BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~


山口県 岩国市 ~ 市内人口 14万人、一人当たり GDP 310万円(山口県 全体)


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  山口県の最西端 JR岩国駅前から 路線バスで 岩国城下まで移動する(20分強、300円)
  【豆知識】日本三奇橋の 一角「錦帯橋」完成までの、岩国藩の苦難と 努力の歴史 ■■■
  しかし、工事中だったので 北隣の錦城橋を 渡ってしまった。。。。
  岩国城 まぼろしの”三の丸”跡地「横山地区」と 佐々木小次郎の 銅像(70歳が 18歳に??)
  吉川史料館脇に 保存されていた 江戸時代中期の 長屋門「昌明館付属屋及び門」の 今昔
  常に乱世の第一線に身を投じてきた 吉川家の歴史 ~ 駿河国・吉川 → 安芸国・大朝本庄 へ
  【豆知識】旧岩国藩主邸 ~ 御土居(御館、御城)の 今昔 ■■■
  岩国城ロープウェーから、横山地区(旧三の丸)と 錦見地区(旧城下町)を見渡す
  山頂の 水の手郭 ~ 大釣井と 小釣井
  二の丸、本丸、復元天守、天守石垣跡
  見応え抜群の 北の丸下 急斜面 と 巨大な空堀跡
  【豆知識】岩国城の短い歴史 と 中世風の曲輪設計 ■■■
  【豆知識】幕末の長州征伐時、芸州口で 岩国藩主・吉川経幹 が大活躍 !!! ■■■
  岩国藩城下町 と 西国街道(山陽道)の位置関係から、「槍倒し松」エピソードを考察する
  旧城下町(錦見地区)を歩く



広島県の宮島 を訪問後、JR線で岩国行の列車に乗ってきた(20分強、330円)。

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山口県 との県境は、岩国駅の一つ手前の和木駅を過ぎた地点からだった(和木駅の駅舎までは広島県)。
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JR岩国駅西口のロータリーから路線バスに乗る(下写真)。ちょうど、先ほど JR線に乗っていた何組かの乗客も、この路線バスに乗り込んで岩国城や錦帯橋のある観光地区へ訪問されようとしていた。そして、バスが発車する(20分強、300円)。

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県道 112号線との交差点にある バス停「錦帯橋」に到着すると、志を同じくする数組の訪問者たちが一斉に下車する。ちょうど正面に、岩国城と錦帯橋が見えていた。

さて、日本三奇橋の一つである錦帯橋であるが、先ほどの 宮島・厳島神社の大鳥居 に続き、ここも工事中だった(下写真。後で聞いた話では、しょっちゅう工事中で有名だとか)。。。

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1600年の関ヶ原合戦後、周防、長門の二ヵ国に大幅減封となった毛利家は、翌 1601年春に 吉川広家(1561~1625年)を東国境の 岩国地方(地元にある三ヵ所の名石 ー 城山にある「白石」、岩国山の「亀石」、尾津の「紅石」ー に由来)に配した。着任後、広家は早速、徳川家の脅威を想定し、横山の山頂に岩国城の築城を開始する。その際、川幅約 200 mの錦川を天然の外堀に定め、南岸(錦見地区)に城下町を造営する。
藩主の居館や諸役所、上級武士らの屋敷を 横山エリア(実質的に、三の丸に相当)に、その他の中下級武士団の屋敷や町人町を錦川の対岸にある錦見エリアに配置し、川西や今津とともに城下町を形成させたのだった。下絵図。
しかし、家臣の多くが役所の対岸に居住したことから、横山と錦見との間を流れる錦川を結ぶ交通手段の確保が、藩の重要課題であり続けた。

その手段は当初より、渡船と橋の二通りが設けられていた。
渡船ルートは最初、1艘の専用船が両岸を往来するスタイルだったが、 1654年6月から 2艘体制に変更され、乗手を 4人と定めて増便が図られる。少々の風雨ではこの渡船は停止されなかったが、大雨の時などは運航されなかった。このため、藩政府としてはより確実な渡河手段の確保、すなわち、橋の架設が必要不可欠となっていた。

