BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~


広島県 福山市 ~ 市内人口 47万人、一人当たり GDP 315万円(広島県 全体)


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  福山城 三の丸跡地に立地する JR福山駅
  福山城 二の丸と 城米蔵(五千石蔵)跡地 ~ その半分が今の 福寿会館へ
  本丸、天守閣、天神山(今の 備後護国神社)、小丸山(今の テニスコート)を歩く
  【豆知識】勇将変じて良官となった「やんちゃ武者」水野勝成 と 福山城の築城 ■■■
  JR福山駅南口に残る 二重櫓石垣遺構 と 瀬戸内海へ直結されていた 水路「舟入」
  福山駅前から路線バスで 鞆の浦へ(45分、760円)、走島への フェリー乗り場
  急斜面の岩山「大可島城跡」に登る ~ 圓福寺と 夾明楼からの 美しい眺め
  【豆知識】南北朝~戦国時代にかけて、水軍城塞として活躍した 大可島城 ■■■
  福禅寺と 迎賓館「対潮楼」を訪問する
  【豆知識】朝鮮通信使一行が「日東第一形勝」と称えた「対潮楼」と 瀬戸内の美観 ■■■
  坂本龍馬の 鞆の浦訪問 ~ 「いろは丸」沈没事件、紀州藩との 賠償金交渉の地
  鞍の浦 今昔マップ
  元高級住宅街だった 湾岸地区を歩く ~ 豪商「保命酒屋」中村家屋敷、大蔵、常夜灯、雁木
  鞆城跡に登って(南面ルート)、四国までを 見渡す絶景に驚嘆する
  鞍城本丸、二の丸跡地を 歩く(西面ルート)
  【豆知識】足利義昭の 鞆幕府警護のための城塞築城 から 福島正則による大城郭へ ■■■
  鞆城 登山口(東面ルートと 北面ルート)
  山中鹿介首塚、その位牌供養の静観寺、清正信仰の法宣寺と「清正公当儀」、ささやき橋
  当地随一の豪商「保命酒屋」旧中村家邸宅 と 三条実美ら 七卿落ち
  【豆知識】動乱に巻き込まれた「鞆の浦」の 幕末日記 ■■■
  地元スーパー「沖辰商店」裏の浜で 一休み



福山駅 に到着すると、駅南口の西端にあったホテル・リブマックス福山駅前に投宿した(下写真左は、ホテル窓から)。ホテル正面には新幹線と JR在来線の線路が延々と西へ伸びていた。

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翌朝、JR福山駅構内の観光案内所を訪問し、福山城と鞆の浦に関する資料をもらう。
そのまま駅北口へ出る。出口外にタクシー乗り場があり、まず、ここから見える福山城を撮影する(上写真右)。

下写真は、同じ場所から撮影したもの(1888年頃)。この時代、内堀には水はなく蓮根畑として使われていたらしい。

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なお現在、城前面に立地する JR福山駅であるが、三の丸南側の用地を整地して建設されている(1891年)。この時、内堀は埋め立てられ、また二の丸正門である鉄御門及びその外枡形、三の丸東御門等も破却された(下模型の黄ライン)。以降も大正初期にかけて内堀は順次、埋められ学校用地などに充てられたという。

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そのまま正面の道を北上し、東面から城跡公園に入ってみる(上模型の青ライン)。
小山を加工して築城された平山城スタイルだけに坂道も多く、また高くそり立つ石垣は見応え抜群だった。
枡形の東揚楯御門跡を通過し(下写真左)、二の丸広場に着くと、築城主・水野勝成(1564~1652年)の銅像が立っていた。現在の福山市の開祖として、当地では神様扱いだった。

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そのまま二の丸北側へ回ってみる(下模型の青ライン)。ちょうど天守後方を通過する辺りに、天守閣の礎石が移設されていた(上写真右。1972年より)。

下の模型から、この場所はもともと数棟の蔵が建ち並ぶ曲輪だったことが分かる。ここが城米蔵(通称、五千石蔵)で、幕府が全国各地の譜代大名に命じて収蔵させた城詰米を保管する蔵だったという。江戸中期まで存在したが、その後は撤去され空き地だったらしい。明治に入っても空き地で、昭和初期にその東半分に地元富豪の個人別荘が建ち、現在、その敷地建物が「福寿会館」として貸会場や福山市史編纂室になっているという(上写真右の右端の建物一帯)。

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天守閣西に至ると、本丸 の北入口である棗木(なつめ)御門が、同じく枡形スタイルで設置されていた(下写真左)。
本丸曲輪はかなり広く、周囲を取り囲む石垣や土塁もまだまだ健在で、見応え抜群だった。井戸跡も残されていた。下写真右。

この本丸曲輪には、京都・伏見城 から移築された壮麗な藩主御殿が建設されていた。今はすべて撤去され、南面の石垣沿いに鏡櫓、月見櫓、鐘櫓、伏見櫓などが復元、保存されているだけだった(天守を含め、すべての建造物が終戦一週間前の 1945年8月8日深夜の福山大空襲で焼失した)。ただし、いずれも内部見学はダメだった。その中間地点に、なぜか「御湯殿」があった。かつて本丸内にあった藩主御殿の風呂場(これも伏見城から移築)をここに移したものという。

