BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2019年11月中旬 『大陸西遊記』~


岐阜県 岐阜市 ~ 市内人口 41万人、一人当たり GDP 281万円(岐阜県 全体)


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  岐阜市街地での発見 ~ コンパクトな交通至便都市 と 大量のカラス
  旧中山道沿いの 宿場町「加納宿」の 今昔 ~ 加納天満宮、脇本陣、本陣、分本陣、古民家
  【豆知識】加納宿(加納城 城下町) と 美濃傘ブランド、戦後の繊維産業都市 への布石 ■■■
  加納城の 今昔
  本丸公園に見事に残る 土塁、石垣、内堀跡
  旧中山道(東西交通)と 鮨詣街道(南北交通)の合流地点
  【豆知識】鮨詣街道(尾張街道、岐阜街道)■■■
  岐阜公園 と 板垣退助受難の地 「板垣死すとも自由は死せず!」
  岐阜城 山麓居館跡(千畳敷遺跡)と 旧城下町(岐阜町)を 一望する
  岐阜城の 俯瞰模型
  【豆知識】斎藤道三の 下剋上と 岐阜城(稲葉山城) ■■■
  【豆知識】岐阜城主・織田秀信(三法師)の 関ヶ原合戦と その後 ■■■
  金華山(稲葉山)から 美濃、尾張を一望する
  長良川を渡って、崇福寺 と 道三塚へ(長良川の古戦場)
  【豆知識】長良川の戦い ~ 斎藤道三 vs 斎藤義龍 ■■■



岐阜市では、駅北側に新しくできたばかりの ダイワ・ロイネットホテル岐阜 に投宿した。コストパフォーマンス、サービスともに最高に良かった。

初日は少し時間があったので、駅北側に広がる繁華街を散策してみた。ホテル前の県道 54号線を北上し、岐阜市文化センター前の交差点に至ろうとしたとき、西側にあった駐車場で違和感を覚えた。「月極」が「月決」と表示されていた! 下写真左。

岐阜市 岐阜市

さらに北上して文化センター裏の金公園を経由し、デパート岐阜高島屋に至る。店内の閑散たる雰囲気が地方百貨店の今を象徴しているようだった。
百貨店の北出口から外へ出ると、新開発のおしゃれなショッピング・ストリートが整備されていた。そのまま東進し、アーケード街を南下して駅まで戻った(上写真右)。途中、ドン・キホーテでお菓子を購入した。店内は外国人客がちらほら目立っていた。
名鉄岐阜駅の裏手には近郊、中長距離バス発着所があり、非常に便利な立地環境だった。飛騨高山や郡上八幡、白山、東京 などへ移動する拠点となる場所だった。

なお、ちょうど夕方の時間帯だったのだが、カラスの大群が市街地上空を飛び回っており、かなり不気味な印象を受ける。ホテルに帰って理由を調べてみると、飛騨山脈などの北部の山岳地帯に本来は生息していたが、鷹やトンビに追われて市街地へと避難し、住み着いてしまったということらしい。岐阜市民たちを見る限り、日常の風景になっているようだった。

さて翌日、いよいよ本格的に岐阜市内の史跡巡りを進めるべく、自転車をレンタルする。岐阜市が運営する貸出し所は駅南口にあり、身分証を提示する厳格な規定だった(一日 300円)。
そのまま南下すると、信浄寺を越えた辺りで旧中山道に行きあたる(下写真)。道路が薄茶色にマークされており、とても分かりやすかった。
この道幅は、当時の加納宿時代そのままの姿という。

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上写真は、旧中山道 道沿いにあった加納天満宮。
当時、美濃国の中心都市であった川手城(今の岐阜市正法寺町)の支城の一角として、沓井城(1445年、城主・斎藤利永。加納城の前身)が築城されると、その守護神として天満宮が建立される。以降、地元で信仰され続け、1601年に沓井城の廃城跡地に加納城が築城された際、現在の場所に移転され、引き続き、加納城と城下町、および加納宿の守り神として大切にされたという。

