BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


滋賀県 近江八幡市 ~ 市内人口 8.2万人、一人当たり GDP 333万円(滋賀県 全体)


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  八幡山城、北之庄城
  八幡堀、ヴォーリズ記念館、カフェ 天籟宮(旧喜多利邸)、かわらミュージアム、西光寺
  旧西川家住宅(西川利右衛門邸。地域歴史博物館)、伴庄右衛門邸(歴史民俗資料館)
  津田城(南津田城。伝・織田信長一族の発祥の地)
  長光寺城(瓶割山城。柴田勝家の ”背水の陣” エピソード)
  長光寺(後光厳天皇、室町幕府 12代目将軍・足利義晴が亡命生活を送った地)
  中山道 66番目の宿場町「武佐宿」ー 本陣・脇本陣跡、旅籠中村屋、石造道標
  住蓮坊古墳(千僧供古墳群)、法然の直弟子・住蓮と 遵西(安楽房)の刑死場と 墓標
  水茎岡山城跡(頭山砦 と 岡山城)



長浜駅 から米原駅を経由し、JR東海道線(琵琶湖線)沿いの近江八幡駅で下車する(新快速 3駅、距離 7.7 km、運賃 680円)。この駅前の ABホテル近江八幡か、コンフォートイン近江八幡で 2~3連泊することにした。

翌日、 JR駅の改札を出て左手の、北口階段下にある レンタサイクル場「駅リンくん(6:30~21:00)」で、自転車を借りる(一日 500円)

近江八幡市

午前中に、東側郊外の長光寺城跡を先に訪問することにした。山頂から琵琶湖方面を臨む際、午後の西日が始まる前に済ませておきたかったためだ。
近江八幡駅の南出口前から延びる直線道路をひたすら東進し、東海道新幹線の高架下をくぐり、中山道との三叉路に行き当たる。この東隣の路地が、 江戸時代の 旧・中山道だった。

ここから一つ北隣の、県道 14号線(近江八幡竜王線)へ移動し、さらに東進する。この南側に「住蓮坊古墳」があり、北側には「長福寺町」の集落が広がっていた。下地図。

せっかくなので、 滋賀県屈伸の 巨大円墳(直径約 60 m。外周部に堀が掘削されていた)である住蓮坊古墳を先に訪問してみた(下地図)。千僧供地区に点在する古墳群の一つで、埋葬者などは不明という。しかし、古墳上には石塔が 2基設置されており、住蓮(?~1207年)と 遵西(安楽房。?~1207年)の墓標と伝えられる。彼らは、浄土宗の 開祖・法然(1133~1212年)の直弟子で、その美声で多くの信者獲得に貢献した人物とされる。しかし、彼らのような新興勢力に対し、旧仏教勢力からの弾圧が強まる中の 1206年12月末、後鳥羽上皇の女房たちと密通をはたらいたとの嫌疑をかけられた住蓮と遵西は、翌 1207年2月、当地(近江国馬淵荘)で他の弟子らと共に、羅切(陰茎切断)の上、斬首刑に処されたと言い伝えられている。これに連座し、師匠の法然は讃岐へ、門弟の一人だった 親鸞(1173~1262年)は越後へ流されることとなった(承元の法難)。
付近には、住蓮の首を洗ったと伝わる、首洗いの池も現存する。この少し南側には、千僧供地域歴史資料館(日曜日のみ開館。無料)が立地するので、開館日が合えば、是非、立ち寄ってみたい。

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再び、県道 14号線に戻り、長福寺町の 交差点(信号あり)を北へ折れ、山麓沿いを進むと、妙経寺(日蓮宗)、不二の滝、日吉神社が連なって立地していた(上地図の白ライン)。

