BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2019年9月上旬


山梨県 甲府市 ~ 市内人口 19万人、一人当たり GDP 379万円(山梨県 全体)


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  甲府ホテル旅館協同組合の レンタル自転車は電動式だけで、一日 1,000円 と高額だった...
  甲府駅北口 ~ 武田神社までの 路線バス(190円、乗車時間 10分強。30分に一本運行)
  武田時代の 甲斐首都・府中城下町の 今昔マップ ~ 家臣団屋敷、寺院、町人町
  躑躅ヶ崎館跡(武田神社)に残る (西曲輪)巨大土塁と 堀、虎口門
  主郭(中曲輪と 東曲輪)に立地する 拝殿、宝物殿、大手門と土橋、巨大土塁、堀
  大手門外にあった 武田時代の丸馬出し遺構 と 徳川時代の馬小屋専用曲輪
  鎌倉時代風の中世スタイルの居館城塞跡が 今も残る奇跡
  【豆知識】武田信虎 と 甲斐首都「甲府」の誕生 ■■■
  【豆知識】甲斐武田氏滅亡 と 織田信長の占領政策 ■■■
  【豆知識】武田戦後政策をめぐり 亀裂が入った織田・徳川同盟 と 本能寺の変 ■■■
  【豆知識】徳川時代の「躑躅ヶ崎館」大改築から、豊臣時代に廃城 へ ■■■
  円光寺(信玄妻・三条の方 墓所)と 信玄火葬場跡(3年間の遺灰秘匿の後に)
  足利義昭による信長包囲網で暗躍した 信玄の 父・武田信虎の墓所、大泉寺
  JR甲府駅前マップ ~ 甲府城、信玄像、太宰治の足跡
  文豪・太宰治の 妻・石原美知子(1912~1997年)の実家跡 と 新婚生活の貸家
  甲府城(舞鶴城)マップ
  甲府城の 天守台、本丸曲輪、鉄門、謝恩碑、天守曲輪、鍛冶曲輪、内松陰門
  【豆知識】甲府城の 歴史 ~ 浅野長政・幸長父子による 芸術的な近世城郭の誕生 ■■■



18切符を使って、成田空港第 2ターミナル駅から総武線を経由し(8:02発)、東京駅 からは中央線に乗り換えて、甲府入りした(12:39着)。
途中、甲斐大和駅で 7分ほど停車したが(下写真)、武田勝頼自刃の地とされる山道まで結構、駅から距離があるようで途中下車は断念した。

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甲府駅到着後、駅北口にある投宿先 ホテル・クラウンヒルズ甲府 で荷物を預かってもらい(このホテルは冷たい麦茶がフロントに置いてあったので、非常に重宝させてもらった)、早速、甲府観光をスタートする。

ホテル・フロントでレンタサイクルについて質問するも、スタッフの方はご存じなかったようで、ネットで事前調査していた、甲府駅北口側の唯一の 提携ホテル、ステーション・ホテルへ直接、行ってみることにした。
自転車を借りたいと申し出ると、すぐに申込用紙を出してくれた。が、「一日 1,000円」と記載されている ので、値段の張る電動自転車ではなく、普通の自転車を借りたいと申し出ると、それは置いていないという。
やや困惑顔でいると、フロントの方に「どこへ行くご予定ですか?」と聞かれたので、武田神社、信玄火葬場、善光寺(武田信玄が第四次川中島の戦いで、信濃善光寺から分祀して建立した寺院)、これに隣接する 東光寺(信玄の諏訪遠征で降伏した諏訪頼重が幽閉され、最終的に切腹させられた寺院)を挙げてみる。
結局、値段は思ったより高いし、午後から雨が降る天気予報だったので、自転車はやめておいた。駅前の北口正面から続く、武田通り(県道 31号線)を徒歩で北上することにした。下写真。

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9月初旬 はまだまだ残暑がきつく、ましてや盆地とあって涼しい風も吹いていなかった。汗が噴き出てくる(上写真はバス停「梨大北」から、甲府駅までの坂を見下ろしたもの)。

坂道途上の武田通り沿いに個人営業の自転車修理屋さんがあったので、自転車を半日借りたいと申し出てみると、早めに連絡くれればね。。。と言われてダメだった。逆にいえば、早めに連絡すれば、電動自転車でない、普通の自転車を貸してくださるのかも???

