BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月--旬


滋賀県 大津市 ② ~ 市内人口 35万人、一人当たり GDP 335万円(大津市 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  三井寺(園城寺)
  大津市歴史博物館
  近江大津宮 錦織遺跡
  皇子山古墳
  宇佐山城跡



大津市

大津駅前のスーパーホテルに投宿しつつ、市街地にある 渡来人歴史館、大津城跡、旧・東海道の 宿場町「大津宿」などを視察後、そのまま徒歩で 1 kmほど西進する。上地図。
「三井寺」の山麓にある、「大津市歴史博物館」を訪問してみる(入館料 330円)。

あわせて、山の中腹にある「三井寺(園城寺)」も訪問してみる(拝観料 600円)。上地図。
本寺院は、東大寺延暦寺興福寺 と共に、京畿・四大寺院の一角を成す名門で、天台宗に属する。同じ天台宗でも、山門派の総本山である比叡山延暦寺 に対し、寺門派の総本山として君臨し、豊臣家、徳川家康によって再建された歴史的建造物が多数、境内に残存する(国宝の金堂を含め、西国第十四番札所の 観音堂、釈迦堂、唐院など、国宝・重要文化財は 100点を数える)。


大津市

この長等山に園城寺が開設されたのは飛鳥時代といい、天智天皇(626~672年。大阪・難波宮を造営)の 子・弘文天皇(648~672年)が壬申の乱で死去すると、その皇子だった 大友与多王(生没年不詳)が父の菩提を弔うべく、自らの土地や邸宅を投げ打ち、大寺院の建立を発願すると、天武天皇(?~686年)がこれを許可する。その後、天武天皇により「園城寺」の勅額を下賜されたという。
以降、「等山園城寺」と称されてきたが、境内に 天智天皇、天武天皇、持統天皇(645~703年。天智天皇の娘で、天武天皇の皇后にあたる) の三天皇のための 御産湯(誕生水)に用いられたとされる 霊泉(井戸)が存在したことから、「御井(みい)の寺」と呼ばれ、後に「三井寺」と通称されるようになっていく。

平安時代初期の 788年(延暦 7年)、最澄(767~822年)が、比叡山に 草庵(一乗止観院と称した。現在の東塔エリア)を設け、天台法華宗の修行道場を開くと、806年1月に朝廷から宗派の公認を受ける。最澄死後の翌 823年、一乗止観院は開山時の年号を冠して「延暦寺」へ改称されるも、弟子の 円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師。858年に唐より帰国)が中心となって天台宗の普及活動が進められる中で、両派の経典解釈が異なるようになり、派閥抗争へ発展していく。
ついに 993年、智証大師系の僧グループが比叡山を去って、この 長等山園城寺(三井寺)へ入居するようになり、天台宗の寺門派を称して分派・独立することとなると、比叡山に残留したグループは山門派と称した。以降、両者の対立は武装闘争へと発展し、この平安時代の間に、園城寺は 4度焼かれている。

平安時代末期の源平合戦では、源氏に組したため、平氏に堂舎を焼かれるも、源頼朝の保護を受け再興することとなる。また、南北朝時代にも足利氏に接近したことから、北畠氏、新田氏配下の武士団により焼き払われている。
こうして、園城寺は合戦・焼き討ち・火災などで 23回も炎上しているわけだが、そのうち 14回は、延暦寺 による焼き討ちであったという。

戦国時代に至っても両派の抗争は続き、三好三人衆、浅井・朝倉連合軍に組して反信長勢力を形成した比叡山延暦寺に対抗すべく、園城寺は、南近江の六角氏 を下した新興勢力の織田信長に組することとなる。
1570年9月、志賀の 陣(坂本の陣)が勃発し、浅井・朝倉連合軍と比叡山が手を組み、宇佐山城に進駐してきた織田信長と対陣した際、信長は戦闘の長期を恐れて早期講和を進めるべく、京都 の朝廷と 足利義昭(1537~1597年。室町幕府 15代目将軍)に仲介を依頼する。
11月28日、足利義昭と 関白・二条晴良(1526~1579年)が共に 近江坂本 を訪問し、連合軍の主力を成す朝倉氏への説得を試みるも失敗に終わり、京都へ引き上げると、再び、12月13日に 三井寺(園城寺)まで下向し、連合軍へ和解案を提示する。朝倉氏はこの案に前向きな姿勢をとるも、比叡山は強硬姿勢のままだったため、ついに天皇からの綸旨が下り、勅命講和という形で和解が成立する。信長は最前線だった宇佐山城に明智光秀を残し、自身は 岐阜 へ帰還することとなる。