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上写真は、旧中山道 沿いあった脇本陣跡と本陣跡(その先の松の樹が直立する場所)。

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上写真は、さらに旧中山道を東進して、県道 157号線を渡ったところにあった当分本陣跡。「当分」とは臨時の意。

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旧中山道 沿いの加納宿エリアで、レトロなお店を発見した(上写真)。この二文字屋は元和 6年(1620年)開業の老舗で(初代・上野長七郎がこの場所で旗小屋・二文字屋をスタート)、かつては朝廷、幕府高官、大名らの公用の飛脚(継飛脚)が投宿した専用宿だったという。

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そのまま直進すると、やや大通りの県道 181号線との交差点に 加納城 大手門跡 の石碑を発見した(上写真左)。ちょうど歩道橋があったので、上から周囲を撮影する(上写真右)。


関ヶ原の合戦 後、徳川家康は西国の豊臣方に対する戦略の一環として、1601年、加納城の築城を命じ、周辺の大名らが動員され建設工事が着手される。同時に、長女・亀姫の婿、奥平信昌を初代藩主に入封させる。このとき、城下町は加納城の北から西にかけて整備された。

翌 1602年、前年の東海道設置につづき、中山道 にも伝馬制度が新設される。当時、中山道は西の河渡宿(54番目の宿場町)から長良川沿いに大きく北へ逸れて旧岐阜城下の岐阜町を経由するルートに定められるも、1634年、中山道ルートから岐阜町が除外され、新たに加納城の城下町が編入される(「加納宿」の誕生)。 下地図。
城下町の北部に中山道が整備されることとなり、従来から存在した岐阜と 名古屋 を南北に結ぶ「御鮨街道」(尾張街道、岐阜街道)によって岐阜町とも連結され(宿場町の東側)、交通の要衝として発展する。

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なお、東海道とともに江戸時代の五街道の一つに君臨した 中山道 であるが、 その前身は東山道と呼ばれ、既に古代から中世にかけて西国と東国とを結ぶ重要な 官道であった。1716年4月、東山道が中筋の道に相当する、ということで中山道 と改名されることとなる。
江戸・板橋 から 近江・大津 までをつなぐ中山道 69次の一つに定まった加納宿は、以後、 東海道とともに 江戸京都 を結ぶ重要幹線上の宿場町として大いに賑わった。 また、浜名湖や 桑名の渡し、川留めの多い大井川 など、水による困難が頻発し、かつヒト・モノの往来が激しい東海道に比べ、 中山道 は通行数も少なく、河川氾濫の恐れがない安全ルートとして女性移動者らに 愛用されたという。特に、「縁切坂(今の大阪市中央区高津)」など不吉な地名がないため、姫君の輿入れ通路として 度々選択された。幕末の公武合体に際し、14代将軍・徳川家茂(16歳。1846~1866年)に嫁ぐこととなった孝明天皇の 妹・和宮(16歳。1846~1877年)もこの中山道を通って 江戸 に下向している(1862年)。

さて、その城下町の繁栄を謳歌した加納藩であるが、江戸初期の藩主・奥平氏の所領は 10万石で、後続の藩主である大久保氏は 5万石、戸田氏 7万石、安藤氏 6.5万石(のち 4万石)、そして永井氏 3.2万石とそのまま譜代大名が続く。
特に 1760年ごろ、当時の藩主・永井氏が財政の助けとするため美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産を奨励し、武士と町民の分業作業として発展する。 以後、城下町は宿場町として、また和傘の町として日本中に知られることとなった。 明治以降も加納の伝統産業として継承される一方、 農村部では副業として織物も盛んに行われた土地柄であった。