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そして、山梨大学キャンパス前を通過する(上写真左)。好奇心から、学食をトライしたかったが、夏休みだった。
ここまでのバス停で、路線バス「100円」という広告が大々的に記載してあったので、てっきり武田神社までの往復ルートは固定費用だと思い、タイミングよく来た路線バスに乗車する(実際は、この「梨大北」から「甲府駅」までの運賃が 100円)。結局、バス停「梨大北」から 2 駅分だけ乗車しただけで、150円も徴収されてしまうことになった!(甲府駅からの全行程だと 190円)。

下地図は、戦国期、江戸期、現在の地図を合成したもの。武田時代の町割りと、江戸時代の甲府城を中心に形成された町割りが、同時に併記されている。そして中央の赤丸が、バス停「梨大北」。支払ったバス運賃、明らかに駅からの距離計算がおかしい気がするのだが。。。

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終点の武田神社前でバスを下車すると、いよいよ正門から境内に入ってみる。下写真左。

さすが、天下にその名を知られた武田信玄の居館跡だけあって、観光バスなどが度々、乗り付けていた。平日の昼間だったにもかかわらず、少ないながらも訪問客が途切れることはない様子だった。

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武田神社の周囲には巨大な土塁と水堀が残っていた。上写真右。
なお、この神社正門であるが、往時には出入口はなく、城内(主郭部分)へは東西北のみ 3箇所に城門が設けられていただけである。

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土塁遺構が特によい状態で保存されていたのは、神社境内の 西面(西曲輪跡)だった。主郭(中曲輪)との間にあった土塁や空堀は手つかずの印象で、やがて自然界に浸食される文明の産物という意味で、まさに「兵どもが夢の跡」の言葉が脳裏をかすめる。上絵図。

下写真左は、主郭(中曲輪)の西面土塁。この先が西曲輪で、入口すぐにトイレがある。
下写真右は、西曲輪と主郭との間に掘削されていた空堀跡。

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下写真は、西曲輪の南面入口の遺構。非常によく整備されており、往時の虎口門の様子が手に取るようにわかりやすかった。

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堀側と城内側に二重の城門が設置され、その間に空間が設けられていた虎口スタイルだが、近世城郭のそれと比較して規模がこじんまりとしており、築城年代や動員兵数の時代感覚差を痛感できる遺構だった。中世色が濃い武田時代にあって、数万単位の兵力が鉄砲や大砲までも動員して攻め寄せる攻城戦は全く想定していなかったに違いない。

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下写真は、内堀から西曲輪正門を見たもの。水堀にかかる「みその橋」は土橋だった。

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下写真は、西曲輪と 主郭(中曲輪)との間に設けられた水堀。

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下写真左は、西曲輪の西端まで移動して、撮影したもの。北にそびえるのが、要害山城。
下写真右は西曲輪の南面。奥に先ほどの「みその橋」が見える。

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往時には、この「みその橋」の外側に馬出しを巨大化した梅翁曲輪の大土塁と外堀が設けられていたわけである。

さて 拝殿参拝後(下写真左)、その東隣にあった武田宝物殿に入館してみると(下写真右)、受付があり入館料が 600円とあったが、ちょっと高いので見学を断念する。内部はかなり薄暗い照明で、古い絵巻などの保存が優先されている様子だった。昭和の香りが漂う古い館内がいい雰囲気を醸し出していた。なお、武田神社内で唯一、クーラーが効いている場所で、心地よかった。

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そのまま宝物殿前の出口から、武田神社を後にした(下写真左)。
と、この 主郭部(東曲輪)の高く盛られた東面土塁と、深く掘削された内堀が目に飛び込んでくる(下写真右)。
草木が生えて全貌が見えずらかったが、異様に高く築造されていることが伝わってくる、見応え抜群の遺構だった。かつて 主郭(東曲輪と中曲輪の 2部構成)の大手門だった場所で、城内に出入りする人々を威圧する意味でも、最も力を入れて建造されていたに違いない。