この日吉神社前で自転車を停め、境内の神社拝殿奥まで進むと、瓶割山散策路ルートマップが設置されていた(山頂まで 360 m)。下写真。

この登山口から約 15分ほどハイキングコースを進むと、最初の城郭遺構、土橋と曲輪が姿を現し、続いて高石垣が見えてくる。さらに 20分ほど進むと、山頂(標高 234.5 m、山下からの高低差 120 m)に到達する。道中、堀切や竪堀、古井戸、物見櫓など、所々に案内板が掲示され、非常に散策しやすい城跡であった。この山頂に、かつて 柴田勝家(1522?~1583年)が籠城したわけである。

午後の西日が始まる前に、西側に広がる近江八幡市街地や、北側の 安土城、観音寺城 などを写真撮影しておきたい。

近江八幡市



かつて、南近江を支配した 六角氏(本拠地・観音寺城)の支城の一つであったが、応仁の乱の動乱期、六角氏一門でも内紛が起き、それぞれ東軍と西軍に分かれて戦火を交えることとなった。この時、西軍派の 六角高頼(?~1520年)が観音寺城を本拠地に定めたのに対し、東軍派に組した 六角政堯(?~1471年)は長光寺城を拠点として抗争を繰り広げたという。政堯はこの前線基地として、観音寺城の南正面に 清水城(後に箕作城、箕作山城と改称される) を築城している。
最終的に東軍派は一掃され、六角高頼により南近江が再統一されることとなる。しかし、以降も 北近江の 京極家、浅井氏 との抗争は続き、近江国内での戦火が絶えることはなかったという。

1568年9月の信長上洛時、織田軍が当地を占領すると、古参家臣の 柴田勝家(1522?~1583年)が城代に配置される。勝家により、六角氏の残党討伐を進める中で発生したのが、「瓶割り柴田」の逸話であった。
翌 1570年、浅井・朝倉連合軍、比叡山延暦寺大坂・石山本願寺 らとともに、反織田連合軍に組して反転攻勢に出た六角氏は、本城に籠る柴田勝家を包囲する。多勢に無勢の中、籠城戦を展開した勝家であったが、長引く籠城で貯蔵していた水も残り少なくなり、落城の危機に瀕する。勝家は、座して死すよりも将兵の士気を鼓舞して打って出ることを決意し、残りの水を将兵に飲ませた後、その水瓶を自ら割って背水の陣で出陣させ、見事に勝利を得たという武勇伝の現場となった山城である。このエピソードから、瓶割(かめわり)城と称されるようになったという。

近江八幡市

その後、信長によって畿内の平定が成ると、長光寺城はそのまま廃城となったようである。

また、この山からは良質な花崗岩が産出されたことから、城下は石工の名匠の町として知られ、後に 大坂城聚楽第、方広寺大仏殿、三条大橋、 江戸城名古屋城彦根城 などを手懸けることとなる、「馬渕石工」「岩倉石工」らの出身地として知られるようになった。



下山後、さらに 長光寺山(瓶割山)の北面まで移動し、その山麓にある長光寺を参拝してみたい。下地図。


もともと 聖徳太子(592~628年)にゆかりのある寺院で、武佐寺と称されていた。南北朝の動乱期、京都 を攻められた 後光厳天皇(1338~1374年)が 3度、当院で避難生活を送っている。室町時代後期には、同じく京都を追われた 12代目将軍・足利義晴(1511~1550年)も一時滞在している。こうした中で寺院は城塞化されていったようである。

しかし、1568年9月、織田信長の侵攻により、南近江の 大名・六角氏 の支城だった長光寺城が落城した際、当寺院も全焼したという。
江戸時代に入り、1625年、長光寺村を飛び地領としていた 伊勢桑名藩主 松平定綱(1592~1652年)が仏像七体を寄進し、翌 1626年には周囲の田畑も寄進して復興支援をスタートさせると、1753年、ようやく玄広木食上人の時代に再興が完遂されたという。



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長光寺を後にすると、北に隣接する集落を目指してみた。近江鉄道万葉あかね線の線路を越えると、武佐町に至る。上地図。