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さて、いよいよ天守閣に入ってみる(入場料 200円)。
内部は木造時代の面影もない、100% 鉄筋コンクリート建造物だった。特に階段部分はかつての中学校を想起させられた。
いつも通り、武具などが展示されていたが、特に圧巻だったのは本稿で多用している城郭模型だった(1622年当時をイメージ。福山工業高校建築科の生徒さん作)。さらに最上階の展望フロアにも行きたかったが、アスベスト発見による除去工事とかで、 2020年 1~3月は登頂禁止となっていた。。。

さて再び、本丸北の搦め手にあたる「棗木御門」から二の丸へ下り、そのまま坂道を進んで、山裾の備後護国神社前まで行き着いた。かつて天神山と呼ばれた独立した小山で、山頂には天神社が建立され、城内とは小川で隔てられていたことが分かる(下絵図)。この小川は今も健在で、天神山上には現在、護国神社と福山市武道館が立地していた。

福山城築城の際(1619~1622年)、水野勝成 が三河刈谷時代から信仰していた守護神・渡唐天神を祀る祠を福山城内の松山に勧進して城の鎮守としたという。それ以降、天神山と通称されるようになる。明治元年の 1868年に現在の福山市の繁華街・住吉町へ移築され、護穀神社と住吉神社と共に合祀されて、今日に至るという。

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その西にある別の小山「小丸山」の山裾には、テニス場があった。往時には、この小山下に焔硝蔵(鉄砲など火薬庫)が配置されていたという。上絵図。

そして護国神社脇を東進し、福寿会館の北側を回って、先ほどの城跡公園の東入口に戻ってきた。この道路沿いにあるホテル上から福山城を眺めてみたいな。。。と後ろ髪を惹かれながら駅北口へ向かった


江戸時代初期の 1619年に 安芸、備後の大大名となっていた福島正則が改易されると、直後の同年 8月、備後10万の藩主として譜代大名の水野勝成(1564~1652年)が 大和郡山城 より転封されてくる。勝成はすぐに城郭と城下町の建設に着手する。
瀬戸内海の中央に立地する福山湾岸に河口を開く芦田川に着目し、その河口部に広がっていた干潟を埋め立てて新城下町の建設を企図した新都市計画を策定し、福山と命名する。

1622年に完成した城郭は、五層の天守を中心に、7棟の三重櫓、 14棟の二重櫓、多くの渡櫓が建ち並び、内堀と外堀を備えた壮大な平山城となり、外堀は築城当初、舟入(入川)を通じて海と直接、つながっていた(下絵図)。

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この築城工事に前後し、勝成は領地内に水路を整備して干拓、新田開墾、治水工事などにも尽力し、さらに戦国時代以来、荒廃していた神社仏閣の修理、再建にも力を尽くした。
1651年、88歳で死去すると、城下の寺町にあった賢忠寺に葬られる。

以後、藩主は水野氏、松平氏、阿部氏と継承され、常に福山藩の中心都市として福山城が機能することとなったが、明治維新後、廃城令により、天守、伏見櫓、筋鉄御門、本丸御殿の一部の建物(御湯殿など)を残して城内の建物はことごとく撤去されてしまう。さらに内堀、外堀も鉄道用地や市街地化にともなって昭和初期までにすべて埋め立てられるのだった。
城内に残されていた建造物は早くから国宝に指定されていたが、 1945年の戦災により全焼してしまう。現在のものは 1966年に復元されたものという。

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なお、福山市の開祖として地元で称えられる水野勝成であるが、生来のやんちゃ武者で、戦国期でも主君(食客主も含む)を変えた数は歴代最高数を数えると目される人物である。その勇猛さと武芸で鬼日向の異名をとったという。

もともと祖先は三河国刈谷城主で徳川氏と縁が深く、家康の生母・於大の方 は勝成の父・水野忠重の姉にあたり、徳川家康(1543~1616年)とは従兄弟の関係、秀忠(1579~1632年)とは乳兄弟の関係(同じ乳母に育てられた同世代)であった。母は都筑吉豊女で、三河国で生まれた(1564年)。
1579年、家康が遠州・高天神城を攻めた時(15歳)、父・忠重と共に出陣、これが初陣となる。しかし 1584年、小牧・長久手の戦いの際(20歳)、父の勘気を受けて追放され、諸国を遊歴することとなる。翌 1585年、豊臣秀吉の直属家臣となり、摂津国豊島郡内にて 728石を与えられるも、そのまま知行を捨てて出奔してしまう。

1587年、九州出兵後、肥後国にとどまり佐々成政に仕えるも間もなく出奔し、小西行長、加藤清正、黒田長政などに仕官した後、再び流浪の身として備後、備中に滞在した折、備中成羽城(鶴首城)主・三村親成(?~1609年。備中国を統一し宇喜多直家と対決した三村家親の弟。後年、三村宗家は反毛利となり滅ぼされるも、毛利方に味方した彼は所領を安堵されていた)のもとに寓す。この滞在期間中に、身辺お世話係であった藤井氏の娘・於登久と 恋仲になり、嫡男・長吉(勝俊。後の福山藩第 2代藩主)が誕生するわけである。 1599年、勝成は妻子を置いて単身上京し、伏見城 で家康に拝謁する。この時、父・忠重とも和解し再び徳川家に帰参したのだった。

1600年7月に会津上杉攻めの途上、関東小山で父・忠重の訃報に接し、その遺領・刈谷 3万石を相続したのは 37歳のときであった。関ヶ原合戦 では 大垣城 攻略戦で戦功を挙げる。翌 1601年、正式に刈谷城主として領内統治をスタートする。
翌 1602年、父・忠重の姉、於大の方(家康生母)が 京都 で死去する。

