BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年2月中旬


滋賀県 草津市 ~ 市内人口 14万人、一人当たり GDP 427万円(滋賀県 全体)


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  近江商人の起源 について考える!
  宿場町・草津の 旧市街地
  草津本陣(貴賓専用のトイレ と 風呂)と 宿泊者リスト(徳川慶喜、明治天皇 など)



多くの当地訪問者は、JR線を利用されることであろう。滋賀県第二の 都市「草津市」であるが、ここはその地理的な宿命から、商売人の街として発展する素地がそろっていたように感じた。

そもそも、近江商人の発祥の地は、近江八幡市(豊臣秀次による楽市令)とされるが、実際のところ、平安時代、鎌倉時代のころより、 京都にあった平安京 へ租税や物資などを運搬する使節や業者などが行き交う交通の要衝となっていた琵琶湖南部エリアに、 徐々に商売人らが集い商業拠点を形成していったのも、自然の流れのように思われる。

特に、名古屋 や静岡などの太平洋岸から京都へ、同じく北陸などの日本海岸の物資や租税も敦賀あたりで水揚げされ、琵琶湖を通過して、 この草津・大津 あたりで再度、水揚げされて京都へと運び込まれるルートは容易に想像でき、この 草津・大津一帯のロケーションの優位性は絶対的であったことであろう。
草津市

戦国時代、将軍・足利義昭から副将軍の座を打診された織田信長が、これを丁重に断り、代わりに 、大津、草津の管理権を 要求した史実にもうなずけるものがある。その後、織田信長は自身の 岐阜城 下での楽市楽座令の実績を携えて、 近江の国へも進出し、安土城下でも楽市楽座令を発布し、商人を呼び寄せ、町を活発化させていく。 大津・草津方面の商人らも本店を移転させたり、営業所を安土に設けるなど、物流・商売の拠点を拡大したに違いない。

当時、すでに近江商人らは早くから全国各地に飛翔しており、 物流・金融・行商や営業所の多展開などを通じて、広く情報と交易ネットワークをもっていたようである。また堺商人らとも張り合い、南蛮貿易にまで手を広げていたらしい。

草津市

下の写真は、かつての 中山道 である。ちょうど東海道との交差点には、道標が建てられていた(下絵図の黄色部分)。

草津市 草津市

なお、この合流ポイントは、ちょうど草津の町の中心地でもあり、町内の連絡板であった高札場(下写真左)も設置されていた。 

この交差点沿いに 旧草津川(砂川と呼ばれた)が流れており、当時は、船の渡しで中山道が東へと続く形になっていた。下写真の道標や 高札場の背後に見える高架道路が、かつての草津川の跡である。現在は、遊歩道と共に”空中”河川として整備されている。

草津市 草津市

上写真右の追分道標は、1816年に町の商人らの寄進によって設置されたもので、「右 東海道いせみち」「左 中山道美のぢ」と方角が刻まれている。

江戸幕府を開いた徳川家康により東海道と中山道が整備され、 その交差地点となった草津では、大名ご用達の陣屋や各種の 旅籠屋(宿泊所)、食堂、娯楽街などが集積されるようになっていく。 近江商人らは当然、この地の営業拠点でも商売を展開し、宿場町の発展に寄与していったことであろう。

1843年時点の記録では、家数 586軒、人口 2,318人、本陣は 2軒、脇本陣も 2軒、 旅籠屋は 72軒、その他多数の寺社が街道筋に軒を連ねており、東西約 1.3 km(11町 53間半)にわたる宿場町であったという。

下の写真は、草津本陣 内のものである。入館料は 240円。
大名や公家専用の座敷や寝所は母屋の奥側にあり、その更に奥にトイレがあった。いちおう、トイレは大小便用に分かれ、 向かい合った二つの部屋に別々に設置されていた。畳なんだ。。。

草津市 草津市

風呂(湯殿)は一番奥にあり、裏庭の離れにあった。

草津市 草津市

この他、馬を洗うための井戸やくくり松、土蔵なども残る。本陣宿の経営を担当していた 田中家の本業は材木商であったらしい。また、本陣の母屋とは土間を挟んだ同じ家屋内に、 家主である田中家一家も居住していたようである。

なお、本陣は宿泊所としての利用だけでなく、短時間の休憩所としても利用されたようで、 その訪問者台帳が今も残るという。その中には、江戸末期に降嫁した和宮江戸 へ移動中の 1861年10月22日に 昼食休憩をとったこと、1862年12月23日に京都守護職にあった松平容保(会津藩主)が休憩に立ち寄ったこと、 1863年11月12日に徳川慶喜が当地に宿泊したこと、1865年5月9日の新撰組(土方歳三、斉藤一、藤堂平助 など)の 休憩記録もあるという。そして、1868年には明治天皇東京 へ引っ越しされる際に、 当本陣にて昼休憩に立ち寄った記録もあり、その石碑が裏庭に建てられている。

宿泊や休憩時の料金としては、旅籠屋(食事付が原則だった宿泊施設)とは異なり、本陣では 定まった金額はなく、下賜金などで当事者によって支払ってくれる金額もばらばらであったらしい。
1870年に本陣・脇本陣制度が廃止され、以後は、公民館として使用されたようである。


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