BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月中旬 『大陸西遊記』~


三重県 四日市市 ~ 市内人口 32万人、一人当たり GDP 320万円(三重県 全体)


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  寂れ果てた印象の JR四日町駅前 と 四日町が誇る 湾岸観光(旧港)ルート
  四日市港を私費で近代化させた、当地の 大恩人・稲葉三右衛門 とは?
  JR四日町駅から 近鉄四日市駅へ歩く ~ 旧東海道、宿場町、諏訪神社 を経由
  【四日市の歴史】久留倍遺跡に見る、古代律令体制下の 郡役所(国府の下部機関)■■■
  【四日市の歴史】律令体制の崩壊と地方政界、地方経済の変化 ~ 定期市のスタート ■■■
  【四日市の歴史】「四日の市」の台頭 ~ 伊勢・近江商人ら 行商キャラバンと 定住化 ■■■
  【四日市の歴史】江戸時代、東海道上の宿場町として 幕府直轄都市(天領)となる ■■■
  【四日市の歴史】土塁と堀で四方を取り囲んだ 居館スタイルの、四日市陣屋 ■■■
  【四日市の歴史】四日市湊の繁栄 ~ 尾張熱田の宮宿 ― 四日市宿を結ぶ 十里の渡し ■■■
  【四日市の歴史】明治政府による桑名迫害 と 四日市の 近代化(港湾、鉄道開発) ■■■
  【四日市の歴史】太平洋戦争末期、米軍空襲で焼け野原となった 四日市 ■■■



四日市には、JR線(関西本線)を使って 桑名 から訪問した(下写真)。
桑名駅では 近鉄線(300円)と JR線(240円)が平行して走っており、単純に 60円安いからという理由で、JR線を選んだわけだが、下車後、ビックリさせられることとなった!

四日市市

乗車中は、うわさの石油コンビナートと煙突群だ(下写真右)。。。と感動していたら、なんと下車した JR四日市駅前はお店が一つもない、住宅街の行き止まりという感じの場所だった。後で博物館の案内の方にお話を聞くと、かつては JR駅前も繁華街だったらしいが、近鉄線が開通してからはお株を奪われた、ということらしい。

四日市市 四日市市

それでも、古くから伊勢湾沿いの海上交通、及び 近江・伊勢方面への陸路交通の要衝であった四日市港はその歴史も古く当地屈指の観光資源であり、駅前に観光案内マップが設置されていた(下地図)。しかし、かなりの距離だった。。。

四日市市

駅からもう少し近ければ港湾エリアも散策してみたかったが、さすがに往復 12 km以上の距離ということで諦めることにした。

仕方ないので、駅前の異様に巨大な 道路(中央通り)をまっすぐ西進して、四日市市の繁華街である近鉄・四日市駅前まで徒歩移動する。左右両車線が 2列の広々と設計された道路だったが、全く自動車が通行していなかった。
さらに同面積分の緑地帯が道路真ん中に整備されており、車も歩行者も誰もいなかったので、記念に歩いてみることにした(下写真左)。
途中、ヤシ(椰子)の木も植わっていた(下写真右)。。。。

四日市市 四日市市

この中央緑地帯の最東端、JR四日市駅前に 稲葉三右衛門(1837~1914年。岐阜県出身)の銅像が設置されていた。下写真。

四日市市

彼は 近代・四日市港の基礎を築いた大恩人として、四日市市で大々的に顕彰されている人物であった。
古くから栄えた四日市湊は、東海道沿いの十里の渡しの発着拠点 としても全国に知られ、交易港として繁栄を謳歌したわけであるが、江戸時代末期の 1854年12月に発生した安政の大地震とその津波で大ダメージを受け、次第に船の出入りが困難となっていく。それでもかろうじて東海地方の交易港として命脈を保っていたが、明治時代に入った直後の 1870年、四日市 - 東京 間で定期航路が開設され蒸気船が来航するようになると、ますます港湾地区の再整備が急務となる。こうした時代の要請を敏感に察知した当地の 回船問屋主・稲葉三右衛門が、私費を投じて港湾整備を手掛けたというわけだった。
四日市市

