BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月上旬 『大陸西遊記』~


広島県 広島市 ~ 市内人口 120万人、一人当たり GDP 315万円(広島県 全体)


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  広島城下を貫通した 西国街道(山陽道)の 今昔
  広島城の 全景図
  リーガロイヤルホテル広島 33Fから、広島城下町と 広島湾を遠望する
  暗渠の遺構 ~ 内堀と中堀をつないで 水量調整に機能した水路跡
  世にも珍しい ミニ「二の丸」曲輪 ~ 無料公開された 表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓
  本丸下段の中御門 と 護國神社
  本丸、二の丸の 全景図
  日中戦争時代、大本営と天皇行在所となっていた 広島城本丸の今昔
  本丸上段の 藩主御殿跡 と 大天守の礎石
  本丸東面の裏御門 と 北面の広大な内堀
  【豆知識】毛利氏(本拠地:吉田郡山城)の台頭 と 日本最大数の櫓が配備された 広島城
  1945年8月6日、毛利時代から 350年間継承された 広島城は 原爆と共に消え去った。。。。
  三の丸跡地の地下通路 と 旧大手門エリア(SOGO、広島中郵便局)



広島では、コストパフォーマンスが最高の コートホテル広島 に投宿した。ちょうどホテル前の道路に、旧西国街道を示すマンホールがあった(下写真左)。

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上写真右は、路面電車(広電本線)の銀山町駅あたりにあったマンホール。西国街道はここからさらに JR広島駅前の百貨店 福屋前まで通じていた(下地図)。
下写真はこの百貨店前に設置されていた、西国街道マップ。

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上地図の ④⑤あたりが、夜の歓楽街として有名な中区八丁堀の「流川」あたり。もともと西国街道沿いの繁華街地区だったことが分かる。

下絵図は、1646年当時の広島城と城下町。

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下絵図は、城下町の西国街道沿いを描いた古絵図。

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太田川の低湿なデルタ地帯に形成された城下町には木造家屋が密集したため、度々、水害や火災による被害が発生したという。特に、1758年2月8日の宝暦の大火では城下の約半分を焼失する大ダメージを受け、以後、藁や板葺きの家屋が瓦葺き化されるきっかけとなったという。

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さて、広電本線の線路沿いを西進中、胡町(えびすちょう)にあった松屋でランチを食べた。
そのまま広電本線沿いに メインストリート(国道 183号線)を東進し、地元百貨店の 福屋、三越、パルコ、SOGOを通過し、広島城を目指した。この大通り沿いが、かつての広島城の外堀に相当する(下模型の赤ライン)。

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途中、SOGO 地下にある ロータリー(紙屋町交差点。上模型では、外堀に相当)に、観光案内所があった。ちょうど上の メインストリート(国道 183号線)上で、竹原行の大型バスを目にしたので竹原の現地情報を質問すると、古くから瀬戸内海沿いの港町として栄え、旧市街地がそのまま残る街並みから、『安芸の小 京都』と称される地区ということだった。筆者の変わった質問にも真摯に回答してくれた上に、竹原市に関する案内パンフレットまでわざわざ奥から探し出してきてくれた。丁寧な対応に感動させられた次第である。
そのまま SOGO交差点から地上にあがると、このデパ―ト上にバスターミナルが立地するという。東京 などへ高速バスが発着しているのだろう。

そのまま広島城を目指し国道 54号線を北上すると、巨大な リーガロイヤルホテル広島 が目に飛び込んでくる(上模型)。 その 最上階(33階)にある レストラン・フロアからは南に広がる広島湾を一望できた。
下写真は、南東方向。

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下写真は、南方向。

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下写真は、南西方向。↓ 宮島(厳島)が見える。
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ホテルを出て国道 54号線をさらに進むと、広島城 にぶつかる。その交差点に地下道があり、広島城公園へと続いていた。

この地下道壁に残されていた石組は(下写真左の左面壁下)、かつて内堀と中堀とを結んでいた暗渠の遺構の一部で、堀の水量調整を行った水路という(下写真右)。1982年9月に、この地下道建設工事中に発見されたという。