1615年の大坂夏の陣 では藤井寺、誉田にて後藤又兵衛基次と戦って破り、大坂城桜門に一番旗を立てたといわれ、その功績により 3万石の加増を受け大和国郡山 6万石に移封される。その戦功に見合わない低い恩賞であったが、これは徳川家康の再三の突進禁止の命令を無視したためと言われ、秀忠から後に高禄を約束されて、いったんは納得することとなった。
そして、翌 1616年に家康が死去し、1619年に広島城を無断改修した福島正則(1561~1624年)が強制改易されると、1619年8月にさらに 4万石を加増されて備後 10万石に転封されたのだった。
(備後)福山城主となってからの彼は、勇将変じて良官となり、領内の治政にあたったことは先に見た通りである。なお、その藩政に際し、かつて各地を歴訪した際の人脈や土地勘を大いに駆使したとされ、その代表例として家老職に大抜擢された故・三村親成の子・親良や親宣がいる。



そして、駅北口に戻ると、そのまま南口へ移動する。南口すぐ外にはタクシー乗り場、バスターミナルが併設されていた。かつては、駅北口からここまでが三の丸だったわけである。
その南端にあったという櫓石垣が復元、保存されていた(下写真左)。ちょうど、福山駅前バス案内所・待合所の横である。
下写真右は、この正面から発着する鞆の浦行のバス停留場。

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発掘調査当時の写真。

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ちょうど下地図の赤印。

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この駅南口あたりは、福山城三の丸の南東部に相当した(上地図)。
当時、三の丸内には藩の勘定所や上級家臣らの屋敷地が広がっており、また南中央に位置した大手門には外堀を渡って城下町へ通じる木橋がかけられていた。

この外堀の東側には「舟入」という港湾部があり、瀬戸内海から入り江を通って外堀内に入って来た舟をつなぎとめる波止場と水路を兼ねるものであった。ここから三の丸の御水門前の石段を登って直接、城内に入ることができたという。その脇には監視塔であった二重櫓を備えていた。この櫓下の石垣が、上写真で復元されていたものである。

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こうして瀬戸内海まで直接つながっていた福山の城下町は水運交易で大いに栄えたという。かつての城下町の記憶は、現在の地名にもしっかり刻み込まれていた。「三之丸町」「伏見町」「城見町」「西町」「船町」「宝町」「丸之内町」など。下地図。

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続いて、このバス発着所から路線バスで鞆の浦へ移動する。とりあえず、終点のバス停「鞆の浦港」まで行ってみた(560円、45分)。

この正面が鞆の浦港エリアで、たくさんの漁船が停泊していた(下写真左)。手前の袴姿の男性は、龍馬を模したモデルさん。観光客たちに写真撮影を誘っていた。

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そのまま海側へ歩みを進めると、走島へ行くというフェリー乗り場(広島県営)を発見した(上写真右)。ちょうど出航間近だったが、特に訪問予定はなかったので、そのまま見送ることにした。

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ちょうど、その裏手にそびえる岩山の上に圓福寺があり、山裾からも一見して分かった(上写真左)。かつての大可島城跡である。
山麓の細い路地が続く一角に登山口があった(上写真右)。

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下から見ると窮屈そうな小山だったが、小山スぺ―スは有効活用され、境内は丁重に整備されていた(上写真)。

この境内から、先ほどの鞆の浦の湾岸部を眺めてみる(下写真)。結構な高さがある小山だった。

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本殿の裏手(東面)に回ってみると、そこはまっすぐ海へと連なる崖斜面で、かなり足がすくむ。そんな崖斜面までも、墓地として土地利用されていた。下写真。

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この境内東面には「弁天島」、「皇后島」、一番大きな巨大島「仙酔島」がくっきりと見え(下写真)、まさに絵葉書のような絶景だった。
この寺座敷(上写真左)は、その眺望を愛でた文化人によって、夾明楼と命名されたという。

境内の墓地は、本殿の東面~北面にかけてびっしり広がっていた。

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戦国時代までは鞆の浦側とは陸続きではなく、離島であった(大可島)。本州と接続されたのは、江戸時代初期という。
そんな離島時代、南北朝の動乱で南朝方についた地元備後、および 四国武士一団(含:海賊衆)がこの小島上に建造された城塞に立てこもって抵抗するも、北朝方 に包囲され数日間の戦いを経て全滅したという。


南北朝時代前期の 1340年、中国・四国方面の総大将として任命された南朝方の有力武将・脇屋義助(新田義貞の弟)は、当初、四国や瀬戸内海エリアの武士団をまとめて善戦するも、1342年に伊予国府で突如発病し、そのまま病死してしまうと(享年 38歳)、四国の南朝勢力は大きく動揺する。

勢いに乗る北朝方は伊予(四国西部)の要衝・川之江城(今の愛媛県四国中央市川之江町)に攻めかかると、苦境に立った南朝方は、備後側から川之江城に救援に向かうも、途中、北朝方の備後勢と燧灘(ひうちなだ)で遭遇戦となり、両者はそのまま海戦から陸戦へと移行して、鞆津の市街地でも南北に陣取って攻防戦を繰り広げることとなる。
この時、南朝軍は大可島上にあった大可島城を、北朝軍は鞆津の北郊外にある小松寺をそれぞれ占拠し、10日余りに及び激戦を続けたという(鞆合戦)。
しかし、南朝軍の重要拠点・川之江城の危機がますます迫ると、大可島城に籠る南朝方の 四国武士団(含:海賊衆) は船団を引き連れて伊予へ急行することを優先し、大可島城には備後国人衆であった桑原重信の一族のみが残されることとなる。その後、瞬く間に全滅に追いこまれたという。圓福寺の入口付近に、今もこの桑原一族の墓が残されている。
この鞆津は、紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判る立地として瀬戸内海航路の要所であり、以後、占領した北朝方の水軍城塞として重要拠点となっていく。