しかし、架橋される度に、すぐに流失してしまう事態を何度も繰り返す。このため橋を保護すべく度々、御触書が発せられたようで、特に 1639年発布のものには、橋が傷めばすぐに修理し、橋脚に船や筏をつながせてはならない、など細かく列挙されていたという。

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また、二代目 岩国藩主・吉川広正(1601~1666年)の治世下、特に 1657年3月の架橋工事エピードが目を引く。工事スタートから半年後の同年 9月、橋の全景が姿を見せてくると、2~3日おきに広正自ら現場に赴いては工事の様子を見守ったいう。最終的に 9月16日に渡り初めを行うも、 2年後の 1659年5月19日、再び洪水により流失してしまう。

橋が流失する最も大きな原因は、城下町附近で何度も大きく流れを変化させる錦川の増水と氾濫、そして河底が砂利質であったことが指摘される。1951年の地質調査により、河底には少なくとも砂利が 15 m以上たい積していたことが判明し、度々、起こる洪水によって流れてくる流木などが橋にダメージを与えると共に、このような河底の砂利による橋脚周辺の洗堀が、橋脚をぐらつかせて橋ごと流失させてしまう事態を招いていたのだった。

こうして初代、二代目藩主の治世下、幾度も失敗してきた架橋工事であったが、三代目 藩主・吉川広嘉(1621~1679年)の治世に至り、そもそも「流される橋脚のないアーチ橋」が考案されることとなるのだった。
流されない橋の研究を続けてきた岩国藩政庁であったが、ちょうど広嘉自身が病弱であったため、杭州 出身の高名な僧であり 医師・独立(どくりゅう)に処方を依頼すべく、長崎より岩国に招聘した 際(1664年4月13日)、独立の故郷である杭州や西湖が話題にのぼり、湖畔の堤防を結ぶ橋の話を耳にする。その橋の構造を調べるべく、すぐに「西湖遊覧志」が取り寄せられ(下写真)、その絵図をヒントに川中に人口島を設置する架橋方法が見出される。

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結成された作事組は児玉九郎右衛門をリーダーとし、各地の橋研究と実施調査や模型作成など、この新技術を得るために積極的な活動が展開され、いよいよ 5連アーチによる錦帯橋の設計図が完成する。早速、地元の大工らが総結集して工事が完遂されるも(工期は 1673年6月28日~10月1日)、翌 1674年5月に洪水被害を受け再び流出してしまうのだった。直後より、さらなる工夫を加えての再建工事が着手され、同年 10月に完成された橋が以後、276年間不落を誇ることとなる。
その後も、これまでつぶさに記録されてきた架橋工事日誌が藩によって大切に保管され、技術と情報の伝承が脈々と行われつつ架け替え工事が繰り返され、橋の維持管理が継続される。この工事に従事した人物の中には、地元出身の 名大工・長谷川十右衛門も含まれていた。後に彼は、埼玉県熊谷市にある 国指定重要文化財・歓喜院の 貴惣門(1855年)等を設計するなど当代きっての名大工となる。

橋の長さは、橋面にそって 210 m、直線で 193.3 m、幅 5 m、橋脚の高さ 6.64 mに設計され、さらに木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する高い建築技術で、当時の岩国藩の先進性を裏付けるものと指摘される。現在でも定期的に架け替え工事が手掛けられており、その匠の技が脈々と伝承されているという。なお、一般的に「釘は使っていない」と言われる錦帯橋であるが、実際には釘も使用されている。

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また江戸時代、この錦帯橋の維持管理のために「橋出米」という税金が設定され、領民全員が収入に応じて課金されていたが、幕末になると税制が破綻し錦帯橋のメンテナンスが不行き届きとなっていく。こうして戦前、戦時中の管理不備に加え、1950年9月、当地方を襲ったキジア台風により「国宝に」との呼び声も高かった錦帯橋は惜しくも流失してしまうのだった。その後、1953年1月に再建されると、度々の部分修築を経て維持されつつ、現在の橋は 2001~2003年の工事により架け替えられたものという。

