BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


滋賀県 大津市 ④ ~ 市内人口 35万人、一人当たり GDP 335万円(大津市 全体)


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  膳所城跡
  城下町、旧東海道、松尾芭蕉の足跡、義仲寺(木曽義仲の墓)と 粟津の古戦場跡
  今井兼平の墓
  瀬田城(勢多城)、瀬田唐橋
  建部大社 と 瀬田神領町(源頼朝による土地寄進に由来)
  近江国府跡(近江国庁跡)、国分寺
  石山寺(1004年、紫式部が参拝)、石山城(1573年、柴田勝家が挙兵した僧兵を鎮圧)



午前中に、大津駅前のスーパーホテルをチェックアウトし、荷物を預ける。
JR東海道本線(琵琶湖線)で、大津駅 から東隣の石山駅へ移動する(下地図)。 この駅改札右の、左側エスカレーターを下りてすぐにある、JR西日本の サービス「駅リンくん(6:30~21:00)」で、自転車をレンタルする(一日 400円)

ちなみに、大津市運営(大津駅観光案内所)のレンタサイクル・サービスは、訪日外国人による琵琶湖観光にあやかろうと、高額な料金設定となっているので、避けるべき (1時間 250円、1日 1,800円 ー 前払い制)

大津市

自転車を借りた後、旧・東海道沿いを北上し、膳所城跡を訪問する(上地図)。この旧東海道筋では、江戸時代の城下町から残る古民家や、松尾芭蕉の足跡なども立ち寄ってみたい。

膳所城に関する資料館は特に存在しないが、2日目に訪問した 大津市歴史博物館 内には、膳所城の復元模型が展示されていた。

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そして、当地必見の名所が、「粟津の戦い」で討たれた 木曾義仲(1154~1184年。享年 31)の墓だろう。この平安時代末期、大津から瀬田に至る、膳所城下一帯は「粟津」と呼称されており、ここでの激戦の最中、落命した木曾義仲を弔った場所が「義仲寺」といい(上地図)、義仲の 愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことに端を発するという。おそらく胴体部分が埋められた場所だったのだろう。義仲の首は 京都 の六条河原に晒された後、旧臣の手によって別に葬られたという。
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また、JR石山駅近くの盛越川の河岸には、今井兼平(1152~1184年。享年 33)の墓もある。上地図。
彼は、木曽義仲の乳母の子で、義仲とは兄弟のように育てられ、実の兄弟である 樋口兼光、根井行親、楯親忠と共に、木曽軍の主力を担った人物である。
酷寒の 1184年1月20日、わずか 7騎を伴って 京都 を脱出した木曽義仲は、北陸へ逃亡する前に、瀬田橋の守備を担当し源範頼の大軍と対峙していた、幼馴染の今井兼平 300騎との約束を思い出し、彼らとの合流を図ろうと 大津 へ立ち寄る。そのまま琵琶湖西岸から北上すればよいものを、幼少期を共に過ごした二人は、死ぬ時は同じ場所で死のうと誓い合った仲であり、義仲は兼平を見捨てることができなかったわけである。

こうして範頼軍の先陣 6,000に切り込み、これを突破した 50騎を引き連れて東進を図るも、さらに後方に控えていた源氏軍 2,000とも遭遇し、これも中央突破して残数 5騎のみとなる。そのうちの一人だった巴御前を逃がした後、自刃を考えた義仲であったが、氷が張った田んぼに落ちてしまい、矢で射抜かれることとなったわけである。そのまま義仲に殺到した源氏兵によって首を斬られたことを知った今井兼平は、敵軍に包囲される中、もはやこれまでと自刃して果てたのだった。


かつて、本丸には 4F建ての天守が組み上げられていたが、現在は、膳所城公園として 城門、堀、石垣などの一部が残存するのみとなってる。市内各所へ移築されてしまっている城門は、いずれも国の重要文化財に指定されているが、すべてを巡ると、半日を要する距離なので、いくつかを選択して訪問してみたい ー 膳所神社(本丸大手門)、篠津神社(北大手門)、鞭崎神社(南大手門)。

当時、この膳所城は、大津城坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つであり、また 日本三大湖城(松江城、膳所城、高島城)の一角にも数えられる名城であった。