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上写真は、戦後の焼け野原と化した国鉄岐阜駅前。
中山道沿いの加納宿を含む岐阜市中心部は、戦争末期の 1945年7月9日深夜に米軍の大空襲を受け、一面が 焼け野原となっていた。戦後にその岐阜駅北口側で、北満州からの引き揚げ者らにより 古着や軍服など衣類を集めて販売するバラックが数十軒立ち並ぶようになる。 やがて、それは古着ばかりではなく、近隣の農村地帯、愛知県 一宮市、羽島市などから布を仕入れ、 新しい服を作って売るというスタイルに変化していった。これが岐阜の大量生産型 アパレル(既製服)産業の始まりであり、戦後の岐阜の経済復興の大きな礎となったという。
後に高度成長期に入った日本国内向け繊維産業の要として、東京、大阪と 並ぶ屈指の生産地に成長していくのだった。



下地図は、ここまでの移動ルート。
城下町の配置としては、城の北と西面一帯、及び北の町外れにも武家屋敷があった。町の北西部と南西部には寺社が集中して配されていた(下地図の紫色エリア)。

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そのまま交差点を渡ると(下写真左)、いよいよ三の丸跡地に入り込む。東沿いには岐阜大学教育学部付属の小学校や中学校があった。
かつては、侍屋敷が立ち並ぶ敷地だったが、今では完全に住宅街となっている。しかし、往時の記憶は地名として現在も継承されていた。「加納西丸町」「加納東丸町」「加納大手町」「加納丸之内」「加納鉄砲町」「加納長刀堀」「加納沓井町」。。。

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すると正面に加納城本丸の石垣が見えてくる(上写真右)。本来、この石垣前には水堀が張り巡らされていた。下写真

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1600年の関ヶ原合戦 で勝利した徳川家康は、交通の要衝だった美濃を徳川領に組み入れ、翌 1601年3月、長女「亀姫」の婿・奥平信昌に加納城主として 10万石を与え、現在の岐阜市南部に入封させる。同時に、亀姫の粧田として 2000石が給された。
翌 1602年に築城工事がスタートされると、岐阜城の天守、櫓、石垣、居館等が解体され、加納城への移築が進められる。最終的に完成された加納城は、北から南へ 5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二ノ丸、本丸、大藪曲輪【南曲輪】)が配され、それらを堀と川が取り囲むという、まさに「水に浮かぶ城」という景観だったとされる(下イメージ図)。

以後、加納城には奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏など譜代大名が城主を継承し、最後の永井氏の時代に明治維新を迎える。1869年、加納城第 16代城主、永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納藩は同年 7月14日に廃藩に至るのだった。その後、堀は埋め立てられ、建築物も次々と撤去されてしまう。

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月日は流れ、本丸のみ石垣や土塁が残される状態が続いていた中、 1983年に本丸公園が国指定の史跡となると、すぐに発掘調査が行われ、江戸期の建物礎石や堀跡とともに、さらにその地下から室町時代の加納城の土塁まで発見されたという。
室町時代の 1420年代に稲葉山城主だった斎藤利水(美濃守護・土岐氏の家老)が 1445年にその本拠地を沓井城(加納城の前身)に移転させた、という史書の記述が裏付けられたことになった。以後、何らかの戦火でしばらく廃城となっていたと推察される。


自転車ごと本丸公園に入ってみる。この北面の出入り口は本来は存在せず、便宜上、掘削されたものであることが、上の絵図より分かる。

下写真は、石垣上から北面の出入り口、水堀跡を眺めたもの。
昭和期に発掘調査が行われた際、堀底に「堀障子」と呼ばれる畝状の仕切りが確認されたという。

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本丸跡地は思ったより広々としていた。天守台はないようで、四方を巨大な土塁と石垣で固めた、典型的な平城スタイルだった。下写真。

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四方の土塁や石垣は自由に登ることができたので、一周回ってみることにした。
本丸石垣の東端では、ギリギリに立地する民家にビックリした。この民家、本当にうらやましい。でも、地震時などの倒壊リスクには注意してほしい。

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そのまま本丸東側に凸字形に出っ張るように設計された曲輪跡に足を踏み入れる(下写真)。ここは本丸正門(大手口)跡で外枡形という、徳川氏が初期に造った城の特徴とされる。二重の強固な門(筋鉄門と鐵門)が配置されていた。