資金繰りや周辺住民の反対など様々な困難に直面しつつ、新たに運河を掘り海を埋め立て、ようやく 1884 年に築港工事が完了する(上写真)。この埋め立て資材は、当時、会津藩とともに反政府派の代表格とみなされた 桑名藩主・松平定敬(鳥羽伏見の戦いで朝敵となる)の居城・桑名城が、懲罰的な意味を込めて徹底解体された際、それら石垣部材の一部が投入されたという。現在、埋め立て時に建造された防波堤はその特徴的な 工法(波の力を弱めるために堤防の腹部に 水抜き穴を大量に設けた)により、国の重要文化財となっている

四日市市

そのまま中央通りを西進し、国道 1号線との 交差点(諏訪栄町)に到達する(上地図中央のビックリマーク)。ここで道路案内板を確認し、「諏訪神社」を先に訪問してみることにした。

諏訪栄町にあった、昭和の香り漂うアーケード街に入って一つ目の交差点を右折すると、ここが 旧東海道 だった(下写真左)。この東海道沿いを北上すると、諏訪神社に到達する(下写真右)。
さっきまでの賑やかで雑然としたアーケード街とは打って変わり、境内は広々として神妙な空気が漂っていた。本殿の裏手にあった、高い石垣上に設置された地元殉国者の紀念碑が印象的だった。

四日市市 四日市市

そのまま境内裏の諏訪公園を通過し西へ進むと、駅西口の駅前道路に到達する。ここは夜の飲み屋街が連なる諏訪西通りだった。
さらに近鉄名古屋線の高架下を通って駅の反対側に出る。と、その一つ目の曲がり角に、巨大かつ壮麗な和風建築物があったので思わずシャッターを切ってしまった(下写真)。 天理教の四日市分教会の建物という。

四日市市

この角を曲がると、アピタ四日市や近鉄四日市駅前の「ふれあいモール」沿いショッピング・エリア交差点に至る。その南横の都ホテル前を通過し、四日市市民公園内にある市立博物館に到達できた。
この 3Fと 2Fが歴史博物館だった。こんな立派な博物館なのに、日本では珍しく入館料無料だったのには驚いた。先ほどの JR駅前に整備された巨大な産業道路にせよ、四日市は国庫から相当に巨額の財政支援が投入されている印象を受けた。

さて入館時にボランティアの方が「お時間ありますか?」とお声がけ下さったので、是非にと二つ返事でご案内をお願いする。
まずは、入口脇の巨大画面で映像を見せてもらった。

四日市市

かつての伊勢湾の海岸線はかなり内陸部まで入りこんでいたという。沿岸部は湿地帯と浜辺が延々と続いており、その脇に簡単な通行路が形成されていたと考えられている。また、人々はこの海岸線を見下ろす高台斜面上に集落地を造り居住していた(下は、市内の古代遺跡分布図)。

四日市市

特にこの丘陵部に点在する古代遺跡群のうち、約 2000年前の弥生時代から 室町時代に至る複合遺跡である 久留倍遺跡(くるべいせき)は当地随一を誇り、 その中の約 1300年前の奈良時代の郡役所跡とされる 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)は、 国によって指定史跡に選定され、今日でも発掘調査が継続中という。下写真。

下写真の黄緑色の部分は、弥生時代後期の集落遺跡を示す。竪穴式住居跡が多数、確認されているという。
四日市市



四日市市北東部にある大矢知町の伊勢湾を望む丘陵の東先端部には、久留倍(くるべ)遺跡という、弥生時代から室町時代にかけての複合遺跡が立地する。国から指定史跡認定を受けた 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)も、この遺跡群に含まれており、現在、この 古代役所(官衙)の復元工事が進められている。

