BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年2月上旬 『大陸西遊記』~


兵庫県 明石市 ~ 市内人口 30万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)


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  【明石城】連郭梯郭混合式 平山城の全様図
  【明石城】阪神大震災 と 明石城、明石大橋
  【明石城】史上、ついぞ 建造されなかった 天守閣 と 代用天守・坤櫓
  【明石城】船上城より移築された 織田家長屋門跡 の正門
  【明石城】優美な石垣群 と 中堀
  【豆知識】明石城 ■■■
  【船上城】わずかな遺構 と 堀跡の小川
  【船上城】眼前の海岸線 と 古刹・密蔵院
  【豆知識】船上城 ■■■
  【魚住城】海外線に出っ張った 高台のロケーション
  【魚住城】伝統の風情漂う 江井ヶ嶋酒造の社屋群
  【豆知識】魚住城 ■■■
  東二見の 古刹・観音寺 と 江戸初期の 武将・横河重陳
  【豆知識】横河重陳 と 横河電機 ■■■



明石城

明石城は、喜春城や錦江城とも別称され、日本 100名城の 1つにランクインする名城で、全国桜の名所 100選の一つにも数えられている城跡公園となっている。

連郭梯郭混合式の平山城で、本丸と同じ高さにあって、東側に二の丸、さらにその東側には東の丸が設けられていた。これら全体が東曲輪を成し、東の丸の麓部分が三の丸、という構成になっていた(下絵図)。

明石市

本丸内には天守台も設置されていた。
城の真正面には、瀬戸内海上に 淡路島 が横たわり、その東側に明石海峡大橋が堂々たる姿を見せていた(下写真)。

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この明石海峡大橋は世界でも最長の橋梁を有する橋(全長は 3,911 mで、最大跨度は 1,991 m)として有名で、阪神大地震当時、震源地からわずか 4 kmにあったにもかかわらず、無傷であったことで世界中を驚かせた。

これに対し、明石城は 地震被害(1995年)を大きく受け、4年の修復工事の後、完全復活したという。
この 明石城 のシンボルとなっている、本丸郭の 2櫓 ー 坤櫓(下写真)と 巽櫓(上写真) ー であるが、もともとは本丸の四隅に、それぞれ三重櫓が設置されており、その本丸の西中央部に天守閣が建設されることになっていた。
しかし、築城以来、一度も天守閣が組み上げられることはなく、巨大な天守台のみが更地のように放置されていたようで、その傍らにあった 坤櫓(下写真)が、天守閣の代役として使用されてきたと指摘される。

明石市 明石市

なお、この 2つの櫓は、それぞれ別に解体された城から移築されたものと言われ、坤櫓は船上城から、巽櫓は伏見城からの部材がそれぞれ転用されているという。

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明石城 は、他にも播磨の周辺の廃城資材をかき集めて築城工事が進められており、現存する織田家長屋門跡の 正門(船上城より移築)がその代表例という。下写真左。

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それにしても、遠めから見た明石城の石垣曲線は大変、見事だった(上写真右)。
その石垣の石材を細かに見てみると、人工的に加工されたものが複数、含まれており、周囲の廃城以外に、寺院や墓石、廃村の部材などもまとめて集められ、ここに持ち込まれたのだろうと推察できた(下写真)。

明石市

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下写真左は、明石城の大手門。ちょうど JR明石駅の真正面に位置する。ここは中堀にあたり、築城当時から全面石垣ではなく、一部は土塁のままだったようだ(下写真右)。

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この中堀から外側が武家屋敷と城下町が広がっており、海岸線まで続いていた。今でも市街地に残る地名に、その記憶が色濃く刻み込まれていた(本町、鍛治屋町、鷹匠町、材木町、樽屋町、人丸町など)。

現在、明石市街地を貫通する国道 2号線は、江戸期、西国街道と浜国街道が合流した旧山陽道で、瀬戸内の大動脈を形成していた。


人丸山 の小高い丘に築城された平山城スタイルで、周囲にあった 三木城高砂城、枝吉城、船上城が解体され、その資材が搬入されて工事が進められた。特に、現存する坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が主となっているという。