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1600年の関ヶ原の戦い後、西国大名への防衛ラインを何重にも整備すべく、 岐阜の加納城京都の伏見城 などと共に、徳川家康が天下普請で築城させた城郭である(1600~1601年)。
大津城 にかわって 京都 の東の守りを固める目的で、築城の 名手・藤堂高虎が縄張を行い、完成後に徳川家直臣の 戸田一西(1543~1604年)が三万石で入城することとなった(1601年2月)。付近の大津城跡の資材を転用したため、築城工事も短期間で終了できたという。

父の死後、長男の 戸田氏鉄(1576~1655年)が城主を継承するも、1615年の大坂夏の陣 の軍功により、 尼崎城 主へ移封されると、同じく徳川家直臣の 本多康俊(1569~1621年。酒井忠次の次男。同盟関係にあった織田信長の人質として、1580年以降、織田家家臣の本多忠次の養子となっていた)が入封してくる。 その後、1621~1634年は 菅沼定好(1587~1643年)が、1634~1651年は 石川忠総(1582~1651年)が、1651~1668年には 本多俊次(1595~1668年。本多康俊の長男)が藩主となり、その後、幕末まで本多家が藩主を継承していくこととなる。
明治維新を迎えた後、1870年(明治3年)に城郭解体が実施された。



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そのまま瀬田川沿いを南進し(県道 422号線)、瀬田川大橋の南隣の橋「瀬戸唐橋」を東へ渡ってみる(旧・東海道沿い)。上地図。
江戸期と同じスタイルで、大橋と小橋の二本構成で設計されているが(全長 223.7 m)、橋上は国道 2号線が通過しているため、交通量が半端なかった。

この対岸に、かつて「瀬田城」が立地していた。現在は、すべてが宅地開発されてしまっており、全くその痕跡は残っていない。目下、県道 29号線沿いの曲がり角に、石碑と案内板が設置されているのみである。上地図。
とりあえず、瀬戸唐橋を渡る前に、瀬田川の西岸からも写真撮影してみたい。


古代より東国から 京都 へと至る交通の要衝で、壬申の乱(672年)、源平合戦(1180~1185年)、承久の乱(1221年)、建武の乱(1336年)などで、瀬田川を挟んで戦場となってきた地である。当時から、琵琶湖沿いを移動する最短ルートであり、瀬田川が浅瀬となるポイントだったことから、街道と集落、橋、渡し船が存在していたという。

元々、鎌倉時代より 近江国の守護を務めた名門・六角氏 の地元で、室町時代に入っても、引き続き、豊かな近江南部の守護職を継承したが、領内には寺社領や地侍のテリトリーが点在し、その支配は弱体化していく。特に室町時代後半以降は、青地氏、馬淵氏、山岡氏らの国人衆の協力を得て、なんとか所領を統治していたという(六角氏の軍事力の要としても機能した)。
この土豪集団の中で、代々にわたって南近江の志賀郡・栗太郡を支配してきた山岡資広が、瀬田川沿いに勢多城を築城し、街道支配を強化するようになる(1430年代)。以降、近江南の関所収入を得て、安定した財務基盤を築いて繁栄し、「江南の旗頭」と称されるようになっていた。

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それから 100年後の戦国時代。
美濃攻略に手を焼いていた織田信長であったが、1567年9月に 北近江の 浅井長政(1545~1573年)と政略結婚により同盟を締結すると、同月中にも 稲葉山城 の攻略を成功させ、美濃を併合する。 それから 1年経った 1568年8月、足利義昭を奉じて上洛すべく、近江南部の 六角義賢(1521~1598年)との協力交渉を始めるも拒否されたため、翌 9月、大軍勢を率いて 岐阜 を出発し、実力行使で六角氏を排除することとした。北近江の浅井氏、三河の徳川軍も組して、六角氏の箕作城と和田山城をわずか一日で攻略すると(9月12日)、六角義賢は甲賀郡の山中へ逃れてゲリラ戦で抵抗していくこととなる。そのまま大軍勢が 瀬戸城(勢多城)下まで至ると、城主の 山岡景隆(1525~1585年)も逃走し、山間部に籠って信長に抵抗するも、翌 1569年に信長の軍門に降り、旧領を安堵されることとなった。

