BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


滋賀県 大津市 ① ~ 市内人口 35万人、一人当たり GDP 335万円(大津市 全体)


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  渡来人歴史館
  大津城跡(本丸跡、外堀石垣跡、二の丸東南隅櫓跡)
  大津事件 石碑「露国皇太子 遭難之地」
  東海道最大の 宿場町「大津宿」、札ノ辻、北川家住宅、大塚本陣、肥前屋九左衛門本陣
  川口公園(大津城 中堀跡)
  京阪石山坂本線「三井駅」下を貫通する、琵琶湖第一疎水(大津城 外堀跡)



18切符シーズンでないときに訪問してみたい。山城登山もあるので、10月~11月、3~4月がベスト。 JR線で関西空港から直接、「大津駅」に入る(2時間、2,200円、天王寺駅&大阪駅 で乗り換え)。

旅程(滋賀県 9泊10日の旅プラン)

1日目、大津到着、すぐに 渡来人歴史館、大津城跡、東海道「大津宿町」などを散策 (大津泊 1)
2日目、三井寺(園城寺)、大津市歴史博物館、宇佐山城、近江 大津宮跡 (大津泊 2)
3日目、坂本城、北国街道、明智塔、西教寺、明智一族の墓、比叡山延暦寺 (大津泊 3)
4日目、自転車借りる(JR石山駅前)。膳所城、義仲寺、瀬田城、石山寺、近江国府跡(彦根泊 1)
5日目、自転車借りる。彦根城、佐和山城、鳥人間コンテスト会場、磯山城 (長浜泊 1)
6日目、長浜城、北国街道、豊国神社、横山城 (長浜泊 2)
7日目、自転車借りる。小谷城跡、姉川古戦場、磯山城(長浜泊 3)
8日目、自転車借りる。賤ケ岳古戦場(近江八幡泊 1)
9日目、自転車借りる。八幡山城、城下町(八幡堀)、旧西川家住宅、長光寺城(近江八幡泊 2)
10日目、自転車借りる。安土城、安土城考古博物館、観音寺城、北之庄城跡 (関西空港へ)

なお、上記以外にも、長らく歴史の表舞台に登場してきた近江国内には、たくさんの 古城や史跡が点在しており、もっとじっくり、ゆっくりの旅路でもよいと思う。 大津 1週間、長浜 1週間、近江八幡・彦根・米原 1週間など。せっかくなので、メジャーな観光地以外の、 自転車の機動力を活かせそうな場所をターゲットとして巡ってみたい。


大津駅前にスーパーホテルがある(一泊 4,300円、朝食込)。特に、毎週日曜日は 激安(日曜日、月曜日、火曜日、水曜日泊あたりが低料金。金曜日、土曜日は値段が跳ね上がる)。
日付によっては、東隣のアパホテル瀬田駅前が安いか 比較検討(一泊 4,400円、朝食なし)。駅前には「餃子の王将」、ス-パー「ダイエー」もあって便利。ただし、JR線の移動コスト、時間ロスを考えると、大津駅前ス-パーホテルが良いかも。
なお、JR大津駅前はレンタサイクルが高いので、東隣の JR石山駅まで移動してから(190円)、レンタルされるのがオススメ。

まず、到着初日と翌日で、大津市内を巡ってみる。

とりあえず、日曜日での現地入りを前提とし、駅南口のやや東にある「渡来人歴史館(大津市梅林 2-4-6。金曜・土曜・日曜のみ開館。入館料 100円)」を訪問する。

続いて駅北口へ戻り、1 kmほど北の琵琶湖畔にある 大津城跡(大津城 本丸跡、大津城跡の石碑)を目指すついでに、道中の駅前商店街を巡ってみる。江戸時代、東海道沿いに発展した 宿場町「大津宿」の跡地である(京町、御幸町、長等など)。

大津市

特に、市中心部の主な見どころは、旧・東海道沿いに集中している。上地図。

① 大津事件 石碑「露国皇太子 遭難之地」
1891年5月11日、来日中のロシア帝国皇太子 ニコライ(1868~1918年。後に最後のロシア皇帝ニコライ 2世として即位)が、警備中の 巡査・津田三蔵(1855~1891年)に斬りつけられた暗殺未遂事件の現場。洋品店の角に石碑が、その壁面に説明板が付設されている。事件後、ロシアの報復を恐れた明治政府が、津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう圧力をかけるも、 大津地裁の 大審院長・児島惟謙(1837~1908年。関西大学 創立者の一人)の判決により、刑法どおり無期徒刑が適用され、司法権の独立を貫いた逸話で有名となった。結局、津田三蔵は同年 9月29日早朝、収監中の 又集治監(網走刑務所の前身)にて、心身衰弱のため死去することとなる。