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そのまま本丸南面まで移動してみる。この南面は石垣が長大に残っていた。上からも、下からも、すぐ間近で観察できる石垣は見事な野面積みで、往時のままの姿が維持されていた。

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解説板によると、
この石垣は、「野面積み」という近世初頭までに多く用いられた石積みの工法で、近世加納城が築かれた 17世紀初期の頃の姿をよくとどめている。これほど良好に近世初頭の石垣が残存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構である。 明治維新後、城内の建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では本丸外周の石垣と土塁、二の丸北面(今の加納小学校南側)や三の丸の北面、および三の丸北東部分に石垣の一部を残すのみという。
また、その石材は岐阜市近郊の山で産するチャートという石を削りだして積み上げられている。石材は、角以外の部分には加工の跡がない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められて補強されている。石垣の角の部分は、「算木積み」という横長の石を交互に組み合わせた積み方が認められる、とあった。

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続いて、本丸石垣を外から鑑賞すべく、本丸南門から外へ出る。東サイドは駐車場となっており、トイレがあったので利用させてもらった。駐車場では石垣ギリギリまで車が停車しており(下写真左)、本当に自由開放された城郭遺跡だった。

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逆に西サイドはゆるやかに水堀跡の窪みも残っており、見応え抜群だった。
そのまま本丸西面の石垣脇を通って(上写真右)、北面へ戻る。最初に見た本丸北面の石垣前は半分が児童公園、半分が老人会のゲートボール仕様にさら地が広がっていた(下写真)。往時には、これらと隣接する道路までの距離が水堀となっていたわけである。

再び大手門前の通りを直進し、旧東海道との交差点に戻ると、そのまま岐阜城を目指すべく、ひたすら北上する。下写真。

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旧中山道沿いに戻ってすぐに 清水川 を渡る。ここは清水緑地として整備された遊歩道があり、かつての外堀跡である。

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その少し先、名鉄名古屋本線の線路を通過する前に、中山道が折れ曲がるポイントがあった(下写真)。ここが、前述の鮨詣街道(尾張街道、岐阜街道)との交差地点である。

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そのまま鮨詣街道を北上すると、JR東海道線の高架下を通過する。この脇に「鮨詣街道」の解説板があった。少しだけ東へ移動し、再び自動車道路を北上する。すぐに鮨詣街道に合流しそのまま北上していく。所々に古民家が残っていた。下写真。

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 鮨詣街道(尾張街道、岐阜街道)

関ヶ原の戦い で勝利した徳川家康は、戦後論功行賞の中で、交通の要衝であった美濃国内の平野部を自身の直轄領に定める。以後、旧岐阜城の城下町であった 岐阜町に美濃国奉行所が開設される。
1619年、尾張藩 に美濃国内での領地が加増された際、岐阜町も尾張藩領となり、幕府直轄の奉行所が閉鎖される。しばらく、無役所時代が続くも、町人らの要望により 1695年、尾張藩直轄の奉行所が設置される。美濃国内の尾張藩領スペースは約 13万石で、長良川、木曽川、揖斐川 の水運のほか、木曽、東美濃の山林、和紙の産地などを抑え、その中心都市・岐阜町は長良川の水運の湊町、商人の町として大いに栄えたという。
こうして江戸時代を通じ、美濃国では岐阜町が幕府領(後に尾張藩領)、加納宿は加納藩領、他の地域は加納藩領、高富藩領、磐城平藩領、大垣藩 領など、大名や幕府、旗本 30家ほどが分割統治することとなった。

さて、鮨詣街道であるが、長良川の鵜飼で獲れた鮎を飯とともに発酵させた鮎飯を、江戸 の将軍家へ献上するために搬送した街道とされる。この鮎飯は、岐阜町が幕府直轄領(天領)であった江戸初期から江戸へ運ばれるようになり、 1619年に岐阜町が尾張藩領へ移籍されても、引き続き、尾張藩 から幕府への献上品であり続けた。

