BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


京都府 京都市(中心部) ~ 市内人口 145万人、一人当たり GDP 330万円(京都府 全体)


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  東寺(教王護国寺)、五重塔
  羅城門遺址(花園児童公園)、旧・朱雀大路(今の千本通)、羅城門 1/10模型(京都駅前)
  西寺跡(西寺町公園)
  梅小路城跡
  平安京 朱雀大路跡
  幕府公認の 遊女街「島原」、島原大門
  二条城跡、櫓門、二の丸御殿、正門「唐門」、東大手門、北大手門
  平安宮 内裏(平安京の 皇居・政庁エリア)跡、朝堂院跡、大極殿跡、小安殿跡、建礼門跡
  京都市考古資料館(平安京跡の発掘調査で出土した遺品を展示)
  聚楽第跡、城壁跡、本丸西濠跡、北之丸北堀跡、上杉景勝邸跡、加藤清正邸跡、千利休邸跡
  京都御所(1855年完成の安政度 内裏)
  冷泉家住宅跡、二条家邸跡、近衛邸跡、同志社大学
  室町幕府 将軍邸「花の御所」跡、大聖寺
  相国寺(室町幕府 3代目将軍・足利義満が建立)
  鴨川、京都大学
  一乗寺山城跡、中尾城跡、大山出城跡、北白川城、雲母坂城跡、御蔭山城跡、雲母坂城跡
  「御土居」跡 ~ 豊臣秀吉築造の 京の都市城壁
  平安神宮
  本能寺 跡地(1582年6月2日早朝、織田信長 最期の地)
  京都文化博物館、京都市歴史資料館、考古資料館、幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」



関西周遊では、この 大阪 中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

この日、新大阪駅前から JR線で京都駅まで移動し(新幹線 14分 ー 1,440円。新快速 24分 ー 570円)、京都観光に臨むことした。

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早速、JR京都駅 南側(八条口)から出発し、徒歩 15分の場所にある 東寺(教王護国寺)と五重塔を訪問する。下地図。

この東寺は西寺と共に、桓武天皇(737~806年)が平安京を造営した際(794年)、同時に王都鎮護の官寺として創建されたもので、後に 弘法大師(空海。774~835年)に下賜され、日本初の密教寺院となる。すぐに空海は境内の大造営に着手し、金堂を完成させると、五重塔の建設も進めるも(826年)、存命中には完成できず、死後約 50年後に施工完了したという(建設に要した膨大な木材調達費と人夫不足が深刻だったという)。1055年に落雷で初めて焼失するもすぐに再建され、その後も 3度の火災被害を被ったが、都度、再建されて今日に至るという。

現存する五重塔は、1635年に焼失後、1641年に明正天皇の命により江戸幕府 将軍・徳川家光が復興させたものという(1644年に完成)。現在、高さ 54.8 mを誇り、日本最高の木造塔として国宝指定を受けている(ちなみに、2位は 興福寺 五重塔、。3位は法観寺 五重塔 ー 京都市東山区八坂上町)。

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さらに西進し、羅城門遺址の石碑が建つ、南区唐橋羅城門町(花園児童公園内)を訪問してみる(上地図)。
かつての平安京正門に相当し、朱雀大路(今の千本通)南端に設置されていた(下模型)。横約 35 m、縦約 9 m、高さ約 21 mの、巨大な二階建て楼閣門だったわけだが、816年の台風で倒壊し、一度は再建されるも、 980年の台風で再び倒壊すると、以降、再建されることはなかったという。現在、公園内に設置されている石柱は、 1895年に平安遷都 1000年紀念祭の一環で建立されたもの。

なお、JR京都駅北口前に、羅城門 1/10模型が展示されているので、帰りに見学していきたい。

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ここから北へ進む途中に「西寺町公園」があったので、ついでに立ち寄ってみた(上段地図)。唐橋小学校の北隣。
かつての西寺跡地で、794年に平安京が造営された際、東寺とともに羅城門の東西に創建された二大官寺の一つであった。境内は 200 m四方の規模で、東寺と全く同じ設計となっていた(上模型)。

さらに北上し、唐橋門脇町を通過して JR線高架下トンネルを通り抜ける。このトンネルの先すぐにある下京区梅小路西中町に「梅小路城跡」があった(上段地図)。円光寺の北側、御前通の西側辺りに立地したというが、周囲には案内板などは全く設置されていなかった。


三好長慶が、将軍・足利義輝やかつての 主君・細川晴元らを京から追放し(1553年。南近江の六角義賢 のもとへ亡命)、京や畿内の支配権を掌握しつつあった時代、その後も 足利・細川氏は京都奪還を目論んでは軍を派遣し、都度、京都郊外で局地戦を頻発させていた。

そんな渦中にあった 1558年5月、近江から再び進軍してきた 足利・細川・六角連合軍を迎え撃つべく、三好長慶も 摂津の芥川山城 から出陣し東寺に本陣を構えると、松永久秀は 吉祥院(京都西端の桂川沿い)に着陣し、その 弟・長頼、三好一門衆の 筆頭・三好長逸、伊勢貞孝、公家の高倉永相ら、配下の将を近郊に配置させていく。この一部の部隊が、梅小路城にも布陣した記録が残されている。初戦こそ小競り合いが繰り広げられるも(北白川の戦い)、ほとんどはにらみ合いとなり、冬季が迫った 11月に和睦が成立し、両軍撤退となっている。

