BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


滋賀県 長浜市 ③ ~ 市内人口 11.4万人、一人当たり GDP 333万円(滋賀県 全体)


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  田上山砦跡(田上山城。羽柴秀長の本陣跡)
  木ノ本宿(江戸時代の北国街道上の宿場町)、一里塚跡、木ノ本 牛馬市跡
  賤ケ岳リフト と 余呉湖
  賤ケ岳砦跡
  大岩山砦跡 と 中川清秀の墓
  岩崎山砦跡
  秀吉軍の 前線防衛ライン ー 茂山砦、神明山砦、堂木山砦、東野山砦、土塁長城、溝谷砦、菖蒲谷砦、今市上砦、坂口砦
  玄蕃尾城(内中尾山城、内中尾山砦。柴田勝家の本陣跡)
  柴田軍の 陣城群(溝谷砦、茶臼山砦、天神山砦、大谷山砦、柏谷山砦跡、林谷山砦、橡谷山砦、中谷山砦、別所山砦、行市山砦、行市山南砦、高尾山砦、池原山砦、山寺山砦跡)



長浜市内 での 3泊を終え、荷物をフロントに預ける。朝早めに出発し、JR北陸本線で木ノ本駅へ北上する。
木ノ本駅構内の地元観光案内所(営業時間 9:00〜17:00)で、レンタサイクル・サービスがある(電動アシスト自転車は 1,000円、普通自転車は 500円で、保証金 800円要)。ただし、賤ケ岳の戦い前半戦で戦場となった、余呉湖 南岸~東岸一帯の尾根沿いを踏破し、北岸の余呉駅まで移動したいので、この日、自転車をレンタルするかどうかは、まだ未定

まず最初に、この駅から徒歩 15分の距離にある「田上山砦(田上山城)」を目指す(下地図)。 1583年4月の賤ケ岳の合戦当時、羽柴秀吉の 弟・秀長(43歳。1540~1591年)が守備していた場所である。

その道中、北国街道との交差点に行き当たる。江戸時代、北国街道上の 宿場町「木之本宿」があったエリアである(下地図)。この街道沿いを 400~ 500 mほど北へ進むと、「一里塚跡」が見られる。ここまでで、駅から徒歩 10分ほどだった。

長浜市

続いて、北国街道を少し戻る形で南進し、途中の路地を東へ入り、意冨布良神社へ向かう(上地図)。
この道中に「木ノ本 牛馬市跡」の石碑と案内板があり、山内一豊(1545~1605年。賤ケ岳の合戦後、長浜城主に着任)が当地で名馬を購入した、という逸話が解説されていた。

意冨布良神社に到着すると、整備された登山道を 30分ほど登り、田上山砦(田上山城)に到着する。山頂からは、西隣に面する大岩山砦や賤ケ岳砦などの賤ケ岳山系を一望できる。また北側には、柴田軍配下の各部隊が築城した、大谷山砦や 別所山砦(前田利家・利長父子の陣所跡)なども俯瞰できた。

ここに 副将・羽柴秀長 の率いる兵 15,000を詰めさせ、秀吉自身の本隊 20,000は、平野部の 北国街道沿い(木ノ本地区)に本陣を置いたという。


1583年2月、50,000の大軍勢を引き連れ、伊勢・長島城の 攻防戦(挙兵した滝川一益が籠城し、 15,000の織田信勝軍が引き続き、包囲していた)から近江へ向かった羽柴軍は、 越前・北ノ庄城 を発った 柴田勝家(軍勢 30,000)より先に、北近江国境に到着する(北陸地方はまだまだ雪に覆われており、柴田軍は雪道を掘って強行突破してきた)。

これより一足先に、北近江国境の守備に配していた堀秀政に命じ、北国街道を遮断する 土塁長城(東西 500 mほど)と、溝谷砦、菖蒲谷砦、東野山砦、堂木山砦 などを建造させていたわけだが、これを補強する形で全軍 50,000を大動員し、雪道の強行軍で遅延する柴田軍を尻目に、さらに 1か月かけて、複数の 陣城群(茂山砦、大岩山砦、岩崎山砦、賤ケ岳砦、田上山砦 など)を建設したわけである。