信州・松本城 から移封された 小笠原忠真 が、1619年正月から 将軍・秀忠の命により築城工事を始め、 1620年正月には城主が船上城から移住し、同年 6月から城内の建物などの整備工事が進められたという。天守台まで用意されたが、ついに天守閣が建てられることはなかった。
伝承によると、剣豪・宮本武蔵 も築城設計に携わったとされており、今日、その庭園が三の丸広場に復元されている。

城郭が完成すると、小笠原忠真はそのまま移封され(1632年、豊前国小倉藩へ)、以後、しばらくは親藩の大名家が次々に入れ替わって 入居するも、最終的に 1682年、越前松平家(藩祖・松平秀康) 出身の松平直明が入封し、以後、幕末まで松平氏の居城、明石藩の政庁となった(1874年に廃城)。



船上城(林ノ城)

古城跡はとても分かりにくい場所にあった。
位置的には、ちょうど明石警察署の西裏手にあたり、この近辺で一度、道を尋ねられることをお勧めする。

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目下、船上城跡地には、小さな社が残るのみである(下写真)。周囲は完全に宅地開発されているのに、ここの一角だけ田畑が残る、やや異様な空間でもあった。

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近くを流れる小川が城郭の堀の一端を成したことは容易に推察できた(下写真左)。
写真の先に見える赤茶色の建物が、明石警察署。

明石市 明石市
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1617~1619年の破却工事と、明石城の新築工事により、船上城 の部材は、ほとんど全て明石城に転用されてしまったといい、城下町や武家屋敷もそのまま移転されている。
その生きる歴史の証人が、明石城の西側正面に残る 織田家(明石藩の歴代家老)長屋門跡の 正門(門の止め金が、室町時代後期の様式という)や 明石城本丸の坤櫓という。

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現在の明石川の河口部にあった旧港湾施設は、現在、埋め立てられて下水処理場になっていた。
明石川の河口部から淡路島と明石海峡大橋を望む(上写真左)。また、船山城一帯の海岸線は起伏のない緩やかな浜辺が延々と続いていた(上写真右)。

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巨大な報徳大地蔵が出迎えてくれる密蔵院(上写真左)は、904年の創建とされる古刹で、室町時代の 応永年間(1394年~1428年)の大改修を経て後、巨大寺院として権勢を誇ったという。
長らく、船上城(林ノ城)の城下町内に君臨し続け、同城が廃城となった後も、ここに残され、明石藩の保護を受けて、東播磨でも有数の大寺院であり続けたという。
しかし、太平洋戦争末期の 1945年7月の大空襲で全焼してしまった。先の 15mの大地蔵はこの時の戦没者を慰霊するために建立されたという(1952年)。


室町時代 に播磨の豪族赤松氏が明石川の河口に広がる湿地帯に 要塞(林ノ城)を築く。海岸線と河川、周囲の沼地を利用した平城スタイルであった。
戦国期、東播磨に勢力を張った 豪族・別所氏 の支城に組み込まれ、三木合戦の前夜には、別所長治の叔父で主戦派であった別所吉親が強化工事を進める。しかし、三木城 の要塞化が優先され、当城は放棄されることとなる。
その空城をそのまま、織田方の秀吉の重臣・蜂須賀正勝の 家臣、稲田植元が占領している。
秀吉の播磨平定直後の 1580年夏、蜂須賀正勝(後に子の家政が家督継承)に播磨 5万3千石(本拠地:龍野城)が与えられた際、その支城に組み込まれる。その際、生駒政勝が城主を担当するも維持困難となり、1585年に廃城とされる。