ここは江戸時代、中山道 66番目の宿場町「武佐宿」があった場所で、当地から枝分かれする八風街道を南下すると、伊勢山脈を越え東海道へ合流できたという。上地図。
目下、旧市街地には、牟佐神社、平尾家役人宅、本陣・脇本陣跡、大橋家(商家・役人の旧邸宅)、旅籠中村屋、石造道標などが保存されている。

視察後、旧中山道沿いに南進し、国道 8号線と合流後も直進して、白鳥川の陸橋に到達すると、この川沿いの道路をひたすら西へ進み、琵琶湖の湖岸を目指した。下地図。

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この白鳥川の河口に、琵琶湖沿いの「さざなみ街道」があり、南に見える小山を目指す(上地図)。ここが「水茎岡山城跡」というわけだった。

南北二城に分かれており、北は頭山砦、南は岡山城となっている。とりあえず、メイン城郭の岡山城側を登山してみた(標高 187.7 m)。「さざなみ街道」沿いの北麓から、水道施設へ登る階段が登山口だった。

いちおう遊歩道が整備されているものの、メンテナンスはあまり行き届いておらず、草木がうっそうと茂る状態で、城郭遺構は所々で散見される程度だった。特に 岡山(大山)の南面斜面に残存する、竪堀、弓形の横堀、段曲輪、石垣などが必見どころ。

また、北の頭山にも遺構がわずかながら残存しており、この両山の中間あたりに、亡命中だった 11代目将軍・足利義澄(1481~1511年)の一家の住居跡、と考えられる屋敷遺構が発見されている。ちょうどこの跡地に、現在、水茎岡山城の石碑が立地する。


「水茎岡山城」とは、下地図のように琵琶湖が内陸深くに入り込んでいた「水茎内湖」に浮かぶ、小島「岡山」上に築城されていた地形から命名されている。尾山城、岡山城、九里城とも別称されてきた。

南北朝時代、南近江を支配した 守護大名・六角氏 が、琵琶湖上の水軍拠点基地を設けたことが最初とされる。当時、琵琶湖面に浮かぶ小島で、時々、湖岸の陸地と連結されるような遠浅の地形だったことから(戦前までの琵琶湖岸は、このような水深 2 m前後の入り江が数多く存在していた ー 安土城 など)、「浮き城」と称されていたという。下地図。

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1508年、亡命中だった室町幕府 10代目将軍・足利義材(義尹。1466~1523年。8代目将軍・足利義政の弟)が、将軍復帰を目指して に攻め込んでくると、11代目将軍に擁立されていた 足利義澄(1481~1511年。8代目将軍・足利義政の異母兄で、堀越公方・足利政知の次男。兄は 1498年、北条早雲によって滅ぼされた茶々丸)は、南近江の 守護大名・六角氏 を頼って近江へ逃亡してくる。以降、その家臣だった 岡山城主・九里信隆の水茎岡山城に滞在することとなった。暗殺の危機もあったことから、将軍御所は厳重な警護が必要で、この小島の水軍基地が選ばれたと推察される。

1510年、京都 から襲来した追討軍に城を包囲されるも、九里信隆や六角氏、その他、近江の国人衆らの加勢で撃退に成功する。そして翌 1511年春、城内で後の 12代目将軍となる 足利義晴(後の 15代目将軍・足利義昭の父)が誕生するも、将軍復帰を目論み続けた足利義澄は 同年夏、この城内で病没してしまうのだった(享年 32歳)。

こうして反幕府のレッテルだけを張られる形となった 守護大名・六角氏は、復権した 10代目将軍・足利義材(義尹)に帰順すると、病死した足利義澄一族を保護したままだった、水茎岡山城主・九里信隆を謀殺する(1511年)。当時、守護代の伊庭氏が台頭し、守護大名・六角氏との対立が激化しており、この伊庭氏に組した九里氏も排除された構図であった。1520年には、九里信隆の 子・浄椿、彼に匿われた伊庭貞隆父子らも岡山城の落城によって没落し、1525年に完全に滅ぼされるに至る。これに伴い、本城も廃城となったようである。

