BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2019年11月中旬


静岡県 浜松市 天竜区 二俣町 ~ 町内人口 3万人、一人当たり GDP 379万円(静岡県 全体)


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  遠州鉄道にて、新浜松駅 から終点の 西鹿島駅へ移動(33分、480円)
  徒歩で 天竜川(鹿島橋)を渡る ~ 笠井街道 と 秋葉街道 を経由
  北鹿島村の名主・田代家の旧宅を訪問する ~ 徳川家康の 北遠江戦線を サポート
  筏問屋・田代家の裏庭から 鳥羽山城 へ移動
  鳥羽山城が誇る 石畳の大手口(道幅 6m)と 大手門、南曲輪
  本丸曲輪に残る 枯山水庭園、土塁、東門石垣、東曲輪
  西端の笹曲輪から 天竜川、北遠江の 山々を見る
  鳥羽山城 地形図
  鳥羽山城から 二俣城へ移動する ~ かつて二俣川の河口 と 江戸期の付け替え工事
  二俣城の旧大手道 と 古町(旧城下町) ~ 徳川、武田軍の包囲軍が ひしめきあった場所
  二俣城跡に残る 堀切、北曲輪(現在は旭ヶ丘神社)、馬出し
  二俣城 全景図
  二俣城跡の 本丸曲輪、北門(喰い違い虎口スタイル)、天守台、二ノ曲輪、蔵屋敷、南曲輪
  【豆知識】もともとは姉妹城塞だった 鳥羽山城 と 二俣城 ■■■
  清瀧寺 と 家康嫡男の 松平信康墓
  【豆知識】徳川家康 vs 嫡男・松平信康 ~ 二俣城での 信康自刃事件 ■■■
  清瀧寺で目にした風情漂う山門、本田宗一郎少年の イタズラ鐘、井戸櫓(二俣城の釣瓶)
  バイカーの聖地となっていた 本田宗一郎記念館(ものづくり伝承館)
  クローバー通り商店街 ~ かつての古町(城下町)を歩く
  徳川攻城軍の 付け城(陣城)の一角 毘沙門天砦跡 ~ 栄林寺 と 毘沙門堂
  二俣町が有する 3城砦 ~ 二俣城、鳥羽山城、笹岡城 を俯瞰する



投宿先の JR浜松駅 西隣にある遠州鉄道「新浜松駅」から、終点の西鹿島駅へ移動する(33分、480円)。
地方都市のローカル線だし、1時間に 1~2本程度の頻度なのだろうな。。。と覚悟を決めていたら、なんと 1時間に 5本も運行されていた。往復ともに 2両編成で乗車率 30~80%前後だった。

西鹿島駅(下写真左)に到着すると、脇に路線バス用のバス停があり、10分ほど待てば乗り継いで二俣町へ移動できたが、天気も気温も良かったので、歩いて二俣町を目指すことにした。

二俣町 二俣町

駅前の県道 45号線(笠井街道 ー 現在の浜松市浜北区笠井町から二俣町を結ぶ古い街道)を北上していると、いかつい名前「満州国旬武伝料理 龍天の盛慶」の食堂を目にした(上写真右)。旧陸軍カレー、旧陸軍中野学校ミソ班伝承、日中友好、満州鉄道上層部特別コース料理。。。こんな文字が並ぶ巨大看板の裏にあった小ぶりな店舗とのイメージ・ギャップが印象的だった。訪問者にインパクトを与える営業手腕に感服させられた次第である。

さて、気を取り直して直進を続け、鹿島坂下南の三差路の信号を渡ると、天竜浜名湖線の線路下を歩行者用のトンネルでくぐり、いよいよ天竜川へと至る。ここから秋葉街道(国道 152号線)と合流し、交通量が倍増する。
この秋葉街道沿いに、絶壁の上にはみ出て建てられた戸建て住宅が目に飛び込んできた(下写真左)。わざわざ、こんな際どい場所に家を作らなくても、他に土地もあるでしょうに。。。

二俣町 二俣町

いよいよ天竜川(鹿島橋)を渡る。その「いかつい名前」に負けない、堂々たる岸壁と澄んだ水が勢いよく流れ下っていた(日本有数の急流で「あばれ天竜」の異名を持つ)。上写真右。