1349年、足利尊氏(1305~1358年)と対立した実子・足利直冬(1327?~1387年?)が、京都の幕府中枢を追放させられる形で西国探題に着任し四国、中国地方を統括したとき、この大可島城に本拠地を構えたという。
なお、当地は一度、京都を追われた足利尊氏が 1336年に光厳院(1313~1364年。天皇在位:1331~1333年)より新田義貞追討の院宣を受けて 京都 奪還を果たし、同年中に北朝政権の樹立と室町幕府をスタートさせたターニング・ポイントとなった地でもあり、尊氏にとっては思い入れの強い場所であった。ここを本拠地とした直冬に対し、さらに不信感を募らせた尊氏は討伐軍を派遣し、直冬は命からがら、九州へ落ち延びて再起を図ることとなる。下地図。

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その後、北朝方を率いた室町幕府第 3代将軍・足利義満により 1392年に南北朝の統一が成るも、室町時代も後期に入ると各地の群雄が力を持つこととなる。この時、備後地方は周防(今の山口県)大内氏の勢力圏に組み込まれ、瀬戸内海の要地・鞆の浦はその配下の海賊・村上吉充(因島・村上水軍の棟梁)の勢力圏として認定される(1544年)。そして、その現地責任者として送り込まれたのが吉充の弟・村上亮康(?~1608年?)で、離島の水軍専用の城砦であった大可島城を拠点に、鞆の浦一帯の海上権を掌握した。このため亮康は以降、「鞆殿」と呼ばれることとなる。
安芸国で毛利氏が台頭すると1555年の厳島合戦で毛利方として参戦し、大内家の最高実力者だった陶晴賢(1521~1555年)を滅亡させ、以後は毛利配下(小早川隆景に帰属)となった。

1573年に織田信長によって 京都 を追われていた室町幕府第 15代将軍・足利義昭が毛利氏を頼って 1576年から鞆に滞在するようになると(鞆幕府)、村上水軍の現地責任者・亮康が義昭の警護を司ったという。この時、後に鞆城となる鞆城塞が築かれ、その北側の山裾に義昭の御所が開設されたと考えられている。

1600年の関ヶ原合戦 後、毛利氏が周防、長門へ減封されると、村上氏も当地を引き払った。替わりに福島正則が毛利輝元の作った広島城に入って安芸・備後 2か国を領有すると、家老の大崎玄蕃(1560~1632年)が鞆城に配置され、すぐに大規模な拡張工事が着手される。このとき大可島城跡が解体され、その資材で海峡が埋め立てられて初めて陸続きとなったという。以後、要害山とも通称された。
同時に、もともと鞆城の立地した小山付近にあった圓福寺(真言宗)が大可島城跡の要害山へ移築される。鞆幕府の時代まで合戦優先で軽視されがちだった寺社であったが、神社仏閣の保護に熱心な福島正則の指示もあり、荒れ果てていた境内を復興させるべく、1607年頃、小松寺(現在の沼名前神社の南)の東に移築されていた釈迦堂(826年に弘法大師・空海が設置との伝承あり)を再移転させたものだった。住職に快音を招いて圓福寺として開山させたという。
1610年に(南林山釈迦院)圓福寺の社殿が完成するも、以後、何度も建て替え工事が行われており、現在の本堂は昭和初期に再建されたものという。
以後、圓福寺の建つ岬は瀬戸内海の島々や四国が眺望できる景勝地となり、 朝鮮通信使 が来日した際には上官らの宿泊施設に供されたり、「いろは丸事件」の談判の際、紀州藩 側の宿舎に使用されたという。



下写真は、圓教寺から北側を臨んだもの。正面には、対潮楼と鞆城跡に建つ歴史資料館が見渡せる。

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そのまま北方向へ下山すると、坂道の途中に「崖の上の宿・鞆猫庵」があり、かわいらしい猫デザインの看板が出ていた(下写真左)。下写真右は、この坂下から圓教寺の方向を振り返ったもの。

この山裾辺りに、エレキテル(摩擦起電機)の製作、寒暖計の発明者として知られている平賀源内(1729~1779年)が、1752年に長崎遊学して蘭学の諸技術を学んだ後、翌 1753年に故郷の讃岐への帰路に鞆の浦に立ち寄った際、寄寓した溝川家宅があったという。その溝川家の所有地で陶土を発見し、鞆の浦に陶器造りを伝授した、というエピソードを残している。

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路地をひたすら北上すると、県道 22号線に出る。ちょうど、先ほど路線バスを下車したポイントだった(下写真左の道路突き当り)。

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その道路向かいに、先程、圓福寺から見えた巨大な社殿を有する福禅寺があったので訪問してみる。境内の日本庭園はきれいに整備されていたが、立入禁止となっていた。この境内から圓福寺を遠望する(上写真右)。

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福禅寺の本殿の海側に増設された休憩所が「対潮楼」という迎賓館だった。江戸時代、朝鮮通信使 の一行がここに投宿し、瀬戸内海の美観を愛でたという逸話が紹介されていた。入場料 200円(見学時間、8:00~17:00)。

