天神の馬場」と称されていたという。1582年6月に山崎の合戦前、羽柴秀吉がこの馬場エリアに本陣を開設したことが知られている。
毎年、菅原道真の命日である 2月25~26日には、この直線道路沿いに多くの出店が立ち並ぶという。

そして、その先にあるのが上宮天満宮で、「北山の天神さん」と地元で親しまれる神社である。菅原道真を祀る天満宮で、993年に創建された古刹という。


平安時代きっての文人政治家だった 菅原道真(845~903年)は、藤原家との政争に敗れて 京都 を追放され、大宰府へ流された後、そのまま病死するわけだが、彼の墓所に建立されたのが 太宰府天満宮(905年に祀廟が、 919年には勅命により社殿が建設)で、全国約 12,000社ある天満宮の総本宮とされる。そのうち大宰府天満宮に次いで、2番目に建立されたのが、当地の「北山の天神さん」というわけであった。

その由来は、道真の死後も引き続き、その霊を鎮めるために天皇の勅使が大宰府へ派遣され続けており、供養の祈祷を行っていた。ある時、帰路について西国街道を通過中、急に牛車が動かなくなってしまうことがあった。後日、調査したところ、菅原氏の祖先とされる 野見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることが判明したため、ここにも道真の霊を祀る宮が建立された、というわけであった(993年)。なお、 道真がまだ朝廷に出仕していた頃、旧長岡京あたりに所領を有していた記録が残されており、この桂川・淀川東岸一帯に 先祖代々の荘園を保有していたと考えれる(道真の遺品を祀った長岡天満宮が有名)

近年まで、江戸時代初期の 高槻藩主・永井直清(1591~1671年)が建てた拝殿や石鳥居が残っていたが、本殿一帯が火災により焼失してしまったため、あわせて建替えが行われている。



また、「天神さん」の西面山麓には「霊松寺」が立地する(上地図)。 8世紀中頃に、行基が開山したと伝えられる古刹で、 1563年(旧暦)8月25日に芥川山城で病死した三好長慶の 嫡男・三好義興(1542~1563年)が葬られた地として知られる。現在でも墓所が残っており、その自然石墓は「三好のカンカン石」と俗称されているという(通常、「カンカン石」とはサヌカイト石のことを言い、叩くとカンカンと高音が鳴ることが理由)。
畿内の覇者にまで上りつめた 三好長慶(1522~1564年)にとって、唯一の後継ぎ男子だった義興の死は致命的で、これ以降、政務から遠ざかってしまい、翌年に自身も急死することとなる。三好家の凋落を決定付けた大事件だったと言える。

また、寺内外には 室町時代~江戸時代にかけての、歴代の高槻城主らの墓も保存されており、高槻藩内でも由緒ある寺院だったことが分かる。

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さて、再び「天神の馬場」まで戻り、この中央部で交差する「西国街道」を西へ進んでみる。そのすぐの場所に、江戸時代の 宿場町「芥川宿」地区があった。上地図&下地図。

今でも、ちらほら古民家が残るものの、江戸時代の町並みは完全に喪失され、単なる一般的な住宅街へと変わり果てていた。南側に JR高槻駅が開通後、古くからの商家は閉店に追い込まれ、ほんのわずかの店舗が営業を続ける程度となっている。
現在、旧宿場町の東端に残る一里塚は、大阪府指定の史跡としてしっかり保存されていたが、その他の 本陣跡、水門跡(芥川宿の西端の入口にあたり、西側を流れる芥川が増水した際、ここに止水板をはめて氾濫を防いだ)、芥川仇討ちの 辻(江戸時代初期、浪人どうしが 2世代に渡って仇討ちの暗殺を繰り広げた逸話に由来)、などは解説板が設置されるだけだった。

そもそも、この「芥川宿」は 京都 から発する西国街道の 2番目の宿場町を担い、 1844年の大概帳によると、東西 9町、民家 253軒、住民 1,150人、本陣1軒、旅篭屋 33軒の規模だった記録が残されている。この一帯は、室町時代初期より、摂津国の 国人・芥川氏が城館を構えて、早くから小規模な城下町を形成されており、それが宿場町へと発展したものであった(後述する芥川山城が築城されて以降、廃城となったようである)。

当宿場町で最も有名なエピソードは、幕末期、八月十八日の政変で京都を追われた三条実美ら七卿が、翌 8月19日にこの宿場町まで落ちのび、ここの 本陣「河内屋」に投宿したという事件であった。江戸時代、芥川宿の「本陣」は、地元の 豪商・河内屋平井家の邸宅であったが、その有名な歴史の舞台も、今は残存せず。