橋の真下は空洞となっており スリル満点で、バンジージャンプにも使えそうな設計だった。度々、スポーツ・タイプの自転車が通行しており、サイクリング・コースとなっているらしい。

二俣町 二俣町

対岸に渡って、一つ目の交差点を右折する(上写真左)。筏問屋業で富豪となった田代家の旧家が残っているというので訪問してみた。
なお、このまま直進すると二俣町へと至るわけだが、その途中、鳥羽山のトンネルを通過する。自動車用と歩行者用とに分けられていた(上写真右)。歩行者用トンネルは通行する人も稀で、夜はホラー映画の撮影にピッタリと言える

さて、古民家に到着すると、地元のボランティアの方が声をかけて案内してくれた(下写真左)。毎週末のみ常駐されているそうで、ちょうど日曜日だったこともあり、いろいろお話を伺うことができた。
二俣町 二俣町

家屋内には、天竜川舟運の資料(船大工の道具や、天竜川を下る明治期の筏写真など)、流域の地図などが展示されていた。特に、古地図に見る地名と現在のそれとの関連など、面白い地元ネタをたくさん教えてもらえた。かつて天竜川にはいくつもの中州が形成され、その中に集落が誕生していたが、現在では河川工事が施され、すべて退去されてしまっているという。しかし、中州にあった村名は今も継承されているとのことだった。



 名主・田代家の誕生 ~ 天竜川沿いの北遠江を巡る 武田氏との抗争時、徳川家康に加担する

この旧宅の主である田代家であるが、1580年に徳川家康より御朱印を賜ったことから台頭した地元名家で、以後、天竜川沿いにあって材木商の独占問屋として繁栄したという。

時は遡って戦国時代の 1570年、徳川家康(28歳)は甲斐の武田信玄との旧今川領の分割に際し、その盟約違反に憤慨していた。1568年2月、織田信長の仲介により武田信玄と徳川家康との同盟が成立し、信玄は駿河を、家康は遠江を、それぞれ攻め取ることを約するも、翌 1569年に武田勢が信州から南下し遠江見付に侵入、さらに家康旗下の久野城を攻撃して約束違反を犯してしまったのだった。これに激怒した徳川家康は武田との盟約を破棄し、代わりに北条氏と同盟を結ぶと、武田信玄は完全に旧今川領から締め出されることとなる。
以降、武田信玄は北条、徳川の両陣営と敵対することとなり窮地に陥るも、積極的に両大名の国境地帯を犯しつつ、駿河への侵攻を重ねていく。まさにその武田 vs 北条、徳川同盟との構図の中にあって、徳川家康は武田側が勝手に占領(併合)していた北遠江を平定すべく天竜川を北上し、山岳地帯の諸城へ攻撃を加えていたのだった。この武田方との全面戦争に際し、家康は本拠地を岡崎城から天竜川河口に近い 曳馬城(今の浜松城)へ移しており、その両者対立の延長上で 1572年秋からの武田信玄による西上作戦が決行され、 12月22日(現在の暦で 1573年1月25日)の 三方ヶ原の戦い へとつながっていくのだった。

さて 1570年当時、徳川軍は天竜川沿いの二俣城(城主は今川方から徳川方、最終的に武田方の篭絡で帰順したばかりだった松井宗恒)や 犬居城(城主は今川方から徳川方、最終的に武田方の篭絡で帰順したばかりだった天野藤秀)、さらに秋葉山方面へ進軍し(下地図)、武田方と交戦したわけだが、やがて二俣川と天竜川の合流地点まで押し返されると、この鹿島村で徳川方がつなぎ留めていた渡し船を武田方の忍びの者が網を切って流してしまったため、徳川方の軍勢は退路を断たれてしまう。その時、北鹿島村の庄屋・孫丞が自身の一族、および村の衆を集め、大竹を多数切り出し、これを竹筏に組んで家康およびその軍勢を乗せて天竜川を下し浜松城に無事に帰還させることに尽力したという。
その後、徳川勢は軍を立て直し、再び二俣城を攻撃し、再度、城主・松井宗恒を徳川方に帰順させることに成功する。最終的に家康は犬居城の攻略を諦め、この二俣城を北遠江の要として対武田の最前線基地と定めたのだった。