また、音声ガイダンスが流れており、対岸の弁天島、皇后島、一番大きな仙酔島について解説されていた。弁天島の塔には朝鮮通信使のメンバーらも上陸した記録が残されているという。

ここの案内窓口の女性は非常に気さくで、訪問者に積極的に話しかけて場を和ませておられた。


(海岸山千手院)福禅寺は、平安時代中期の 950年頃の創建と伝えられる真言宗の寺院で、本堂やそれに隣接する対潮楼(国指定の史跡)は、江戸時代中期の 1690年代に客殿として建立されたものという。

この時代、瀬戸内海は 江戸大坂京都 から九州へ至る重要な航路上に位置し、数多くの商船団や武家使節団なども鞆の浦に立ち寄っていた。その中の一つが合計 11回、当地に寄港した朝鮮通信使(1607~1811年)であった。江戸幕府将軍の代替わりや、その他の慶事の折、(李氏)朝鮮国王から派遣された使節団で、江戸時代を通じ 12回、訪日していた(400~500人規模)。

当時、福禅寺の客殿が正使らの宿舎にあてられ、さまざまな接待が行われたという。
なお、この客殿からの海島の眺めはすばらしく、特に 1711年の朝鮮通信使一行の上官 8名(正使、副使、従事官)が「福禅寺楼」に投宿した際、ここの窓枠を額縁に見立てて観る景色が一幅の名画に値すると称賛し、日本第一の名勝として「日東第一形勝」と称えたエピソードが従事官・李邦彦によって書き残されている。また、1748年には正使・洪啓禧が客殿を「対潮楼」と命名し、同伴した実子・洪景海が記した額縁を今に残している。この朝鮮使節団一行の滞在期間中、日本の漢学者や書家らも数多く訪れ、双方の文化交流の場ともなっていたという。



見学後、境内前の細い路地を北へ進む(下写真左)。

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すると、つきあたりで県道 47号線と合流する。ここは度々、自動車が往来するせわしい生活道路だった。ちょうど、その交差点にあった坂本龍馬談判の地、魚屋萬蔵(うおやまんぞう)宅を写真撮影する(上写真右)。

龍馬たち「いろは丸」側の宿舎と、紀州藩 の宿舎(先程の圓福寺)との中間に立地したことから、この商家が談判の地に選ばれたという。 現在、NPO法人が物件を購入し、江戸時代の町家のたたずまいを残して内部保存されており、 1階は日本料理屋、2階は旅館「御舟宿いろは(一泊 1人 25,000円!)」が運営されているという。内部の写真が撮りたいと伝えると、店主が快諾してくれた(見学無料)。下写真左。

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1867年4月23日午後 11時頃、坂本龍馬の率いる海援隊の蒸気船「いろは丸」と紀州藩の蒸気船「明光丸(1864年、英国商人トーマス・グラバーより購入。その後の 幕末期の長州征伐明治維新期の台湾出兵 にも活躍した)」とが瀬戸内海で衝突し、「いろは丸」が宇治島沖で沈没する(上写真右)。乗船していた龍馬らに死者もなく、乗員全員が明光丸へ乗せ換えられて鞆の浦に上陸する。そして、当地にて 紀州藩 と事後処理の談判を行うこととなった。

紀州藩側は要害山上の圓福寺に、いろは丸側は「桝屋清右衛門宅」を宿とし、「魚屋萬蔵宅」などを談判所として交渉を続けることとなる。金塊なども運搬中だったという積み荷全額の賠償を求める「いろは丸」側の強硬姿勢により議論は平行線をたどり、4月27日交渉決裂となると、交渉の場を長崎に移した。
約 1ヵ月後の 5月29日、賠償金約 8万3千両(後に 7万両に減額和解)を支払うことで決着する。
その後、10月19日~11月7日にかけて紀州藩から土佐藩へ 7万両(約 35億円)の賠償金が支払われ、その金が龍馬へ引き渡しされる手はずだったが、11月15日に 京都 近江屋にて暗殺されてしまうのだった。その後、この賠償金は行方知れずとなる。。。

以後、鞆の浦の漁師の間では、「宇治島沖に石炭船が沈んでいる」と伝承されてきた。漁で海に網を入れると度々、石炭が揚がっていたためであった。1988年4月に地元有志グループによって「いろは丸」沈没地点が発見され、潜水調査が繰り返される。その際、船体の鉄材、部品、装備品、日用品、石炭などが引き上げられ、「いろは丸」の残骸であることが確認されたという。



この県道 47号線は、往時の港町のメインストリートの一角であり、少し東へ進むと、この交渉期間中、命の危険を感じながら龍馬ら「いろは丸」側が投宿した町屋が残されていた。これが桝屋清右衛門宅で、龍馬の隠れ部屋が今も保存されている(下写真の奥。見学料 200円)。龍馬は当家に五泊六日した後、長崎へ移動するのだった。

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下地図 はここまでの移動ルート。

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鞆の浦 の港町を見渡したとき(上写真)、豪商や役人らは湾岸~鞆城一帯に集住して高級住宅街を形成しており(下写真)、龍馬ら庶民が投宿したのは湾岸部からやや離れたエリアだったことがうかがえる。 紀州藩 は徳川親藩として国賓級の扱いで圓福寺に滞在したが、談判会場となった「魚屋萬蔵宅」は、これら両階層の中間地帯だったのだろう。