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そして宿場町西はずれの芥川沿いまで至ると、ここから川を遡っていくこととする。
途中に JT生命誌研究館があり、その横に「芥川城跡」の記念碑が設置されていた(上地図&下地図)。室町時代前期まで、このエリアを支配した芥川氏の居館跡と考えられている。

そのまま北上を続け(上地図&下地図)、芥川の上流部、摂津峡を見下ろすように立つ 三好山(地元では単に「城山」と呼ばれる)に至る。 この山頂に、かつて戦国時代に畿内を制覇した三好長慶が本拠地を構えた「芥川山城(新・芥川城)」が立地していたわけである。下地図。

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登山口は、特別養護老人ホーム「高槻黄金の里」の裏側にあり、ここから山頂までは登り 30分、下りは 20分ほどの工程であった。山中はハイキングコースが整備されており、歩きやすかったが、途中からは普通の山道が続くだけとなった。往時の山城遺構が良好な状態で残っており、途中途中で堅土塁や土橋、虎口、石垣などが散見され、飽きずに登山を堪能できた。特に、大手門と二郭下の石垣、そして大土塁が見所だった。

標高 182.6 mの山頂部に主郭があり、「城山城」の石碑と三好長慶を祀る祠が設置されていた。かつては、この主郭部分に御殿や倉庫などの建物群が建てられていたようで、天目茶碗などの高級品が出土していることから、迎賓館を兼ねた施設だったと考えられている。三好長慶・義興父子が畿内を支配した時代、ここが畿内の政庁を担っていたわけである。1568年9月下旬に初めて 京都 に上洛した織田信長が、一ヵ月かけて三好残党勢力を駆逐していく中で、この芥川山城も占領し、ついでに登頂した記録が残されている。

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高槻駅前からの路線バス移動だと、バス停「塚脇」が最寄りとなる。上地図の右下端。


芥川山城は、北面、西面、南面の三方を芥川がぐるりと取り囲んで蛇行する天然の要害・三好山上にあって、東西約 500 m × 南北約 400 mもの広大な敷地にわたり、複数の曲輪群が展開される大規模な連郭式山城であった。下絵図。

摂津国・丹波国の守護大名で、幕府管領だった細川高国が、敵対する細川澄元派に属した 国人・芥川氏(平野部の芥川城館の城主)を攻め滅ぼすと、その領地を家臣の 能勢頼則(丸山城主)に与える(1515年)。当初はそのまま芥川城館へ入居するも、防衛には不向きだったことから、さらに芥川の上流にある山頂に城塞を建造することとなる(1515~1516年)。これが、新・芥川城=芥川山城の起源となった。

なお、この能勢氏であるが、平安時代の 武官貴族・多田(源)満仲(912?~997年)の 長男・頼光(実弟で二男の頼親が大和源治、三男の頼信が河内源氏= 源頼朝 らの祖)を祖とする、多田源氏の末裔であった。鎌倉時代初期に、源氏出身の在京御家人として頭角を現し、1331年の承久の乱でも畿内にあって幕府方に与したことから、畿内で大いに出世したようである。室町時代には幕府奉公衆に編入され、そのまま幕府管領・細川家の直属家臣となっていた。

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頼則はその直後の 1516年に病死すると、能勢頼明、国頼らが家督を継承していくも、当主の細川高国と 細川晴元(細川澄元の子)との家中争いが苛烈化し、畿内各地で武力衝突が頻発する時代となっていく。高国派の 山崎城 が落城すると、そのまま 安威城茨木城福井城三宅城 などの北摂津の諸城が次々と晴元派へ帰順することとなり(1526年。上地図)、戦況不利の中、能勢国頼は芥川山城を放棄し、翌 1527年に高国と共に近江へ亡命することとなる。
直後、芥川山城には波多野氏が入城してくる(1526年)。

その後、越前国の朝倉氏や、備前国守護代の浦上氏の支援を受け、高国派は何度か 京都・摂津国の奪還を果たすも、都度、晴元派とこれに与した阿波国守護代・三好元長らによって駆逐され、高国自身も 1531年に 尼崎 で捕縛され、そのまま自刃に追い込まれる(大物崩れ)。こうして残党勢力の掃討戦が終結した 1533年より、芥川山城を含む摂津国は細川晴元の直轄領となり、幕府管領職にも就任して自身の全盛期を築き上げるのだった。
こうした度重なる戦火の中、街道沿いの平野部に立地した芥川城館は早々に放棄され、芥川山城がメインとなっていったと推察される。