こうしていったん撤兵した両軍であったが、翌 1571年正月、反信長連合軍の切り崩しと個別撃破を狙った信長により、近江国内の南北の交通路が封鎖されると、いよいよ同年 9月11日深夜、比叡山焼き討ち作戦が決行されるのだった(下絵図)。この時、最前線の宇佐山城の明智光秀に指示すべく、大津に進駐した織田信長は三井寺を本陣としていた。
比叡山の焼き討ち後、そのまま明智光秀に琵琶湖西岸一帯の統治を委ね、信長自身は、 9月20日に 岐阜 へ帰還する。 明智光秀はこの直後から、焼き討ちされた比叡山延暦寺の 門前町「坂本」の復興と、本拠地「坂本城」の築城工事に着手することとなる

大津市

その後、1582年6月2日に織田信長が 本能寺 の変で横死すると、同月 13日の山崎の戦い で明智光秀を破った羽柴秀吉が近江に進駐してくる。この時、秀吉はこの園城寺に本陣を敷き、光秀や明智一族の首実検を行ったという(6月15日、坂本城落城)。

その後、園城寺は天下人となった豊臣秀吉と良好な関係を築いたが、秀吉が 比叡山延暦寺 の復興を支援するようになると、再び、両者の対立が再燃してくる。当時、明・朝鮮との対外戦争中で、国内融和を優先する秀吉の逆鱗に触れた園城寺は、 1595年11月、秀吉から寺領の没収を命じられてしまう。
この結果、本尊の弥勒菩薩像や 智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める 照高院(現・妙法院の近く。後に北白川に移転)に避難させ、僧も保護したが、その他の大部分の仏像や宝物は他の寺院へ移譲されてしまい、金堂をはじめとする堂宇も強制的に破却、移築される。当時の園城寺金堂は比叡山に移され、現在も 延暦寺西塔釈迦堂(転法輪堂)として現存しているという。残ったものは 新羅善神堂、三尾社本殿、護法善神堂の他、上光院などいくつかの子院のみで、主要部は完全に解体されてしまうのだった。以降、道澄は度々、秀吉に対し復興の請願を行うも、拒否され続けていたが、1598年、死の床に臥せった秀吉は、自らの死後の安楽を願い、園城寺の再興を許可することとなる。
ようやく寺領 4,300石の復活を許可され、秀吉の再興許可を得た園城寺長吏・道澄は、かつての弟子や末寺などを動員して寺の復興事業をスタートし、照高院に避難させていた 弥勒菩薩像、智証大師坐像、黄不動尊などを園城寺に戻す。

翌 1599年には 高台院(北政所。秀吉の正室)が金堂を寄進し再建する。 1600年、豊臣秀頼 が施主、毛利輝元 の寄進により勧学院客殿が建立され、 1601年には 山岡景友(1541~1604年。勢多城主だった山岡景之の四男。豊臣秀吉の側近となっていた)の寄進で光浄院客殿が建立される。
こうして慶長年間末期の頃には、三院で 49院、五別所で 25坊もの子院を有する伽藍が復興完了される。現在の園城寺の寺観は、ほぼこの時代に整えられており、江戸時代に入ってさらに増築が進められ、北院・中院・南院の 3塔に 59院、5別所に 25坊を有するまで拡張されることとなった。下絵図。

大津市

明治維新を経た 1873年、北院の大半となる 20万 m2の土地が没収され(上絵図の右半分)、陸軍用地として整地されてしまう。以降、新羅善神堂と法明院を残し、北院は消滅してしまうのだった。

戦後に至り、接収されていた陸軍用地は、現在、大津商業高校(偏差値 46。かつての陸軍司令部跡)や、皇子山総合運動公園(かつての練兵場)へ改修され、その他の土地は宅地開発されている(下写真。かつては、写真奥の高層マンションまでが北院として寺の敷地であった)。

大津市



大津市

この時点で、まだ時間があれば、さらに北へ 1.5 kmほど徒歩移動し、京阪石山坂本線「近江神宮前駅」付近に至る。十分に徒歩で回れる範囲である。

ここから西進すると、近江大津宮錦織遺跡を訪問できる(上地図)。

なお、山側にある「皇子山古墳」も国指定の史跡であるが(上地図)、特に近江宮とは関係がなく、古墳時代に築造された、巨大な前方後方墳と円墳が 1つずつ残っているという。下絵図。