② 大津宿 大塚本陣跡(大津市御幸町 6-13。県道 558号線沿いの滋賀労働局あたり)
③ 大津宿 肥前屋九左衛門本陣跡
この本陣という施設は、江戸時代、大名や公家が宿泊するために設けられたもので、大津宿では 大坂屋・大塚嘉右衛門宅(大塚本陣)、肥前屋九左衛門宅の 2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣 1軒が、この「八丁筋」に設置されていた。当時、八丁筋の両側には旅籠 71軒(幕末期には 130数軒の記録あり)が立地していたという。「八丁筋(八町通)」は、東海道筋の上関寺町~札の辻までの距離が 八町(約 872 m)あったから、もしくは、その間に八つの町あったことに由来する言われる。
現在、この本陣の建物遺構は残っておらず、大塚本陣のあったこの場所に、明治天皇が休憩所として立ち寄ったことを示す「明治天皇聖跡碑」が建つのみとなっている。当時、この大塚本陣の 3階からは、琵琶湖の絶景が臨めたという。

④ 大津宿 札ノ辻
「札の辻」とは、江戸時代、幕府の法令を記した高札が立てられた四つ辻のことで、大津宿では、このポイントがちょうど東海道と 北国街道(西近江路)の分岐点でもあった。この札の辻から東に曲がると、膳所草津 へ行く東海道に、西に曲がると、三井寺 門前を通り 堅田・今津へと続く北国街道となっていたわけである。当時、この札の辻前が最も賑わいのあったスポットで、現在、大津歴史博物館 に模型が展示されている。
また、この角には、旅人たちに馬や人足を提供する大津宿の「人馬会所」も、立地していたという。

⑤ 川口公園(大津城 中堀跡)
琵琶湖水運により運ばれてきた物資は、浜大津港に荷揚げされた後、小さな舟に積み替えられ、城下町内に複数、整備されていた専用の 運河(掘割)を伝って陸揚げされていた。それらは昭和期中頃まで残存し、小舟が行き交いながら日用品や肥料などを運搬していたという。この川口公園はかつての中堀跡で、往時の形状がよく残されている(下地図)。


大津宿は、江戸 から続く東海道の 53番目(東海道五十三次)の宿場町で、終点の 京都 に至る、一つ手前に立地していた(京都・五条大橋まで 11.8 km、草津宿 まで 14.4 km)。こうした位置関係と、戦国時代より琵琶湖水運の拠点を担ってきたことから、東海道の最大都市として君臨したという。元禄年間の統計によると、「大津百町」と呼ばれた大津宿の人口が、約 19,000 名だった記録が残されている。

大津市

⑥ 北川家住宅(2010年に登録有形文化財に指定)大津市京町 1-403
京町通り沿いに立地する 古民家「北川家住宅主屋(建築面積 209.95 m2)」は、江戸期にあった大津宿にあった町家の建物で、間口 12 mの木造二階建て、切妻造桟瓦葺、下屋には平格子や出格子を有する。江戸末期に建設され、明治 20年に増築、大正期と昭和 8年頃に改修されている。
表通りから隠れた場所にある「北川家住宅土蔵」も、江戸末期に建てられたもので、主屋と共に大津の町家の特徴を残す、貴重な歴史遺産となっている。

⑦ 大津百町館
1899年築の古民家で、母屋、蔵、離れと中庭で構成される。内部は見学無料で、現在、リノベーションして「大津の町家を考える会」の事務所とホテルを兼ねるという。



また、駅前商店街の所どころには、戦国時代にあった大津城遺構も保存されていた。
大津城の 外堀石垣(丸屋商店街の脇に残る。滋賀県大津市中央 1-2。「札の辻」から浜大津駅へ向う途中にある、信号脇のアーケード、その一部に大津城の外堀があった場所もある)と、二の丸 東南隅櫓跡(滋賀県大津市中央 1-6-32)の案内板は必見。

さらに沿岸部にある、市の 文化施設「スカイプラザ浜大津」も訪問してみたい(下地図)。この 6F、7Fに市民センターがあり、琵琶湖の浜大津港一帯の景色を堪能できるという。
ちょうど、この周辺が大津城の本丸跡に相当する。下地図。

大津市

戦国時代当時、琵琶湖に浮かぶ水城であった大津城であるが(下絵図)、多くの城郭遺構は現在も市街地の地下に眠っている。 前述の外堀石垣は(上地図の白〇)、発掘調査によって発見されたものという。