その後もこの陣城跡は残され、有力者の居館として使用されたようだが、 1568年9月26日に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、この義昭政権に臣従したとされる。しかし、間もなく信長と義昭が対立するようになると、信長は、義昭方に与した京の町衆に帰順を迫り、焼き討ちをほのめかす。そのまま上京区側の環濠都市を焼き討ちにすると、最後にこの(下京区側にあった)梅小路城に籠った義昭派の勢力も焼き討ちし、そのまま廃城にしてしまったという。
なお、下京区側の環濠集落は焼き討ちを免れている。



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そのまま北へ 5分ほど移動すると、JR嵯峨野線「丹波口駅」にたどり着く(上地図)。この駅東側に「平安京朱雀大路跡銘板」があったので、写真撮影しておいた。かつての平安京の メインストリート「朱雀大路」が通っていた場所である。

ここから、やや南側に「島原大門」という江戸時代の遺跡がある(京都市の登録有形文化財)。 高麗門様式の大門で、京都にあった幕府公認の 遊女街「島原」の東入口として設置されていたという(1640~41年建設)。下絵図。

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元々の遊女街は六条三筋町にあったが(1602年に開設。今の 下京中学校一帯)、当地に陸の孤島として、四方を堀と土塀で取り囲んだ敷地が造営されると(東西 200 m × 南北 240 m)、すぐに全面移転されてきたという。下地図の下半分。

当初は、この東側の大門のみが外界との接点であったが、1732年に西門も新設されている(上絵図)。その後、大門は何度か建て替えられており、現存する門は幕末の 1867年に再建されたものという。
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再び JR嵯峨野線「丹波口駅」に向かい、電車に乗って次の「二条駅」で下車することにした。少し休憩を挟みつつ、「二条駅」東側にある二条城跡を訪問してみる。下地図。
ユネスコ世界文化遺産に登録されていることから(1994年)、訪問客が常に多いスポットであるため、朝早めか、平日昼間に訪れたい。営業時間 8:45~16:00(閉門 17:00)、入城料 800円 + 二の丸御殿観覧料 500円。

絢爛豪華な二の丸御殿や その庭園、二の丸御殿の正門「唐門」、東大手門、展示収蔵館など、見所満載の史跡観光地だった。特に、二の丸御殿は歴史の名場面に登場してきた一大名所で、 1603年3月に徳川家康が後陽成天皇の勅使を迎えて将軍宣下に伴う賀儀が行われており、また 1611年には徳川家康と豊臣秀頼の会見が開催された 場所(二条城会見)という。 1614年の 大坂冬の陣 では家康が二条城に、将軍・秀忠が 伏見城 に着陣し、ここから大坂へ南進している。また 1867年10月には、 15代目将軍・徳川慶喜により大政奉還が発表された現場ともなっている。

さらに、本丸に残る櫓門は、1624~26年に徳川家光が二条城を大改修した当時のものといい、非常に貴重な歴史遺産となっている。本丸内の建物は 1788年の天明の大火で焼失してしまっており、この櫓門だけが唯一焼け残ったという。

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関ケ原の戦い に勝利した徳川家康は、直後より、東日本側に自身の譜代家臣らを配置し直すとともに、東海道の整備に着手する。これにあわせて、翌 1601年に畿内の拠点として、西軍の攻撃で落城していた 伏見城 の復興と、二条城の築城工事を進めることとなった。
両城の工事ともに、西国大名らに費用負担と人夫割り当てが課され(天下普請)、大人数を動員して 2年たらずで完成にこじつけるのだった(天守閣以外は 1603年3月に完成。京都所司代・板倉勝重が工事責任者を担当)。

この二条城天守台は 21 mもの高さに石垣が組み上げられ、その上に、廃城となった 大和郡山城 の複合式望楼型 5重 5階の 天守閣(高さ 28 m)が移築されることとなる。実に合計 50 mもの巨大建造物が、京都のど真ん中に出現したわけである(1606年完成)。
なお、京都にはそれまでにも秀吉の 二条第(妙顕寺城)、聚楽第の 2城にも天守が組み上げられていたが、この二条城の天守は江戸幕府の威信を見せつける意味で、豪壮華麗なものが設置されたのだった。

1619年、秀忠は 五女・和子の 後水尾天皇(1596~1680年)との婚姻に備え、二条城の改修を行った後、翌 1620年6月18日、徳川和子(1607~1678年)はこの二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ輿入れしたのだった(下絵図)。
この婚姻は徳川家康の存命中から計画されており、徳川家を天皇の外戚とするべく、和子に皇子出産の使命を負わせて宮中へ送り込んだ政略結婚であった(これより前に、後水尾天皇【108代目天皇。在位: 1611~1629年】は女官との間に一子を設けていたが、徳川秀忠により強制離縁させられる)。その後、2男5女を生むも、 2皇子はすべて早世してしまったため、娘を 明正天皇(109代目天皇。在位:1629~1643年)として即位させることとなる。
しかし、この女帝即位に大激怒した後水尾天皇との関係もあり、別の妃との間に生まれた男子を明正天皇の後継者として立て、後に 後光明天皇(110代目天皇。在位: 1643~1654年)へと即位させることで、和子は何とか夫と徳川家双方の面目を立てることに成功するのだった。