大津市



藤原鎌足(614~669年)と共に、蘇我氏排除を断行した 大化改新(645年)の 立役者・中大兄皇子(626~672年)は、その後、中央集権体制の再強化を指揮し、 662年旧正月に天智天皇として即位する(正確には、668年旧正月に即位しているが、 661年末に斉明天皇が崩御して以降、皇位は空位のままで、自身が皇太子のまま政務を取り仕切っていた)。
その主な施策は、唐の均田制にならった土地制度の 改革(班田収授)と戸籍の 制定(庚午年籍)、そして、学校制度の創始、大陸から伝授された最新技術を駆使した産業振興などであった


そして、それらの集大成となったのが、667年の王都移転である。それまでの 王都・飛鳥(明日香)岡本宮から、この近江大津宮へ遷都し、新王宮と城下町の建設に着手したのだった。一部の側近を除き、多くの貴族や豪族、宗教勢力が反対を唱える中、中大兄皇子らが首都移転を強行したわけだが、その背景として、飛鳥地方の旧勢力を避けて人心一新の断行、さらに水陸交通の便がよい立地条件、そして、唐・新羅連合軍への防衛策などが指摘されている。
この地への遷都後も、日本初の国産法典である「近江令」を制定したり、城下に時報を伝える 漏刻(水時計)を日本初で設置するなど、新たな試みを採用していく。
王都は、唐風の画然たる都城で設計され、内裏の他、仏殿、西殿、西小殿、大蔵などが配置されていたという。

大津市

しかし、672年1月7日に天智天皇がこの近江宮で崩御すると、弘文天皇(648~672年。天智天皇の 実子・大友皇子)が即位するも、 出家して王都から出奔していた 大海人皇子(?~686年。天智天皇の実弟)が挙兵し、 7月に 岐阜、奈良、滋賀一帯で戦端が切られる。そして、最終的に 7月22日の瀬田橋の戦いで近江朝廷軍が大敗すると、翌 7月23日に弘文天皇が近江宮で首を吊って自決し、大海人皇子の勝利に終わる(壬申の乱。上地図)。
この時の戦火で、近江宮も灰燼に帰し廃都となると、翌 673年、王都は再び飛鳥宮へ戻され、大海人皇子が天武天皇として即位するのだった。

以後、この王都跡は全く所在不明となってしまうわけだが、1974年の発掘調査でその遺構が発見されると、 1979年、国定史跡に指定されるわけである。



そして、近江神宮の裏手の山道から、標高 335 mの登山を決行し、「宇佐山城跡」を訪問してみた。

近江神宮から宇佐八幡宮へ登り、この境内から宇佐山に登る登山道が整備されている。
山頂部では、主郭、二郭、三郭の三部構成だった往時の遺構がそのまま残されている。 登山道を登ると、ちょうど主郭と三郭の間に到達する。目下、石垣はこの主郭と二郭に残存する。

ここは志賀の陣の際、織田方の拠点となった場所で、織田信長も 3か月にわたって滞在している(1570年9~12月)。 この北側には、対峙した 浅井・朝倉連合軍の 陣城群(神宮寺山城、壺笠山城、青山城)も残る。上地図。


足利義昭(1537~1597年)は、1567年9月~1568年7月の 10か月ほど、朝倉義景(1533~1573年)の率いる越前一乗谷に滞留し、京都 上洛のチャンスを伺うも、畿内の騒乱に巻き込まれることを嫌った義景の動きは鈍かった。義昭はその後も全国の大名へ支援要請を出し続け、1568年7月末、上京に前向きな 織田信長(1534~1582年)のいる岐阜城に迎え入れられることとなる

同年 9月7日、信長は 尾張・美濃・北伊勢の軍勢を動員して岐阜城を出発し、南近江で六角氏と交戦しつつ、京都への道を開くと(前年の 1567年9月頃にお市の方と結婚していた、北近江の浅井長政 も織田方の援軍として加勢した)、同月中旬、足利義昭も 岐阜 を出発し、上洛の途につく。ついに 9月26日、信長と義昭は 京都 に入り、上洛に成功する。
以降、10月14日までかけて畿内平定戦を続行し、三好三人衆の勢力を掃討して、幕府権力の復権を成し遂げると、10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受け、室町幕府 15代目将軍に就任することとなる。この功績を大いに称えられた信長であったが、副将軍就任のオファーを蹴って、代わりに 草津大津 の直轄領化を公認してもらうのだった。地元尾張でも伊勢湾貿易の 重要港「熱田港」を抑えて台頭した織田家の家業を忘れず、経済拠点を抑えるセンスが信長らしいと言える。