実際、地場酒造「岡亀保命酒」本店や、三条実美ら七卿落ちの一行が投宿した豪商邸宅、大蔵群は、この湾岸エリアに集中している。下写真。

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さて、いよいよ鞆城跡を目指し、この港湾エリアを西へ進み(下写真左。県道 47号線)、北にそびえ立つ高台を目指す(下写真右。古城の南面入口)。

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長い階段を上がりきると、鞆城・本丸跡地に到達した。
ここからは鞆の浦の港町を一望でき、さらに南には四国の山々まで見渡せた。眼下の湾岸地区からこの城山の山裾までが、鞆の浦の高級住宅街、大商業エリアだったわけである。下写真。

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続いて、この山頂部に立地した鞆の浦歴史民俗資料館へ入ってみる(入館無料)。
とても訪問価値のある博物館で、二階にあった琴体験コーナーでは「桜」を自分で奏でることができた。また、1F入り口にあったビデオコーナーも充実しており、30~40年前の映像ながら、大変に勉強になった。「鞆の浦」の地名の由来なども解説されていた。

この博物館で、父親が鞆の浦出身という盲目の音楽家(琴曲の演奏家、作曲家)・宮城道雄の解説を聞き、彼がかの有名な正月の歌「春の海」の作曲家であることを知った。道雄本人は神戸で生まれ育ったわけだが、度々、父の故郷である当地にも足を運んだようである。名曲「春の海」は瀬戸内海を素材に作曲したといわれる。博物館外 には彼を記念する銅像も設置されていた。

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博物館見学後、山頂部の本丸跡地を歩き回ってみた。上写真左は、早毛利稲荷神社の社殿と博物館建物(右端)。

また、本丸北東には復元された石垣があったが、これは一切、城郭遺構とは関係ない。続いて、二の丸を散策すべく、本丸西面から下山してみる(上写真右。西面入口。右手の草むらは土塁跡)。

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上写真が、現在の二の丸跡地。
後方に見える本丸部分よりも一段低くなっていた。広場には滑り台などが設置され、公園化されていた。
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さらに、その下に地蔵院があり、墓地エリアが続いていた(上写真)。当時から斜面がきつく平坦ではない、段々畑のように小さな建物と山道が山裾まで配置されていたと思われる。そして、山麓部分に 城主御殿(城山の北面に配置)や武家屋敷などが入居する三の丸が整備されていたのだった。


毛利輝元(1553~1625年)は、中国地方へ侵攻を図る織田信長に対抗すべく、鞆に本陣を構えた。その際、当地の支配を委ねていた 因島・村上水軍 の村上亮康(?~1608年?)に指示し、小山上に鞆城塞が建造されたと考えられている。

1573年に織田信長と不和となり、京都 を追われて逃亡中だった室町幕府第 15代将軍・足利義昭(1537~1597年)は、毛利家によってこの地で匿われた。彼は 1576~1582年6月(本能寺の変)まで鞆の浦を本拠地とし(鞆幕府と通称される)、その後、1582~87年までを山陽道により近い備後国の沼隈郡津之郷に御所をかまえ、京都復帰を目論んでいたという。最終的に 1587年末、九州征伐からの帰国途上の豊臣秀吉に随行し京都へ戻り、翌 1588年正月に征夷大将軍職を朝廷に返上して、秀吉傘下の大名に組み込まれるのだった。
この頃、毛利氏の外交僧として、足利義昭と織田信長、豊臣秀吉、毛利輝元との調停役を務めた安国寺恵瓊(1539?~1600年)も鞆の浦にある安国寺(下地図)を投宿先とし、各地で暗躍したという。

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1600年の関ヶ原合戦 後に毛利氏が大幅減封されると、代わりに安芸、備後の領主として福島正則が入封し(上地図)、その家老・大崎長行(大崎玄蕃。1560~1632年)が領内の要衝であった鞆城に配置され、瀬戸内海交通の一大要塞とすべく大規模な拡張工事が着手されたのだった(下地図)。
1607年の 朝鮮通信使 の日記に「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である」と記されており、その当時も建設途中だったことが知られている。
しかし、幕府側から不評を買ったため、福島正則自ら家康に詫びを入れて、 1609年に鞆城の築城工事は中止され、そのまま廃城となったという。ただし、石垣や城塁は大規模に残されたままだったとされる。表向きは 1615年の一国一城令により廃城とされた、という建て前にされた。

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鞆城は湾岸エリアに面した小山を利用し、本丸と二の丸が設計され、これを取り囲むように広大な三の丸と城下町が構築されていた。その範囲は上地図の通りで、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面する壮大な規模を誇ったという。
廃城後、二の丸跡地の丘陵斜面上に(鶴林山)地蔵院が移転、建立される。

1619年に改易された福島正則 の後を受け、水野勝成 が10万石で初代福山藩主として入封すると、長子・勝俊(1598~1655年。後の第 2代福山藩主)のために山裾部分の三の丸跡地に居館が開設される。以後、江戸時代を通じて町奉行所が置かれた

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上地図は、鞆城の本丸、二の丸、および三の丸の主要部分。
現在、登山道は東西南北に 4か所ある。南側入口は筆者が湾岸地区から登って来た石階段、西側入口は筆者が地蔵院脇の墓地エリアを下山した坂道であった。