関白となった秀吉による、1585年8月の「天正の国替え」で、高槻 から明石へ移封された高山右近により、(林ノ城)廃城跡地を再整備する形で、新生・船上城が誕生する。
同時にキリシタン大名だった右近は、瀬戸内の海域を防衛する目的と、外国からの宣教師の来訪を容易にするために、船上城下に大型船が 2隻停泊できる巨大な港湾施設を併設させる。
移封後の 2年間、高山右近は当地を居城とし、熱心にキリスト教の布教に務めるも、 1587年の秀吉によるバテレン追放令が発布されると、領主の座を追放されてしまう。以後、船上城を含む明石 6万石は秀吉の直轄領に組み込まれる。この時期、太閤直轄地ということで、当地の城下町は飛躍的に発展を遂げたとされる。

関ヶ原合戦 直後の 1600年10月、池田輝政が播磨 52万石の領主に移封され、船上城はその配下 6支城(他に、三木城高砂城、龍野城【鶏籠山城】、平福城【利神城】、赤穂城【加里屋城】)の一つに組み込まれる。

池田氏の 鳥取藩 への移封後の 1617年、小笠原忠真が東播磨に入り、明石藩 10万石の大名として船山城に入城する。直後に、将軍秀忠の命により、明石城の築城が開始され、船山城は解体されて、大部分の資材が明石城へ移築されることとなった。 2年後の 1619年末に外枠が完成すると、翌 1620年正月、小笠原忠政は居城を明石城へ移す。以後も、建物などの建築工事が続行されたという。
船上城は 1620年1月19日に焼却処分され、そのまま完全廃城となった。



魚住城

山陽電車「江井ヶ霞駅」から南へ徒歩 5分に位置する。
現在、古城跡は全く遺構を残しておらず、完全に宅地開発の波に飲み込まれてしまっていた。

城跡の一帯を移動すると、この地形の特異性を容易に感じられる。すなわち、付近の海岸線から結構、急な斜面になって、高台が後背地に広がっていたことが分かり、海岸線との間には、明らかな段差が残っていた(下写真)。

明石市 明石市

この地域の地名である「出張(でばり)」の由来も、この地形をそのまま表現した古の人々の呼称であったと推察される。下地図。

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そして、その海岸線に出っ張った高台の先端部分に、城塞が建造されていたようである。対織田方との播磨戦争の際、毛利方は この出張エリアの高台上に設置された 要塞(魚住城)へ、すぐ真下の海岸線と河川から 積み荷 を運び込んでいたに違いない。

明石市 明石市
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現在、付近に立つ江井ヶ嶋酒造の工場群は木造の古い社屋が印象的な歴史遺産であるが(写真上段)、その立地する地形に着目してみると、やはり高台から急な段差を経て、海岸線へと至る形状が伝わってくる(写真下段)。


奈良時代 の僧侶、行基が開いたとされる兵庫県瀬戸内の 5カ所の 港(播磨五泊)の一角を成した 魚住泊(今の江井ヶ島港)は、その後、播磨灘の物流拠点の一つとして発展し、その統治拠点設置のために、 14世紀中頃、魚住長範が城塞を建造する。
当時、中尾川の川幅はもっと広く、城塞はその中腹部に位置しており、今日の明石市魚住町中尾あたりに立地されていたという。

しかし、三木合戦の折、魚住頼治が城塞を大久保町西島あたりへ移転し、その高台エリアに木柵と空堀だけで防備を固めた簡易な要塞を建造し、海岸線から 毛利水軍 が大量の兵糧や武器弾薬を搬入し、瀬戸内での三木城支援部隊の拠点となっていた。

このため必然的に、毛利方 と秀吉軍との間で死闘が行われることとなった場所である。
毛利軍は、主に瀬戸内海岸線の魚住城と 高砂城 へ陸揚げして、三木城 へ定期的に必要物資を搬入していた。当初は、高砂城が重視され、そのまま加古川をさかのぼって、直接、三木まで搬入されていたが、高砂城が落城すると、魚住城経由で河川と山道を乗り越えての運搬へと切り替えられる。
1580年1月の三木城の落城後、魚住城内の毛利方も撤兵し、そのまま廃城となった。