鵜が獲った鮎は、御詣所に運ばれ、まず塩漬けにされる。それを塩出しした後、エラなどを取って腹に飯を詰めて桶に並べ、水を通した飯を上からふりかけ、これを繰り通して桶一杯に漬け込む。これが運ばれるうちに発酵し、江戸に着く時期に食べごろになったという。
毎年旧暦 5~8月までの間に、江戸時代の前半には 20回、後半には 10回(最後は 1862年)、鮎詣は岐阜から 江戸 まで運ばれた。老中証文を受けた特別輸送で夜も休まずに運んだため、わずか 4~5日間で江戸に届けられたという。



途中、名鉄各務原線の踏切を越えたところの溝旗公園内に溝旗神社があったので、少し立ち寄ってみる(下写真左)。境内は広大であったが、訪問者は全くいなかった。

さらに北上していると、その脇にマックスバリュがあったので、少し休憩に立ち寄る。そのまま県道 248号線を横断し、鮨詣街道沿いに北上を続けると、伊奈波通の交差点で善行寺に行き着いた(下写真右)。
安産の神様ということで、平日の昼間にもかかわらず、女性の参拝者が多かった。

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そのすぐ脇の路地をさらに北上すると(この路地沿いに、 尾張藩 開設の 岐阜町奉行所跡 があった)、本町の交差点で県道 256号線と合流する。ここから東へ進んでいると、正面の山上に岐阜城が見えてくる。下写真。

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正面突き当りのカーブを左折すると、岐阜公園前だった。自転車を止めるべく、少し北へ移動し駐輪場に入る(無料)。さて、いよいよ徒歩で岐阜公園を散策してみた。

まずは岐阜市歴史博物館を訪問したかったが、工事中で見学できず。来年の大河ドラマ『麒麟がくる』での集客をねらって、今から改装中とのことだった。同じ敷地内の岐阜公園で菊人形・菊花展が開催されていたので、少し中を散策してみる。すぐ脇に、板垣退助の銅像があった。



 板垣本人に「板垣死すとも自由は死せず!」と回想させた地

ここは、普通選挙、政党政治の実現を求めて自由民権運動を推進していた、自由党党首・板垣退助(1837~1919年)が岐阜を訪問し演説した帰りに暴徒に刺された場所である。
1882年4月6日 13:00、中教院があった当地にて参会者百余名を前に板垣退助(45歳)が演説を終え、玄関から数歩出るや、「国賊」と叫んで相原尚聚(25歳。氏族出身で、愛知の小学校教員だったが、無断欠勤など繰り返したという)が板垣の胸を短刀で刺す。しかし、古武術の達人でもあった板垣は傷を負いながらも、自ら相原を取り押さえ官憲に突き出したという。

テロリストとなった相原は終身懲役刑に処せられ北海道へ流刑となるも、 1889年の明治憲法公布に際し特赦にて釈放される。この特赦嘆願書を明治天皇に提出したのは、板垣本人であった。これを知った相原は上京し板垣を訪ね、謝罪する。しかし、地元に帰郷した相原に職はなく、仕方なく故郷を捨て、当時、政府が募集していた北海道開拓団に応募し、再び北海道の地を目指すも、岐阜沖で船から投身自殺を図り 32年の生涯を終えたという。



そして、金華山ロープウェイの山麓駅に向かう。先に乗車券を購入して、発車時にスタッフの方に見せる仕組みだった。前日夕方に、JR岐阜駅内の観光案内所でパンフレットをもらっており、そこにロープウェイの割引券がついていたので、券売機(1,200円)ではなく有人カウンターで往復分を購入した(1,000円)。
平日午後だったので、ガラガラだった。おかげでロープウェイの端っこに陣取れた。だんだん高度を増す風景をしっかり堪能できた(下写真)。

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ロープウェイの乗り場を出発後、すぐ眼下に岐阜城 山麓居館跡(千畳敷遺跡)が一望できた(上写真の下半分)。平時には、この山裾部分で城主らが生活していた。信長が将軍足利義昭を招いたのも、武田信玄上杉謙信徳川家康 らの使者と面会したのも、この山麓居館だったわけである。