こうした錦帯橋の誕生秘話が、杭州 の西湖と大きな接点を有したことから、岩国市と杭州市は歴史的遺産である錦帯橋が両市をつなぐ架け橋であるとして錦帯橋友好協定を締結し、姉妹橋に定める(2004年11月6日)。なお、この杭州市にある錦帯橋であるが、幾多の変遷を経た後、 1589年、白堤(正式名称は白沙堤。西湖を東西に分断するために人工的に造られた、長さ 1kmの堤防)の修復時に架橋され、 1730年に現在の姿となったという。



錦帯橋は工事中にもかかわらず有料(310円)だったので、あえて北隣にある自動車道路「錦城橋」から錦川を渡ることにした(無料)。下写真は、その「錦城橋」から下流側の「錦帯橋」を見たもの。
なお、左端に見える旅館は「錦帯橋温泉 岩国国際観光ホテル」。そのテナントに、なぜか 四川料理レストラン「四川飯店」が入居していた。。。前述の文脈から、ここは浙江料理をメインとする「杭州飯店」とかが入るべきだろうが。。。

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橋を渡り終えると、自動車の往来が多い県道 114号線を縦断し、 観光地エリア に入りこむ。かつて、藩主邸宅や家老屋敷など上級武士の住まいや藩役所などが軒を連ねた地区で、先ほどまでの喧噪ムードから急に空気が変わったことを感じた。今でも凛とした武家の空気が漂っていた。

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吉香花菖蒲園(かつての岩国城下の堀跡)が中央にあり、その正面に 剣豪・佐々木小次郎の銅像が立っていた(下写真左)。

吉川英治の小説『宮本武蔵』(1939年出版)の中で、この岩国の城下町出身とされる佐々木小次郎が、錦川の河畔で風に揺れる柳の枝を切り、水辺を高速で飛び交う燕を切り落とす訓練を一人黙々と積み、秘剣燕返しの剣法「巌流」を編み出した、と言及されたことを記念して設置されているという。実際には、豊前国(今の福岡県)の有力豪族であった佐々木家出身と考えられており、この銅像の 年齢(小説内では 18歳と想定されたが、実際には 70歳前後と推定されている)や容姿も含め、吉川英治氏の創作が過分に世に伝わっているとされる。 1612年5月13日(旧暦で 4月13日)、巌流島の決闘で武蔵が遅参したというのも、この小説の中の創作という

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その脇には 吉川史料館(上写真右)や 岩国徴古館、吉香神社が軒を連ねる。
吉川史料館は代々、岩国藩主吉川家に伝来する 歴史資料、太刀、具足や美術工芸品など国宝を含めた約 7000点もの遺産を散逸することなく所蔵、保管するための私設博物館で、内部見学は有料だった(9:00~17:00、毎週水曜休館。500円)。1995年11月開館の当資料館を運営するのは 公益財団法人・吉川報效会で、その理事長は現在、吉川家 32代目 当主(岩国藩主で数えると、十八代目当主)の 吉川重幹氏(1955年~)で、横に本社を隣接する吉川林産興業の代表取締役社長も務めておられるという。かつての藩主一族は今も地元名士として君臨しているようだった。

また屋外にある「昌明館付属屋及び門」は無料開放されていた。下写真。

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この建物は、七代目 藩主・吉川経倫(1746~1803年)の隠居所として建築された昌明御殿の一部で(1793年6月完成)、 10年後に経倫が死去すると、八代目 藩主・吉川経忠(1766~1803年)の夫人、喬松院(1785~1844年)の居所に転用され、廃藩置県後(1871年)には、岩国県庁が入居したという。その後、一時的に吉川家の子孫が居住した後、解体されてしまったが、その際に破却を免れたのがこの長屋二棟、門一楼で、現在、岩国市の有形文化財に指定されているという(2000~2002年に修復工事を経て、18世紀末頃の建設当時のスタイルで一般公開された)。造営当時の長屋の棟は、現在の 2倍の長さがあったそうだ。

なお、この長屋には門番部屋をはじめ、駕籠部屋や土間部屋などが装備されていた(上写真右)。また屋根瓦は、両袖瓦(丸瓦ー平瓦ー丸瓦を 1セットにした瓦で、 17世紀中頃に岩国藩独自で開発されたという)と平瓦の 2種類の瓦で葺いた「二平葺」と呼ばれるスタイルが採用されていたという。

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また、敷地外にあった吉川家の歴史年表も、非常に参考になった(上写真)。