その後、山岡景隆は信長の家臣として各地を転戦し、伊勢国大河内城攻めや 雑賀攻め(1577年)、伊賀攻め(1581年)に従軍するなど、信長の信頼を得ていく。信長・信忠親子も上洛の道中、度々、勢多城に投宿するようになっていくも、1582年6月2日の 本能寺 の変で信長父子が死去すると、明智光秀に組せず、勢多橋(瀬田橋)を焼き落として進路を妨害し、そのまま山中へ逃亡してしまう。この瀬田橋の修復に 3日を浪費させられた明智軍は、このことが後の孤立と敗戦へとつながっていくわけだった。
明智一族の排除後、織田家への忠誠心から 賎ヶ岳合戦(1583年)で柴田勝家に通じたため、羽柴秀吉により瀬田城一帯の所領を没収され、甲賀に隠遁し、そのまま死去する。



なお、この瀬田城跡の東側は「瀬田神領町」という地名があるが、これは当地に立地する建部大社に由来するという。
主神は、大和政権による領土拡張戦争の 立役者・日本武尊(ヤマトタケル)で、彼の死後に父親の景行天皇によって、その居城跡に廟所が建立されたのが始まりで、壬申の乱で勝利した天武天皇が 675年、近江の守護神として、当地へ移転させたものという。その後、武神を祀った建部大社は、多くの人々の参拝を受けており、その中で最も有名な人物が、源頼朝であった。

平家により伊豆へ流刑になった際、その道中に立ち寄り、源氏再興を祈願した場所であり(1160年3月)、その宿願叶い 鎌倉幕府を開設 後に再上洛の 途上(1190年10月)、改めてこの建部大社を訪れ、その謝意を示して多くの神宝と神領を寄進したという。これ以降、付近一帯は「神領町」となったというわけだった。こうした背景から、現在、建部大社は出世開運の神社として有名となっている。
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もう少し東進すると、近江国府跡(近江国庁跡)がある。上地図。
滋賀県大津市 大江三丁目・大江六丁目・三大寺にまたがる、奈良時代~平安時代の近江国統治のための地方行政庁跡である。国の史跡に指定されている。


奈良時代前半(今から約 1300年前)に定められた律令体制の下、全国 68ヵ国に地方を統括する 国庁(現在の県庁、 警察署、裁判所、税務署機能を兼務した機関)が開設されていたわけだが、 この近江国庁跡は、日本で初めて、この古代の地方政治の中心地である 国庁の全容が明らかになった遺跡という。

発掘調査により、その構造が 中央政庁である「平城宮」の大極殿や朝堂院などの構造に類似し、また、共通する機能を有したことが 明らかにされる。役所施設は、前殿、後殿と東西の脇殿という 建物を中心に、門や築地などから構成され、東西二町(約 216 m)、南北三町(約 324 m)の区画で設計されていたという。その外側には九町(約 972 m)四方の広がりをもつ規格化された市街地が広がっており、この全体が国庁と称されていた。

発掘調査から、この政庁跡は前後 2期に区分されるようで、前期は奈良時代中頃、後期は同時代末~平安時代初期(10世紀末頃)まで使用されていたという。平安時代も中期を過ぎてくると、地方での統治体制が崩壊し出し、地元豪族が台頭して、武士が誕生してくるわけである。平安京 に近く、陸路・水路交易の中枢を成した近江国は、全国でも豊かな土地柄で、早くから地方豪族の勃興が起こり、平安時代でも早い時期に、当地の国庁施設は戦火に巻き込まれて使用不能となっていたと推察される。



周囲に残る国分寺跡なども訪問した後、JR石山駅で自転車を返却し、ホテルで荷物を回収して、大津駅彦根駅 へ移動する(16駅、距離 51.7 km、運賃 990円)。

なお、大津駅との往復運賃(990円 × 2 = 1,980円)を考慮すると、大津駅前に連泊するより、彦根へ移動して駅前に投宿した方が安上がりだった。 ABホテル(4,800円)など、5,000~6,000円クラスのホテルが多い。

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