10月26日、信長は兵糧調達と兵士休養を兼ね、早々に岐阜へ帰国すると、畿内から追放された三好三人衆らは軍備を整え、翌 1569年1月5日、京都にいた足利義昭を襲撃する(兵力 10,000)。この時、信長・義昭政権の傘下に従った摂津国の国人衆ら 2,000余りが援軍にかけつけ、 将軍を守備しつつ、信長への援軍要請を出すと、 1月10日に信長も援軍を引き連れて再度の 京都 入りを果たす。
義昭は、ここで集った畿内の諸将の協力の下、二条御所(二条城)の再建を進め、4月14日、二重の水堀と高い石垣で守備された城郭を完成させる。こうして室町幕府の御所が再興されると、代々、幕府に奉公してきた直参の家臣や旧守護家出身者らが続々と出仕し、室町幕府政庁が再樹立されることとなった。
同 4月21日、信長は再び 岐阜 へと帰国し、8~10月に南伊勢への侵攻作戦を進める。その後、信長は 10月に一週間ほど再上洛している。

大津市

翌 1570年初め、若狭国守護・武田家再興のため(義昭の妹が、武田義統に嫁いでいたが、1567年に死去しており、その子の武田元明は、隣国の 越前・朝倉義景に連行され一乗谷に幽閉されていた。このため、若狭国は実質的に朝倉氏の属国と化していた)、足利義昭は幕府軍の動員令を発する。

この戦争準備に際し、信長は進軍最短ルートとなる琵琶湖西岸の街道整備を、織田家筆頭家老だった 森可成(1523~1570年)に命じる(下地図)。この街道整備とともに、琵琶湖を一望できる宇佐山の山頂に(標高 335 m)、石垣積みの城が築城されることとなった。信長が 安土城 より前に、近江で初めて石垣積みの本格的な築城を手掛けた事例となり、畿内から徴収された幕府軍配下の諸将に自身の威光を見せつける装置であったと考えられる。また、京都 の東面を守備する軍事拠点としても、重要な役割を期待された拠点であった。

大津市

この時、信長は 京都 から近江へ通じる二本の街道を封鎖し、宇佐山城の築城工事とともに、この麓に新街道を整備させていた。下地図。
ついに 4月20日、近江国での拠点整備が完成すると、畿内の 大名(池田勝正、松永久秀ら)や幕府直参の家臣団、そして 織田勢(徳川家康も同行)で構成される、幕府軍 3万が動員され、織田信長を総大将として 若狭 への派兵作戦がスタートする。上地図。

この時、越前・朝倉氏と通じ、若狭国主・武田氏 の排除に加担していた武藤氏が籠る「金ヶ崎城(福井県敦賀市金ケ崎町)」までターゲットとされると(4月26日落城)、幕府軍による越前国境の侵犯となり、いよいよ朝倉軍も動き出し、織田軍&幕府軍を迎え撃つ姿勢を示したことから、朝倉氏討伐戦へと舵が切られることとなった。

こうして素早く若狭国を突破し、越前国まで侵攻した幕府軍であったが、長年にわたり朝倉氏と同盟関係にあった 北近江の浅井氏 は苦渋の選択の末、朝倉方として参戦すると、幕府軍は南北から挟撃を受ける形となった(金ヶ崎の戦い)。
浅井氏の裏切りを知った織田信長は、4月29日に急遽、供回り 10人のみを引き連れて単独撤退を決行し(金ヶ崎の退き口)、この琵琶湖西岸ルートを使って、4月30日に へと帰還する。取り残された幕府軍は、残留していた織田家の重臣らによる見事な統率と、圧倒的な大軍勢をもって、最小限の被害だけで畿内まで撤退するに成功する。この撤退作戦でも、琵琶湖西岸ルートが大いに役立ったと考えられる。上地図。