結婚後、第一皇子となる高仁親王が誕生すると(1625年11月)、これを喜んだ 大御所・徳川秀忠と 三代目将軍・家光は祝賀のため上京を計画し、翌 1626年10月末に後水尾天皇の二条城行幸が開催されることとなる。秀忠と家光は当城での天皇拝謁の準備のため、二条城の大改修工事に着手する。
こうして城域は西へ拡張され、この時に内堀が掘削され本丸が造営されて、改めて天守閣も建設されることとなる。これまでの天守が 淀城 へ移転されると、廃城となった 伏見城の 天守(同形型の 5重5階様式)が移築されてくる。この時の縄張りが、現在、二条城跡として残っているわけである。

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その後、城の管理は、二条城代(1625~1699年)と 二条在番(二条定番)が担っていくも、二代目天守も 1750年に落雷により焼失してしまい(以降、天守台のみ残し、天守が再建されることはなかった)、また暴風雨や 地震、落雷で城内の建物も破損する一方で、老朽化も進み、ついに 1788年の大火の延焼を受け本丸御殿や隅櫓なども焼失し、以降、幕末まで城内の建物はほとんど喪失したまま、草木が生えるだけの空き地となっていたという。

幕末期の 1862年、14代目将軍・徳川家茂(1846~1866年。13歳で将軍就任)が、幕府の公武合体構想を背景とする仁孝天皇の 娘・和宮(1846~1877年)との婚礼のため、上洛することとなる。家光以来、実に 229年ぶりの将軍上洛ということで、将軍家の京都滞在用の邸宅であった「二条城」が大規模に改修される。荒廃していた城内の建物は軒並み再建され、二の丸御殿や本丸御殿などが造営されたのだった。
翌 1863年にも、家茂は朝廷の要請により再上洛すると、再び二条城に投宿する。そして 1865年には第二次長州征伐の陣頭指揮のため、再び京都に寄り二条城に数泊後、そのまま 大坂城 へ入るも、ここで病没するわけである。

そして翌 1866年末にこの二条城で、徳川慶喜が 15代目将軍拝命の宣旨を受けて、続く 1867年に同じ場所で大政奉還を決行するわけである。明治維新直後は天皇家の別宅として接収されるも、最終的に 1871年に廃城が決定される。
なお、幕府は本城を「二条城」と称したが、朝廷側は一貫して「二条亭」と呼称したという。これは徳川将軍の京都滞在のための別宅、という認識に基づくものであった。



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二条城を見学後、北大手門から出る。江戸時代には、この正面に京都所司代が立地しており、当時も、二条城との往来にはこの北大手門が利用されていたという。
そのまま堀沿いを西へ進み(竹屋町通)、二条公園前を折れて、さらに西進する(主税町)。そして、南北の大通り「府道 111号線」に合流する。

この交差点一帯が、平安京時代の 平安宮「朝堂院跡」のど真ん中にあたる(上地図)。やや北側には、かつて「大極殿跡」が鎮座していたわけである。このエリアが、平安時代の国政の中枢であり、皇居を兼ねるスペースであったことから、あちこちに跡地に関する解説板が設置されていた。「平安宮朝堂院昌福堂跡」「小安殿跡」「建礼門跡」「平安宮 内裏東限と建春門跡」「平安宮 内裏 清涼殿跡」「平安宮内裏温明殿」「内侍所跡」など。上地図。

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この「平安宮」は「大内裏(だいだいり)」とも呼ばれ、平安時代の皇居であり、中央政庁があった敷地で、その四方は 大垣(築地塀)で取り囲まれ、 14の門が設置されていた。当時、東西 1.2 km × 南北 1.4 kmの長方形型で設計され、現在の京都御苑の約 2倍の面積を有したという。

内部には、さらに「内裏(禁中、禁裏、御所)」と呼ばれる区画があり(平安時代前期までは「大内」と称されていた)、そこで天皇が居住し、儀式や執務などを行う屋敷が建てられていた(天皇の御所は、特に清涼殿と呼ばれていた)。最初の屋敷は、平安京造営当初の 延暦年間(782~806年)に建設されており、その周囲には 朝堂院、豊楽院、二官八省の官庁舎が配置されていた。また、中央部には「宴の松原」と称される空閑地が設けられていたという。上模型。

そして、この大内裏の中心に位置した「朝堂院」の南隣に、中央正門「朱雀門」があり、これらが一体となって、天皇の即位式や外国使節の謁見など国家的行事が催行されていたという。その儀式の中心部となったのが「大極殿(796年完成)」であった。また朝堂院の西隣にある「豊楽院(800年完成)」では、これらの国家的行事に伴う宴会が催されていたという。上模型。

