BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月中旬 『大陸西遊記』~


愛知県 名古屋市(中村区 / 中区) ~ 両区人口 22万人、一人当たり GDP 400万円 (愛知県 全体)


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  新開発された 名古屋駅前のビル群
  豊国神社の大鳥居 と 門前朝市の「九の市」
  驚くほど小さな 豊国神社本殿(1885年造営) と 「秀吉誕生の地」記念碑(1901年設置)
  加藤清正ゆかりの 妙行寺(清正の実家の 近所だった場所)
  名古屋城 二の丸 ~ 東鉄門から 西鉄門を歩く
  名古屋城 三の丸 ~ 広々とした空間が清々しい、官公庁街を歩く
  地図から見る、名古屋城 三の丸の 変遷史
  【豆知識】名古屋城址 ■■■



名古屋では、駅から徒歩 15分弱の「ダイワ・ロイヤルホテル D-CITY 名古屋納屋橋」に投宿した。コスト・パフォーマンスも最高で、隣接する商業施設にはスーパーやフードコートもあり、長期滞在にはもってこいのロケーションだった。
下写真はホテル部屋から、名古屋駅(右端のビル群)方向を臨んだもの。

中村区

ホテルをチェックアウト後、地下鉄「伏見駅」から東山線で「中村公園駅」まで移動した(10分、240円)。 名古屋の地下鉄駅構内や電車内は、東京 に比べると薄暗く寂しい印象を受けるのは、筆者だけなのだろうか。

中村公園駅は結構、広かったが、出口③ から外に出る。
豊国神社が誇る、高さ 24 mの巨大な 鳥居(中村の大鳥居)が目に飛び込んでくる(下写真左)。

そのまま豊国参道を北上し、豊国神社を目指した。ちょうど門前町の伝統からか、屋外市場が立っており(下写真右)、午後には店じまいしていたから、午前中だけの朝市らしかった。後で調べてみると、この日は 11月19日だったので、毎月「9」の付く日に開催している「九の市」だそうで、約 60年前に神社脇で近所の農家が野菜を売り始めたのが起源という。

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いよいよ 豊国神社の境内に入る。
筆者が訪問して最初にびっくりしたのが、先ほどの大鳥居に似つかわしくない、社殿のこじんまりさだった(下写真左)。明治中期の 1885年の創建で、豊臣秀吉(1537~1598年)を御祭神とし、特に出世開運にご利益があるとされる
旧正月 1日の生誕祭、5月18日の 例祭(太閤祭)前の日曜日には、豊太閤にちなみ、子供の成長と出世を願う出世稚児行列が盛大に執り行われるという。『絵本太閤記』の引用から、秀吉(幼名:日吉丸)の誕生日は 1月1日(天文 6年元旦)に設定されている。

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その社殿の裏手に、豊臣秀吉の生家を記念する石碑が建てられていた(上写真右)。

解説板によると 旧暦 1536年正月、豊臣秀吉は木下弥右衛門の子としてこの地に生まれたという(実父は 1543年、秀吉 7歳のときに死去)。幼名を小竹、あるいは日吉丸といい、 姉の 智(とも。関白秀次の生母で、後の瑞龍院日秀。1534~1625年)は同父同母の姉で、小一郎秀長(大和大納言。1540~1591年)と 朝日姫(徳川家康正室。1543~1590年)は、異父同母の弟妹である。出生地については、区内下中村町という説もある、と解説されていた。

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現在の中村公園周辺は幕末まで、田畑が広がる一帯だった。
明治初期の 1885年、当時の 県令(県知事)国貞廉平をはじめ地元の有志らにより、秀吉出生の地と言われる場所の傍らに豊国神社が創建される。1901年、神社の周辺に中村公園が整備される。

明治末期の 1910年には愛知県が中村公園の拡張を行い、迎賓館施設(現在の 中村公園記念館。上写真左)などが建築される。これは同年に行幸予定であった 皇太子(後の大正天皇)一行の休憩施設を目的としたもので、同年 11月18日の訪問時に皇太子自ら植樹されたという松の樹が、記念館脇に今も保存されていた(上写真右)。

