BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


滋賀県 長浜市 ① ~ 市内人口 11.4万人、一人当たり GDP 333万円(滋賀県 全体)


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  長浜城、長浜城歴史博物館、
  北国街道沿いの宿場町「長浜宿」、豊国神社、家臣団屋敷跡、外外堀・内外堀跡の水路
  石田氏館跡(石田会館)と 石田三成 生家跡、三成産湯の井戸跡、堀端池(別称:治部池)
  服部山城跡
  大原観音寺 ~ 秀吉(39歳)と三成(15歳)の 出会いのエピソード「三献茶」
  横山城跡
  鳥羽上城跡
  国友鉄砲ミュージアム
  姉川の古戦場、陣杭の柳 織田信長本陣跡、龍ヶ鼻砦、樽番の碑、遠藤直経の墓
  王陵の里、茶臼山古墳、西山古墳
  相撲庭館(地頭・大原氏の居館跡)
  敏達天皇 皇后廣姫 息長陵(第 30代・敏達天皇の皇后)



前日夜に、彦根駅 から米原駅を経由し、JR北陸本線に乗り換えて、長浜駅に到着していた(3駅、距離 7.7 km、運賃 240円)。

そのまま長浜市内で 3連泊することにした(本当は、福井県国境の賤ケ岳古戦場 後半ルートも含めると、4~5泊以上は欲しい都市だった)。 「ビジネスホテルいずみ」は、長浜駅前からやや距離があるが、江戸時代の 宿場町「長浜宿」の旧市街地エリアに立地して便利だった。付近には、業務用スーパーもあった。

翌日の午前、ホテルを出発する。
宿場町の 旧市街地区(下観光マップ)は、翌日以降も散策できるので、一日目、二日目、三日目と、都度、違う路地を歩きながら、「ついで観光」に終始した。
「湖北の暮らし案内所どんどん」、豊国神社(秀吉が祭神。境内に加藤清正公像あり)、家臣団屋敷跡の石碑、長浜城 大手門跡(八幡神社御旅所あたり)、外外堀跡の水路、内外堀跡の水路、駅前の「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」、駅構内にある 観光案内所、長浜曳山祭 孔雀山曳山蔵、旧長浜港跡、など。
長浜市

長浜市

そのまま駅前を目指し、 駅構内の 長浜観光協会ツアーセンター(営業時間 9:00〜17:00)で、自転車を借りる。電動アシスト自転車は終日 1,000円、普通自転車は 500円で、保証金 800円要
さらに西進して琵琶湖畔へ移動し、長浜城と長浜城歴史博物館を訪問する。

現在の天守閣や石垣は 1983年に模擬復元されたもので(石材自体は、当時のものを転用)、実際の天守台は、現在、秀吉像や稲荷明神が立地する盛り土部分だったと考えられている。また、湖岸には「太閤井戸」と呼ばれる井戸跡があり、その遺構が湖水へと続いていることから、当時は、もっと琵琶湖へ突き出た構造だったという。下絵図。

長浜市




 長浜城 と 長浜宿

1573年9月1日、浅井氏の 居城・小谷城が落城すると、この北近江の攻略戦で大活躍した 羽柴秀吉(36歳。1537~1598年)に、旧浅井領が下賜される。秀吉は当初、そのまま小谷城を居城とするも、山間部にあり、行政や商業活動が不便だったことから、琵琶湖畔の 港町「今浜」の地に新城郭と城下町を造営することとなる。

城郭部分自体は 1576年頃に完成する(小谷城や周囲の陣城群の部材が集められ、転用されたという)。同時に、小谷城下の町人らの移住を奨励しつつ、碁盤の目のように整然とした町割りが進められることとなった(当時の城下町の名残りは、今でも 直線&升目の道路として、市街地中心部に継承されている)。その過程で、主君・織田信長から一字を拝借し、地名を「今浜」から「長浜」へ改称する。
初めて城持ち大名となった秀吉は、故郷から 母(大政所)と 妻(北政所)を呼び寄せ、また自身直属の家臣団を構築すべく、北近江や 故郷・尾張 から多くの若者を徴用していくこととなる。