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完成後、各砦に諸将を配し、田上山砦には羽柴軍の 副将・秀長 を入れて、北近江防衛ネットワークの本拠地としたのだった。この山自体は急斜面で、あまり曲輪を増築できない地形であったが、山頂は開けた地形が多く、複数の広大な曲輪が幾重にも築造され、総勢 15,000が入ったとされる(実際には、これほどの大人数が山頂に同居するのは困難だったはずで、戦争ギリギリまで山麓に陣所を構えていたと推察される)。

現在でも、土塁や堀切、馬出などの遺構がはっきりと残存する。



見学後に下山し、西隣に面していた賤ケ岳山系を目指す。
再び駅前まで戻り、これを通り過ぎて、さらに県道 303号線を 30分ほど西進すると、余呉川を渡る。この余呉川沿いを少し北上し、山麓の集落へと続く田舎道を西進する。その山下に西光寺があり、後方に賤ケ岳リフト乗り場があった(下地図 白ライン)。

賤ケ岳の合戦当時、この東西の山上に陣取った羽柴軍であったが、この北国街道と余呉川が流れる狭い平野部にも、複数の陣所を設けていたと推察される。かつて兵士らが目にした、山麓から見上げる峡谷の風景も、ぜひ写真撮影しておきたい。

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いよいよ賤ケ岳リフトに乗車し、「賤ケ岳及び大岩山古戦場」跡を目指す(距離 1.5 km、乗車 5分、営業時間 9時~17時【11月は 16時まで。12~2月は休業】。片道 450円、往復 900円)。山頂は標高 421 mあるが、麓からの実質的な高さは 310 mほど。

リフト降車後、徒歩 10分ほどで 賤ケ岳砦跡(下絵図)に至る。周囲に点在する賤ヶ岳合戦時の陣城群の中でも、最も散策しやすい史跡となっている。

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この山頂一帯は、家族連れなども多く、ピクニック、ハイキング公園といった様相だった。週末ではなく、平日訪問が絶対オススメ。途中、「名もなき武将像」の石像は必須の写真スポットとなっていた。

それにしても、山頂からの眺望は最高だった。西には琵琶湖が、北には余呉湖が広がり、さらにその後方にそびえる山々は、日本海側の北陸地方へと続くわけである。この山脈一帯に、3万を動員した柴田軍が陣城を構築したわけで、まさに柴田軍の動きが手に取るように分かる好立地ポイントだったことが窺い知れる。こうして両軍は余呉湖を挟んで、北と南で睨み合ったわけである。

そのまま賤ケ岳山系を尾根伝いに北上することにした(下地図の水色ルート)。

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この尾根沿いに、大岩山砦(中川清秀 が守備)、岩崎山砦(下絵図。高山右近 が守備)などが築城されていた(上地図)。この途中の道すがら、合戦時に戦死した中川清秀の墓があったり、両軍の戦死者を弔う墓標があったりと、往時を激戦を物語る遺跡も点在する。

4月20~21日に行われた賤ケ岳合戦のうち、前半 4月20日は柴田軍配下の佐久間盛政隊の早朝からの奇襲により(19日深夜うちに余呉湖の西岸を迂回し、上地図の「尾野呂浜」あたりまで進軍していた)、柴田軍優勢の中で戦況が進む。その佐久間隊が攻撃し占領した場所が、まさに、この尾根から北側だったわけである。

大岩山砦と岩崎山砦を占領した佐久間隊は、さらに賤ケ岳山頂に位置する 賤ケ岳砦(丹羽長秀の 重臣・桑山重晴が守備)にも攻撃を加えようと進軍準備をする中(4月20日)、長浜城 に待機していた丹羽長秀の水軍が後詰めとして加勢してくると、佐久間隊も手出しができず、いったん戦線は膠着状態に陥る。

この間、柴田勝家は度々、佐久間盛政に撤退指示を発するも、これを無視して大岩山砦と岩崎山砦に滞在し続けた結果、翌 4月20日夜、大垣 から電光石火のスピートで羽柴軍本隊が帰還してしまう。到着した秀吉軍は、すぐに賤ケ岳砦の援軍に向かいつつ、翌 4月21日早朝より、賤ケ岳山系の尾根を通って、佐久間隊が陣取る両砦を攻撃する(下絵図)。