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さて、正面に見える曲輪が二の丸で、本丸と共に内堀に囲まれていた(下写真左)。ちょうど、この内堀の内部一帯が国に史跡指定された区画となっている(1953年~)。

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表御門を通って二の丸に入ってみる(上写真右)。

この表御門は 1991年に復元されたもので、元々の城門は 1945年8月6日の原爆投下時に焼失されてしまったという。毛利輝元の築城当時から継承された古い建築スタイルの櫓門で、特に階上の櫓部分の柱と 長押(なげし)を白木のまま露出させる「真壁造」は、たいへん古風な外観という。
復元工事の際、焼失後も残存していた表御門の礎石上に、桃山時代当時の工法によって往時の姿に蘇らせたという。

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表御門をくぐると、その脇に立つ多聞櫓の内部が無料公開されていた(上写真)。靴を脱いで中へ入ると、先ほどの表御門二階の櫓スペースや平櫓、東端の太鼓櫓までがひとつなぎとなって、自由に見学できた。
内部は鯱のレプリカや毛利輝元の 祖父・元就までの本拠地だった吉田郡山城の模型などが展示されていた。また、太鼓櫓内では大きな太鼓が設置されており、自由に叩けるようになっていた。

これら平櫓、多聞櫓、太鼓櫓ともに内部は梁をむき出しにし(上写真右の天井)、柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素な構造であった。新しいタイプの城は、柱もすべて白漆喰で塗りこめる「総塗籠」であることが多い中、江戸期を通じて毛利時代の古風な建築スタイルが維持されていたようである。また外壁は、黒い下見板張(壁に横板を少しずつ重なり合うように取り付けたもの)となっていた。

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上写真左は、表御門上の櫓から二の丸を見渡したもの。上写真右は二の丸内に残されていた番所跡の礎石。
それにしても、この広島城 二の丸(約 3,500 m2)は、他の城に比べると異様に小さいのにビックリさせられる。その分、本丸(約 37,700 m2)が 10倍もの面積を確保され、完全に大小が逆転していた。主に本丸からの 馬出(城内からの出撃の拠点)機能を確保するためだけのスペースとして、前述の城門や櫓などが装備されていたという。

明治以降も本丸や天守閣とともに、二の丸内の表御門、平櫓(明治初期に一度破却されるも、大正期に再建)、多聞櫓、太鼓櫓が残存されていた。これらはいずれも毛利輝元が建てた当時の木造建築物で 350年もの間、保持されてきたが(太鼓櫓は 17世紀初期に一度修築されている)、1945年の原爆被害により石垣を残してすべて焼失したわけである。

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1989年の広島築城 400年を記念して表御門が復元されると(1991年完成)、つづいて 1994年8月には 平櫓、多聞櫓、太鼓櫓の三棟も復元される。いずれも 桃山時代(16世紀末頃)の毛利氏による築城スタイルに準じての復元という。

そのまま土橋(中御門)を渡り、本丸の敷地に移動する(下写真左)。
下写真右は、本丸東面から三の丸へ抜ける、裏御門の土橋を遠望したもの。

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石垣はすべて低く、全く見応えはなかったが、堀幅が異様に広く設計されており、ゆうに幅 50mはあると思われる。ちょうど当時の火縄銃の有効射程距離に設定されているようだった。
下絵図は、筆者が立つ本丸南東端の櫓台。

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本丸南面の石垣などを見学後、西端にあった護國神社を参拝する(下写真左)。ちょうど、1月の仕事始めだったのか、本殿にはたくさんの企業関係者と思わしきスーツ姿の男性陣が神主さんと共に祈祷を捧げていた。

そもそもの由来は、1868年12月に戊辰戦争に従軍し戦死した広島藩士を祀る「水草霊社」として建立されたもので、以降、太平洋戦争に至るまで国に殉じた広島市民らを祀った慰霊、供養のための神社となってきた。1875年に官祭招魂社へ、1901年に官祭広島招魂社へ改称される。現在の社殿は 1993年に建設されたもので、毎年正月には多くの人々が初詣し、地元のプロ野球球団、広島東洋カープも必勝祈願のために参拝することから、ファンの間でも聖地となっているという。