古代の律令体制下、伊勢国の国府は現在の三重県鈴鹿市国分町に開設されており、中央政権から国司が任官されていたわけであるが、それまで地方に割拠していた土着豪族らは郡司として、引き続き、地元支配を追認される形でそれぞれの地に支配拠点を設けていた。その郡役所跡の一つが当地であり、弥生時代から大規模に発展していた集落がそのまま成長し、一帯の支配的な豪族拠点へと発展して、大和朝廷 に臣従した後、その先祖伝来の地に 郡役所(郡衙)を開設した、という流れであろう。

2001~2005年まで四日市市教育委員会によって行われた発掘調査の結果、丘陵上部の平坦面では 正殿・脇殿・東門(八脚門)などの役所庁舎や、それを囲む塀の遺構、さらに大型の 掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)まで確認され、当時、郡一帯の政治を司る中心的な建物群が立地したことの証左とされており、さらにすべての建物群が東向きに設計されていたといい、当遺跡における特徴という。
また、丘陵東斜面には稲もみが貯えられていたと考えられる倉庫群も建てられており、これらは区画溝で囲まれていることから、複数の 正倉(税で集められた稲をおさめる高床構造の貯蔵庫)群を囲った正倉院として築かれたものと考えられている。古代国家の地方支配体制を具体的に示すものとして極めて重要で、また時代と共に役所や倉庫群の建物位置が動いており、その要因についても追究が進められている。

壬申の乱(672年)の際に 大海人皇子(後の天武天皇。?~686年。在位:673~686年)が伊勢国下の朝明郡に立ち寄って兵を集めたことが史書に言及されており、ここがその古代伊勢国の 朝明郡衙跡(あさけぐんがあと)である可能性が高いと考えられている。
あわせて、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の東征経路や、聖武天皇(701~756年)の 東国行幸(740年)などの史実との関連も注目されており、 考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡という。



しかし、平安時代中期に至ると律令制も瓦解するようになり、国司の権限が強化され郡司や地方豪族らが地方官僚化してくると、郡役所の役割も徐々に変質する。
古代には一帯エリアの中心集落として繁栄した当地も、徐々に他集落の台頭により没落していったと考えられる。その他集落の台頭を促したのが、各地に定期市として自然発生的に開催されるようになった交易市場であった。それが「一日の市」「二日の市」「三日の市」。。。などであり、時代とともに、この「四日の市」が最大化してきた、という訳である。

現在、三重県下だけでも鈴鹿市三日市町、松阪市飯高町七日市などの「古代の庶民市場」の旧称が継承されているが、実際は、半径数十キロ圏内に一か所ずつ「一日の市」「二日の市」「三日の市」。。。の庶民市が開催され、三重県内でもあちこちに同じ数字を有する交易市場が催されていたと推察される。すなわち、現在の鈴鹿市内だけでも「一日の市」「二日の市」「三日の市」。。。が、また松坂市内だけでも「一日の市」「二日の市」「三日の市」。。。という定期市が存在したわけである。

現在、三重県下で最大都市として君臨する四日市市街地も、この時代は数ある屋外市場、交易集落の一つでしかなかった。そして、鎌倉時代、室町時代を通じて地場豪族としての武士が台頭すると、それぞれの庶民市と集落地は生き残りをかけて近隣の交易集落と競合し合いながら、柔軟に 支配者・保護者を変えつつサバイバルしていったと思われる。つまり結果的に、この四日市エリアを支配した土豪勢力か 寺社勢力(往時には、南に控える伊勢神宮が広大な荘園を有していた)が強力だったこと、また交通の利便性から自然と人々に選択された土地であった、 ということから、今日の四日市市の繁栄が実現できたわけである。

四日市市

794年平安京 が開設され平安時代がスタートすると、千草峠や八風街道から鈴鹿山脈を越えて 近江・京都方面との往来が盛んとなり、伊勢商人や 近江商人 が峠越えをして活発に行商や交易を手掛けるようになる。 彼らは移動ルート上で開催される 庶民市「一日の市」「二日の市」「三日の市」。。。に参入し、都度、キャラバン隊のように移動店舗を展開していたと考えられる。
やがて、それらの集落地に恒常的に商人らが住み着くようになり、定期市が常設マーケット、つまりショッピング・ストリートへと発展していく。こうして各地に都市が形成されていくこととなったわけである。特に、紙や陶器類、布はその重量も重く、早くに固定タイプのショップが開設された代表例といわれる。