二俣町

この武田方との一連の攻防戦における功績と、さらに直後から対武田戦を覚悟して築城工事を開始した 浜松城 の建造に際し、資材の提供を積極的に行って(奥山から材木を切り出し、これを筏に組んで天竜川の支流である馬込川まで運んだ)協力した功績が高く評価され、 1580年、徳川家康は自身の御朱印によるお墨付きを鹿嶋村の孫尉・弥大夫の両名に下賜したのだった。
家康は同年 9月から遠江の要・高天神城 への本格的な攻撃をスタートさせており、武田勢力を三河、遠江から完全排除しつつあった時期であり、すでに天竜川沿いは家康の勢力圏として確立されたタイミングだった。

さて、家康直筆のお墨付き(その朱印状が今も旧家内で保存されていた)によって、2代目九郎左衛門の子の、孫丞(孫尉)は渡船場船越頭(管理特権者)として附近の鹿島 5ヵ村(北鹿島村、西鹿島村、瀬崎村、佐崎野村、川口村)の領有を確認され(最終的に北鹿島村の名主となる)、年貢・諸役御免(課税と労役免除)となったわけであるが、その特権は武家並みで、鹿島拾一番所(幕府が天竜川を上下する船、筏の貨物に 10分の1の課税をした役所)の役人業務も独占委託されることとなる。
以後、徳川将軍家が代わる毎に、御朱印改めと称して、その地方の代官に由緒書を差し出し、御朱印を江戸へもっていって幕府の確認を受け続けながら、天竜川筏の受け継ぎ問屋業を継承していったという。こうした役所業務も兼ねたことから、現在まで多くの古文書を保存できたとされる。
また、明治維新期に当主となった田代嘉平次は、国学や俳諧、書道をたしなみ、歴史にも詳しく、初代二俣町長も務めたという。

さて、天竜川の筏問屋として江戸~明治期に財を築いた地元名家の旧宅であるが、この主屋(1859年建造の木造 2階建ての主屋と土蔵の 2棟連立型)が 2015年に国の有形文化財に登録されたという。
左右に隣接する主屋と土蔵の 2棟は建築様式が全く異なっているわけだが、これは名主の生活空間としての母屋と、「拾分一番所」徴税役所業務に関わる武家接待用の空間とを分けた名残りという。 番所の役人業も務めたという田代家は、代官などの武家の訪問も 定期的にあったことから、この自宅兼役所に冠木門の設置も許されていた(現存あり)。

また、東隣にある建物は江戸~明治期、天竜川を下る筏師らの宿泊休憩施設として建てた船宿という(1897年の建造で、広さは延べ約 140 m2)。木造瓦ぶきの 2階建てで、1階が帳場や居間、2階が宿泊休憩スペースとなっていたという。
長野県と静岡県を結ぶ南北の重要な交通路でもあった天竜川沿いは降雪もなく、年中、良質な山林資源(南信州や北遠州の杉、檜、松、桜、竹など)を江戸や全国各地へ運搬できたという。切り出した材木は並べてつなぎ合わされ、舟の形状に藤蔓で組み立てて、その上に筏師が乗って天竜川を下っていたらしい。筏は前後二艘で構成されていた。
その全国への流通過程で、独占で受け継ぎ問屋を経営していた田代家は川下りの筏師らが必ず立ち寄るポイントであり、適宜、必要に応じて休息スペースを提供した、というわけだった。

しかし、昭和期に入るとトラック陸送とダムの完成により、天竜川での筏による木材の運搬(筏流し)業務は壊滅する。これにあわせて、田代家の人々も東京へ移住してしまい、以後、空き家となっていたという。現在、残されているテレビや家電製品はこの時代のものであった。不定期に親族の方が建物管理のために帰郷するも、基本は放置されたままだったという。



