BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~


広島県 廿日市市 宮島町 ~ 町内人口 1,700人、一人当たり GDP 315万円(広島県 全体)


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  JRフェリー宮島連絡船で 宮島(厳島)へ。瀬戸内海の カキ養殖場
  厳島合戦時の 毛利方拠点「宮ノ尾城」~ 三方を海に囲まれた 岬の堅城
  厳島合戦(1555年9月21日~10月1日)マップ
  宮ノ尾城の 一の曲輪、二の曲輪、堀切、仁王門跡、水軍基地の入り江跡
  町家通りを歩く ~ 本来は、厳島神社を管理した 大願寺の門前町だったエリア
  塔の岡 ~ 陶晴賢が本陣を置いた 亀居山
  秀吉ゆかりの 千畳閣と 五重塔~ 大願寺の本殿となるはずだった 巨大木造建築物
  厳島神社 入り江の 今昔
  厳島神社の 唐破風造りの出口 = かつての 参拝入口
  鎌倉幕府~ 武家政権の象徴 = 大願寺 vs 朝廷権力(含:平家政権)の象徴 = 厳島神社
  大内氏の 厳島(宮島)支配拠点だった 勝山城
  豪商邸宅(旧・江上家)が一般公開された 宮島歴史民俗資料館
  経ノ尾に登る ~ 平清盛の見た 厳島神社の絶景と 経塚(清盛塚)
  1555年9月21日、陶晴賢が 2万の大軍を率いて上陸した 大元浦の浜
  清盛神社前の浜辺は 穴場スポット!



広島駅 から 18切符で JR線に乗車する(30分強、420円)。
本当は先に 山口県・岩国 を訪問する予定だったが、電車が大野浦行だったので、先に宮島口で下車することにした。結果的に良かったと思う。岩国観光はまた路線バスに乗り換えての移動で、いろいろ時間がかかることになったから。

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さて、多くの外国人たちと共に宮島口駅の改札を出ると、皆が一様に沿岸部のフェリー乗り場へ向かっていくので、その流れに乗るだけだった。 JR側の宮島連絡船の列に並ぶ。18切符で JR運行のフェリー運賃が無料になるのは、昔から変わってなかった。
なお、2020年1月現在、JR側の船着き場が大工事中で、ガラス張りのきれいな建物が出現しつつあった。展望スペース、土産物ショップや飲食店などを誘致して、世界遺産・宮島を訪れる観光客を取り込もうとしているようだった。

乗船したフェリー上ではずっと 3Fデッキで瀬戸内海の景色を堪能していた(約 10分)。

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写真に見える、海に浮かぶ竹製の筏群は、牡蠣の養殖設備である。

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宮島側 に到着すると、厳島神社へ直行する観光客らを横目に、筆者だけは道路脇の要害山へと続く石段を登る(下写真左)。
ゴツゴツした海辺の岩山、といった小山だった(下写真右)。

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戦国時代、この岩山のすぐ下まで海が迫っており、まさに三方を断崖絶壁に囲まれた堅城で(下写真)、西側が入り江となって水軍基地が設けられていたと考えられる。

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戦国時代、厳島(宮島)は対岸の 桜尾城主・友田氏(下写真左端の 厳島神主家)の支配下にあったが、1524年に周防の 大大名・大内義興(1477~1529年)が友田氏を下すと、厳島神社の南隣に勝山城を築城し支配拠点としていた。

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その大内氏の勢力圏に組み込まれていた 厳島(宮島)に、1554年5月、安芸国内で台頭しつつあった 毛利元就(1497~1571年)が上陸し、厳島神社の北側にあった山脈の末端部分の岬に 城塞拠点「宮ノ尾城」を構築したことから、双方の厳島を巡る抗争がスタートするわけである。翌 6月に一度、陶晴賢(1551年に主君の大内義隆を討ち、大内家の実権を掌握していた)の派遣した軍が海路より攻め寄せたが、毛利軍は上陸阻止に成功する。以後も、毛利元就は城塞の強化工事を続行させていくこととなる。この城塞化にちなみ、後世、宮ノ尾は「要害山」とも別称されるようになるわけである。

翌 1555年9月21日、陶晴賢自らが 2万もの大軍を率いて勝山城下の大元浦に上陸し、勝山城と厳島神社、塔の岡の入り江 一帯(後述する、大願寺の境内全域)に陣を構え、東隣の 毛利方拠点「宮ノ尾城」の攻略に取り掛かるのだった。

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下写真は、厳島合戦(1555年9月30~10月1日)時の毛利方陣営から戦場一帯を遠望したもの。

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下写真は、要害山の山頂部分(標高 30 m)。「宮ノ尾城」一の曲輪に相当する。その下に見える伊勢神社の神殿あたりは、二の曲輪に相当する。