その後、1582年6月2日早朝に本能寺の変で織田信長が横死すると、明智勢によって一時占領されるも、光秀も敗死し、6月27日の清須会議を経て、長浜城は秀吉から柴田勝家へ譲渡される。しかし、翌 1583年4月の賤ヶ岳の戦いで柴田軍を破った秀吉は、この長浜城を再接収し、2万石の領主として 山内一豊(1546~1605年)を配置することとなった。しかし、小田原征伐後の 1590年、一豊が 遠江国・掛川城 5万1000石へ移封されると、いったん城主不在につき、長浜城は廃城となる(佐和山城 主・石田三成が代理管理した)。

関ケ原合戦 後、石田三成領だった北近江 18万石を継承した 井伊直政(1561~1602年)が、引き続き、管理を継承するも(居城を佐和山城に置いた)、合戦時の戦傷がもとで死去すると、その 子・井伊直勝(1590~1662年)が藩主を継ぎ、新たに彦根城の築城工事をスタートさせる(1604年着工、1606年に天守完成)。徳川家康はさらに西国への備えとして、同年、長浜藩を新設し、長浜城主として、実践経験が豊富だった譜代家臣の 内藤信成(1545~1612年)を任命する。以降、長浜城は藩庁、藩主居館として機能し、その城下町は北国街道の中継拠点として大いに繁栄したのだった。

信成の病没後、その子の内藤信正が 2代目藩主を継承するも、大坂の陣後 の 1615年、摂津・高槻藩 へ移封されると、そのまま長浜藩は廃藩となり(彦根藩領に再編入)、藩庁だった長浜城は解体され、その部材は彦根城へ転用されることとなった。

長浜市

長浜市

その後も引き続き、旧長浜城の城下町は北国街道の宿場町として機能し、また、琵琶湖畔の水運都市として重要だったことから、彦根藩下の 三大港町 ー 松原湊(彦根市)、米原湊(米原市)、長浜湊(長浜市)- として保護されていく。

しかし、徳川政権時代に至っても、天下人・秀吉を慕う長浜町人は多く、秀吉時代の町割りが大切に 保存&継承され、また、秀吉にまつわる信仰も根強く息づくこととなった。こうして、豊臣家縁の 神照寺(秀吉が再興)や、八幡宮(秀吉寄進の庭園)、知善院(秀吉木像を安置)、舎那院(秀吉が保護)、豊国神社(秀吉が祭神)、総持寺(秀吉が再興)などが今も大切に受け継がれているわけである。

また、「ユネスコ無形文化遺産」に登録された「長浜曳山まつり」は、絢爛豪華な山車が見どころで、長浜城主だった当時の秀吉に初めて男児を生まれた際、秀吉が城下の人々に金を振る舞い、その喜びを爆発させたことに由来するという。町民はその金品を使って山車をこしらえ、八幡宮の例祭で曳き回したのが始まり、と言い伝えられている。



長浜城公園(豊公園)を見学後、いよいよ市街地の東郊外を巡ってみる。駅前から東へと伸びる県道 509号線を、前方に見える巨大な横山を目指し、ひたすら直進するだけだった(6 km、30分弱のサイクリング)。下地図。

長浜市

間もなく、山麓の「長浜市石田町」に到着する(下地図)。
ここは石田三成(1560~1600年)の故郷で、彼の生家跡地に 資料館「石田会館」が立地する(下地図)。石田氏はもともと、北近江の 守護・京極氏や、その 有力家臣・浅井氏 に仕えた地侍で、「近江国坂田郡石田村(現在の 滋賀県長浜市石田町)」を地盤としていた。当地は古くから「石田郷」と呼ばれ、ここに土着し豪族化したことから、石田姓を名乗るようになったと考えられている。

この石田氏の居館跡であるが、現在、土塁や堀などの遺構は全く残っていない。しかし、南西隅の 堀端池(別称:治部池)が、かつての堀跡の一部と指摘される。また敷地内には多くの 石碑、解説板、銅像などが配置されており、特に現存する古井戸は「石田三成産湯の井戸」と言い伝えられている。