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当初は、歴戦の 猛将・佐久間盛政の籠城軍は頑強に抵抗し、秀吉軍の攻撃をしのぎ続けるも、この佐久間隊の後詰め、援軍役を担うべく、余呉湖北岸の茂山砦を占拠していた前田利家軍が突如、勝手に戦線を離脱し撤退してしまう。
この前田軍の動きで柴田軍全体に衝撃が走ると、そのまま勝家配下にあった与力の 諸将(不破勝光、金森長近ら)もなし崩し的に自主撤退を始めてしまい、最前線で籠城中だった佐久間盛政は完全に孤立してしまう。戦意を失った籠城軍も壊滅し、佐久間盛政も脱出し、そのまま北陸へと落ちのびていくのだった(最終的に落ち武者狩りに捕まり、5月12日、京都 で処刑される)。

周囲の各部隊が 自主離脱、撤退、敗走して瓦解していく中、柴田勝家の本隊は北国街道の封鎖を解くべく、秀吉の築いた土塁長城を攻撃中であったが、逆に諸方面と交戦中だった秀吉軍が結集してきて、勝家本隊を集中攻撃するようになると、同じく潰走してしまうのだった。

4月23日、勝家はなんとか本拠地の越前・北ノ庄城 へと逃げ帰るも、追走してくる秀吉軍に早くも包囲され、翌 4月24日午後、落城し、自刃して果てるのだった

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わずか二日間だけの戦闘であったが、賤ケ岳山中や余呉湖畔はあまたの屍体で埋め尽くされ、その血が山麓にまで流れ落ちて、余呉湖自体の水も紅に染まったと伝えられている。

特に、この両砦に籠る佐久間隊との死闘と追撃戦で活躍したのが、「賤ヶ岳の七本槍」と称された、福島正則(22歳。1561~1624年)加藤清正(21歳。1562年-1611年)、片桐且元(27歳。1556~1615年)、脇坂安治(29歳。1554~1626年)加藤嘉明(20歳。1563~1631年)、平野長泰(24歳。1559~1628年)、糟屋武則(21歳。1562~?)ら、 7人の若侍である。実際のところ、この 7人の称賛エピソードは、当時、「鬼玄蕃」との異名を持って世間に武名を轟かせていた 佐久間盛政(29歳。1554~1583年)を打ち破った、という印象を世間に見せつけるため、「新時代の到来」という意味も込めて、秀吉が大げさに取り上げたものだった、という見方もある。それまで自身の子飼いの武将や譜代の家臣団がいなかった秀吉にとって、自らの家臣団の武名を誇張することで、その上に君臨する秀吉自身の威光を高めていこうと狙ったと思われる。

また、この賤ケ岳の合戦は、日本の合戦史上、特に稀に見る陣城戦争だったと指摘される。
雪で覆われ北陸地方から出兵できない柴田勝家に先んじ、秀吉は柴田方に組する 岐阜城の織田信孝伊勢の滝川一益 らを個別撃破しつつ、北国街道を封鎖して、その出口付近に巨大な野戦城の築造を進めたのだった。
それは上地図の通り、東野山砦~堂木山砦に連なる 土塁城壁(東西幅 500 m)、神明山砦、茂山砦、溝谷砦、菖蒲谷砦、今市上砦を第 1防衛ラインとし、大岩山砦、岩崎山砦、賤ケ岳砦を第 2防衛ラインとして、その背後に 副将・羽柴秀長の 陣(田上山砦)と 坂口砦を置く構図であった。まさに、余呉湖、琵琶湖を外堀に見立てた巨大防衛ネットワークというわけだった。下地図。 

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これに対し、雪をかき分け急いで南下してきた 3万の柴田軍は、力づくでの北国街道突破を早々に諦めると、秀吉を警戒して前年に築城させていた、越前国境の 玄蕃尾城(上絵図。内中尾山砦、内中尾山城とも言われる)に本陣を置きつつ、秀吉の野戦城網の正面に同じく陣城群を突貫工事で築城させていく。この時に建造されたのが、溝谷砦、茶臼山砦、天神山砦、大谷山砦、柏谷山砦跡、林谷山砦、橡谷山砦、中谷山砦、別所山砦、行市山砦、行市山南砦、高尾山砦、池原山砦、山寺山砦 などで、それらの間には山の尾根伝いに軍道も整備し、密な相互連携を図っていたという。