こうした各都市や行商キャラバンらの移動ルートとなった 千種街道(千草街道、ちくさかいどう)は江戸時代末期まで重宝され、鈴鹿山脈の根の平峠と杉峠を越える難所を有したことから、千種越え(千草越え)と通称されたという。上写真。
中世期には、こうした街道を抑えて土着豪族が権益化していくことになる。

四日市市

さて、「四日の市」であるが、当時、伊勢湾に通じる道を中心に店舗が建ち並び、その東端に 四日市場浦(よっかいちばうら)と通称される港湾エリアも有していた。市街地中央部に 東海道 が通り、市の開催日には陸路や海路からたくさんの人々や物資が流入し交易が行われたという。
室町時代に入り、「四日の市」はこの天然の良港を有した 港湾都市(当時は浦、湊と通称された)として、伊勢湾岸の物産交易場の一角を成し、三重県下でも屈指の交易都市として発展していく。

さらに時代は進み、伊勢湾、太平洋の物流を専業とする回船業が発達することとなり、畿内と中部地方、関東地方を結ぶ交通の要衝として繁栄を謳歌した。戦国時代、地元を支配した 赤堀氏(北勢四十八家の一角を成す地場勢力)からも「四日の市」は保護され、その栄華は絶頂を極める。
1582年6月の本能寺の変では、大坂 から逃亡する徳川家康が、この「四日の市」の有力な回船問屋の助力で伊勢湾を渡海し、浜松城 に帰還している。

四日市市

江戸時代に入ると、交通の要衝であった「四日の市」は幕府直轄の天領に指定され、四日市陣屋(代官所)や 高札場(幕府のお触書を掲示した通告板)が設置される。
なお、この代官所は四方を堀と土塁で囲まれた居館スタイルで(下絵図)、家康が江戸幕府を開いた直後の 1603年、四日市代官に任命された水谷九左衛門光勝が築造したものという。以後、江戸時代を通じ、司法・行政の中心であり続けた。

現在、跡地は 四日市市立中部西小学校(現在の四日市市北町)になっており、校門横に石碑と説明板があるのみで、土塁等の遺構は残っていない。

四日市市

また、「四日の市」港町は、伊勢湾対岸の 尾張・熱田(熱田神宮支配下の一大港湾都市で、江戸時代に「宮宿」として東海道上の宿場町に指定される)との間で、古くから航路が開かれており、徳川家康自身も 浜松 や駿府、江戸 と上方を往復する際、この航路を常用したという。こうした将軍家の移動ルート上にあったことから、幕府直轄領に指定されたわけであるが、江戸当初は公用のみ、このショートカット航路が許されており、民間利用は制限されていた。

江戸前半まで、尾張・宮宿桑名宿を結ぶ七里の渡し が民間ルートで巨大な旅客需要をさばいていたが、江戸中期にかけては 尾張・宮宿 ― 四日市宿ル―トの十里の渡しを利用者する民間人が激増し、乗客を奪われる形となった桑名宿との間でしばしば紛争が勃発する。1742年に 桑名宿 から道中奉行へ提出された願書でも、一般大衆の多くが 四日市渡(十里の渡し)を利用する、なし崩しの現状を訴え出た内容が残されている。

四日市市

特に、東海道の往来や、伊勢参りの旅人に多く利用された伊勢湾岸の港町の中では、四日市湊はまだまだ 桑名、白子、鳥羽の後塵を拝しており、江戸期を通じて逆転することはなかったという。