もともとは駿河国の 吉川(現在の静岡県清水市吉川)を地盤とした土豪で、始祖とされる 吉川経義(1132~1193年)が源頼朝側近として活躍したことが史書にて言及された(1183年)、初代 吉川家当主という。四代目 当主・吉川経光(1192~1267年)が承久の乱における宇治橋の戦いで戦功を挙げ、安芸国の大朝本庄の地頭職を補任されると(1221年)、その子で五代目当主となった 吉川経高(1234~1319年)が本拠地を駿河国の吉川より安芸国の大朝本庄に移して駿河丸城を築城し、安芸国での土着化がスタートするのだった(1313年)。その後、鎌倉幕府は滅亡し、その 子・吉川経盛(六代目当主。1290~1358年)が南朝方に組して足利幕府と抗争したため、内部分裂を起こした吉川家は衰勢に陥ることとなる
まさに激動の時代を、常に 最前線で駆け抜けてきた一族だったようである。

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上古絵図は、往時の岩国城と山麓の武家屋敷マップ。
赤文字で「御土居」と記された部分が、かつて藩主居館だった場所。

現在、その敷地は歴代藩主を祀る 吉香神社(1728年9月開山。最初は鉾垂明神と命名された)の境内となっている(下写真の中央は、その境内隅に立地する錦雲閣)。 1885年に「御土居」跡地に移転されて以降、今日に至る。その社殿は 2004年12月、国の重要文化財に指定されている。

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1615年10月の一国一城令により、山上の岩国城は徹底的に破却されることとなったが、山麓にあった 藩主居館「御土居」や藩政の役所群、家老屋敷スペース(実質的な三の丸曲輪)一帯はそのまま明治の廃藩まで残されることとなった。
なお、この「御土居」とは土塁で囲まれた城館の意味で、 1601年春に入封した 吉川広家 が最初に造営した部分である。

1698年、五代目 藩主・吉川広逵(1695~1715年)の幼少時の保育所として仙鳥館が新築されると(1696年に父で四代目藩主だった吉川広紀が 39歳で萩にて急死したため、2歳で家督を相続していた。実際の藩政は家老らが執行した)、御土居は「御館」へ改称される。1868年、十二代目 藩主・吉川経幹(1829~1867年)が正式な大名となり城主格と認定されたことにより、「御城」と変更される。しかし間もなくの 廃藩置県後(1871年)、旧「御土居」の土地は国有となり建物群は解体され次々と払い下げられていったという。



下写真は、岩国城ロープウエー(往復 560円。片道 330円)から、旧「御土居」や家老屋敷エリアを見渡したもの。

なお、ロープウェー乗り場の正面に 岩国美術館(下写真の右下の大きな屋根瓦)があり、国指定重要文化財の甲冑や市の文化財に指定されいる 上杉謙信武田信玄 の「川中島合戦」の様子を描いた屏風絵なども展示されているらしかったが、先を急ぐべく訪問できず終いだった。

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約 5分強で頂上部に到着する。瀬戸内海の島々まで遠望できる、見通しのきく高台だった。

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山頂部では、本丸までのルートが二つ用意されていた(下写真左)。アスファルト整備された登山道か、山筋の凸凹道かである。
とりあえず、遠回りとなるアスファルト道から移動してみた(下写真右)。

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すると、二の丸の外側に大きな井戸跡が残されていた(上写真右の中央柵)。

この直径約 4.5 mの大きな井戸は(下写真)、大釣井(おおつるい)と通称され、 1608年の築城当時に掘削されていたもので、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされた場合に脱出口を備えた井戸であったと考えられている。

この大釣井の斜面下にも、わずかに石積みの跡が残る小釣井跡があり、二か所あわせて水の手郭と呼ばれた場所であった。本丸と二の丸のすぐ西側に位置し、城の水場として重要な場所を構成したわけである。
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そして、脇の石段を登りきると、急に平坦な土地に到達する(下写真)。ここが二の丸曲輪跡だった。山城だけあり、こじんまりしていた。南面に 大手門(下写真左の中央)があり、その周囲に石垣が残っていた。この石垣下は、帰路に通過することになる。