1584年から、五奉行の 筆頭・浅野長政(1547~1611年)が坂本城主として西近江に封じられていたが、1586年、大坂城へ繋がる街道守備を重視した豊臣秀吉により、大津城の築城命令が下されると、浅野長政により大津城の築城工事が着手される。この時、坂本城は解体され、そのまま多くの建物部材が大津へ 移送&転用されたという。また、城下町の住民らも大津に移住することとなり、大規模に城下町と街道の整備も進められる
以降 1587年まで浅野長政が大津城主を務めた後、1589年に 増田長盛(1545~1615年)が、 1591年に 新庄直頼(1538~1613年)が、1594年には 京極高次(1563~1609年)が入封している。

その後も、大津城は琵琶湖随一の水運交易都市として、また 東海道、中山道、北国街道が交差する交通の要衝として、多いに繁栄することとなった。

大津市

そして、大津城が歴史上、最も注目を集めた事件が、この京極高次が城主を務めた時代に勃発した、関ヶ原合戦 の前哨戦の一つ、大津城の戦いである(1600年9月7~15日)。

兵 3,000と共に、急に東軍方に寝返って大津城に籠城した 京極高次(1563~1609年)に対し、西軍からは 毛利元康(1560~1601年。西軍総大将・毛利輝元 の叔父。毛利元就の八男)を総大将に、小早川秀包(1567~1601年。同じく毛利輝元の叔父。毛利元就の九男)、立花宗茂(1567~1643年)、筑紫広門(1574~1646年)ら総勢 1万5000(3万7,000との説もあり)の大軍勢で城を包囲する。その本陣は、大津市の南部に広がる長等山に開設され、船も動員されて四方を完全包囲し(上絵図)、果敢に攻め立てるも、なかなか突破口が見い出せないまま攻めあぐねる。しかし、西軍方は着々と堀の埋め立てを進め、 9月12日には裸城の様相となっていたという。

翌 9月13日から総攻撃が始まり、西軍は大砲を配備して城内に撃ち込むようになると、本丸や天守閣にまで着弾するようになり、城内は防戦一方に押し込められて、一気に三の丸、二の丸を失陥してしまう。
いよいよ本丸に押し込められた高次に対し、翌 14日、大坂城の淀殿から直接、使者が派遣され、淀殿の 実妹・初(1570~1633年。常高院。高次の正室)と、竜子(松の丸殿。高次の実妹。秀吉の側室として 大坂城 に入っていたこともあり、淀殿や北政所と知古の間柄であった)の身柄引き渡しと開城勧告が行われる。当初は拒否していた高次であったが、秀吉の母・北政所の使者まで来訪し、その説得に応じて開城することとなる(9月15日)。豊臣一門に近い間柄ということで、高次は一命を助けられ、高野山に上って出家させられることとなった(15日朝に、城下町郊外の 園城寺 で剃髪した)。
その後、毛利元康や立花宗茂らは関ケ原本戦がスタートしたという知らせを受けて、急遽、移動を開始するも、草津 に至ったところで、西軍の敗戦を知り、大坂城 へ引き返すことになる。

この西軍の猛将らを 関ヶ原本戦 に参加させず足止めした功績を高く評価した 徳川家康(1543~1616年)は、京極高次の 弟・高知(1572~1622年)が関ヶ原本戦で東軍として戦い武功を挙げていたこともあり、大名復帰を許して、若狭一国・8万5000石を与える。その翌年には 近江国高島郡(7100石)も加増され、あわせて 9万2100石の大名として遇されることとなった

翌 1601年、徳川家康は西国大名への防衛拠点として、藤堂高虎に命じ、膳所城の築城に着手させると、大津城は解体され、それらの部材が再移転されることとなる。また、その一部は、彦根城へも転用されており、現存する彦根城天守は、この大津城の天守を移築したものと伝わり、もともとの五層四重の天守が三重三階へ縮小されたという

大津城というシンボルを失った、近江最大の 都市・大津であったが、引き続き、その経済的な優位性は保たれ、江戸時代には東海道五十三次の中で、最大規模の宿場町として君臨し続けることとなる。



そのまま徒歩で 1 kmほど西進し、大津市歴史博物館、三井寺(園城寺)を訪問する
この最寄り駅である、京阪石山坂本線「三井駅」下を貫通する「琵琶湖第一疎水」が、かつての大津城 外堀跡である。
その後、北へ 1.5 kmを徒歩移動し、近江大津宮錦織遺跡、皇子山古墳、近江神宮、宇佐山城跡も巡ってみた。帰路は、京阪石山坂本線で「近江神宮前駅」から「浜大津駅」へ戻った。

大津市


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