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上写真は、東側入口。福山市営駐車場の裏手にある。

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上写真は、北側入口。かつて、この小山の南側はすぐ下に港湾地区が迫っており、多くの商家が軒を連ねたので、この北側に武家屋敷を中心とする三の丸が整備されていた。戦国時代に将軍・義昭もこの北面に居を構えており鞆幕府御所としていた。福島正則時代にそのまま城主居館へ転用されたと推察される。



さて、古城西面から地蔵院下まで降りると、細い路地が連なる地元エリアにつながっていた。所々、立派な古民家が現役で使用されていた。この南側は先ほどの県道 47号線と交差しており、その脇に「清正公当儀」「沼名前神社」と彫られた道標が残されていた(下写真左の左下)。

再び同じ路地を戻る形で、この道標が示す北方向へ移動してみる(下写真左を直進)。すると、山中鹿介(1545~1577年)の首塚前に到着した(下写真右)。

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上月城が落城し尼子氏が滅亡する(1578年7月)と、捕縛された山中鹿介は、毛利輝元が進駐中の備中松山城まで連行される途中、小早川隆景の忠告により殺害されることが決定され、輝元に会うことなく、今の岡山県の高梁川「阿井の渡」で処刑される。その首のみ備中松山城に滞在中の毛利輝元によって検分され、最終的に当地にあった足利義昭にも首実検されて、晒されたというわけだった。
現在、後方の静観寺に山中鹿介の位牌が安置されているという。

その東隣に「ささやき橋」があった(下写真左の石道路の盛り上がり部分)。
古墳時代の 5世紀前半、ちょうど日本が朝鮮半島への影響力を誇った頃、百済国からの使節の接待役・武内臣和多利と官妓(宮仕えの接待係)・江の浦は、それぞれの役目を疎かにし、毎夜この橋で恋を語り合っていたという。その情事が噂となり、二人は拘束されて海に沈められてしまう。以後、二人が密会した橋は密語(ささやき)の橋と伝承されたということらしい。

この裏にある門が、先程の道標「清正公当儀」として案内されていた、法宣寺(日蓮宗)である(下写真左)。江戸時代後期、熱心な日蓮宗信者だったとされる加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の道場 として名を馳せた古刹という。
その北隣には山中鹿介の位牌が安置されている静観寺、妙蓮寺などが軒を連ね、寺社が集められた区画となっていた(下写真左)。

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再び、先ほどの路地を南下して道標のあった県道 47号線を渡り、南の路地街に至る。急に古民家が集まる歴史地区が広がっていた。
その中で、ひと際、多くの訪問者で賑わうポイントがあった。ここが岡本亀太郎保命酒 本店だった(上写真右)。鞆の浦を散策中、度々、「保命酒」と看板を掲げたお店が酒類以外にも、駄菓子屋などを兼ねていたのが気にかかっていた。この本店ではお酒のみを販売していた。

この本店が入居する白壁の建物は(上写真右)、明治初期の 1873年に廃城となっていた福山城内から当地の酒屋・豪商である中村家に払い下げられた長屋門(17世紀初期の建設)で、解体して海路、当地まで運ばれてきたという。もともと左右に番所があり、その中央部の門を店舗へ改修したものとなっている。現在、番所部屋は左側のみ現存するという(上写真右の中央部分)。現在、福山市の重要文化財に指定されている。

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そのまま路地突き当りまで行くと、湾岸地区へ向けて少し東進する。つきあたりに、太田家住宅の立派な商家邸宅があり、ここが幕末に三条実美ら七卿が長州藩兵 1000名超に護衛されて 京都 から脱出した際、投宿した場所という。上写真


この船着場に臨む太田家住宅(主屋と別邸・朝宗亭を含む)であるが、もともとは中村家の屋敷で、七卿が上陸した当時も中村家邸宅であった。明治期、経営に行き詰った中村家が太田家へ売却し、今日に至るという。

もともと中村家は江戸時代を通じ、福山藩の御用名酒屋を務めた保命酒の蔵元で、 1659年に漢方医だった中村吉兵衛が自身の薬の知識と地元の焼酎屋とのコラボで薬酒「保命酒」の製造を手掛けたものだった。
元来、大坂 で漢方屋を営んでいた関係上、吉兵衛は薬材を仕入れるために長崎との間を度々、往来しており、その際に鞆の浦に立ち寄り、地元の酒屋・万古屋と懇意になったことがきっかけという。1655年に鞆の浦に移住した中村吉兵衛が 1659年に鞆奉行の許可を得て、焼酎に家伝の薬法を加えた薬酒「保命酒」の製造事業をスタートする。
以後、保命酒は高級酒として全国に知られるようになり、福山藩からも特産品として保護され、保命酒の独占業者となった中村家は豪商への道を歩むこととなった。 江戸時代を通じて、保命酒は公家や上級武士、豪商などに愛好され、朝鮮通信使が鞆の浦に立ち寄った際や幕末にアメリカ艦隊ペリーやハリスが来航した際にも、接待用の食前酒として供されたという。

そんな大豪商時代の中村家邸宅に、1863年8月23日、長州藩兵 1000余りの警護の下、京都 から脱出した三条実美ら 7名の公家が投宿したわけである(1泊)。翌 24日には出航し(この日、激怒した朝廷は京都を出奔した七卿の官位をはく奪する)、 8月27日に無事に徳山港へ上陸するのだった。
ちょうど一週間前の 8月18日に起こった政変で、朝廷の主導権が公武合体派に移ったため、尊皇攘夷派のリーダー三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宜嘉の七卿と長州藩兵 1000余りが翌 19日の明け方から 京都 を脱出し、西国街道を西進して「芥川宿」に 投宿しつつ、さらに西へ西へと逃避行を続けるわけだが、この行軍に長門国清末藩主の毛利元純、 岩国藩主の吉川経幹 らも随行していた。