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この 大手門外 は近年の発掘調査により、武田時代と徳川時代の城郭遺構が発見されたようで、大手門東史跡公園(下写真)として整備されていた。下写真。
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武田時代、この大手門外には丸馬出しと呼ばれる出入口を守る防御施設が増設されており、外周に 三日月堀(全長約 30 m、堀幅約 4 m、深さは約 2 mの半月形の堀跡)とその内側に土塁が築造されていた。丸馬出しは、武田氏がよく用いた築城技法の一つである。

この丸馬出しのすぐ外には家臣や職人の屋敷が立地しており、大手門外からすぐに城下町が展開されていたようである。

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ちょうど、下航空写真の中央右「大手門周辺ゾーン」にあたるポイントだ。

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徳川時代に入ると丸馬出しは埋め立てられ、代わりに、より巨大な曲輪が整備されたようである。その周囲には自然石を集めた野面積みの大手石塁が構築されていた(下写真左のように、大手門東史跡公園を取り囲むように半周分が現存する)。この新設の曲輪内には主に 厩屋(馬小屋)が設けられていたという。
なお武田時代も含め、この徳川時代も、大手門から主郭に至る正門は土橋であった。

また、下写真左の後方左手に見える高台が、躑躅ヶ崎という小山。この山頂部にも、簡易な守備陣地や物見台が設置されていた。武田時代は「お館」というのが通称であったが、この城館が東に躑躅ヶ崎と呼ばれる山を有したことから、広く躑躅ヶ崎の館と呼ばれるようになったという。

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上写真右は、この大手門東史跡公園を南下し、武田神社の正門東まで来たところ。緩やかな丘陵斜面になっていることが分かる。

この神社東側の旧大手門周辺ゾーンは、戦国時代の館の正面玄関にあたり、武田信玄をはじめ、多くの 武将、文化人が通った道である。現在、神社南側の水堀を渡る入口「神橋(下絵図)」は、大正時代に武田神社が創建された際、参道として切り開かれた部分である。
下絵図 は、ここまでの移動ルート。

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武田神社を一周巡ってみた感想としては、戦国時代後期から続々と登場する巨大城郭とはほど遠い、鎌倉時代風の中世スタイルの居館城塞で、かつては全国各地で同種の居館がたくさん存在していたのだろうという思いがよぎった。

今日までも、こうした居館レベルの遺構がしっかり残されているのは、ここが名門武田家の居城跡であり、また南に新築された 甲府城(舞鶴城)の城下町から離れた郊外に立地したことが大きいと思われる。また、徳川家康が武田旧臣らを厚遇し、江戸期もその子孫らが甲府に居住したことから、彼らによって居館跡地は保護されていたと思われる。

1582年8月に徳川家康が 甲斐・信濃を併合すると、天守閣を伴う大城郭へと改修された躑躅ヶ崎館城であるが、1590年に甲府城の建設が始まると、多くの城郭資材がはがされ転用されてしまうのだった。


 武田信虎 と 甲斐首都「甲府」の誕生

祖父と父の相次ぐ死により、10代前半で甲斐守護職、および 18代武田家当主を継承した武田信虎は、領内に割拠した武田一門の内紛を平定しつつ、駿河の 今川氏親(1473~1526年。今川義元の父)からの軍事介入の排除にも成功して、20歳前後で甲斐国の平定を成し遂げる。
そして 1519年、それまでの 本拠地・川田館(山梨県甲府市川田町。いわゆる、奈良時代から 甲斐国府、守護所が開設されていた石和エリア一帯)から、甲府盆地北の相川扇状地に本拠地を移転させる大事業に取り掛かる。下地図。

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この時に本拠地として建造されたのが 躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)で、東西を藤川と相川、そして山々に囲まれた丘陵斜面上に形成された三角州に位置するものであった。
筆者が訪問した 2019年9月は開府 500周年ということで「武田信虎」がクローズアップされており、駅前に信虎像が新設され、また JR甲府駅北口構内では臨時で信虎展示ブーズが設けられていた。