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1567年9月18日の織田信長による岐阜城入城前、ここには斎藤道三、義龍、龍興の居館があった。
斎藤道三が築き上げた稲葉山城とその城下町(井ノ口と命名されていた)を手に入れた織田信長は、ここを「岐阜」と改名し、畿内へと戦いを進める一方、城の山麓部分に豪勢な宮殿を建て、多くの来客をもてなしたという。そのうちの一人であったポルトガル宣教師ルイス・フロイスが「地上の楽園」と称えた記録を残し、また、京都の公家である山科言継らもその日記に訪問時の感想を書き記している。

なお、近年の発掘調査により、斎藤時代の山麓居館や山頂城塞は一度、焼失されていることが判明し、信長はその跡地に邸宅と庭園、城郭を建設したと考えられている。調査では、斎藤氏時代の石階段などが発見されている。信長は、この斎藤氏時代の居館地形をそのまま利用しつつ、さらに威厳を見せつけるべく、巨大な石材を持ち込み入口付近に配列させたり、大量の石垣を邸宅内に敷き詰めていたと考えられている(下絵図)。

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なお、1567年に織田信長が岐阜に本拠を移した時、下級武士であった 山内一豊(1545~1605年)も岐阜城下に移住する。その直後に千代を迎え新婚生活を始めたという。その後、秀吉、家康に従った一豊は、長浜、掛川、土佐の国主へと出世していった。
この妻の千代は初代郡上八幡城主の娘とされるが、幼少時に父親を亡くして以降、母親と共に各地の身寄りを転々とした後での安住の地であったという。



頂上駅 に到着すると、登山道の石階段を上っていく。尾根部分に曲輪が設けられており、かなりコンパクトな城塞だったことが分かる。

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この日は晴天で、岐阜城天守からの眺めも最高だった(入館料 200円)。
また天守内は展示資料館となっており、大人から子供まで楽しめる工夫が凝らされていた。
続いて、隅櫓を改修した資料館も見学してみる。資料館というより、岐阜城に関する図書館のようで書籍資料が陳列されているだけだった。



 岐阜城(稲葉山城)

岐阜城は金華山(稲葉山)に築かれた山城で、頂上付近の城郭施設からなる山上部と、城主の居館が存在した山麓部、そして岩山を活かした天然の要害である山林部の 3構成で成り立っている。 2011年、山麓居館を含めた総面積約 209ヘクタール分が国の指定史跡となる。

伝承では鎌倉時代前期の 1201~04年ごろ、幕府官吏であった二階堂行政が稲葉山(金華山)に初めて要害を築いたとされる。以後、二階堂氏、および分家の伊賀氏一族が稲葉山に住し、室町時代には美濃国の守護代・斎藤氏一族やその家臣の長井氏が住したと伝わる。
この長井氏であるが、当初は守護代・斎藤氏の家臣であったが、度重なる内乱で力を失った斎藤氏に代わって台頭するようになる。最終的に 1525年6月、長井氏はクーデターを起こし、守護・土岐氏と斎藤氏一族らを一時、武芸谷(今の岐阜県関市)へ追放する。しかし、同年 10月には越前・朝倉氏と近江・六角氏の介入で、長井氏は尾張に一時退去するが、このときに長井氏が最後に拠点としたのが、稲葉山城だったという。

これ以降も両勢力間で度々戦闘が繰り返され、結果的に美濃における長井氏の権力は増大する。この過程で、元々は京都・妙覚寺の僧侶であった、斉藤道三の父・長井 新左衛門尉が、長井家中で頭角を現し、次第に下剋上の下地を作ったと考えられている。
そして、その子の道三(?~1556年)であるが、当初は長井規秀と名乗り、父の跡を継いだ後、何らかの形で長井氏の惣領となる(守護・土岐氏出身の深芳野を妻とした)。さらに守護代・斎藤氏の名を継いで「斎藤利政」と改名する。利政は、稲葉山城と井口(現在の長良川北岸)の長良川両岸の交易集落を城下町として整備し、力を蓄えていった。