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下写真左は、神社境内となっている二の曲輪跡地。下写真右は、ここから市街地を眺めたもの。

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二の曲輪を北へ進むと、堀切跡が見えてくる(下写真)。北側から延びる山の尾根をここで人為的に断ち切っていたことがうかがえる。

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堀切を挟んで、山側にも平坦な土地が続いており(下写真)、同規模の城塞陣地が構築されていたと思われる。

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下写真左の後方には、さらに山頂へ登る斜面があったが、土面で登りづらかった。
下写真右は、斜面途中まで登ったところから撮影したもの。

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この尾根部分から、北側のフェリ-乗り場を臨む(下写真)。左端の緑地は、ちょうど先ほどの宮ノ尾城の先端部分である。この湾曲した区画に、かつて水軍基地が建設されていたと推察される。当時は、崖下のギリギリまで海岸線が迫っていた。

1555年9月末の厳島合戦の直前、陶晴賢軍に包囲され落城寸前だった 宮ノ尾城(城主・己斐直之)へ、毛利方から援軍として送り込まれた 熊谷信直(1507~1593年)も、この水軍基地を経由して入城したと考えられる。

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先ほどの堀切部分に登山口が設けられており、ここから下ってみる(下写真左)。
その堀切の真下に、トンネルが掘削されていた(下写真右)。

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階段下すぐに 伊勢町 の存光寺があった(下写真左)。広島新四国八十八ヶ所霊場の一つという。
そのまま北之町から順に、古民家が並ぶ町家通りを南へ進んでいく(下写真右)。

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附近にあった解説板によると、この町家通りが貫く幸町一帯は、かつて 金鳥居(かねとりい)の辻、もしくは、塔の岡の下、と通称されていたという。
平安時代後期の 1160年代前半(安芸の国司であった平清盛 が厳島神社造営に着手する直前)に建立されたと伝わる鐵鳥居が一基あり、その高さは約 15 m、柱の周囲約 2.4 mが鉄でカバーされていたと言われる(大願寺の境内南端を示すものだった)。大願寺の仏殿であった「塔の岡」より約 327 m余りの地点に設置されていたもので、御王前とも通称されたという。明治初年までは柱のみが一部残存していたが、今は全く遺構が喪失されてしまったらしい。

急な坂道を五重塔の方向へ上がっていくと、塔の岡が目前に現れた(下写真)。

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その境内入口には、龍髯(りゅうぜん)の松があった(下写真)。龍のヒゲのような形に剪定されていた。
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ここは、「塔の岡」という海に飛び出た崖山で、かつて厳島合戦の折、陶晴賢が本陣を置いた場所である。

1555年旧暦 9月21日、陶晴賢は 2万の大軍勢を率いて大元浦から厳島に上陸し、まず勝山城に入城する。ここから毛利方が建造した宮ノ尾城の攻撃を指揮するも、なかなか落城しなかったので、厳島神社の東隣にある最前線の「塔の岡」まで本陣を移していたのだった(下絵図)。
毛利元就は主力部隊 2,000を伴い、同 9月30日夜、暴風雨の中を強行渡海して厳島北端の包ヶ浦に上陸し、翌 10月1日未明に博奕尾を越えて陶軍を急襲すると、不意をつかれた陶軍は大混乱に陥り、総大将・陶晴賢も自刃に追い込れるのだった。

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なお、「塔の岡」とは、 ここに立地する 五重塔(下写真左)の丘を意味している。正式名称は「亀居山」と呼ばれ、空から俯瞰した形状が亀の姿に似ているところから命名されたという。
この高さ 29.3 mの五重塔は室町時代中期 1407年に建立されたもので、厳島合戦時にも存在していた(上絵図)。屋根軒先の反りの 大きさ(禅宗様)と、入口の 板扉(和様)が特徴とされ、現在、重要文化財に指定されている。

また、その脇には壮麗な木造の大経堂「千畳閣」があった(下写真右)。

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1587年、豊臣秀吉が九州平定を成功させた帰路、当地に立ち寄った際、随行していた毛利方の 外交僧・安国寺恵瓊に命じて仏像を安置するための 大経堂(講経所)を建立させる。それが現存する千畳閣の建物で、桃山時代の豪放な気風を現す建造物として重要文化財に指定されている。
しかし、建設途中で秀吉自身が死去したため(1598年旧暦 8月18日)、未完のまま工事が中止されたという。その後、大願寺(厳島神社の南隣)の境内の一部として千畳閣の建物が管理されることとなるも、明治初年に神仏分離令が発布されると仏像はもともとの管理者の大願寺に移され、当地は新たに豊臣秀吉を祀って豊国神社と称し、毎年その命日である 9月18日に例祭が行われているという。