信虎による新居館は城下町と一体で建設が進められ、また甲斐各地に割拠した家臣団を城下町に集住させるべく、特に居館の南方斜面一帯に格子状に整備された道路に沿って、武家屋敷や町人町、寺社群などが配置される。この過程で反対する国人らの反乱もあったが信虎により武力鎮圧され、甲斐で強権的な中央集権体制が構築されるきっかけとなった。

このとき信虎は、将軍・足利義晴とも親交があり、この甲斐国の新首都の都市計画は 京都 の条坊デザインを参考にしたと考えられている。実際、躑躅ヶ崎館は 将軍邸である 花の御所(室町第)と同様の正方形型の 居館(200 m × 200 m)で設計されており、また建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られるという。下絵図。

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同時に、府中(現在の地名は「古府中町」といい、かつての名残りが残る)と命名した新首都の居館と 城下町一帯を守備すべく、その外縁部には詰城や支城として城砦群が築城される。その代表的なものが、館の北部に立地した 要害山城(積翠寺城、標高 770 m)や 湯村山城、南の平野に立地した一条小山の城砦であった。武田信玄は、この最大の詰城であった要害山城で誕生している(1521年)。

以後、信虎、信玄、勝頼と三代 60年もの間、甲斐武田氏の本拠地として栄え、戦国の世にあって珍しく戦火を免れた都市に成長するも、1582年3月、織田信忠の大軍が甲府盆地に乱入する直前、武田勝頼一行は 新府城 とともに、この躑躅ヶ崎の居館にも火を放ち、東にある 小山田信茂(1540?~1582年)の居城・岩殿城を頼って甲府を脱出する。最終的に織田方に与した小山田信茂の裏切りに遭い、山中で織田方の追撃軍においつかれ、披露困憊した勝頼以下主従 40数名は全滅させられるのだった。武田勝頼・信勝父子の首は織田信長の元に届けられ、京都 にさらされることとなる。


 甲斐武田氏滅亡 と 織田信長の占領政策

武田家滅亡後、甲府には織田信長の古参家臣で信頼の厚かった 河尻秀隆(1527~1582年)が入封し(下地図)、躑躅ヶ崎館を一部再建して入城する。

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このとき、長年苦しめられてきた武田やその遺臣らに対し、織田信長は徹底的な報復弾圧を命じており、また、自身の家臣である河尻秀隆や 駿河を分与された徳川家康 に対し、武田遺臣や地元国人衆の取り込みを禁じていた。生活の糧を失った旧武田遺臣や国人衆は不満を高め、山岳地帯などでゲリラ戦を展開するようになり、甲斐、信濃一帯では不安定な領国経営を強いられることとなる。

河尻秀隆や 滝川一益、森田長可らは信長の命令通り、武田遺臣らに頼らない軍事的な圧政で現地に臨むも、遠江、駿河を併合した徳川家康は積極的に武田遺臣らを匿い、逆に彼らを使って別の遺臣らを 勧誘・調略して人材登用を進めようとしていた。その代表的な人物が 平岩親吉、岡部正綱、折井次昌、依田信蕃、米倉忠継らであった。 特に岡部正綱の 一門・岡部元信が高天神城で籠城した際も、家康としては配下へ勧誘したかったが、信長の厳命で貴重な忠義の士らを全滅させてしまった後悔の念もあったわけである

さらに、最後に武田勝頼を裏切り、領土を安堵されていた甲斐の 有力国人・穴山信君とも親交し、武田遺臣への接近窓口としても期待していた節があったことから、こうした家康の動きは、甲斐統治に手を焼く河尻秀隆の耳にも入り、危機感と不満、反感を募らせた密書を信長に送りつけるのだった。ここに至り、いよいよ信長は家康排除を決意することとなったと推察される。


 甲斐武田滅亡の戦後政策をめぐり亀裂が入った 織田・徳川同盟 と 本能寺の変

そして、信長は明智光秀を接待役に、家康、穴山信君両名を 京都 の町観光に招待し、その場所で暗殺することを命じたと考えられる。これに危機感を募らせた家康は、同行の家臣団に 酒井忠次石川数正本多忠勝井伊直政、榊原康政ら歴戦の重臣らを伴って上京しつつ、明智光秀らとコンタクトを持ったわけである。