1568年9月に、織田信長(34歳。1534~1582年)に先導され 岐阜 から 京都 へ舞い戻った 足利義昭(31歳。1537~1597年)は、南近江を通過した際、祖父・足利義澄が死去し、実父・足利義晴が誕生した、この岡山の城跡に立ち寄ったのかもしれない。

第二次世界大戦後、食料増産のため琵琶湖の干拓事業がスタートすると、「水茎内湖」や周辺の湖岸が埋め立てられ、水田地帯が拡張される一方、岡山や頭山も掘削されて湖岸道路が整備されたことから、往時の自然環境は大いに変貌してしまっている。なお、こうした干拓地は、基本的に琵琶湖の水面より低いため、現在でも、降雨量が多いと地元ではポンプで水のくみ出しが行われているという。



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下山後、琵琶湖沿いの「さざなみ街道」を北上し、先程の白鳥川沿いを少し戻って、三本目の橋から再度、北へ進路を変え、八幡山の山麓にある 南津田町(旧野洲郡岡山村)を目指す(上地図)。山裾部分に真念寺があり、その正面に「織田一族始祖 津田親眞顕彰之碑」と「津田城(南津田城)跡」の記念碑が設置されていた。この辺りに、津田氏の居館があったと考えられる。上地図。

やや南にある八王子神社には、「南津田城 八王子山砦」「南津田城 山城」の案内板が建ち、そのまま登山すると、八幡山城の出丸へとつながっている(上地図)。兵火などの緊急時には、居館や周囲の領民らが逃げ込める、山上の城塞が築造されていたものと推察される。


近江蒲生郡津田庄を治めていた、土豪・津田氏の居館跡と考えられている。

伝説によると、平安時代末期に滅亡に追い込まれた平家一門の 平資盛(1161~1185年。平清盛の孫)が、自身の子を身籠った女性をこの蒲生郡津田庄へ逃亡させると、彼女は 在地土豪・津田氏の妻となって隠棲し、そこで誕生した子に「津田親真」と命名したという。後になり、親真は剱神社の 神官・斎部親澄の養子となって越前丹生郡織田庄へ移住し、織田姓を名乗って、剃髪し神官を継承したとされる(織田親真。下家系図)。しかし、この説だと享年が 100歳を越えることになり、実際は斎部親澄の実子だったとする説が有力視されている。

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もともと、藤原摂関家の末裔と称してきた自身の系譜を、京都 の朝廷勢力に接近するため、織田信長(1534~1582年)が桓武平氏の末裔へと改ざんしたと考えられている。

信長はこの新系譜を既成事実化すべく、織田家の嫡流以外の一門に、この出身地の津田姓を積極的に名乗らせたという。その代表例が、津田信澄(1555/1558?~1582年。家督争いで 1558年に誅殺した 実弟・織田信行の子)である。 最終的には 近江・大溝城主に取り立てられるも、本能寺の変後、明智光秀の娘を娶っていたため、 信澄は 織田信孝(1558~1583年)に殺害されてしまうも、当時、津田姓を名乗った織田一門は、この信澄以外にも数多くいたという。



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そのまま八幡山の東面へ移動し、日牟禮八幡宮の後方にある 八幡山ロープウェーに乗車して、山頂へ行ってみた(往復 880円、乗車時間 4分、年中無休 9:00~17:00)。

碁盤の目のように規則正しく整備された、近江八幡の市街地を眺めながら、二の丸まで上がれる。この二の丸跡には展望資料館があり、本城に関する資料が掲示されている。また本丸跡には、豊臣秀次(1568~1595年)の 菩提寺・村雲御所瑞龍寺が京都から移築されている。