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その後、大内裏の建物群は、火災や暴風雨などの被害を受け、都度、復興されていたが(史書の記録だけでも 14回)、11世紀以降、天皇が大内裏外に住む皇族や藤原摂関家などの上級貴族らの邸宅に仮住まいするようになると(天皇が一時居住した敷地は「里内裏」と称されるようになる)、ますます大内裏の建物メンテナンスが疎かとなり、1063年に豊楽院が、1177年に朝堂院が焼失後は、ともに再建されることもなく、空き地として放置されるようになる。
その他、平安朝を支えた諸官庁も、焼失した庁舎が復興されることなく、そのまま廃止されてしまうケースも増え、平安時代後期ごろには、大内裏にあったほとんど庁舎は喪失され、大内裏の跡地は「内野(うちの)」と呼ばれるだけの荒野が残るだけとなっていくのだった。最終的に鎌倉時代前期の 1227年4月、再建途中に焼けた庁舎が放棄されると、そのまま宮城としての内裏は完全廃絶することとなる。

11世紀中期以降、天皇は 堀河院、一条院、枇杷殿、京極殿、東三条殿など、内裏を離れて貴族邸宅に間借りして居住することが常態化し、その「里内裏(さとだいり)」の一つとなっていた 土御門東洞院殿(当時、天皇を引退した上皇の邸宅として使用されていた)に、鎌倉時代末期の 1331年、後醍醐天皇を廃位し隠岐島配流に処した鎌倉幕府により、光厳天皇(1313~1364年)が擁立され即位すると、以降、歴代の天皇の 御所(皇居)として定着し、現在の「京都御所」へとつながっていくわけである。



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そして、その平安宮の北東端に、豊臣秀吉が築いた聚楽第が立地していた(上段地図)。

一帯には、その跡地を解説する案内板が、あちこちに設置されていた。「聚楽第 城壁跡」「聚楽第 本丸西濠跡」「聚楽第 北之丸北堀跡石垣遺構」「聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡碑」「聚楽城跡」「聚楽城 加藤清正邸跡 伝承地」「茶屋四郎次郎邸跡」「千利休居士 聚楽屋敷 趾」など。上地図から、聚楽第周辺には諸大名の京都屋敷が配置されていたことが分かる。

1585年に関白に就任した豊臣秀吉が、自らの政庁兼屋敷として大規模に造営した聚楽第であるが(工事着工 1586年2月、翌 1587年9月完成)、自らの権力を誇示すべく、かつての 皇居跡地(平安宮内の内裏あたり)に意図的に建設させたものであった。当時、すでに「大内裏」跡地(内野エリア)は消失しており、そこに集積していた町屋群を立ち退かせて、工事を進めたと考えられる。
完成後すぐに、京都専用別邸だった 二条第(妙顕寺城。現在の二条城の東隣一帯で、「古城町」「下古城町」の地名が残る)より移り住むも、1591年末に関白職を秀次へ譲位すると、以降、秀次の邸宅となる。その後に 伏見城 で秀頼が誕生し、 1595年に秀次が高野山へ 追放・切腹させられると、その居城だった聚楽第も徹底的に破却されてしまうのだった。その部材の大部分は、後陽成天皇の御所改修工事や、伏見城の 再建工事(1596年9月の慶長伏見地震で倒壊していた)へ転用されたと考えられている。

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そのまま東進していくと、広大な敷地を誇る「京都御所」に突き当たる。下地図。
御所には東西南北に 6門が設置されているが、通常は「清所門」が出入口となっている(上地図)。開園時間 9:00~16:00(月曜日休)、入場無料。

この広大な敷地は、鎌倉時代末期の 1331年~1869年(明治 2年。明治天皇が 東京 へ移住)までの 540年間、内裏(天皇が居住し 儀式・公務を執り行った場所)が開設され、また皇族や公家らが邸宅を構えた跡地でもあった。現存する建物群は、火災後に江戸幕府が復興したものという(1855年完成。安政度 内裏)。室町時代、江戸時代を通じ、朝廷では平安調のデザインが好んで使用されていたことから、都度、幕府もこれに従って再建工事を進めたという。


鎌倉時代末期の 1331年、武装蜂起した 後醍醐天皇(1288~1339年)を廃位し、隠岐島へ追放した鎌倉幕府は、その皇太子に指名されていた 光厳天皇(1313~1364年)をそのまま即位させる。この時、土御門東洞院(当時、天皇を引退した上皇が居住していた邸宅。院御所とも呼ばれた)で即位の儀が執り行われ、そのまま天皇の居所に定められる(1年強ほどの期間)。

しかし、1333年に隠岐島から脱出した後醍醐天皇が再度、畿内で挙兵すると、 足利尊氏新田義貞らの活躍により鎌倉幕府の打倒に成功する。直後より、天皇に復帰した後醍醐天皇は、新たに 二条富小路内裏(今の京都御所の南側)を皇居に定め、建武の新政をスタートさせるも、間もなく政権運営は瓦解していくこととなる。
1336年には火災により二条富小路内裏が焼失されると、後醍醐天皇も北隣の土御門東洞院に入居し、政権再建に取り組むも、同年 5月には九州より攻め上がってきた足利尊氏により京都を占領されてしまう。いったんは 比叡山 へ避難した後醍醐天皇であったが、間もなく降伏を余儀なくされ、京都に軟禁される。しかし、同年 12月、後醍醐天皇は大和国吉野へ脱出し南朝政権を樹立すると、足利尊氏は光厳上皇の宣旨により、光明天皇(1322~1380年。光厳上皇の実弟)を即位させ、北朝を興すのだった(南北朝時代の始まり)。そのまま光厳上皇の居所だった「土御門東洞院」に、光明天皇も同居することとなり、以降、歴代の天皇の御所となっていくわけである。