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ここの北隣に、一段高い段差が設けられている地点が本丸曲輪で、復元天守(下写真左。入館料 270円)と 資料館(下写真右の小屋とトイレ。見学無料)が立地していた。

この復元天守であるが、錦帯橋附近からの景観を考慮され、旧天守台から南へ約 50 m移動されて建てられたという(1962年)。天守の外観は 四層(屋根)で内部は六階。三層目(四階)に入母屋屋根をかけ、その上に二階建ての物見をのせたスタイルで、最上階(望楼)がかなり変わったデザインだったことから「唐造り」や「南蛮造り」と称された。下の階より上の階を大きく造った当時の様子は、古い 設計図面『伝 岩国城断面図』に記されており、これをもとに忠実に再現されているらしい。

また、下写真右の資料館ではビデオ解説が放映されており、とても勉強になった。

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本来の天守台は本丸の一番北端に建造されていた。その台座の石垣跡がしっかり保存されていた(下写真左)。どうやら 1994年に発掘調査が行われた後、往時の遺構を復元する形で再建されたものという(1996年)。
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初代藩主・吉川広家 は天守閣を本丸北隅に配することで、眼下を通る北の山陽道を監視する機能を与えていたのだった。1608年に完成してから、わずか 7年後の 1615年、江戸幕府による一国一城令で破却されてしまうわけだが。
城郭では、最初の 普請(土木工事)が天守台を中心に着手されたため、城郭内で最も古い建築構造となっており、粗割石による古い穴太積の技法が使用されているという。また、各外面が異なった設計となっていることから、面により異なる石工が建設工事を担当していたという。当時、広家はかなり急ピッチで工事を進めたのだろう。

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この天守台脇から北へと下ると、北の丸に続く道路があった(上写真右)。

北の丸跡地は現在、きれに整備された緑地広場となっているだけだった(下写真左)。この一帯はヤブツバキの生育地で、初春に美しいツバキの花が鑑賞できるとのことだった。
しかし、周囲の斜面は急峻なもので、意図的に掘削されている様子が伝わってくる(下写真右)。かつては、石材がはめ込まれた石垣面だった場所である。

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なお、この本丸の北東に配置された北の丸内には、東矢倉(東櫓)と 北矢倉(北櫓)が建てられていたという(下地図)。
この周辺の石垣は、一国一城令の後も、山の麓にあった御土居の保護のため石垣が破壊されずに残されることとなり、今も東西 50 m、南北 50 mの規模で東側から南側にかけて現存するという。 400年前の築城当時の石積みを間近で見ることができる貴重な遺構となっている。

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しかし一番の見応えは、この北の丸と本丸の間に残っていた空堀であった。崩された石垣の石材が、今でもゴロゴロ放置されていた。下写真。

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この空堀は、幅約 19.6 m、長さ 58.2m、深さ約 10 m(現在は 7.4 m)と巨大なもので、箱状に深く掘削されていたという。
そもそも江戸時代に新たに山城を築き、山中に掘を設けることは全国的に非常に珍しい作業であった。この山城では、他にも数多くの堀が掘削されており、吉川広家がいかに防備に力を入れていたか、当時の緊迫した情勢を推察する参考になる。

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上写真奥に見える橋を渡って、本丸に戻ってみた。
下写真は、空堀と本丸の間に残されていた、東矢倉(東櫓)の土台跡。

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そのまま本丸を経由し、二の丸下の石垣面を愛でながら(下写真)、凸凹道の山筋ルートからロープウェー乗り場へ戻った。

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岩国藩 は江戸時代を通じ、周防国(今の山口県)岩国周辺を領有した外様小藩であったが、岩国藩が正式に認定されたのは 1868年3月、吉川経幹 が諸侯に列せられてからで、それまでは長州藩家臣団を構成する、一領主という位置付けであった。
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そもそもの発祥は、1600年の関ヶ原合戦毛利輝元 が 周防、長門の二ヵ国へ大減封されたことにより、その一門であった 吉川広家 が翌 1601年春、東端の岩国地方に 3万石を分与されたことに始まる(上地図)。
着任早々、領内を検分した広家は、沿岸部からやや奥に入った錦川沿いの盆地エリアを堅守の地と判断し、岩国城の築城と城下町の都市計画を策定する。直後より、まず横山の山麓に 土居(広家の居館)を造営した。翌 1602年に横山土居が完成する頃と、同時並行して城下の侍屋敷の建設工事も着手される。