下写真は、丘下から五重塔と千畳閣を見上げたもの。

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すぐ南横には、厳島神社が立地していた(下写真)。

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なお、江戸時代に描かれた絵巻によると(下絵図)、元来、厳島神社の入り江はもっと大きく、海水がかなり陸地まで入りこんでいたことが分かる。

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今回は厳島神社内には入らず、裏手から回って神社南面へ移動してみた(下写真左)。

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南側の柳大路は厳島神社の参拝客用の出口となっており(下写真)、周辺には土産物や飲食店などがあったが、先ほどの北側とは違い、明らかに人通りは少なかった。
なお、このエリアでは地元住民向けの商店もちらほら見かけた。

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上写真 に見られるように、厳島神社の出口は唐破風造りの構造となっているわけだが、なぜ、出口がこれほど壮麗な建築物となっているのだろうか??
その理由を探ると、非常に興味深い「武家政権 vs 朝廷権力 相克の歴史」が見えてくる。

古代、かつての 厳島(宮島)の集落地は、この神社周辺の入り江、特に 南側(現在、筆者がいる出口あたり)から発展しており、古くからの港や寺院が点在していたようである。現在の厳島神社がある入り江自体が巨大な干潟で、貝拾いや漁業の生活の場となっていた。
巨大石が点在する 弥山(標高 535 m。厳島の最高峰)は古来より神聖な地として崇拝されており、その 登山口、門前町としても発展し、山麓の入り江部分にも小さな祠が建立されていたと推察される。これが厳島神社の発端である。

当地で権力をふるった神主一族の佐伯氏が長らく支配した地であったが、平安時代を通じて貴族層の力が衰え武士が台頭してくると、平安末期に安芸国の国司となっていた 平清盛(1118~1181年)と結びつき、多大な帰依を受ける。その後、朝廷権力に食い込んだ平家により、壮麗な社殿を有する厳島神社が造営されることとなった(1168年)。完成後、後白河法皇などの貴人を招いて(1174年)、厳島神社も一躍有名となる。

しかし、源平合戦により平家が滅亡し(1185年)、源頼朝が全国統一して鎌倉幕府を開くと(1192年7月)、頼朝は各地の神社仏閣を 保護、再建、新設していく。その一環で、平家、朝廷権力の遺産となっていた厳島神社をしのぐ寺院を当地に造営することとなる。それが、大願寺であった。
1201~3年ごろ、源頼朝は 僧・了海(りょうかい)を招聘し、もともとあった 寺院(開基年代は不明)を再興させる形で真言宗の大願寺を建立する。そして大願寺は以後、鎌倉幕府(武家政権)のバックアップを受けながら厳島神社の修理造営権を公認され、 実質的に 厳島(宮島)を支配したのだった。以後、道本、尊海、円海など傑出した住職を相次いで輩出しながら、厳島神社の建物補修や復旧を担当することとなる。1207年と 1223年の 2度の火災で清盛時代の厳島神社伽藍が全て焼失された際も、この大願寺が再建工事を主導した。

鎌倉幕府に続き、室町幕府からもお墨付きを得た大願寺は、その後、境内をさらに拡大させ、東側の 塔の岡(亀居山)から西側の 多宝塔(勝山城跡)・経の尾付近までを敷地とするようになる。その内部には多くの堂塔が配されていた(厳島伽藍と通称された)。前述の町屋通りの鐵鳥居も、この伽藍配置に関わるものだったわけである。

武家政権が頂点を極めた桃山時代に至り、豊臣秀吉からも公認を得た大願寺は、亀居山上に巨大な千畳閣が完成され次第、本堂が移転される予定となっていたが、秀吉の死により建設工事自体が中止されてしまうのだった。この由来から大願寺の正式名称は、今でも亀居山放光院大願寺となっている。
現在の本堂は昔の僧坊が転用されており、厳島神社の南側にこじんまりと存続されるだけとなっている。

このように大願寺の大伽藍の一部に組み込まれていた厳島神社への訪問者たちは、まず船で厳島神社の大鳥居をくぐり、南側の大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺に参拝し、その裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして厳島神社へ参拝したという。このため、南側に唐破風造りの入口が設けられていた、というわけであった。つまり、現在の出口はかつての参拝入り口だったわけである。

しかし、明治維新を経て天皇中心の政権が再樹立されると、強大となり過ぎた武士層や寺社勢力の解体政策が着手される。その最初の一手となったのが 1868年(明治元年)に発布された神仏分離令で、力を持ち過ぎた大願寺は解体の対象となり、監督下にあった 厳島神社、塔の岡、その他大小のお堂などが分離されてしまうのだった。
江戸幕府の終焉により武家政権下で保護されてきた大願寺の解体は、まさに 京都 の朝廷権力の復活を象徴する政策であったと言える。その後、廃仏毀釈の気運の下、破壊の危機に瀕した厳島神社であったが、1899年に明治政府により国宝指定され、1996年12月には世界文化遺産に選定され今日に至る。