長浜市

続いて、北隣の「長浜市服部町」を訪問する(下地図)。
この地名も、当地の 地侍・服部氏に由来するという。もともとは、滋賀県へ下向した近江源氏の末裔で、鎌倉時代初期に近江源氏嫡流の佐々木家から馬淵家として分派し、近江守護代を務めるなど、佐々木家一門の中でも有力豪族として君臨していた。この馬淵家からさらに分派したのが、堀部家だったという。その末裔に、赤穂浪士四十七士の一人、堀部武庸(1670~1703年)がいる。

ちょうど、この後方の低い尾根上に「服部山城跡」が立地する。平時には山麓に居住し半農生活を送りつつ、緊急時に山上に立て籠るべく城塞を造営していたようである。北側の八幡神社から山道が続いている。下地図。

長浜市

再び、南下して「石田町」を通過し、横山の南面を目指すことにした(下地図)。
観音坂トンネルを通り抜け、大原観音寺まで移動すると、入り口に自転車を停める。そのまま徒歩で境内を抜けると、後方の 山頂「横山城」へ通じる登山口が待ち構えている。

なお、この 大原観音寺(滋賀県米原市)こそ、秀吉と三成の出会いの エピソード「三献茶」の現場、と伝えられる寺である。1574年、秀吉 39歳、三成 15歳時の小話とされる。

ここから、整備されたハイキングコースを 30分ほど登ると、標高 311.9 mの山頂に到達する。この主郭部を中心に、東西南北に延びる尾根や谷沿いに、複数の曲輪や砦が配置されていた。現在も良好に遺構が残されており、曲輪を取り囲む土塁跡や 虎口、竪堀、堀切、井戸跡が見られる。

この北方には姉川、さらに後方には 小谷城 が一望できる。当時、この場所から姉川合戦の一部始終を俯瞰できていたようである。浅井・朝倉連合軍が敗走する様子を見せつけられた守備部隊は、戦後すぐに織田方へ降伏することとなる。

長浜市




 横山城

滋賀県長浜市と米原市との市境となる小高い丘陵山系で、遠方から見ると、龍が伏せているような姿から、臥龍山(がりゅうざん)と呼ばれてきた。特に、緩やかな丘陵斜面が続く北端部分は「龍ケ鼻(たつがはな)」と呼ばれ、この尾根上の半径 500 m圏内には、茶臼山古墳など数十もの古墳群が現存する。こうした背景から、付近は「王陵の里」と称される。

そして、この南端の山頂(横山。標高 311.9 m)に築かれていたのが「横山城」であった。
もともとは、北近江の 大名・京極家の支城として築城されていたが、その後、有力豪族・浅井亮政(初代浅井家当主。下家系図)が台頭して京極家と対立すると、1517年に浅井氏に攻め取られ、以降、小谷城を本拠地とした浅井氏の出城として活用されることとなる
山麓を通過する 北国脇往還(美濃の関ヶ原 ~ 浅井氏の 本拠地・小谷城下を通過する山岳地帯の街道)に関所を設け、一帯を支配・監督しつつ、城主や城兵は、平時には山麓に居住して半農生活を送り、戦時になって山城に立て籠るスタイルであったと推察される。

その後も浅井氏は勢力を伸長させ、南近江の大名・六角氏 との抗争を激化させると、1561年、3代目当主・浅井長政(1545~1573年。下家系図)によって、横山城は大規模な補強工事が施される。同時に、一門の 浅井井演(下家系図)が城代として配置されることとなった。

長浜市

この 1560年代、南近江の六角氏や美濃の斎藤氏との抗争を有利に進めるべく、尾張の織田信長と同盟を結び、 1568年9月には信長の上洛を手助けするも、越前の朝倉氏と信長が対立すると、長年の 盟友・朝倉方に組したため、1570年4月末の金ヶ崎の戦い以降、織田方と交戦状態に陥る。上地図。

以降、美濃の関ヶ原浅井氏の 本拠地・小谷城 を通過する北陸脇往還街道を守備する要として、ますます横山城の重要性が高まることとなり、信長の主要攻撃目標に定められるのだった。小谷城から 6~7 kmほど南に位置し、姉川を挟んだ南岸側の要であったため、浅井方も姉川流域の支配権を担保すべく守備を鉄壁にしていたわけだが、信長はまず、浅井氏の勢力を姉川の南北で分断する作戦をとり、同年 6月28日に「姉川の戦い」が勃発するわけである。