そして、6月2日に光秀により 織田信長、信忠親子が誅殺される(本能寺の変)と、信濃、甲斐、上野の武田旧領での統治に手を焼く 滝川一益 や森田長可などは早々に任地を捨て本国へ逃げ帰ってしまう。唯一、信長の 最古参家臣・河尻秀隆だけは甲府にとどまり、武田遺臣らによる国人一揆軍の襲撃をまともに受けて落命するのだった。

家康は伊賀越えを経て、6月4日に 伊勢 から 本国・岡崎城へ帰り着くと、直ちに 米倉忠継、折井次昌ら武田遺臣を使って、甲斐、信濃への調略作戦を本格的に進めることとなり、早速、翌 5日には間者が甲斐各方面へ派遣される。

また翌 6日には岡部正綱を 甲斐・下山(穴山領)に派遣し、拠点となる菅沼城の築城を命じるとともに、本国に逃げ帰る途上に一揆勢の攻撃で命を落とした穴山信君の旧領、およびその家臣団を慰撫し、自身の従属下に置くことに成功する。あわせて、甲府にいる信長家臣の河尻秀隆にも調略をしかけたとみられるが拒否され、いよいよ両者の対立は決定的となる。
家康は武田遺臣らの国人一揆を支援し河尻秀隆を排除すると、すぐに軍を進めて甲斐へ進駐する。 これより早く、関東の北条氏が上野を併合、信濃へ進んで甲府北まで進軍しており、徳川家康は即座に甲府盆地へ兵を展開して、北条軍と対陣したのだった。最終的に同盟締結により「天正壬午の乱」を制した徳川家康であったが、その実、かつてより根回ししていた武田遺臣らの調略が功を奏したといえる。


 徳川時代の「躑躅ヶ崎館」大改築から、豊臣時代に廃城 へ

翌 1583年に完全に甲斐、信濃を平定した家康は、平岩親吉と岡部正綱を派遣し躑躅ヶ崎館に大改修工事を施させ、城下町の再整備と領民らの慰撫を進めさせた。この時、城域が大幅に拡張され天守台も建設される(下絵図)。

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なお、武田信虎時代の躑躅ヶ崎館は、200 m × 200 m の正方形型の 主郭部(中曲輪と 東曲輪)のみで、典型的な中世の武家居館スタイルであった。そして、武田信玄の時代に、西曲輪が増設され 3曲輪体制となる。以降、主郭郭は石積みで仕切られて東曲輪側で政務が行われ、中曲輪側は当主の日常的な居住館、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。水堀と空堀が組み合わされて周囲を取り囲んでいた。

そして、この徳川時代に 味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪の 3曲輪が外側に増設されると(下絵図)、外堀と内堀の二重堀で囲まれて強化され、城域が一気に倍増されることとなる。
この時、甲斐武田氏の築城術の特徴である虎口や 空堀、馬出し、三日月堀(特に山本勘介の築城術と伝承される)などの技巧も大いに応用されたという。

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1590年、徳川家康の関東移封後、豊臣秀吉の命により 羽柴秀勝・加藤光泰らが甲斐に入封すると、現在の甲府駅近くにある 一条小山(もともと、ここには一条忠頼の居館があった)に 甲府城(舞鶴城)の築城が進められる。間もなく躑躅ヶ崎館城は使用されなくなり、「古城」、「御屋形」跡と通称されるようになっていく。また、城下町もより南へ移転され、旧府中は完全に郊外の田舎地帯へとなり下がることとなった。

そして、長らく放置された後、1919年、地元有志によって武田神社が建立されたわけである。また今日、「武田氏館跡」として国史跡に指定されている他、日本 100名城にも選定されている。



続いて、ホテル・スタッフの方に武田神社から徒歩 10分程度だとアドバイスされていた、武田信玄の火葬場跡を訪問すべく、武田神社東面の大手門方向から出て、東に連なる山々の山麓エリアを目指す。すると、立派な境内を有する、山梨縣護國神社に入り込んでしまった(下写真左)。