3代目将軍・足利義満(1358~1408年)により南北朝が統一され(1392年)、幕府権力が最高潮にあった 1401年、「土御門東洞院」が火災により焼失してしまうと、すでに将軍職を離れ、太政大臣を経て 公家・武家社会で圧倒的権力者となっていた足利義満の手により、御所を大拡張される形で再建工事が進められる。その後も室町時代を通じ、度々、火災が発生するも、都度、将軍自身や 管領家、戦国期には織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者が復興を手掛けていくのだった(同時に徐々に敷地が拡張されていった)。

現在の敷地がほぼ確定するのは、豊臣秀吉による京都大改造のタイミングであった。多くの公家の邸宅が御所周辺へ集められ(下地図。有栖川宮や閑院宮などの 宮家・皇族や、近衛家、九条家、一条家などの公家ら)、「公家町」として整理されていく。この時代は、まだ現在の京都御所の半分程度のサイズであったが、さらに時を経て、戦国期に地方へ避難中だった公家らも京へ戻り、この「公家町」の周囲に邸宅を構えるようになっていくわけである(下地図は、江戸時代の様子)。
なお、当時、「御築地内」とも呼ばれていた「公家町」であるが、特に築地塀なども構築されず、他の町屋群とは通りを隔てるだけの距離感だったという。下地図。

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明治維新に至り 東京遷都 が決行されると(1869年)、公家町もほぼ無人化し、邸宅群は荒廃していくこととなる。こうして京都府庁により、徐々に建物の撤去が進められ、公園化が図られて、1949年にようやく今日のような国民公園「京都御所」として一体化され、一般公開されるわけである(現在の敷地規模は、東西 254 m × 南北 453 mで、面積約 65万 m2)。ただし、一部の建物は国賓用の宿舎として利用され、立入禁止となっている。

なお、現存する建物群は、幕末期の 1854年に火災で焼失しまった際、直後に幕府の手で再建されたものが残っている状態という(翌 1855年完成)。室町時代、江戸時代を通じ、度々、火災により御所や公家町は大いに焼失されてきたが、都度、幕府により再建工事が手掛けられていたのだった。



その北を走る「今出川通」沿いには、「冷泉家住宅」「二条家邸跡」「近衛邸跡」の記念碑が設置されていた(下写真)。安土桃山時代、江戸時代の「公家町」の名残りである。
現在は、同志社大学キャンパスとなっていた。下写真。

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また、この同志社大学の西側、烏丸通を挟んだ向かい側にある大聖寺一帯が、かつての室町幕府 将軍邸「花の御所」の跡地という。上写真。

当初、足利尊氏、義詮、義満の初期 3代の将軍は、二条地区に屋敷を構え、「二条陣」や「二条城」と称されていた。その後、義満が 関白・二条良基や 管領・細川頼之の補佐を受け、順調に全国統治を手掛けつつ、公家社会に食い込むようになっていくと、1378年に右近衛大将へ就任するタイミングで、その記念に崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅跡地を譲渡され、ここに広大な邸宅を建設することとなる(東西約 150 m × 南北約 300 m。天皇の住む御所よりも広大であった)。当時、西側の室町通に正門が設けられたことから「室町第」と呼称されるようになり、義満自身も「室町殿」と称されたのだった。以降も歴代の将軍はこの屋敷に居住したことから、「室町幕府」と呼ばれるようになったわけである。

その後、8代目将軍・足利義政の治世下で応仁の乱が勃発すると、後花園上皇と後土御門天皇が室町第に避難し、内裏として使用されることとなるも、邸宅の一部が東軍本陣としても使われたことから、最終的に全焼の憂き目に遭っている(1476年。下地図)。その後、部分的な再建を繰り返して使用され続けるも、 13代目将軍・足利義輝(1536~1565年)が 1559年、京都を制圧していた三好長慶と和睦し、 5年ぶりに帰京した際、三管領家の 一つ・斯波氏の 邸宅跡地(二条地区)に改めて御所を開設すると、「花の御所」はそのまま放棄されるのだった。
しかし、1564年に長慶が急死すると、三好家は分裂し、翌 1565年にその一派により 新・二条御所が襲撃され、足利義輝は自刃に追い込まれることとなる(享年 30)。

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また、足利義満は「花の御所」の向かいに、壮大な伽藍を誇る「相国寺」を創建している(1382年。上段写真の下端)。これは自身が左大臣に任命されたタイミングだったことから、中国大陸で使用される「左大臣=相国」にちなんで命名したものという。以降、足利将軍家の菩提寺として、京都五山の二位に君臨するも、1467年の応仁の乱時、東軍本体の細川軍の一部隊が陣地として使用したことから、戦火に巻き込まれて全焼することとなる(相国寺の戦い)。その後、すぐに再建されるも、1551年には三好長慶と 細川氏・幕府派との抗争に巻き込まれ、再び全焼する。その後、少しずつ復興が進められる中で安土桃山時代に突入し、豊臣秀吉の後押しにより全面復興が成就するのだった(1584年)。1605年には、豊臣秀頼により法堂が建設され、今も現存する。
現在、境内は縮小され、周囲には 同志社大学や府立高校、市立中学などが点在している。