この 八幡山城(近江八幡城)は、1585年8月、豊臣秀吉の 甥・豊臣秀次(18歳。1568~1595年。豊臣秀吉の姉、瑞竜院日秀の長男)の居城として築かれた山城で、前年 11月に終結した 小牧・長久手の戦い以降、対立関係にあった徳川家康に備え、東近江に配置されたものであった。

近江国中に自身の威信を見せつけるべく、秀吉自らが城郭や城下町普請の指揮をとっている。この時、山頂に三層の天守閣が建設されるが、これは元来、山麓にあった日牟禮八幡宮の上宮を移築、増築したもので、日常的には全く使用していなかったという。平時には、山麓の居館に滞在し、山城は緊急時の詰め城であった。それらの建設には、解体された 安土城 から多くの部材が転用されたという。

また城下町造営では計画的な町割りが進められ、その名残りが今に残る碁盤の目の都市設計となっている。住民らは安土城下から積極的に誘致され、また楽市楽座も導入されて、近江国の拠点都市整備が目指されたのだった。特に、安土や 彦根長浜 から往来する船には、城下の八幡堀を通行させ、税を徴収したという。この八幡堀の内側が武家屋敷、外側が城下町となっており、人工的に掘削された運河であった(下写真)。

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その後、小田原北条氏を屈服させて天下統一を成し遂げた秀吉は、関東へ移封させた徳川家康に備えるべく、1590年、秀次を 尾張・清州城主へ転籍させると、代わりに八幡山城には 京極高次(1563~1609年)が入ることとなった。

1595年7月に秀吉の命により秀次切腹が強行されると、同時に秀次ゆかりの八幡山城の破却が命じられ、10年という短い歴史に幕が降ろされる。しかし、城下町には萱商人や畳商人らがメインとなって残留し、町自体はそのまま継承されることとなった。後に、彼らが近江商人の一派を形成していくわけである(下地図)。
この時、破却した八幡山城の部材を使って築城されたのが、大津城であった。京極高次がそのまま大津城主を務める

関ケ原合戦 直後の 1600年9月18日、この地を通過した徳川家康が、八幡山城跡と城下町を訪問している。

1889年には、米原大津 間で鉄道が開通するも、その路線ルートから大きく離れた旧市街地は、そのまま近代都市開発から隔絶されることとなり、それが功を奏して、往時の原型をそのままとどめる街並みが今に残されたのだった。特に、豊臣時代から残る「八幡堀」の風景は当地の名所となっている。

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 北之庄城

なお、この八幡山は 1つの巨大な独立山系であるが、その山頂部は 3か所あり、南端に八幡山城、そして 中央部(岩崎山)に築城されていたのが、北之庄城であった。八幡山城の北の丸の脇道ハイキングコースから、未整備の山道を尾根上に 40分ほど進むことになり、かなり本格的な登山となる。

もともとは、山頂に設けられていた寺院を改造する形で築城されており、南近江の 大名・六角氏の 本拠地・観音寺城 を守る支城群の一つを構成したと考えられている。特に、三段に掘削された曲輪の、大手口に設けられた桝形虎口は、最大の見所となっている。



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最後に、八幡山城の旧城下町一帯を散策してみた。
まず、この八幡山の南麓にある八幡公園内の豊臣秀次の銅像を見学し、八幡堀と遊歩道を巡ってみた。豊臣政権時代、武家屋敷はこの八幡堀の内側にあったという。

そして、旧城下町側へ移動し、ヴォーリズ記念館、カフェ「天籟宮(旧喜多利邸を改築したもの)」、かわらミュージアム、西川利右衛門邸(旧西川家住宅)・伴庄右衛門邸(歴史民俗資料館)、船町、鉄砲町、薬師町、玉屋町、魚屋町、鍵之手町、西光寺(織田信長の墓があり、安土城 下から移転されたもの)などを見て回った。

旧市街地見学後、自転車で 10分ほど移動し(2.5 km)、駅前で返却した。もう一泊、駅前のホテルに投宿した。

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