なお、かつて大願寺の大伽藍の一角を構成していた多宝塔のある高台には、現在、塔へと続く長い石段が整備されている。
ここが前述の、大内義興が厳島を占領したときに築城した勝山城があった場所で(1524年)、1555年の厳島合戦では陶晴賢が大元浦から厳島に上陸し、最初に本陣を構えた地点だった。かつての大願寺の境内の一部を占有する形で、派遣された城番が常駐する城館程度のものが築造されていたと推察される。基本的には、厳島の直接支配はそのまま大願寺が担ったのであろう。

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なお、この厳島神社出口の正面に、後白河法皇(1127~1192年)が植えたという松の残骸が保存されていた。清盛が 1168年に建立した厳島神社に後白河法皇も招待された 際(1174年)、自ら植えたものだったが、明治初期に伐採されてしまったという。

そのまま土産物屋などが軒を連ねる柳小路を直進すると、 宮島歴史民俗資料館 の曲がり角に到着した(下写真)。古民家の見学といった感じで、見学料を支払ってまでの入館は不要かと思い、断念する。
ここの建物は、江戸末期~明治にかけての 豪商邸宅(旧・江上家)の住宅のうち、母屋と土蔵の一部が 保存・一般公開されたものという(1974年4月~)。現在は宮島の郷土博物館を兼ねる。

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その路地の先に、清盛神社や宮島水族館があると標示が出ていたので、奥にあった小山の峠道を登ってみた。下写真。

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この峠上の岩山も気になったので、少し登ってみる。細く急な石階段だった。下写真。

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下写真は、この石階段上から先程の郷土博物館や土産物屋が並ぶ集落地を眺めたもの。

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この岩山上には想像通り、大小の岩がゴロゴロしていたが、頂上 は歩きやすい平坦な地形だった。

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ここは経ノ尾と呼ばれる丘で、厳島神社を造営した平清盛が平家一門の繁栄を祈願して一字一石経を埋めたと伝えられる場所という。この埋めた場所に設置された塚が経塚、もしくは清盛塚と通称されている。
1944年の開墾の際、塚下の一部が発掘され、銅製の経筒、陶製の甕と中国宋代の白磁の 盒子、梅花双雀鏡、刀片などが出土したという。それらすべてが平安後期のもので清盛当時の遺物らしいが、現在、経塚の周りを覆う石材や宝篋印塔、石燈篭など(上写真左の石積み塚や、下写真の石燈篭)は後世のものという。

この 崖山(経ノ尾)から見る厳島神社の景色は見事だった(下写真)。往時は、この崖下ギリギリまでが海であった。清盛がここから壮麗な厳島神社を愛でて、一族安泰祈願のための石経を奉納したのも分かる気がする。

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下写真の浜が 1555年9月21日、陶晴賢が大軍を率いて厳島に上陸した大元浦である。陶晴賢はここからまず勝山城に入城した。配下の 2万の大軍は、厳島神社周辺の入り江や「塔の岡」一帯に布陣する。つまり、当時から広大な境内を誇っていた、大願寺内のお堂などの建物や敷地一帯に入居したわけである。

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眼下には、清盛神社が見えた(下写真左端の朱色の社)。

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さて 崖山(経ノ尾)から下山し、上写真の清盛神社を参拝してみる。清盛を祀った神社の割に、こじんまりした設計にビックリさせられた。清盛の没後 770年を記念し、彼を顕彰すべく小さな社が建立された神社という(1954年)。

しかし、この浜辺エリアは静寂そのもので、観光客も足を踏み入れることは少ない穴場だった!所々、一人で座る老若男女の姿が目に付いた。たくさんの人生を見て来た浜なのだろう。

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そのまま砂浜沿いに工事中の大鳥居を愛でながら散策し(下写真)、先ほどの厳島神社出口がある柳小路に戻った。

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下写真は対岸に至った際、大鳥居(工事中。。。)と 崖山(経ノ尾)を遠望したもの。

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そのまま同じ道を戻る形でフェリー乗り場まで歩き、JRフェリーで本州側へ帰還する(15分一便)。船着き場から県道 43号線沿いに駅へ戻る。この途中に地下道をくぐる交差点が、国道 2号線だった。
そのまま JR宮島口駅から岩国行の列車に乗る。山口県との県境は、岩国駅 の一つ手前の和木駅を過ぎてからだった。つまり、和木駅舎までは広島県域という。


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