しかし、細川高国の後継を称する細川氏綱が再挙兵し(1542年)、河内国の畠山稙長や遊佐長教らの支援を受けて、次第に勢力が挽回してくると、これに対抗すべく、細川晴元は有力家臣だった三好長慶を芥川山城主に任命するも(1547年)、 翌 1548~49年、長慶が細川晴元を見限って離反し、そのまま北摂津へ攻め込んでくると(江口の戦い)、大敗を喫した晴元らは将軍・義晴を伴って近江へ落ち延び、畿内一円は 三好長慶・細川氏綱政権によって支配されることとなるのだった。

しかし、近江に亡命中だった細川晴元は、引き続き、畿内周辺の諸勢力らに調略作戦を進め、京都 奪還を図っていた。その調略に乗って、芥川山城主に配置されていた 芥川孫十郎(三好一族出身)も、晴元派に寝返って挙兵してきたため、 1553年、三好長慶自ら軍勢を率いて芥川山城を攻め落とし、そのまま自身の居城に定めることとなる。その後も、畿内のあちこちで勃発する晴元派の駆逐作戦を展開し、いよいよ畿内で敵対する勢力がなくなると、続いて大和国への侵攻作戦に着手すべく、拠点を 飯盛山城 へ移すこととなる(1560年)。この長慶治世下で、山城は大坂府下でも最大規模の城郭へと大改築され、以降、三好山と通称されるようになるわけである。

引き続き、畿内北部ににらみを利かせるべく、芥川山城には 嫡男・三好義興を配置するも、わずか 22歳で同城内で病死してしまうと(1563年)、従叔父の 三好長逸(生没年不詳。後に三好三人衆の一角として台頭する)を城主に任命する。そんな失意の中、翌 1564年には長慶自身も急死してしまうのだった(43歳)。以降、畿内は再び不安定化し、各地で武力衝突が頻発するようになる。

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そんな渦中の 1568年9月下旬、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、すぐに畿内の三好派掃討作戦が着手され、この芥川山城も織田軍の攻撃によって陥落に追い込まれる(城主・三好長逸は四国へ逃亡する)。こうして摂津国の平定を完遂すると、足利将軍家に近侍していた和田惟政を城主に据え、同時に摂津国守護に任命して新統治体制が構築されるのだった。信長は、畿内に 1か月ほど滞在した後、 10月末に早々にも 岐阜 へ帰国している。

翌 1569年1月5日、三好三人衆の残党が 10,000の兵力を糾合し、本圀寺(今の 京都市山科区)の足利義昭御所を襲撃すると、和田惟政は他の摂津国衆 2,000らと共に本圀寺に駆けつけ、義昭の警護にあたったことから、戦後、その手柄を認められ、平野部の高槻城も与えられることとなる。直後に居城を高槻城へ移し、この芥川山城には、代わりに家臣の高山友照・右近父子が配置される。

しかし、1571年、和田惟政が三好派残党に与した 荒木村重・中川清秀らによって敗死に追い込まれると(白井河原の戦い)、代わりに高山父子が高槻城に入って守備を固め、一ヵ月もの間、籠城戦を耐え抜くのだった。ようやく明智光秀の援軍が到着すると、荒木村重らは和睦に応じ、改めて信長配下に組み込まれることとなる。
この時、高山右近父子は再び芥川山城へ戻るも、高槻城主として新たに配置された和田惟政の 嫡男・惟長と反目するようになり、最終的に和田惟長を追放して、自身が高槻城主となる。信長もこれも許し、引き続き、高山父子は織田家に臣従を認められる。そのまま高槻城へ拠点を移した 高山友照・右近父子により、芥川山城は廃城とされ、それらの部材は、大規模拡張工事が手掛けれた高槻城へ転用されていったと考えられる(1571年)。

その後、織田信長と足利義昭の対立が決定的となると、旧幕臣だった能勢氏の残党も、義昭方に組して 二条城 に籠城するも戦死に追い込まれ、そのまま能勢氏は歴史の舞台から姿を消している。

目下、この芥川山城は、大阪府下で 飯盛山城 と並ぶ最大級の山城となっており、近年、国の史跡指定を受けている。



下山後、再び自転車に乗り、JR京都線「高槻駅」前で自転車を返却し、そのまま 大阪駅前 へ戻った(新快速で 11分、快速で 15分。260円)。


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