翌 1864年、再上洛を企図し、海路で 大坂 を目指した七卿は、その途中、鞆の浦に7月18日、19日の 2泊して東進したが、讃岐・多度津にて蛤御門の変(1864年7月19日)で長州勢が敗れたことを知り、ただちに長州へ戻ることになる。その際、7月22日に再度、鞆の浦に一泊し、合計 3回(4日間)の訪問となった。いずれも、酒造屋の中村家邸宅に投宿した。
その際、三条実美(後に明治新政府では太政大臣となる)は保命酒(竹の葉と表現)をたたえる和歌「世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯くも嘗むるも 珍しの世や」を残したという。

しかし、1868年に江戸幕府が廃止されると、中村家は藩の保護を失い、同時に藩への売掛金すべてを失うこととなる。さらに、1871年の百姓一揆で暴徒化した農民の襲撃を受けて邸宅や酒造施設は大きな被害を受けてしまうのだった。
保命酒の専売制も廃止されることになり、別の酒蔵も次々に保命酒製造に参入する。この時の参入組の一つが、1855年に清酒業をスタートしたばかりだった初代・岡本亀太郎で、事業を軌道に乗せた岡本家は衰勢となった中村家から家屋、設備、看板などを買い受けて事業を拡大させていった。こうして、かつて中村家邸宅や造酒工場であった湾岸地区の土地は、岡本家と太田家が大部分を継承して今日に至るわけである。財力が弱った中村家は最終的に 1903年に廃業に追い込まれた。
旧中村家住宅の主家と向かいの別邸「朝宗亭」は、18世紀中頃~19世紀初期の建物であり、これら近世商家建築群は太田家の所有時代の 1991年5月31日に国の重要文化財指定を受け、また鞆七卿落遺跡として広島県からも史跡指定(1940年)を受けている。

この幕末明治初めの激動期、先の「いろは丸事件」での坂本龍馬の上陸などもあり、長州、薩摩、京都江戸 を結ぶ瀬戸内航路の重要拠点として、鞆の浦は歴史の表舞台に度々、顔を出すことになった。その他、1868年には薩摩軍が鞆沖に停泊したり、700人の福山藩兵が鞆より函館戦争へ出発など、激動の時代を一線で触れて来た土地柄であった。

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そもそも、鞆の浦の沖合いは瀬戸内海の中央に位置し、豊後水道、関門海峡と紀伊水道からの潮流が出会い、また分かれていく特別な場所であり、一日 2回の干満にあわせて、規則正しい潮流が発生していた。
大阪ー下関間を航行した船乗りらは途中、2~3か所の港でそれぞれ「潮待ち」をしながら移動しており、特に 北前船 はこの「潮流」と「風」を巧みに利用することにより、高い帆走能力で幅を利かせた集団であった。

この「潮待ち」は古来より変わらず行われており、こうしたことが多くの伝説を生み、大伴旅人(665~731年)が寄港時に「むろの木」の詩を歌ったものが万葉集に掲載されたりと、鞆の浦は中世から近世にかけて歴史上の舞台に度々、登場することとなる。

長い間、瀬戸内海は人と物資と情報を結ぶ大動脈であったが、明治以降、鉄道の開通、汽船の就航等により、「潮待ち」をする船もなくなり、鞆の浦は往時の姿を残したまま忘れ去られていったため、今日でも当時の港町の活況を彷彿させる港湾遺跡を目にすることができるというわけだった。沖に突出する波止、常夜灯(花崗岩製で 1859年再建)、雁木と呼ばれる階段状の船着場(1811年整備)、港に面している豪商、廻船問屋とその土蔵などである。



その路地の先は、常夜燈が残る港湾部だった。脇には商家の大蔵を改修した「いろは丸展示館(200円)」があったが、なんか入口が入りずらい雰囲気がムンムン漂っていたので、入館は止めておいた。
再び、福山西警察署前を西進して戻りつつ、突き当りの県道 47号線を目指した。この県道沿いに、地元の方が利用されるというスーパー沖辰商店があると伺っていたので、訪問してみる。

ただ、この県道は細い割に交通量が多いので、ゆっくり歩けないと判断し、砂浜へ出てみることにした。そこには、地元漁師だけの生活空間が広がっていた。下写真。
海上ではたくさんの海鳥が、漁師が捨てる小魚などを待って列をなしていた。

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すると、目的の商店を発見し、無事に団子、パンを購入できた。八百屋とお菓子屋、パン屋を兼ねる、昭和の哀愁一杯の自宅兼スーパーだった。せっかくなので、上写真の砂浜で食べてみた。

再び体力を回復させると、そのまま県道 47号線沿いを東へ抜け、海沿いの県道 22号線に出ると、真横に観光情報センターがあった。トイレが無料で使えるというので、お借りする。お土産屋さんを兼ねる観光ショップだった。その前にバス停「鞆の浦」があり、運賃 530円で福山駅前に帰り着く(30分強)。

福山市街地に戻ると、ホテルで荷物回収後、前夜にチケットセンター 福山駅前店で購入していた、福山駅 → 倉敷駅 の割引チケットで JR線に乗車した。広島県とお別れし岡山県へと移動する。


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