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寺社事務所の方に聞いて、本殿裏に続く竹林道を通り抜けていくと、つつじが崎学園という幼稚園の裏手に出る。そのまま道なりに東へ進むと、墓地エリアに至り、道なりに下っていくと、信玄の 後妻(三条の方、1521~1570年。切腹させられた 長男・武田義信の母。信玄の最初の 正室「上杉の方」は難産で早世していた)を祀った円光寺があった。とりあえず、案内板を撮影する(上写真右)。
この寺名はもともと 清光院(後に成就院へ改称)といったが、信玄(1521~1573年)よりも先に死去した三条の方の法名をとって、円光寺へ変更されたという。

この辺りから、信玄火葬場跡に関する案内板がいくつも目に飛び込んでくるようになり、矢印通りに移動すると無事にたどりつけた。下写真。

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1572年12月22日に三方ヶ原の戦いで徳川軍を潰走させ、さらに家康軍を孤立化させるべく、三河と遠江の国境封鎖作戦を展開中、武田信玄(53歳)の病状が悪化し、やむを得ず三河から甲府への帰途につく。
しかし、1573年4月12日、三州街道上の寒原峠から駒場に抜ける山中で信玄は息を引き取ってしまうのだった。その遺体は付近の 信州・駒場(信濃国伊那谷)の長岳寺に運ばれ、秘密裏に火葬される。

当時、土葬が一般的だった中で、武田信玄が火葬された理由は、 3年間、その死を秘匿すべし、という遺言を厳守するためであった。残りの帰路は、実弟の武田信廉を影武者に立てて甲府まで帰陣する。
そして、遺骨はそのまま秘密裏に当地に安置され、3年後に改めて、武田二十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附した、という建前になっているわけである。このため、実際に遺体が火葬された場所ではなく、形だけの火葬が行われた場所、と言える。
1576年4月16日、正式に武田家の家督を継いだ 名代・武田勝頼(1546~1582年)は塩山の恵林寺で盛大に信玄の本葬を行い、ここに遺骨を埋葬し墓所に定めた。以後、地元民らはこの岩窪の墓所を魔緑塚と呼び、恐れて近づかなかったという。


さて、先ほどの山梨縣護國神社の事務所の方からいろいろ地元話もお伺いでき、ちょうど筆者が訪問した 2019年は甲府開府 500周年の記念年にあたるということで、1519年に 武田神社=躑躅ヶ崎館を築城した武田信虎の墓も訪問してみられるように助言をもらっていた。



 大泉寺の 武田信虎墓(信玄の父)

大泉寺は、1519年に武田信虎自身が府中城下町の建設の際、巨摩郡島上条から移転させた由緒ある寺院であった。
1573年4月に武田信玄が死去すると、ますます織田信長の勢力が伸長し、未だ 京都 市中にて存命中だった武田信虎は跡を継いだ武田勝頼と自身の 三男・武田信廉に甲斐帰国を打診する。足利義昭による信長包囲網に際し、京都の将軍家に近似した武田信虎は信玄とのパイプが回復し、信玄の上京を手引きしていたと考えられる。この外交ルートを使っての帰国願いであった。
翌 1574年、信虎は 三男・武田信廉の居城である高遠城で生活することを許され、ここで初めて孫の武田勝頼と対面する。その際、甲府帰国を懇願するも聞き入れられず、すでに高齢だったこともあり、同年 3月5日、この高遠城で病死するのだった(享年 81歳 or 77歳)。

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その後、彼の葬儀が執り行われたのがこの大泉寺であり、その供養は高野山成慶院で実施された。このため現在、信虎の墓は二か所あることになっている。
なお、この大泉寺には 三男・武田信廉が描いた晩年の武田信虎像が奉納されている。下絵図。

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さて、この信玄の 実弟・武田信廉であるが、武人としてよりも画家として有名な人物で、また 1573年4月の信玄死後の数年間、その影武者役を担ったことでも知られる。
信玄亡き後、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせた。このときに「信虎像」を作成したと考えられている。