夏季には大学生の登山部グループが立ち寄るとかで、古民家の縁側に座って弁当を食べたりして賑やかになる、とお話されていた。筆者にもお茶を勧められたがペットボトルを持っていたので丁重にお断りした。

さて続いて、「鳥羽山城跡を訪問予定」と言うと、裏庭から伸びる山道を案内してくれた(下写真の中央に設置された竹柵沿い)。その脇にあったミカンの実までも頂戴してしまい、至れり尽くせりの歓待を受けた、本当に思い出深い訪問地であった。

二俣町

さて、急な登山道を 5分弱ほど登ると、自動車道に出た(下地図)。ここをさらに 5分ほど登ると、駐車場スペース(下地図の ℗、WC)に到達する。

二俣町

その脇に大手道の登山口が設けられていた(下写真左)。

二俣町 二俣町

そのまま大手道を登っていくと(上写真右)、少し広くなった南曲輪の跡地を経て、大手門跡(下写真)に到達する。
東側から伸びる大手道に対して南向きに設計された外枡形の構造であった。 城門周辺は城を立派に見せるため、他の場所よりも大きめの石材を積み上げて 高めに石垣が建造されており、河原石による間詰も丁寧に行われていたという。 さらに写真中央の左端には、石垣基部に排水のための設置された暗渠の空間も見える。 周囲から瓦が発掘されていないことから、大手門は瓦葺の城門ではなかったと指摘される。

二俣町

下写真は、南曲輪の跡地で見た石垣や石階段の遺構。余計な修復や手入れが行われていない分、リアルな城郭遺跡を楽しめる。

二俣町 二俣町

下写真左は、大手門跡から入った 本丸広場
その東脇には東門跡と東面石垣が残されており(下写真右)、 河原石を多様した野面積みであった。大手門同様に、 排水目的の暗渠が基部に設置されていた。この門外には東曲輪があり、目下、 遊具が設けられて家族広場となっていた。

二俣町 二俣町

下は、この本丸曲輪に残されていた枯山水庭園の跡地。本丸の西側に相当する。この西面は石垣こそなかったが、やや小高くなって土塁が鮮明に残っていた。

二俣町 二俣町

なお、こんなマイナーな山城跡には似つかわしくないぐらいの訪問客数で、少々、びっくりした。目下、鳥羽山全体が公園化されていて、ピクニックができるスペース、長い滑り台(閉鎖中だった)まで設けられていた。
週末のためか、東南アジアからの出稼ぎの若者たちが休憩スペースでたむろしている様子が印象的だった

二俣町 二俣町

上写真は西端の広場にあった展望スペース。もともと笹曲輪があった場所で、眼下に見える天竜川や北遠江の山々は絶景だった(下写真)。

二俣町

また、本丸曲輪から後方にある「わんぱく広場」まで下りてみてが、何もなく、この荒れ地がそれか??と目を疑ってしまった(下写真左)。
さて、だいたいの城内見学が終わると、先ほどの笹曲輪や腰曲輪を通過し、使用禁止となっていた長い滑り台を頭上に眺めながら、大手道の西から城外に出た(下写真右)。

二俣町 二俣町

ここまでの移動経路は、下地図 の通り。

二俣町

このまま西回りで下山すると 二俣城 へとつながっているらしかったが、下調べ不足もあり、もと来た道を戻ることにした。山裾の天竜浜名湖線の線路を渡り(下写真。前方に見える山が二俣城跡)、秋葉街道に至る。信号を渡って直進すると、そのまま二俣城への登山入口に至る

二俣町



 「二俣町」の由来を考える ~ 二俣川の付け替え工事

本来の二俣町の地形は、その名の通り、二俣川によって二つに地形が割れていた。ちょうど下地図の緑色の台地と、オレンジ色の台地である。

二俣町

二つの川が合流する台地上に築城されていた二俣城と鳥羽山城は難攻不落の堅城であったと言える。このため、武田方、徳川方ともに攻城戦では非常に苦労させられることとなった。

二俣町

しかし、二俣川が天竜川と合流する際、天竜川の南下する川の流れに混ざる形となったため、天竜川が増水するシーズンは逆流が起こって二俣川の中流域にあった城下町(上地図の右上にある「古町」)に度々、水害をもたらせていたという。