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さらに東へ進むと、鴨川があった。その東岸には「京都大学」が立地していたので、学食に立ち寄ってみた。上地図。

また、その後方にそびえる山岳地帯には、「一乗寺山城跡」「中尾城跡」「大山出城跡」「北白川城跡」「雲母坂城跡」「御蔭山城跡」「水飲対陣之跡碑」「雲母坂城跡」などがあり、京都の街を高所から見物することも兼ね、数か所を登山してみることにした。上地図。



 中尾城跡 & 大山出城跡

銀閣寺裏の大文字山へのハイキングコースからスタートし、間もなく現れる分岐ポイントを左へ進んでいく(下地図の上端)。多くの登山者は大文字山側へ行くので、あえて未整備の登山道を選んで城跡を訪問する人は稀なようだった。
この急峻な山頂(標高 279 m、山麓からの高低差 190 m)に造営された本丸エリアには、土塁や堀切などの遺構が残存していた。天然の地形をうまく利用し、腰曲輪なども複数、装備していたようである。

また、この一段下の峰上には「大山出城跡」があり、「中尾城」の出城として機能したと考えられている。もともとは、8代目将軍・足利義政が麓に 慈照寺(銀閣寺)を造営した際(1490年)、この峰上に物見の櫓台を建設したことが発端で、これが中尾城の築城にあわせて(1549年10月。13代目将軍・義輝と 管領・細川晴元が着陣した)、出丸として転用されたようである。現在、なんらかの建物があったであろう平地だけが残り、城塞の遺構は全く残っていない。

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畿内に複数の所領を有した 細川家、畠山家、斯波家は「三管領」と称され、室町幕府政権下で中枢を担った名門大名家であった。このうち、最大勢力の細川氏は 山城国、摂津国、丹波国と、四国の 讃岐国、阿波国、土佐国の守護職を兼務し、最多で管領を輩出してきた大名家で、特に畿内エリアの守護職を継承した細川家は”京兆家”と称され、この細川家一門の中でも筆頭格を担っていた。

応仁の乱以降、この細川京兆家でも家中騒動が勃発し、畿内各所で武力衝突が繰り返されるようになっていく。そのリーダー格が、細川澄元(1489~1520年)・晴元(1514~1563年)父子と、細川高国(1484~1531年)・氏綱(1513~1564年)父子であった。両陣営は畿内の国人勢力や周辺の守護大名らを巻き込み、戦線を拡大させており、その中に阿波国守護代だった 三好元長(1501~1532年。三好家当主)がいた。この家中騒動の中で、戦上手だった三好元長が台頭するも、晴元は三好家一門の分家筋にあたる 三好政長(1508~1549年)を依怙贔屓するようになり、その讒言のため元長は戦死に追い込まれることとなる(享年 32)。

その後、三好家当主は長男の 長慶(1522~1564年)が継承するも、まだ 11歳と若年だったことから、主君・細川晴元と父の仇だった三好政長に従って、なんとか家督を存続させるのだった。その後、26歳まで各地で戦功を積み重ね、摂津国の国人衆の大半を味方につけた長慶は、細川晴元政権に見切りをつけ、長年の宿敵だった細川氏綱陣営へ鞍替えすることとなる。ついに 1549年6月、江口の戦いで三好政長を戦死させて父の敵討ちを成就すると、そのまま細川晴元を京都から追放することに成功する。
この時、幕府管領職にあった細川晴元は、 12代目将軍の 足利義晴(1511~1550年)と、その 子・義輝(1536~1565年)を連れて 近江国守護の六角定頼 を頼って逃亡し、京都を含む 畿内(山城国、摂津国、河内国、和泉国)の主要エリアは長慶が掌握するようになるも、引き続き、畿内の国人層の中には細川家に与する勢力も残り、長慶は常に畿内各地への転戦を余儀なくされていた。一方、近江国・坂本(比叡山の門前町)で体制立て直しを図っていた細川晴元らは、畿内最後の守護国だった丹波国から繰り返し出兵させ、三好軍をけん制していくこととなる。下地図。

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こうした一環で細川晴元により築城されたのが、東山地区の中尾城であった(1549年10月)。近江国からの前線基地として期待され、いよいよ京都奪還というタイミングで、翌 1550年5月4日、足利義晴が病死すると、そのまま足利義輝が 13代目将軍として就任し、6月9日、細川晴元と共に、この中尾城まで進軍してくる(上地図)。翌 7月8日には、東山の 山麓エリア(吉田・浄土寺・北白川)の寺社などを占領し、鴨川東岸まで勢力を拡張させるのだった。

この攻勢に対し、三好長逸・長虎(弓介)父子や、三好長慶の 実弟・十河一存らが 1万8000人の大軍で京都入りし、幕府軍との間で市街戦が勃発する(7月14日)。しかし、双方の主力軍は動かず、前線部隊だけの小競合いに終始したものとなった(東山の戦い)。なお、この戦闘で長虎の与力 1人が、幕府軍の放った鉄砲に当たり戦死したとされており、日本初の鉄砲使用に関する記録となっている。