この時代、国境を隣接する 尾張 の織田信秀(信長の父。1511~1552年)の率いる尾張の国人衆とも度々戦火を交え、一時は稲葉山城下まで攻め込まれたという(1544年)。最終的に尾張衆の撃退に成功し、さらに稲葉山頂や山麓居館を本格的に増強、整備することとなった。
引き続き、交戦が続けられた織田信秀とは 1548年、娘(1535?~1612年?。本名を帰蝶といい、濃姫は通称。「美濃出身の高貴な女性」という意)を信秀の息子・信長(1534~1582年)に嫁がせ姻戚関係となって和睦する。1550年頃に主君で義父ある守護・土岐氏を追放し、本格的に美濃の実権を握ると、稲葉山山麓や井口の長良川沿いは美濃の政治、経済の中心地となる。1554年に斎藤利政は出家して「斎藤道三」と号し、家督を旧守護・土岐氏出身の妻との息子であった義龍に譲るも、1556年春にその義龍に攻められて討死する。

その義龍も 1561年に急死し、美濃の斎藤家が弱体化する中、1567年に義龍の嫡男であった龍興(19歳。斎藤道三の孫)を伊勢に追放し、美濃国の占領に成功した織田信長が稲葉山城に入城する。信長は直後より、山頂部、山麓居館の大修築工事に着手したのだった。
なお、美濃支配にあたり、道三の娘で、守護・土岐氏の傍流・明智氏の血を引く濃姫を 正妻とした信長は、この親族関係からも自身の美濃支配の正当性を強調したと考えられている。

1576年に信長が 安土城 に移った後、城主はめまぐるしく変わるが、信長の孫・秀信(1580~1605年)が城主であった 1600年、関ヶ原の戦い の前哨戦がこの岐阜城で勃発することとなった(下絵図)。

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さて、清州会議で一躍有名となった三法師が、この織田秀信である。
1582年6月の本能寺の変の際、父・信忠(1576~1582年)の居城・岐阜城に在城していたが、保護されて清州城へと避難する。同年、清州会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか 3歳で織田家の家督を相続する。
1588年、9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下侍従を任官した。 1592年9月9日、朝鮮出兵 先で豊臣秀勝が没すると、秀吉の計らいで 安土城 から美濃国岐阜 13万石を領有するに至る。

そして、1600年の関ヶ原の合戦 では西軍石田方に組みし、東軍の 福島正則池田輝政山内一豊 等と木曽川を挟んで対陣するも敗走する(上絵図)。追い詰められた秀信は、大垣城 の石田三成に援軍を要請する一方、岐阜城に籠城する。
しかし、西軍本隊は援軍を取りやめた上、もともと岐阜城は水の手に乏しく籠城向きの城ではなく、東軍にかつて岐阜城主だった池田輝政(1585~1590年城主。1590年に徳川家康が関東へ移封されると、 三河吉田城 城主となっていた)がいたこと(岐阜城の弱点であった水の手口から攻め上がったと伝わる)、そして兵力不足もあって、秀信は弟・秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏開城する。
戦後、秀信は高野山に追放される。祖父・信長に恨みを抱いていた高野山の僧兵らの怨念を一身に受けながらの生活を強いられ、1605年5月に 26歳で病死する。

岐阜市

その後、美濃国は徳川領となり、岐阜城は廃城となる。その山上の天守閣や櫓、石垣、山麓の居館等は解体され、 1602年から築城工事が着手された加藤城へ移築されたのだった。
江戸時代は城跡として古地図に記載されている(上絵図)。
1910年に模擬天守が建設されるも、1943年2月17日早朝に失火のため焼失してしまう。戦後の 1956年に天守閣が再建され、今日に至る。


見学後、再びロープウェイ乗り場に向かう。途中の休憩コーナー上は展望スペースとなっており、ここでも絶景が楽しめた。関ヶ原大垣名古屋 港なども目視できた。
下写真は、西方向。