大津市

大津市

しかし、この浅井氏の裏切りに激怒した信長は、帰京後、足利義昭と相談し、幕府軍を再編成して北近江への攻撃準備に取り掛かる。

幕府軍を再徴集した信長は、再び三河の 同盟者・徳川家康をも動員し、北近江の姉川において、浅井・朝倉連合軍と対峙する。そして、 6月28日の姉川の戦いでついに激突した両軍は、あわせて 2,500名もの戦死者を出す死闘を演じたのだった(戦傷者は 7000人を超える)
そのまま幕府連合軍は、畿内に展開して三好三人衆との戦闘を続ける中、同年 9月12日、信長から大坂退去要求を受けていた 石山本願寺 も、反織田勢力に組すると、いよいよ畿内は混迷を極めることとなる。なお、この時に形成されつつあった信長包囲網には、まだ足利義昭は組しておらず、あくまでも織田軍を主力する幕府軍側にあった。


こうして畿内での反信長勢力の結成を受け、先の姉川の戦いで敗退していた浅井&朝倉連合軍もまた、同年 9月、再軍備を整えて、南近江への侵攻を開始する。この時、浅井・朝倉連合軍は六角氏や本願寺の近江門徒衆なども糾合し、3万近い大軍に膨れ上がる。そのまま琵琶湖西岸の近江坂本(比叡山の門前町)まで南進すると、そのうちの一部隊が比叡山を越えて 京都 郊外を放火し気勢を挙げる。
ちょうどこの時、信長率いる幕府軍主力部隊は、摂津の野田城、福島城に籠る三好勢と交戦中で、京都や近江の守備が手薄だった隙をついた作戦行動であった。志賀の 陣(坂本の陣)のスタートである。

琵琶湖西岸ルートからの 浅井・朝倉連合軍 3万の主力軍の京都侵入を阻止すべく、宇佐山城主・森可成と、近江の 国人・青地茂綱ら 1,000騎は、西岸ルートの交通の 要衝「坂本」の町を占領し、この街道封鎖を試みる(9月16日)。そのまま両軍は坂本の町はずれで激突すると、織田方は寡兵であったがよく奮戦し、幾度となく 浅井・朝倉連合軍を撃退する。さらに 9月19日未明、京都 から来援した信長の 実弟・織田信治の率いる 2,000騎も合流する。
しかし翌 9月20日、延暦寺の僧兵も加わって勢いを増した連合軍が再度、総攻撃をしかけてくると、二方面からの挟撃を受けた織田軍はついに瓦解し、森可成、織田信治、青地茂綱の 3将とも討ち死にしてしまうのだった。

そのまま勢いに乗る連合軍は宇佐山城を攻撃するも、森可成配下の 家老・各務元正(1542~1600年)ら城兵 1,000余りが頑強に籠城し、なんとか落城を免れる。しかし、大津から京都へ続く街道封鎖は突破され、大津の 馬場(港町)、松本、山科の町まで放火されることとなった(9月21日)。

大津市

9月22日になって、ようやく摂津方面で交戦中の信長にも宇佐山城の急報が届き、翌 9月23日、義昭と信長の連合軍は、落城寸前だった 野田城、福島城 の囲みを解き、京都 へ帰還する。翌 9月24日、信長は自軍 1万を引き連れて宇佐山城へ急行すると、旧ルートである 大津 から琵琶湖入りし、そのまま宇佐山城を取り囲む 浅井・朝倉連合軍を急襲して、大ダメージを与えて潰走させるのだった。
そのまま宇佐山城に入城した信長は、ここに本陣を置き、坂本の町に展開する 浅井・朝倉連合軍と対峙するも、小競り合いに終始し、9月25日、ついに連合軍は坂本の町を放棄して、比叡山系の 山脈(蜂ヶ峰、青山、壺笠山などの峰々)に陣城群を構築、籠城することとなる(壺笠山城など)。この時、戦闘の長期化を嫌った信長は、連合軍の切り崩しを図り、比叡山への懐柔策を試みるも無視される。
しかし、10月以降も畿内では、石山本願寺、三好三人衆、一向一揆などが活発に活動し、信長と幕府勢を翻弄していた。一方で、比叡山の山中を突破した 浅井・朝倉連合軍の一部隊が京都市中に放火して回り、大混乱を引き起こす(10月20~22日)。
こうして方々で戦火が勃発する中、信長は 10月末より各勢力と個別に講和交渉を開始すると、 11月より本格参戦した比叡山を筆頭に、浅井・朝倉勢も一切、妥協しない方針を貫くも、11月11日には 南近江の六角氏 が、13日には本願寺が、11月18日には三好三人衆が次々と講和に応じ、第一次信長包囲網は下火になっていく。