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本丸の敷地は、上段と下段の二段式になっていた(下絵図)。
上写真右は、上段の土塁跡。下絵図から、写真中央の白い自動車の場所に、上段への 正門(冠木門)が設けられていたことが分かる。

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下段に立地した護國神社を出ると、茶屋横の石階段を登って上段部分に至る。すると、中央部に巨大な礎石が残っていた。日清戦争時 の広島大本営跡地という。下写真

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李氏朝鮮の内政改革をめぐり対立を深めた日本と清朝は、 1894年2月に朝鮮で 親日政権(閔氏一派)反対を掲げた農民反乱が勃発すると(甲午農民戦争)、朝鮮政府の求めに応じてまず清朝が出兵する。これに対し、居留民保護を理由に日本も出兵して苛烈な鎮圧戦を展開する。そのまま両軍は朝鮮半島内に駐留することとなり、 7月25日、ついに駐留軍どうしの 交戦(豊島沖海戦)に発展し、その戦端が切られることとなった。正式な宣戦布告は 8月1日に通告される。
当初、両軍は朝鮮半島内で衝突を繰り返し、日本軍優勢で戦況が進む。首相・伊藤博文率いる明治政府は 9月13日、戦争へ本腰を入れるべく大本営を 東京 から広島へ移転する。ちょうど同年 6月に 岡山 ー広島間に 山陽鉄道(この時代は私鉄)が新規開通しており、また宇品港を擁するといった諸条件が考慮された結果であった。こうして広島城内にあった第五師団司令部の 建物(下写真)が大本営、および明治天皇の行在所に選定され、9月15日、明治天皇が広島城に入城する。

以後、明治天皇は同年 9月15日~翌年 4月27日までの7ヵ月あまりを広島城内で過ごすこととなった。戦後、天皇滞在の建物は広島大本営跡として保存されていたが、原爆により倒壊し、上写真のように今は礎石のみを残すだけとなっている。
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翌 10月には鴨緑江を渡河し日本軍が清国領内へなだれ込むと、旅順や遼東半島への攻撃が加速される。早期終戦を望んだ清朝廷は翌 1894年2月に広島の大本営へ講和使節団を派遣するも、日本が委任状不備を理由に交渉を拒否すると、3月下旬、講和全権大使となった李鴻章との間で改めて下関交渉が進められることとなり、 3月30日に両国間で休戦条約が、4月下旬に講和条約が締結され、日清戦争は終結する。これにともない、5月30日に明治天皇は東京へ帰京する。この広島城は、明治天皇が 京都東京 以外で居住した唯一の地となった。

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なお当時、この第五師団司令部が設置されていた本丸を中心に、広島城三の丸跡地には東に歩兵第十一連隊、南に西練兵場、西に野砲兵第五連隊と広島衛戌病院、北には 歩兵第七十一連隊(下写真の天守閣左手。 1925年に廃止後、広島陸軍幼年学校となる。戦後は当地の 名門・広島市立基町高校の敷地に転用される)などが配置されていた。下写真。

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この広島城本丸の総面積は約 37,700㎡ あり、そのうちの大部分を上段スペースが占めており、ここには藩の役所である表御殿、藩主の公邸である中奥、一番奥に立地する藩主私邸の奥御殿の三部構成となっていた。特に表御殿と中奥には、多くの藩士が日々、登城し職務にあたっていたという。

本丸北面の石垣は、この本丸内の構造にあわせて上段、下段の二段構えとなっており(下写真左)、最も見応えがある石垣面だった。二の丸に守られた本丸南面と違い、北面は特に馬出しや前衛となる出丸もなかったので、堀幅も一番広く設計されていた。

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天守閣下まで至ると、東小天守の石垣台座が残っていた(上写真右)。

その真下に、広島城大天守の礎石がきれいに配置されていた(下写真)。
1958年の大天守再建に際し、もともと大天守の柱下にあった礎石を掘り起こして原型のまま当地に移したという。玉石排水溝(四角形の枠)の内側が天守台の敷地を示している。一段低くすえてある石は、今もなお天守台の地下に埋もれている礎石を表すという。