1575年5月の長篠の戦いにも参加し、積極的に攻撃に加ったが、 1582年3月の織田勢による甲州征伐に際しては、大島城(高遠城の前線基地。今の 長野県下伊那郡松川町元大島にある天竜川沿いの古城)を守備した信廉の城兵らは織田軍の大軍勢に恐れをなし、逃亡者が続出する。抵抗不能を悟った 城主・信廉も城を放棄し、甲斐へ撤退してしまい、そのまま府中に隠れ住む。
しかし、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から 13日を経た 3月24日、甲斐府中を流れる立石相川の河原で、容赦なく処刑されてしまうのだった(享年 51歳)。


しかし、晩夏の徒歩散策は限界に近く、まだまだ南下が必要だった大泉寺の訪問をあきらめて、北東中学校の脇を通り、いったん武田神社前まで戻ることにした。なお下写真左は、この北東中学校沿いに流れていた用水路。かつて、一帯は武家屋敷が連なる区画で、その堀を成していたものと推察される。
武田神社前では 30分に一本ある路線バス発車まで時間があったので、神社正面のアイスクリーム屋で巨峰アイスを食べた(350円)。
そして、路線バスで甲府駅前まで戻る(全ルートで 190円)。

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駅北口で下車すると、その前の交差点をやや北に戻ったところにある 食堂「小作」(甲府北口駅前店)で有名な「ほうとう」を食べてみた。豚肉ほうとう(1,400円)。田舎料理に多い野菜満点ぶりに、少しの肉を調合する感じは、質素だがヘルシーが売りな中国の客家料理に通じるものがあった。

上写真右は、甲府駅南口に設置されている 武田信玄像(下地図)。

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さて、この 食堂「小作」のすぐ裏の路地街に、文豪・太宰治(本名:津島修治)の 妻・石原美知子(1912~1997年)の 実家跡(甲府市朝日一丁目)があると下調べしていたので、訪問してみる。今では、単に駐車場となっているスペースだった。下写真。

江戸期、甲府城があった城下町の位置関係から推察すると、かなり中心部に近いロケーションで、妻の 実家・石原家はそれなりに裕福な家庭だったことが伺い知れる。実際、彼女の 父・石原初太郎は東大卒の秀才で、若くから地方の中学校の校長職や研究職を歴任した学識者であったという。

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そのまま、投宿先の ホテル・クラウンヒルズ甲府(上写真の左上に看板あり)前を西進し朝日通りまで移動する。
この北側には新婚生活を送った太宰夫妻の 貸家(甲府市朝日五丁目)が残されているらしかったが(下写真)、天候が怪しくなってきていたので訪問を断念し、逆に朝日通りを南下し、JR中央線路下を通り抜けて駅南口側へ移動してみた。

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そして、駅南ロータリーを横断し、東へ歩くこと 5分弱で 甲府城(舞鶴城)跡に到着する。早速、道路すぐ上に位置する稲荷曲輪へ登城してみる。下写真

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下は、現在の舞鶴城公園マップ。
かなり大規模な城郭設計になっており、同種の平山城である和歌山城の設計を手掛けた 浅野長政(1547~1611年)の築城センスにうならされる

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下写真 は、天守台から南東方向を臨んだもの。一段下は天守曲輪、その下の広場スぺースは鍛冶曲輪で、その外周に内堀が掘削されていた。
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下写真は、同じく天守台から南方向を臨んだもの。中央左にかかる橋が遊亀橋で、その右隣の建物が、公園管理事務所棟。
この日は、曇り空で 富士山 は見えずじまいだった。

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下写真左は、本丸から天守台への階段を見返したもの。
下写真右は、本丸から内松陰門へ一直線に下る階段。
つい先ほどまで躑躅ヶ崎館の土塁跡などを見てきた直後だけに、折り重なる石垣群の堅牢さがまざまざと伝わってくる。室町時代末期の数十年間に、日本の築城術は飛躍的に進歩したものだ。

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下写真は、天守台から本丸曲輪を見下ろしたもの。中央には復元された鉄門が見える。かつて、この本丸内には城主御殿が建造されていたが、 1727年の大火事で鉄門もろとも全焼してしまったのだった。
また、その鉄門脇には巨大な 謝恩碑(高さ 18 m強)がそびえ立つ(1922年設置)。 1907年に山梨県で発生した大水害に際し、明治天皇が多額の寄付を行ったことを記念するものという。