この中村公園記念館の建物は格式ある書院造で設計され、豊臣秀吉の馬印であるひょうたん等を意匠に取り入れた唐破風の玄関に特徴があり、現存する明治期の公共木造建築物として希少性が高いとされる
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これら豊国神社や中村公園より先に設置されていたのが、北隣に立地する加藤清正公を祀る妙行寺と、 その西隣にある太閤堂を有する常泉寺であった。その周辺は沼地と田畑だけだったことが、江戸期の 絵画『尾張名所図会(1844年) 中村の里』から窺い知れる(上写真)。

この妙行寺は 1294年、日像菩薩により真言宗から日蓮宗に改宗された寺院で、1535年、日勢上人が正悦山妙行寺と改名し、境内を再建していた。1610年、加藤清正が 名古屋城 築城の折、普請小屋の余材をもらい受けて、その材木で御先祖、御両親の菩提を弔うため、かつて自宅近くだったこの境内に 社(今の清正堂)を建立したという。下写真。

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現在、この中村公園の南端には中村公園文化プラザがあり、その 2階に秀吉清正記念館が入居する(1階は図書館、3階は文化小劇場)。その裏手にはひょうたん池、関白池、初代・中村勘三郎の生誕像などがあり、奥に八幡神社が設置されていた。
さて、秀吉清正記念館であるが、昭和の香りが漂う古い建物と展示内容であったが、入館無料で非常に勉強になった。秀吉、清正直筆の手紙や甲冑レプリカがある中で、賤ケ岳の戦いの経過説明に多くのスペースが割かれていた。

見学後、再び 地下鉄「東山線」で栄駅へ移動し、乗り換えて「名城線」市役所駅で下車する。ちょうど、名古屋城二の丸の真正面に出口があった(下地図)。

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なお、この市役所駅の出口がなかなか凝ったもので、また後方のいかついデザインの 名古屋市役所(1933年完成。2014年、国の重要文化財に指定)とのコントラストも絶妙で、ついシャッターを切ってしまった(下写真左)。

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そして、二の丸へ入城すべく、東鉄門跡へ向かう。
ここの外堀は巨大で、空堀の中央部には 土手(中土手)が設けられていた。これは 起伏(高低差)を作り出すことで、敵の侵攻を鈍らせ、鉄砲や弓矢での攻撃をしやすくした設計であったという(上写真右)。
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上写真右は、東鉄門跡。正式名称は、二の丸東二之門といい、この城門建物は国の重要文化財に指定され、現在、本丸東二之門へ移築されているという。

いよいよ二の丸に入ると南北に仕切られており、二の丸庭園などの北半分は有料エリア、南半分は 愛知県体育館(ドルフィンズアリーナ)があり無料エリアとなっていた(下地図)。この中央部に設置された窓口で、本丸・天守閣への 入場券(500円)を購入するポイントとなっていた。この日は見学時間が不足しており、遠方に見える名古屋城天守を撮影して、帰ることにする。

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この二の丸北半分に、清正公石曳きの像があるらしかったが、仕方がない。
そして、西鉄門から城外へ出る(下写真左)。

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この 二の丸・西鉄門は、正式名称を二の丸 正門(俗称は枡形御門)といい、内門と外門から成る二重構造の城門であった(前述の東鉄門も同じ)。
内門(大手一之門)は現存せず、現在、目にできる木造の城門は外門の方で、大手ニ之門と別称される。一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門スタイルだった。上写真左。

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上写真は、二の丸を守る外堀。巨大な石垣が折り重なる様は、絶景だった。

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上写真は、二の丸の南面石垣と外堀。この先に、先ほどの「名城線」市役所駅がある。

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出来町通の信号を南下し、旧三の丸の敷地を通過する。 現在、一帯は官庁街で、愛知県警本部、護国神社、家庭裁判所、中日新聞本社ビルなどが立地する。 最終的に新御園橋の交差点から城外へ出た(上写真右の奥が、御園御門跡)。

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この交差点前では、巨大な土塁と三の丸の外周堀 が健在であった。全面が草木で埋もれてしまっていたのが残念だった。。。 江戸期には、きちんと草刈りしていたのだろう。