目下、これらの陣城群の遺構は、交通が不便な県堺の山岳地帯に位置し、また戦闘でもほとんど未使用に終わったことから、非常に良好な状態で残存する。下地図。

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夕方、長浜駅 へ戻り、米原駅を経由して、 JR東海道線(琵琶湖線)の近江八幡駅で下車する(新快速 3駅、距離 7.7 km、運賃 680円)。近江八幡駅前 でも、2泊することにした。


なお、秀吉側の陣城や賤ケ岳山中のメイン古戦跡を見るだけだと、このルートで十分であろうが、もし、あと一日追加して、秀吉方の第一防衛ライン群 ー 堂木山砦跡、東野山砦跡、茂山砦跡、土塁長城(東西幅 500 m。北国街道を封鎖していた)跡地や、柴田勝家側の 陣城群(溝谷砦跡、茶臼山砦跡、天神山砦跡、別所山砦跡、山寺山砦跡 など)を見学する場合は、 JR線で一つ北隣にある余呉駅へ向い(長浜駅から 18分、330円)、この駅前で自転車をレンタルするのがベストだろう。一日 500円(電動自転車なし)。上地図。



 玄蕃尾城(内中尾山城、内中尾山砦) ~ 戦国時代の最新技術が盛り込まれた、山城の最高傑作

福井県(敦賀市)と 滋賀県(長浜市)との県堺に立地し、しかも山奥にあるため、公共交通機関でのアクセスは非常に困難である。JR北陸本線の敦賀駅前から、路線バスで バス停「刀根」下車か、JR北陸本線の木ノ本駅前から、路線バスで バス停「柳ヶ瀬」下車後に、登山となる。もしくは、1573年8月に織田軍と朝倉軍が衝突した刀根坂の古戦場訪問を兼ね、JR北陸本線の余呉駅前で自転車を借りて、北国街道(現在の県道 365号線)を真っすぐ北上することもできる。

古城跡は柳ヶ瀬山の 山頂(標高 459 m)に位置し、当時は内中尾山という名称だったことから、「内中尾山城(内中尾山砦)」と呼称されていたという。または、勝家配下の 家臣・佐久間(玄蕃允)盛政が築城工事を担当したことから、「玄蕃尾城」とも称されていた。
織田信長死後に清須会議が開催され(1582年6月27日)、北近江の長浜城 を羽柴秀吉から譲り受けた柴田勝家は、これと越前国境との連絡拠点として、北国街道沿いに内中尾山城を築城したわけである。その立地は北国街道を見下ろすベストなロケーションで、越前国境の刀根峠を防衛する要地と考えられたのだった。そして、早くも翌年 3月に勃発した賤ケ岳の戦いで、早速、出番が回ってきたわけである。ここに柴田勝家の本陣が設置されることとなった。

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城域は、山頂の 主郭(本丸。約 1,500 m2)を中心に、南北方向に 6つの曲輪が連なる直線型で設計されていた(東西約 150 m、南北約 250 m)。上絵図。
本丸エリアには櫓台も設置され、天守のような複数階建ての建物も建設されていたようである。また、各曲輪は土塁と空堀で区切られ、それらを馬出と虎口を伴う土橋で連結し、迷路のような構成となっていた。上絵図。

この城郭は、1582年夏~秋という戦国時代末期に築城されたこともあり、中世の山城から近世城郭への過渡期に相当し、当時の最新の築城技術を結集して建設された軍事要塞であった。そのメインを飾った賤ケ岳の戦いでは戦場になることもなく、また破却もせずに柴田軍が撤収してしまったため、そして山奥に立地したことから近代以降の都市開発にも巻き込まれることなく、現在でも非常によい状態で城塞遺構が残留できたことから、織田ー豊臣政権時代の山城モデルとして高い評価を得ている。こうした背景から、1999年7月、国の史跡指定を受けるに至る。



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