1603年には横山の山頂の城塞部分の工事もスタートされ、1608年に完成を見る。こうして、山上に要害部分と南麓の藩主居館と 政庁(御土居、御館と通称された)、武家屋敷一帯(上中級の役付き武士が居住した)が整備されたわけだが、全体として錦川自体を外堀に見立てた設計で、この河岸全体で岩国城域がデザインされていた(横山エリア。実質的に三の丸曲輪に相当)。
また、錦川を挟んで対岸部には中下級武士、町人の居住区を設け、城下町を普請した(錦見エリア)。

この山上の要害部分の縄張りであるが、頂上部の本丸を中心に空堀を隔てて北の丸、南側に二の丸、そして西側に水の手の郭と、大きく 4区画で構成されていた。特に、郭群を取り巻く堅塀群と、本丸、北の丸の間にある大きな空堀(幅 19.6~長さ 58.2 m)の存在を最大の特徴とする。また、水の手の郭は南北に大きく2つに分かれ、南側の郭は 大釣井(井戸)と 竹谷矢倉(櫓)を中心としたもので、大釣井の郭は石垣ではなく土塁で囲まれた簡素なスタイルだったという。
これらは近世城郭には見られない縄張り構造であり、一般的に中世城郭の特徴とされる。つまり、岩国城は近世城郭を示す総石垣の縄張り構造と、堅堀群、空堀、土塁(盛土)等の中世城郭の縄張り構造を同時に持つ「二世帯」城郭と表現できる。

なお、この岩国城築城に際し、同じ山の西端あたりを石切り場として、主に石灰岩を切り出して約 1.5 km北東の山城建設現場まで運び出し、石垣を組み上げていた。現在も築城当時に石を切り出すために設けられた矢穴が残っているという。
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しかし、完成して 7年後の 1615年、徳川幕府の一国一城令により、山上の要害は廃城となり、以後、山麓の政庁を兼ねた 藩主居館(実質的に三の丸曲輪に相当)だけが残されることとなった。このとき、山上の要害は徹底的に破壊され、特に 北面(山陽道側)の石垣は、往時の姿が想像もできないほど徹底的に破却されている。
これは、1638年3月13日、二代目 藩主・吉川広正宛ての 毛利秀元(1579~1650年)書状に見られるように、元和の一国一城令に続いて、徳川幕府が島原の 乱(1637年12月~1638年4月)の後、古城の石垣をさらに破却させた流れをくむものと推察されている。ただし、 関ヶ原合戦 での 吉川広家 による内通を、生涯、憎んだ 毛利方の 元総大将・毛利秀元 の嫌がらせ、との指摘もある。その際でも、山麓に居館があるため、東側と南側の石垣は保持されることを許された。
城塞の破却後、横山は長らく入山禁止とされ、以後、岩国藩主・吉川家の藩有林として保護されることとなる。明治以降は、国有林とされた。

幕末 の長州藩に風雲急を告げた、江戸幕府による長州征伐であるが、この山頂の城砦部分にも見張り台が設けられたと推察される。
長州藩への主要ゲートであった 西国街道(山陽道)が、ちょうど岩国城の北を通っていたため(芸州口)、ここから幕府の主力が侵攻してくることは確実であったためである。下地図。

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1864年の第一次長州征伐の危機に際し、長州藩主・毛利敬親(1819~1871年)から協力要請を受けた 十二代目 岩国藩主・吉川経幹 は同年 11月、幕府側の前線本部が設置されていた 安芸(広島)・国泰寺へ出向き、征長総督と交渉して戦争回避を成功させるも、長州藩内では奇兵隊を中心とする討幕派がますます勢力を拡大することとなり、 1866年に第二次長州征伐戦がスタートする。この時、吉川経幹は芸州口の戦いで幕府軍の撃退に成功するも、翌 1867年3月に病死してしまうのだった(39歳)。その死を悼んだ毛利敬親によって経幹の死は秘匿され、1868年1月に王政復古の大号令を発した明治天皇ら朝廷により薩長が朝廷軍に指名されると、同年 3月、経幹が城主格の諸侯に公認される。こうして、江戸時代を通じ吉川家の悲願であった藩主格を、最後の最後で獲得できたわけである。