岐阜市

下写真は、南方向。

岐阜市

下写真は、東方向。

岐阜市

下写真は、北方向。

岐阜市

さて、続いて自転車を回収し、県道 256号線を北上して長良川を渡る。長良川の河川敷では、鵜飼で有名な船が多数、停泊していた。

対岸へ渡ると、県道 163号線沿いを西進する。長良川国際会議場の交差点を過ぎたあたりに、崇福寺があった(下写真左)。織田信長父子の位牌堂があるという。

岐阜市 岐阜市

さらに西進し、道三塚を訪問した(上写真右)。斉藤道三の墓である。
実子の斎藤義龍と長良川で戦って討死し、首をはねられた後、胴体だけが当地に埋められたという。

見学後、さらに西へ進み、金華橋通りを南下して、長良川を渡る。ちょうど、この一帯でかつて長良川の戦いがあったわけである(下写真)。前後から挟撃を受けた道三はその本陣で打ち取られ、首だけ持ち去られて義龍に献上されたのだった。


斉藤道三 は、主家の長井家を継承し、さらに守護代・斎藤氏の名跡を乗っ取り、最終的に美濃平野部を平定すると、1550年頃に、美濃国の守護で妻の父であった土岐頼芸を、大桑城(今の岐阜県山県市大桑)から追放し、はれて美濃国の戦国大名となる。
1554年、その妻(深芳野)との長男であった義龍(1527~1561年)に家督を譲り、自身は鷺山城(下写真)に隠居する。形式的に美濃守護職を土岐氏の血統に返上した形をとるも、道三は別妻との間にできた息子 2人をかわいがり、義龍をないがしろにしたため、両者は次第に不仲となる。

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1555年11月、義龍は病気を理由に呼び出した弟 2人を暗殺すると、稲葉山の城下町に滞在していた道三は驚愕し、すぐに手勢で城下町を焼き払い、長良川を渡って大桑城(かつての守護・土岐氏の居城)へ撤退する。

翌 1556年4月、道三は雪解けを待って大桑城を出陣し、4月18日、鶴山(上写真)まで南下して布陣すると、さらに陣を前進させ、ついに 4月20日、両軍が長良川を挟んで対陣し、中の渡しで激戦がスタートする。
義龍の別動隊が後方から道三軍に攻めかかり、土居口でも激戦が行われたという。

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この合戦は最終的に義龍が勝利し、道三は敗死する。首を取られた道三は義龍の陣所で首実検された後、長良川河畔で晒されたという。
また、その胴体部分は崇福寺の南西(現在のメモリアルセンター付近)に埋葬されたが、塚は度々、長良川の洪水に見舞われたため、1837年に常在寺(斎藤道三以後の斎藤氏 3代の菩提寺を司った)の住職によって現在の場所に移されたというわけだった。

家督を継いだ義龍は、意思決定機関として宿老制を敷く。また他国の有力大名が採用したような、新しい知行体制や軍役体制を構築し、道三の代では見られなかった新政策を次々に打ち出し大改革を断行していった。しかし、1561年に義龍が急死すると、子の義興(13歳)が跡を継いだが、斉藤氏の弱体化は決定的なものとなってしまうのだった。

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なお、道三の別妻・小見の方は、可児郡明智城の城主・明智光継の娘と伝えられ、明智光秀の伯母にあたる。この姻戚関係から明智光秀が道三に砲術の指南を受けていたという伝承も残る。
この長良川の合戦でも明智氏は道三方に与したため、義龍により居城の明智城を攻められ、辛うじて脱出した明智光秀は流浪の生活を強いられることとなり、最終的に遠縁の親族にあたる織田信長の幕閣に参画するのだった。


金華橋を渡ると、脇の細い通路を自転車で降りていく。そして本町3丁目の交差点から、県道 256号線(ドン・キホーテの交差点から県道 157号線に変わる)をまっすぐ南下し、名鉄岐阜駅前に出る。正面の信号を渡って JR岐阜駅前に至ると、駅南口へ行ける自転車、歩行者専用の高架下通路があった。そのまま自転車を返却した。

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