さらに、幕末の 1854年12月に発生した安政の大地震によって四日市湊の港湾部が壊滅し、回船業も衰退に追い込まれることとなる。

四日市市

それでも、北伊勢の行政・商業の中心地として勇名をはせ、東海道(東海道五十三次)の 主要宿場(四日市宿)として、市街地には本陣や宿駅も開設されていた。 四日市宿の南には、伊勢街道と東海道との分岐点があり、現在でも「日永追分」という地名が残っている(上古地図)。

四日市市

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1868年1月の 鳥羽・伏見の戦い で会津藩と共に薩長連合軍と交戦状態となり、朝敵となってしまった 桑名藩 であるが、肝心の 藩主・松平定敬が 徳川慶喜 とともに 大坂城 から 江戸 へ逃亡してしまったため、在城の家老たちが新政府軍に降伏すると、桑名藩は新政府により桑名城の解体指示や 新東海道(前ヶ須街道。熱田 ー 四日市港の航路ルート)の 正式認定(1872年)から除外されるなど、さまざまな辛酸をなめさせられることとなる。こうして、熱田桑名 間の航路は急速に廃れ、四日市港は漁夫の利を得る形で、三重県下の最大都市への道を歩むこととなる。

また 東京 との間で蒸気船による定期航路の開設も決定されると、四日市湊の近代化は急務となり、1873年、廻船問屋の稲葉三右衛門が私費を投じて港湾エリアの修築工事に着手する。紆余曲折を経て、何とか 1884年に完成を見ると、四日市の近代都市化がいよいよスタートするのだった。

また、この四日市を本社とする関西鉄道が 1888年に設立されると、手始めに奈良県と 滋賀県(草津)との間に線路が敷設され、最終的に 1890年に 四日市 ー 柘植 ー 三雲ー 草津 ルートが開通、1895年には 名古屋 と接続されることとなった。下絵図にこの時代の鉄道が描かれている。

四日市市

1899年、四日市港が明治政府により開港場に指定され外国貿易がスタートすると、 1907年にはアメリア航路の寄港地になるなど、その存在感をますます高めた。

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下は、昭和期の四日市港の鳥観図。

四日市市

下は、四日市の港湾部と、旧東海道 沿いの 市街地(赤ライン)を撮影した航空写真。

四日市市

下写真 は、太平洋戦争末期に空襲を受けた四日市の港湾エリア。
特に大規模だった 1945年6月18日空襲をはじめ、合計 9回もの空爆を受け、市街地や第二海軍燃料廠があった湾岸工場地帯は壊滅的な被害を受けた。
戦後、これらの軍需産業跡地に石油化学コンビナートが誘致され、水質汚染、大気汚染が 深刻化していくことになるのだった。

四日市市

下写真の中央左端に見える巨大な穴群は爆弾により生じたものという。また、鉄骨がむき出しになった工場設備も散見され、空爆被害の大きさが伺える。下写真。

四日市市

3F 見学スぺ―スの最後にあった江戸期の宿場町模型では、荷馬車や飛脚などの仕事を割り振る問屋窓口の解説がおもしろかった(下写真右)。わざと敷居を高くしており、不審者らが急に切りつけてきたり、上がり込んできたりするのを防ぐためであり、防犯対策だったという。肩ぐらいの高さがあり、簡単には上がり込めそうもなかった。

実に 1時間にわたっての詳しい解説を拝聴した後、近代以降の展示コーナーである 2Fは自由に観覧してください、と言われたので、名残り惜しい中、ここでお別れした。

四日市市 四日市市

帰りは、博物館横のアピタ四日市で弁当などを調達し、近鉄線で投宿先のホテルがある 桑名駅 まで戻る。桑名駅前の昭和のノスタルジー溢れる雰囲気とは全く異なる、若者の街といった華やかさにビックリさせられた、四日市訪問だった。

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公害問題の政府補償のおかげであろうか、それともに、近江商人、伊勢商人らの商魂故であろうか、四日市は産業、商業が非常に発展しており、桑名駅に帰りついたとき、ここは 名古屋 &四日市のためのベットタウン地区に甘んじてしまっている、印象を強く受けたのだった。


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