その子の 吉川経健(1855~1909年)は、翌 1869年1月に十三代目藩主に就任するも、同年の版籍奉還を経て藩知事へ改編される。 1871年の廃藩置県後、東京 へ移住して男爵を授与され(1884年7月)、続いて子爵へ昇格される(1891年4月)。
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ロープウェーで下山後、錦川の方向へ歩いていると、吉香公園 の入り口あたりに三代目 藩主・吉川広嘉(1621~1679年)の銅像が設置されていた(下写真左)。錦帯橋を建設した立役者である。

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また、その錦帯橋の手前には槍倒し松があった(上写真右)。


この松は、岩国藩士の負けず嫌いを象徴する、槍倒し松といわれるもので、城下を通行する大名配下の武士らが、岩国藩を 3万石(後に沿岸部の大規模干拓により 6万石へアップ)の小藩と侮って行列の槍を倒さなかった非礼に憤慨し、わざと橋の袂部分に横枝のはった大きな松の木を植えさせた、というエピソードに基づく。大藩や格上の武家であろうとも、どうしても槍を倒さなければ通ることができないようにした、というわけだった。
今では 1935年の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移ったが、元は河辺近くにあって、橋にかかる石段が坂道になっていたので、格上大名の武士らが槍を倒して坂を登るのを見て、岩国武士たちは溜飲を下げていたという。

しかし、太平洋戦争中の 1944年頃、この地方で発生した松食い虫によって、この槍倒し松も枯死してしまったという(1952年8月)。現在の松は初代の松の実から自生した直系のもので、1968年2月15日、三代目槍倒し松として吉香公園から移植されたという。

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ただし実際には、大名行列が往来した 西国街道(山陽道)は、岩国城下町から北へ 2 kmの地点にあり、そこに本陣をそなえた 宿場町「関戸宿」が開設されていた(上写真)。1~2度ぐらいは、参勤交代の大名らが宿場町「関戸」から南へ下って岩国藩の城下町を訪問し、日本三奇橋として有名な 錦帯橋(ただし、当時は「岩国大橋」と通称されていた)を観光したことはあったかもしれないが、わざわざ岩国藩城下に立ち寄る機会は少なかったはずだろう。
このため、岩国藩士らが主に立腹していたのは、同じ長州藩内の毛利一門関係者らの所業だったと推察される。関ヶ原合戦 で東軍に内通した吉川家に対する当てつけは幕末まで続き、毛利家内部でメンツをかけた五十歩百歩の抗争を繰り広げていた名残りかと思われる。



再び、北側の自動道から錦城橋を渡り、対岸へ戻る。その途中、下校中の 小学生たち(岩国市立岩国小学校の児童たちかと思われる)と何度かすれ違った。

毎日、この錦城橋を渡って対岸へ通学し、また中には橋を渡らず、錦川沿いに国道 2号線を北上していく子もいて、人気の少ない麓道を通学しているんだな。。。と、やむを得ない事情にせよ不憫に思った次第である。そんな中、錦帯橋を渡っている子供もいて、地元ではどういう取り扱いになっているのだろうか??と疑問に思ってしまった。

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さて、錦帯橋バスセンターで岩国駅までの乗車券 300円を購入し、路線バスの到着を待った(上写真。約 10分一便)。ちょうど 2Fに土産屋と茶屋があり(上写真右)、3Fの展望台に行きたいと相談してみたが閉鎖中ということで、この 2F茶室から写真を撮らせてもらった(下写真)。

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バス到着まで少し時間があったので、自動車道の一つ西隣である大明小路沿いを散策してみた。かつての 城下町「錦見」エリアで、古民家もちらほら点在していた。下写真。

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さらに一本西隣の路地には「岩国市観光交流所」が立地するという。江戸~大正時代にかけて、鬢(びん)付け油を 製造・販売していた「松金家」の町屋跡を改修したもので、太い梁を縦横に架け渡した豪壮な設計を特徴とし、国の有形文化財に登録されている。
路線バスが来ると JR岩国駅から一路、広島駅 へ戻った。


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