甲府市

小山を大規模に加工した城郭で、和歌山城大和郡山城福山城亀山城 などに通じる見事な石垣面を堪能できた。もう少し内堀周辺なども散策したかったが、途中から雨が降り出したため、そそくさと退散せざるを得なかった。



 甲府城(舞鶴城)

甲斐武田氏が躑躅ヶ崎館を本拠地とした戦国期、城下町の南郊外にあって、首都防衛のための支城である一条小山城が建造されていた。
1582年3月、武田勝頼父子が戦死し、甲斐武田氏が滅びると、織田信長の版図に組み込まれ、翌年には徳川家康の支配地となる。しかし、1590年に家康が関東へ移封されると、豊臣秀吉は対徳川の最前線基地として、甥の 羽柴秀勝(姉の実子で、豊臣秀次の弟。朝鮮出兵の陣中で病没。1569~1592年)を配置し、躑躅ヶ崎城に入城させる。
翌年、畿内への転封を願い出た秀勝が 岐阜城 へ移封されると、変わって秀吉腹心の 部下・加藤光泰(1537~1593年)を甲斐国主となる。直後より、秀吉の意をくみ対徳川への前線基地として、巨大な 近世城郭「甲府城」の築城が計画されたが、光泰も羽柴秀勝と同様、朝鮮出兵先 で陣没してしまうのだった。
最終的に 浅野長政(1547~1611年。五奉行の一人)・幸長(1547~1611年)父子が城主に入り、本格的な築城工事を着手し、1600年ごろに完成を見る。近年の発掘調査で、この時代の金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されている。

1600年の関ヶ原の戦い 以降は再び徳川家の城となる(浅野長政は 紀伊・和歌山城へ加増転封)。 徳川義直(家康の九男)、忠長(2代目将軍・秀忠の三男)、綱重(3代目将軍・家光の三男)ら徳川家一門が城主となり 城番・城代制が敷かれた。 この山梨が 長野、静岡、関東をつなぐ要所であったことから、徳川将軍家一門が城主となる特別な領国であり続けたが、1704年に時の 城主・徳川綱豊(甲府藩主時代:1678~1704年)が 5代目将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移住すると(後に 6代目将軍・徳川家宣となる。在職:1709~1712年で、同年に 50歳病没)、同時に、祖先が甲斐出身で徳川綱吉の側用人であった 柳沢吉保(1659~1714年)が幕閣中枢から排除される形で甲府城主として赴任すると、一時的に国持ち大名の居城となる。この時期に甲府城下町も大きく発展したとされる。

しかし 1724年、吉保の 子・柳沢吉里(1687~1745年)が大和郡山城主として転封された後、再び甲斐国は幕府の 直轄領(天領)となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれた。
その 3年後の 1727年、大火事により本丸御殿や銅門を焼失するなど壊滅的なダメージを受けたが、幕府は財政難から復旧工事を進めることはせず、そのまま幕末に至るのだった。しかし、江戸期を通じ、甲州街道が通る城下町として、また天領の税金優遇もあり、市街地は大きく発展し続けた。

明治時代に至り甲府城も廃城となると、1876年には城内の主要な建物はほとんどが撤去されてしまう。内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌 1877年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての体裁は完全に喪失されていった。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ(1926年)、続いて国鉄線路の敷設に伴い城域北部の 屋形曲輪、清水曲輪が撤去されるなど、次々と城郭の解体が進められる。
一方で保護、保存の動きもあらわれ、 1917年には甲府市在住の松村甚蔵の尽力によって国からの払い下げを受け、小高い丘に立地した内城部分が県有地となった。戦後は市街地復興に併せて整備が進められ、1964年に 都市公園「舞鶴城公園」として一般開放され、1968年には県の指定史跡となる。
近年に入り、舞鶴城公園整備事業が本格化され、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの城門や稲荷櫓が復元されている。

なお、別称「舞鶴城」の由来であるが、甲府城が有した白壁群が織りなす優雅な姿が、遠目で鶴が翼を広げたように見えたことから江戸期より通称されてきたという。



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