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いよいよ天守閣の見学へと進む(入場料 370円)。内部は普通に鉄筋コンクリートのビルみたいな建造物だったが、たくさんの展示が施され大満足だった。途中、平安時代の着物や甲冑の レプリカ(3 kg 程度)もあり、自由に試着して撮影自由だった(無料)。外国人に人気のコーナーという。
天守最上階は特に狭く、ギリギリ横になって二人がすれ違うレベルだった。

ちょうど山側で小雨が降ったらしく、虹がきれいに出ていた(東方向)。天守閣の観覧者たちは一様に写真撮影していた。

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天守閣を出ると本丸上段を東進し、裏御門から本丸を出る。正面には、護國神社 の大鳥居がそびえたっていた(下写真左)。

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ここから東面の内堀を北へ進むと、ちょうど角に旧陸軍幼年学校跡の石碑が立っていた。かつて陸軍が設置した、 13~15歳の中学生を対象としたエリート養成学校があった場所である。入試倍率 20倍という難関で、同世代の羨望の的となった学校という。

現在、その跡地は広島県 No.1の 公立進学校「広島市立基町高校」の敷地となっている(上写真右の右手に広がるガラス張りの建物)。そのまま内堀の北端を歩いていると、同高所属と思わしき女子生徒たちが息を切らしながらランニングしている姿がまぶしかった。

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なお、この本丸北面の内堀は、特に広く設計されていた。ここから、本丸の 上段、下段の二重石垣を見渡すと、たいそう壮観だったことだろう。今は木々に埋もれてはっきりと鑑賞できないのが残念だった(上写真)。

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毛利氏 はもともと相模国毛利荘の土豪であったが、鎌倉時代初期に勃発した承久の乱に際し(1221年)手柄を挙げた功績により、京都祇園社領の 吉田荘(今の 安芸高田市。2004年までは 広島県高田郡吉田町)の地頭として安芸国に下向する。以後、同地の国人として勢力基盤を形成した。

室町時代、安芸守護の武田氏はもともと支配力が弱く、今の広島平野一帯のみを直轄しただけで、山間部や島嶼エリアにまで監督を行き届かせることはできていなかった。そのため、毛利氏や 厳島神主家、沿岸島嶼部の有力在地領主たち はそれぞれの地で独自の支配体制を構築したという。15世紀末から本格的に武田氏の一門や国人衆らの離反が起こり始め、守護本家は没落する。
毛利元就(1497~1571年)が第 12代毛利家当主を継承した時代、北の尼子氏 と西の大内氏との狭間にあって、安芸国の国人衆は両陣営に付きつ離れつを繰り返し、生き残りを模索していた。そんな渦中に毛利家も翻弄されることとなる。
しかし、元就は 吉田郡山城(下写真)を中心に巧みに勢力を伸ばし、1555年の厳島合戦で陶晴賢を破った後、急速に中国地方の領土併合を加速させることとなる。

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なお、この毛利氏が本拠とした吉田郡山城であるが、山の地形を利用した典型的な山城で、戦乱が日常化していた戦国時代には優位な城塞であった(上写真)。しかし、小規模な国人層が大名家の家臣団へとまとめ上げられていき、地域社会が安定してくると、不便な山城は時代にそぐわなくなり、やがて元就の 孫・毛利輝元(1553~1625年)は瀬戸内海に面し交通に便利な太田川河口の低湿な デルタ地帯(広島湾頭)に本拠地を移すことになる。

1589年に築城工事が着手(鍬初め)されると、だいたいの完成目途がついた 2年後の 1591年、毛利輝元が入城する。
なお、この前年の 1588年7~9月、輝元は上京して秀吉、後陽成天皇、そして将軍職を辞していた足利義昭らと面会しており、この時に上方の先進文化や 築城術、都市設計に大いに感化されたという。その実体験が広島城と城下町の普請そのものに活かされており、大坂城京都の聚楽第 に影響を受けた城郭デザインが起草されたのだった。

1599年ごろに完成された広島城は、内堀、中堀、外堀の三重の堀に囲まれた大規模な輪郭式平城となり、東西、南北ともに約 1 km、総面積は約 90万 m2にも及ぶ大規模なものとなった。東の外堀は現在の八丁堀付近、南の外堀は相生通り、北の外堀は城北通り付近にあたり、西は太田川を天然の堀としていた。下絵図。