以降、両軍の主力は、それぞれ 大山崎、中尾城を中心に展開し、にらみ合うだけとなるも、冬も迫った 11月、三好軍は戦局を打開すべく、一気に攻勢へ転じ、11月19日に中尾城の山麓にあった 聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などの寺院や集落、陣営などに放火していく。さらに、11月20日には山科を経由し、近江国へ部隊を派遣して後方を脅かしていくのだった。上地図。

ここに至り、細川晴元と足利義輝は京都東山での孤立化を恐れ、 11月21日に中尾城に放火し 近江国坂本 へ撤退していく(中尾城の戦い)。2日後の 11月23日に三好軍が中尾城を接収すると、そのまま城塞は破却される。
以降、細川晴元と足利義輝は、さらに北の堅田へ避難して越冬する一方、なんとか京都失陥の危機を防いだ三好長慶であったが、また翌 1551年にも 細川・幕府軍の京都出兵が行われ、再び京都での対陣に追われるのだった(相国寺の戦い、など)。
1552年1月には、三好長慶と 将軍・義輝が和睦し、義輝が上洛すると、同時に細川晴元と絶縁することとなり、長慶が大義名分上の主君としてきた氏綱が、正式に細川家当主に認定される。しかし、翌 1553年3月に義輝と三好長慶が再び決別すると、細川晴元も再度、義輝と共に対三好軍として挙兵するも、もはや力の差は歴然で、長慶はそのまま丹波国を武力併合し、丹後国や播磨国へも進出して、近江国を除き、畿内で長慶に対抗する勢力は無くなってしまうのだった。

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 一乗寺山城跡

曼殊院(天台宗系の門跡寺院 ー 皇族や摂関家出身の子弟が代々門主となる寺院で、京都の天台宗系 5寺の一つ)の裏手に、比叡山への登山口がある。小川の沢沿いを登っていく形で登山道が続き、1時間ほどかかる(上地図)。山麓からの高さは 300 m強あり、かなりきつい登山となった。
地図を見ていると、比叡山 までの山岳地帯に細かい地区名が表示されていることに驚かされた(一乗寺竹ノ内町、一乗寺大谷、一乗寺坂端、一乗寺北高山、一乗寺南高山、一乗寺風呂ヶ谷、一乗寺池ヶ谷、など)。こんな山の中には誰も住民はいないだろうし、かつての寺社勢力の所有地の棲み分け、に関係しているのだろうか??

この山城は、南北に分かれる二つの曲輪で設計され、現在、両者の真ん中を掘切で切断された山道が走る(住所名もそのまま「一乗谷堀切」となっていた)。北側が主郭で標高 440 m、南側が二郭で標高 550 mという構図で、それぞれに平坦に加工された地形や 土塁、虎口など、貴重な遺構がそのまま残存していた。

この他、比叡山の尾根沿いに「京都トレイル」 のハイキングコースが続いており、三宅八幡城跡、八瀬城跡、御蔭山城跡、雲母坂城跡、将軍山城(北白川城)跡、如意ヶ岳城跡 などが立地する(上地図)。一乗寺山城跡は、これらの中でも特に見学が困難な山城跡だった。。。

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この東山山麓を支配した 土豪・渡辺氏は、平時には山麓の 宮内少輔城(渡辺城。今の 左京区一乗寺堀の内)に居住しつつ、その裏山に 避難用城塞「一乗寺山城」を構築していたと考えられる。なお、もともと渡辺氏の本家筋は田中地区を地盤としており、この一条寺地区に所領を有したのは、分家筋(北渡辺)だったようである。

1568年9月下旬に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、渡辺氏も新幕府に帰参したようだが、その後、京都東部の 大勢力・比叡山 と行動を共にし、 1570年の「志賀の陣」では(上地図)、西近江まで進出してきた 浅井・朝倉連合軍に与して、一乗寺山城の補強工事が手掛けられたと考えられる。
これは他の京都市内の城郭には例のない、短い畝状竪堀群を装備しており、朝倉氏の居城である一乗谷山城のそれと酷似する設計だったことから、朝倉軍の手によって補強されたものと指摘されている。また、城郭の規模も付近の山城に比べて巨大で、比叡山の東西に陣を張った 浅井・朝倉軍による、陣城の一角を担ったようである(上地図の”ピンク色”陣城マーク)。その後、比叡山、浅井・朝倉連合軍はいったん和睦して帰国するも、翌年に 比叡山焼き討ち が強行され、渡辺氏は中立を貫き、ただ見守る以外になかったと思われる。

以降、信長とはつかず離れずの関係が続いた後の 1573年、ついに足利義昭が 山城国・槇嶋城 に拠って挙兵し、信長討伐で全国に檄を飛ばすと、当時の 城主・渡辺昌(宮内少輔)も義昭方に与して挙兵し、静原地区の山本氏、山中地区の磯谷氏ら同門の衆と共に、本城で籠城戦を展開するも、瞬く間に義昭が敗北して京から追放されると、渡辺昌は信長方に降伏し、そのまま城は破却されることとなる。