観音寺

ちょうど山陽電鉄の東二見駅前に当地の観光案内板があり、御厨神社(海運業の神様)、弘法大師の霊水、瑞応寺などの解説がある中で、当地最古の寺院として案内されていた観音寺が気になったので、立ち寄ってみた。

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ここに横河重陳の墓標が安置されているのは(下写真右)、彼が 8歳の頃、父・横河重定が息子のために京都・妙心寺から高僧を招聘し(1593年10月)、この(補陀山)観音寺の開山の直接的な理由を作り、また重陳の死後、その子孫が彼を当地に葬ったことに由来されるという。

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なお、1581年、1790年の二度にわたり、二見村が大火災に見舞われたが、この観音寺は二度とも焼け残り、その不思議な霊験を崇め、地元の人々は防火観世音菩薩と仰ぎ、信仰をますます厚くしたという。ちょうど、上写真左の右端に立つ、石造りの観音像である。



 横河次太夫重陳(よこがわ しげのぶ) (1586~1649年)

横河重陳は 1601年、前年に 姫路藩主となった池田輝政 に召しかかえられ、船大将となり、水夫百余人を指揮する身分となる(16歳)。
重陳は 高砂城 の築城に際し、龍山(高砂市生石神社)から巨石を切り出して使用し、大いに称賛されたという。

1614年11月の大坂冬の陣 では、重陳は、池田忠雄(池田輝政の子で、淡路洲本藩主)の船大将を勤め、初戦の木津川口の戦いで、敵将の平子主膳を自ら討ち取ったので、この戦、一番槍一番首の功として、徳川家康(池田輝政の正室は千姫で、徳川家康の娘であり、池田忠雄は家康の孫に相当した)からその功績を称えられ、直々の感状を授けられる。
そのまま池田忠雄の家臣となった横河重陳は、翌 1615年、主君の忠雄が岡山藩へ転封となると、これに付き従って 岡山 へ移住する。

1620年の大坂城の再築城 に際しては、岡山藩 から石材の切り出し奉行として派遣され、 1624年、備前国犬嶋から縦 7 m強、横 14.5 m強もの巨石を切り出して海上を大坂城に運び込み、大坂の人々を驚かせたという(現・大阪城の桜門前の巨石として現存。下写真)。岡山藩がこの天下普請による大坂城の改築工事で運んだ巨石はベスト 3を占め尽し、徳川家の威信向上に大きく貢献している。

明石市

1632年、池田家は 岡山藩 から 因幡鳥取藩 に移封され、横河重陳も山陰へ移住する。

1649年に横河重陳が死去すると(67歳)、同年中にその子孫らにより、南北朝時代から 200年以上も横河氏の地盤となってきた二見村の(補陀山)観音寺に墓標が建てられ、その功績が墓石に刻まれたという。
なお、この観音寺は 1267年の創建で、もともとは南海山法船寺と呼ばれていたが、 1593年10月、重陳の父・横河重定が息子が 8歳になったとき、京都・妙心寺から高僧を招聘し、願かけで(補陀山)観音寺の開山を支援して以降、観音寺と通称されてきたという。
なお、父・横河重定であるが、三木合戦の折、秀吉の軍から二見の村や住民らの命を救った人物で、郷民から慈父のように敬慕されたという。この時代、家の白壁を塗り変えて赤壁としたので、赤壁の家と通称された。

横河家は元々、近江源氏の血を引く武士の名家で、南北朝時代に反乱軍鎮圧の功績により、今の明石市二見町東二見一帯の地を拝領したことから、当地との縁が形成されることとなった。
江戸から明治期にかけて、医者や学者、事業家などを多数、輩出してきた名士の家柄であり、明治中期に建築家となっていた横河民輔が創業した会社が、現在、世界有数の計測・制御機器メーカーに成長した横河電機であるという。

この観音寺に隣接する二見横河公園は、横河家本邸(横河家および横河グループ関連事業の発祥の地)跡地という。現在、その敷地跡は明石市に寄贈されており、赤レンガの塀が残っている。
開山以来、横河家は観音寺最大の檀家であったころだろう。



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