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また、城内には日本最大数を誇る 88基もの櫓が配置され、防備を固めていた。
下写真は、本丸東面に残る櫓台跡。かつては、このような石垣面が延々と続いていたわけである。

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しかし、1600年9月の関ヶ原合戦 により、毛利輝元が周防、長門の二か国へ大幅減封となると、福島正則が安芸、備後 498,000石の新領主として入封することとなり、翌 1601年3月に着任する。
しかし、1619年に広島城の修築問題で嫌疑がかかった福島正則が改易されると、浅野長晟(1586~1632年。浅野長政の子で 紀伊藩・和歌山城 から転封)が安芸、備後 426,000石に加増され、8月に入城してくる。以後、浅野氏が 12代にわたって幕末まで藩主を継承した。

それから時は下って 1871年、廃藩置県により、安芸広島藩も終了となると、本丸内に広島県役所が開設される。
1894年の日清戦争 時には、本丸内に大本営と天皇御所が設置された。
1945年8月6日の原爆により 天守閣、太鼓櫓、表御門など、毛利時代からの歴史遺産がすべて焼失される(下写真)。

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終戦まで城内の大部分が軍用地として使用されていたが、戦後になってその 敷地跡(特に三の丸部分)には多くの違法住宅が立ち並ぶこととなった。他方、内堀と主郭部は荒れ地のまま放置されていたという。
そんな折、市民らのはたらきかけにより、1953年3月末に国指定の歴史遺産となり、 1958年には現在見る天守閣が再建され、史跡公園として再整備される。

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なお、江戸時代までは北西から流れる太田川より、羽子板堀(現在の 三篠橋附近)を通じて城内の三重の堀全体に水を引き入れていた。しかし、明治時代にそこが埋め立てられると次第に堀の水質が悪化してしまい、特に、戦後以降は水量を保つため、溜池状態となってしまった堀の水質は最悪であったという。

その後、1989~93年、当時の建設省と広島市とで「堀川浄化事業」が実施され、江戸時代のように太田川の水を堀に引き入れて、三日半かけて循環させることにより、堀の水質をきれいに保つことができるようになった。



そのまま西面まで歩き、国道 54号線沿いを南下する(下写真の堀の外側)。

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すると、一つ目の 交差点(県立総合体育館グリーンアリーナ。上写真のドーム)から地下道に入る入口があり、そのまま直進してみると、なんと紙屋町交差点の SOGOまで地下道がつながっている(下地図)、ではないか!

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その機能的な都市設計に驚嘆しながら歩ていると、急に強い塩素のにおいが立ち込めてくる。スイミングプール(小アリーナ)がすぐ脇にあり、通行人らが小窓から泳いでいる姿を気軽に見学できる設計だった。女性の水泳者にはちょっと恥ずかしいような気がした。

下模型は江戸時代の、総合体育館グリーンアリーナから SOGO一帯。

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そのまま SOGO地下に戻り、メインストリート(国道 183号線)に出てホテルへの帰路についた。すると、ちょうど百貨店 福屋脇に「チケットセブン」というチケット・ショップを発見する。
有効期限間近だったこともあり、ここで 18切符 4回分を 3,000円で購入できた。

なお、この広島中心部の街歩きの中で、マクドナルドやケンタッキーを全く目にしていないことに違和感を覚えた。スタバはパルコ脇にかろうじて入居されていたが、日本中でよく目にするマクドナルドが全く見当たらなかった!
これは広島市民たちの反米精神の現れかも!? と強く感銘を受けた瞬間だった。


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翌日、コートホテル広島をチェックアウト後、福山駅 へと移動した。事前検索では、三原駅で乗り換えだったが、どうせ次の 駅「糸崎駅」で乗り換えればいいだろうと、そのまま乗車していると、糸崎駅で 20分も待たされることとなる。
親切な人が教えてくれるには、三原駅が広島管区と 岡山管区との狭間で、「岡山 行の場合は、糸崎で乗り換えればいいけど、広島管区内の福山行なら三原駅で乗り換えるべきだった」と指摘された。なんか、部外者には意味不明な電車の乗り継ぎだった。。。1時間50分の 乗車予定より 30分遅れで福山駅に到着できた。



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