まず最初に横山城を完全包囲した信長は、小谷城の浅井氏を警戒しつつ、横山の 北端・龍ケ鼻(たつがはな)に本陣を置く。これに対し、朝倉軍の加勢を得た浅井軍が、姉川の北岸まで進軍してくると、織田方の攻城軍も姉川南岸に展開し、両軍が川を挟んで対峙することとなる。この時、織田軍は足利義昭から御旗を得ており、幕府軍と徳川軍の加勢も加わっていた。
結局、姉川の戦いはわずか一日で終結し、浅井・朝倉連合軍は小谷城へと潰走すると、織田・徳川連合軍は城下まで追撃するも、巨大な 山城・小谷城の防備は固く、結局、最後のとどめを刺すことがかなわず、連合軍はいったん姉川南岸まで撤収し、横山城攻略を最優先するのだった。柴田勝家と羽柴秀吉を中心に、織田軍の攻撃に耐えかねた守備兵は浅井軍本隊の敗走もあって戦意を喪失し、城主の 三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは開城を決意する。

以降、信長は城番として木下秀吉を任命すると、秀吉はここを拠点として浅井氏攻略のため、周囲の諸勢力の調略と、小谷城周辺への陣城造営を進め、徐々に浅井氏の力を削いでいく。この間にも、秀吉の手により、横山城はさらに強化工事が施されていたと考えられる。

そしてついに 1573年9月1日、小谷城まで追い詰められた浅井氏も滅亡すると、信長から戦功を賞賛された秀吉は、北近江の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城することとなるわけである(当初、秀吉は小谷城を本拠地とするも、交通に不便だったことから、長浜の地に港町と城下町を合体させた都市を建設した)。これに前後して、横山城は廃城となったようである。

長浜市

横山城へのアクセス手段であるが、 JR長浜駅前に戻り、湖国バス(近江長岡ルート)に乗車し、バス停「坂下」、もしくは「観音寺」で下車する ことも可能だ。前者の場合、徒歩 5分の日吉神社の脇から登山することとなり、後者の場合は、観音寺の境内から登山することとなる。



なお、横山城の南隣にある「鳥羽上城跡」であるが、北近江の 京極氏(国人・浅井氏の主家)が、南近江の六角氏 の侵攻に備えて築城したと伝えられる。最終的に六角軍の攻撃をしのぎ切れず、鳥羽上城は放棄されたという。現在、城塞の遺構はほとんど残っていないので、今回、訪問は断念した。

長浜市

時間があれば、長浜には一週間ぐらい滞在してみたい。まだまだ訪問すべき場所がたくさんあり、到底 3泊では回り切れないボリュームだった。

できれば、翌日も長浜駅前で自転車を借り、再度、横山(臥竜山)を訪問したいと思う。途中、国友鉄砲ミュージアムに立ち寄りつつ、今度は横山の北面一帯を散策してみたい。
この一帯は、姉川の古戦場であり、これに関連する遺跡が複数残されている(陣杭の柳 織田信長本陣跡、龍ヶ鼻砦、樽番の碑、遠藤直経の墓、など)。また、周囲は「王陵の里史跡案内板」もあり、半径 500 m圏に広がる 古墳群(茶臼山古墳、西山古墳など)を訪問することもできる。上地図。

なお、姉川合戦の当時、信長は、横山丘陵の最北端にある 前方後円墳「茶臼山古墳」を加工する形で、本陣となる龍ケ鼻砦を造営していた。そして、合戦終盤になって敗走する 浅井・朝倉連合軍を追撃すべく、川辺まで下った地が「陣杭の柳」というわけであった。

さらに 横山(臥竜山)を東面へ抜けると(姉川の上流へ進むと)、付近には「相撲庭館(鎌倉時代から台頭した 地頭・大原氏の居館跡で、その後、室町時代には六角氏傘下の土豪となっていた。現在でも、土塁や空堀の遺構が残る)」や、「敏達天皇 皇后廣姫 息長陵(広姫は、30代目・敏達天皇の皇后になるも、すぐに亡くなり、この地に葬られた人物。敏達天皇の後妻が、後に日本史上初の 女帝・推古天皇となる堅塩媛である)」などの史跡も点在する。これらの視察だけでも、一日分のサイクリング・コースを組めるボリュームだった。

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