そのまま南下し、地下鉄「丸の内駅」を通過して(上写真右)、国道 22号線沿いにある伏見駅まで歩き、ホテルに帰り着いた。本日の移動ルートは下地図の通り。

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下は、江戸期の三の丸武家屋敷の配置図。

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下は、明治期(1885年当時)の名古屋城図。
明治政府に接収された名古屋城は、すぐに三の丸の侍屋敷群、二の丸御殿が撤去され、1873年に陸軍省下の 名古屋鎮台の司令本部や練兵所施設が、整備されていくこととなった。

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下は、昭和初期(1941年当時)の名古屋城図。
全国の軍制改編に伴い、1886年、上記の名古屋鎮台は第三師団と改組され、そのまま三の丸に同司令部が設置されていた。太平洋戦争末期の 1945年初めから本格化した本土空襲に伴い、名古屋も米軍のターゲットとされ、度々、産業施設や港湾エリアが空爆を受けるも、ついに市街地への無差別攻撃がスタートすると、5月14日に天守閣や本丸御殿も全焼してしまうのだった。

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 名古屋城 (名城線「市役所駅」にあった解説文から引用)

名古屋城は、徳川家康が 江戸城、駿府城に次いで最後に造営した、日本近世を代表する大城郭である。典型的な平城であった。
下絵図の名古屋城は、尾張徳川家 初代・義直の 1640年ごろから、2代目・光友の 1670年にかけての全景図。

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名古屋城築城が計画された 1610年は、日本城郭史上の大転換期にあたっていた。織田信長の創始した 安土城天守 以来の伝統を、太平の江戸幕府治世において止揚すべく、小堀政一(1579~1647年。少年期は豊臣秀長に仕え、郡山城築城などで築城術を学び、備中松山藩主となる。 1608年に駿府城普請奉行となり、大改修を主導していた)らを奉行とし、加藤清正(1562~1611年。熊本藩主)、福島正則(1561~1624年。広島藩主)前田利常(1594~1658年。加賀藩主)ら、主に豊臣家の忠臣であった 北国・西国の諸大名 20家を大動員し、いわゆる「天下普請」にて建造されたものであった。

その工事現場を指揮監督したのが、京都 の 大工頭・中井正清(1565~1619年)で、すでに経験している 伏見城二条城江戸城、駿府城 造営の技術を集大成し、幕府城郭建築の粋をこの名古屋城築城に結実させており、非常に高い歴史的意義を託されたものであった。名古屋城以後に造営された 江戸城(元和・寛永年度)、二条城(寛永年度)、大坂城(寛永年度)等はすべて、 名古屋城の 天守、櫓、御殿、御庭等のスタイルを踏襲することとなる。特に金鯱の輝く大天守は、日本城郭史上最大級の建築のべ面積をもつ木造の高層建築であったことで有名である。延べ 20万人以上が動員され 2年間の大工事を経て 1612年、天守閣、本丸、二の丸曲輪がほぼ完成する。

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そして家康没後の 元和・寛永期(1620~1630年)にかけて、尾張藩政庁として二の丸御殿の建設が進められ、さらに 3代目将軍・家光のための 本丸御成書院(上洛殿)や、二ノ丸北御庭聖堂、下御深井御庭、三の丸東照宮等を整備し、江戸城 と同等の設備群を整えたのである。わけても二の丸北御庭は、日本史上前例を見ない中国明式造庭を行い、そこに建てた 聖堂(金声玉振閣)は、幕府が林羅山をして開創せしめた 上野忍岡聖堂(昌平坂学問所の前身)のモデルとなるほどに、非常に珍しい施設であった。加えて、下御深井御庭は、御水尾天皇(上皇)が造営した修学院離宮と同様の大回遊式庭園で、公家文化を継承するものであった。

後のことではあるが、城内には小規模な門前町や宿場町をも造営し町人文化をも満喫できるように設計されていた。名古屋城と城下町は、日本の近世文化を代表する都市として機能し、特に日本全土が質素倹約で財政引き締めが行われた徳川吉宗の治世下にあって、第七代尾張藩主の徳川宗春による意図的な放漫財政は、城下の町人文化を大いに活気づかせたことは有名である。そのため、「尾張名古屋は城でもつ(伊勢音頭)」と謡われる大都市となった

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