これを解決すべく江戸時代、二俣村の名主・袴田甚右衛門によって二俣川河口の付け替え工事が着手される(1766~1781年)。
天竜川が海へ南進する場所に直接、二俣川を合流させるべく、鳥羽山の掘削が手掛けられたのだった。



登山口 から自動車沿いに上ること 10分弱で城跡入り口に到達する。
下写真中央に見える急な階段が、かつての大手道。

二俣町

大手道の下には、小さな城下公園が開設されている。下写真の中央左端にある緑地部分。

二俣町

この大手道から直線方向に進んだ二俣川沿いが、かつての城下町であった(下写真の中央部)。

1570年の徳川家康による攻撃(城主は今川方から武田方に帰順したばかりだった松井宗恒)、1572年10月には信玄の西上作戦 において武田勝頼による攻撃を受け開城(城主は徳川家康が派遣した中根正照)、 1573年6月以降、度々、徳川家康の攻撃を受け最終的に 1575年12月に開城するわけだが(城主は武田方の依田信蕃)、短期間のうちに徳川 vs 武田で度々戦火を交えた地で、当時、ちょうど周囲に点在する丘陵地や小山上に包囲軍が陣地を展開したものと推察される。

1575年5月の長篠の戦いで総撤退した武田軍は、そのまま翌 6月から攻勢を強める徳川軍によって遠江各地の拠点が各個撃破されていったわけだが、その中でも特に奮戦したのが、この二俣城と諏訪原城、高天神城 であった。
これらの攻城戦に際し、徳川軍は長期戦に切り替えて、周囲に付城の陣地網を構築し対峙していく。この時に建造されたのが、先ほどの鳥羽山城(上写真の向かい見える山)であった。

二俣町

この自動車道は二俣町を一望できる、非常に良いロケーションだった。
さて、「二俣城跡入口」の大きな看板が見えてくると(下写真左)、車道を離れて歩行者用の登山道を登ることになる。と、そこには旭ヶ丘神社の入口を兼ねる長く急な階段があった。

二俣町 二俣町

階段上はうまい具合に橋下を通過して神社境内へと至る設計で(下写真)、なかなかの工夫にビックリしたが、どうやらこの橋下の谷間は戦国期に掘削された堀切を利用したもので、明確にこの山を南北に切開していた(上写真右)。

二俣町

上写真の奥に見えるのが旭ヶ丘神社。もともとは独立した北曲輪があった場所である。
ちょうど筆者がいた場所が本丸北門前の「馬出し」に相当する区画で、北曲輪との間に堀切が設けられていたのだった。下地図

二俣町

下写真左は、旭ヶ丘神社の境内から馬出し、本丸北門 を見たもの。
この二俣城は各曲輪がかなりコンパクトに、かつ細々と重層的に設計されており、少人数の守備隊で防衛するのに適した構造となっていた。

二俣町 二俣町

さて、いよいよ本丸曲輪へ入ってみる。
喰い違い設計の虎口スタイルである北門(上写真左)を越えると、ぽつんと天守台の石垣が残っていた。
上写真右は、この天守台から本丸を見下ろしたもの。左端に見える入口が先ほどの北門。
この本丸広場にはベンチや屋根付きの休憩スペースが設置され、市民公園となっていた。東南アジア系の若者たちがここでもたむろしていた。外国人から見ると、こうした城跡はどのように映っているのだろうか?

その本丸曲輪の南端に一之門(南門)跡があり、下段の二之曲輪、蔵屋敷、南曲輪へと通じていた。二俣城の大手門(追手口)は、この二之曲輪にある。ここから下山して、山裾の城下町へと通じていたのだった。
さて見学後、再び北門跡から出て天竜川沿いを下山し、旭ヶ丘神社の外周をぐるっと回る感じで、もとの自動車道路に戻った。そのまま旧大手道があった階段を下へ降りると、児童向けの小さな城下公園に行き当たった。上の写真で見下ろした緑地公園である。