こうした中、冬が迫り、帰国の道が閉ざされることを恐れた朝倉勢もまた、早期講和を希望するようになるも、比叡山が強硬路線を曲げず、連合軍の間でも不協和音が響くようになっていた。
何とか連合軍との和解を進めたい織田信長は、京都 の朝廷を動かすと、 11月28日、足利義昭と関白・二条晴良が共に 近江坂本 を訪問し、連合軍の主力を成す朝倉氏へ説得を試みるも失敗に終わり、いったん京都へ引き上げた両名であったが、再び、12月13日に 三井寺(園城寺)まで下向し、連合軍へ和解案を提示する。朝倉氏はこの案に前向きな姿勢をとるも、比叡山は強硬姿勢のままだったため、ついに正親町天皇からの綸旨が下り、勅命講和という形で和解が成立する。
翌 12月14日、連合軍、織田軍ともに近江からの撤兵がスタートし、信長は 12月17日に 岐阜 へ帰国するのだった。なお、この時、明智光秀(1516 or 1528~1582年)を新たな宇佐山城主として残し、西近江一帯の地侍や宗教勢力などの懐柔交渉を進めさせることとなる。

大津市

岐阜 で年末年始を過ごした信長は、この第一次信長包囲網で苦戦を強いられた苦い経験を活かし、反信長連合軍に徒党を組ませず、各個撃破する作戦を練る。
そして、年明け早々の 翌 1571年1月2日、石山本願寺 と朝倉氏、浅井氏、六角氏との連絡路を遮断すべく、横山城(滋賀県長浜市堀部町、石田町)の木下藤吉郎に命じて、越前と大阪間の陸路、水路を封鎖させる。その遮断ラインは、姉川 に設置されることとなった。

2月24日、こうして織田軍により孤立させられた佐和山城の 磯部員昌(1523~1590年。浅井長政の重臣)が降伏すると、この佐和山城に城代として丹羽長秀を配置し、岐阜城から琵琶湖岸の平野部までの安全なルートを確保する

こうした信長の攻勢に対し、雪で動けない朝倉勢に代わって、大坂の本願寺が反信長抗戦を主導すべく、全国に檄を飛ばして一向一揆をたきつけると、 信長のお膝元である長島で大規模な決起があり、織田軍をくぎ付けにすることとなった(5月12~16日)。この戦役で、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死に追い込まれている

大津市

8月18日、再軍備を整えた信長は、自ら 岐阜城 を出陣し、近江へ侵攻すると、 横山城 を本陣として 小谷城 への攻撃態勢を整えると同時に、南近江の平定戦を進め、一向宗の拠点を個別撃破していく(8~9月)。
同時に、宇佐山城主として残していた 明智光秀(1516 or 1528~1582年)より、延暦寺攻撃の下事前準備が整った旨の知らせが入る。当時、天台宗山門派の総本山だった比叡山に対し、天台宗寺門派の三井寺、天台宗真盛派の西教寺 などの宗教勢力の協力が確約されたものと推察される。

すぐに信長本人も琵琶湖南岸を西進して 瀬田橋 を渡河し、9月11日、三井寺 に本陣を置き、明智光秀と合流する。そのまま光秀軍に坂本の門前町へ兵を展開させ、琵琶湖西岸の援軍ルートを遮断した上で、いよいよ比叡山への攻撃をしかけるのだった(9月11日深夜)。比叡山延暦寺の焼き討ちである。
なお、この比叡山焼き討ち前に、山麓の門前町も焼き払われることとなったが、森可成の墓があった 聖衆来迎寺(大津市比叡辻 2-4)だけは難を逃れている。また、明智光秀の事前準備に協力した天台宗真盛派の西教寺への被害も、最小限に抑える努力が図られた、と考えられる

戦役後、そのまま明智光秀が琵琶湖西岸の 支配(5万石)を委ねられ、信長は 9月20日、岐阜 に帰国する。
その後、 光秀は宇佐山城を破却し、その資材を転用して、焼土となった坂本の門前町に「坂本城」を築城することとなる(1572年3月から移り住んだ)



帰路は、京阪石山坂本線で「近江神宮前駅」から「浜大津駅」へ戻った(7分、170円)。


お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us