以降、渡辺氏は織田軍の配下に組み込まれた後、さらに豊臣秀吉の馬廻衆となって命脈を保つ。淀殿の 側近・正栄尼を妻に娶り、子に 渡辺糺(内蔵助)が誕生すると、引き続き、豊臣秀頼に従い続け、最後の 大坂夏の陣 まで豊臣家に仕えて戦死している。
なお、この渡辺糺は通常、内蔵助(くらのすけ)と称し、内蔵助流槍術の祖であり、船津流槍術の 祖・船津八郎兵衛の師匠として名を馳せた槍の名手であった。こうした関係で、豊臣秀頼の槍の 指南役(師範)として重宝され(知行 500石)、1614年の大坂冬の陣では、母の影響力と 総大将・秀頼の師範ということで鬮取奉行を任され、秀頼に近侍しつつ、大坂方の司令部にあって大野治長と共に諸将へ采配を下したという。

翌年の大坂夏の陣では、真田幸村の与力として道明寺の戦いや 天王寺・岡山の戦いで奮闘する。家康の茶臼山本陣への突撃戦にも参加するも 、大将の幸村が戦死すると勢いを失い、最終的に大坂方の前線部隊は大坂城に撤退することとなる。渡辺糺も深手を負って帰還し、山里丸へ避難した秀頼ら一行とは別れて自刃して果てたという。

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 御土居

応仁の乱以来、京では度々、市街戦が繰り返された結果、荒廃が続いていた。これに対し都の住人は、上京と下京エリアで協力し合い、それぞれに大規模な土塁と堀を構築して、自衛の 防御施設(惣構)を築造していた。そして、この上京と下京の城塞都市を、室町通り(かつての 将軍邸「花の御所」前の通り)が接続する構図となっていた。

1568年9月下旬に織田信長が足利義昭を擁して上洛した際、京都の町は前述の状態のまま、半戦闘状態の都市構造であった。1581年4月1日に織田信長が京都で行った大規模な 軍事パレード(京都御馬揃え)では、下京の本能寺からこの室町通りを通過し、上京にあった天皇御所まで行進したわけである。この時、多くの都の住人らが街道に立って見物したという。

当時、すでに 畿内、中部、東海、北陸地方を支配していた信長は、自身の権威を見せつけるべく、衰退していた朝廷や京の都の復興を後押ししていた最中で、その途上にあって本能寺の変で死去してしまうのだった(1582年6月2日)。
しかし、秀吉が信長の後継者となると、各地の大名勢力の征伐の傍ら、ますます朝廷に接近し、京の町を近世都市へと変貌させていくこととなる。まずは、京都に自身の力を顕示すべく、金箔の瓦を敷き詰めた 大豪邸「聚楽第」を築城し(1587年)、同時に天皇御所の修復工事に着手するのだった。この「聚楽第」の周囲には、全国の大名や公家らの屋敷地を配置し、また 80もの寺院を集積させた寺町などを整備して、京都の都市改造を進めていく。

そして、1591年には、上京と下京にあった大規模な土塁城壁を撤去し、これらをつなぎ合わせて「御土居」を築造することとなる(全国の大名に命じた大工事で、同年 1~5月という超短期での工期で完成する)。これは前年の小田原征伐の際、 9 kmにも及ぶ惣構えの小田原城を目にした影響で、秀吉も京都の町を囲い込む土塁城壁を考えついた、と指摘されている。京都の朝廷や町人らの暮らしを保証することで、自身の権威と信用を勝ち得ようとしたわけである。
以降、全国的に平和が回復されると、京都の町は急速に回復し、江戸時代以降、天皇の住む都として、江戸大坂 の大都市に比肩する繁栄を遂げていくのだった。

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この総延長 22.5 ㎞に及ぶ「御土居」は、南北約 8.5 ㎞、東西約 3.4 ㎞の規模で京都の町を取り囲み、土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼びつつ、 7か所の 出入口(七口と通称された)で結ばれていた。現在ある「鞍馬口」「丹波口」などの地名は、その七口の名残りとなっている。

上の断面図の通り、台形型(上辺幅 5 m、底辺幅 20 m、高さ 5 m)の土塁城壁の外周部には、幅 10 m、深さ最大 4 mという巨大な 堀(堀の一部は天然の川や池、沼を転用)が掘削され、堀り上げた土を土塁に転用する工法であった。そして、美観のため土塁上には多くの竹が植林されていたという。

江戸時代に入ると戦火の脅威もなくなり、市街地は洛外まで広がり、次第に御土居は堤防の役割を果たす箇所以外、住民らにより撤去されていく。現在、市内に残る御土居跡のうち、9カ所が史跡指定を受けている。上地図。



その南隣に「平安神宮」があり、最寄りの 地下鉄駅(もしくは、路線バスにて)から京都駅へ戻ることにした。また、この 途中「京都市役所前駅」で下車すると、信長最期の 地「本能寺 跡地」にも立ち寄れるので、余力があれば是非、見学したい(中京区小川通蛸薬師元本能寺町)。

それにしても、京都の街はさすがに歴史の宝庫だけあって、一日で散策するのは不可能な規模だった。2~3日ぐらいに分けて散策しつつ、関西滞在中の雨天時を見計らって、「京都府京都文化博物館」、「京都市歴史資料館」、「京都市考古資料館」、幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」、「京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)」などを、効率的に訪問してみたい。晴天時は、できるだけ屋外散策に集中したい。


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