 二俣城 と 鳥羽山城 ~ 元々は二俣川の河口の対岸丘陵上に築城された姉妹要塞、後に骨肉の争いへ。。。

もともと、この二俣川沿いに開発された二俣郷一帯を統轄したのは、笹岡城(二俣古城と通称される)であった。ちょうど現在、浜松市天竜区役所がある場所に立地していた(末尾の地図参照)。当時、斯波氏(越前、尾張、遠江西部の守護大名)と 今川氏(駿河・遠江東部の守護大名)が天竜川の流域を巡って抗争を繰り広げており、当地での政治、経済、軍事拠点となっていたという。

その後、今川氏が勝利し遠江一国の領有権を確立するも、1560年の桶狭間の戦いの大敗 を契機に勢力拡張がストップすると、領国の防衛力を高めるべく、この鳥羽山城と二俣城がコンビで築城されたと考えられている。
当時、両城があった丘陵は二俣川の河口部の対岸に位置しており、両者ともに天竜川と二俣川で囲まれた天然の要害であった(上地図のオレンジ色の台地、緑色の台地を参照)。しかも、二俣の地は、遠江の平野部と山岳地方とを結ぶ交通の結接点で、遠州平野の「扇の要」に位置し、浜松平野の安全保障上、重要な入口を成していた。

しかし 1568年に今川氏が滅亡すると、両城は遠江を制圧した徳川家康に併合されるも1572年10月、武田信玄が西上作戦のため大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃する
堅牢な地形を見てとった武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦に切り替える。徳川方の守備兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊したのだった。こうして 2か月ほどで二俣城は陥落する。そのまま武田軍は南下し、浜松城 を無視して領内を荒らし回りながら西進したため、激怒した家康が出陣して 三方ヶ原の戦い(1572年12月22日。現在の暦で 1573年1月25日) が勃発することになる。

その後、長篠合戦があった 1575年5月まで、徳川方は度々、武田方の籠る両城を攻めるも、都度、撃退される展開が続く。しかし、長篠合戦で兵力が大幅に削られた武田軍は対岸で補給路の確保に難ありだった鳥羽山城の戦線維持が困難となり、最終的に二俣城の死守のみに専念することとなる。

遠江での武田勢の一掃を図り、鳥羽山城を占領した徳川軍は、ここに本陣を置き、二俣城の周囲に毘沙門堂・蜷原・渡ヶ島など 3箇所の砦を構築して完全包囲網を敷く。武田方の守将・依田信蕃(1548~1583年)は半年間もの間、籠城するも、ついに開城交渉に合意し、城内を掃除して退去したことは有名な逸話である。依田信蕃はいったん 甲斐 に撤退した後、駿河の田中城の城将として再赴任し、最後まで武田方として徳川に抵抗することとなる。

家康は二俣城を占領すると、同年12月から大久保忠世(1532~1594年)を城主に入れ、対武田の最前線基地として、大規模な強化工事に着手させる。
その際、鳥羽山城では丘陵全体(東西 500m、標高108m)が巧みに加工され、拡張されたと考えられている。現在、本丸内部で現存する礎石建物や庭園、さらに破格の規模を誇る 幅 6mの石畳の大手道はこの時に建造されたものと推察されており、二俣城主・大久保忠世の居館(迎賓機能を備えた)だったという。
なお、この大久保忠世であるが、1573年12月の三方ヶ原の戦いにおいて、犀ケ崖にあった武田方の陣所を銃撃し混乱させたという逸話が残るほど、気骨のある三河武士で、家康の信頼も厚い武人であった

一方、隣接する二俣城(地元では城山と通称される標高 90mの台地)は、対岸にあって武田領の信濃と隣接したため、軍事機能が重視された改修工事が手掛けられる。この時に天守や石垣が築かれ、瓦葺きの家屋が建てられたと考えられている。
北側から北曲輪、本丸、二之曲輪、蔵屋敷、南曲輪がほぼ一直線上に配置され、天守台のある本丸には南、北にそれぞれ虎口を設けられていた。北虎口の喰い違い設計は本文中の写真の通りである。
また本丸の南側には二之曲輪が位置し、現在でも枡形門跡が残っており、このニ之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間にはそれぞれ堀切が現存するが、武田時代と徳川時代の強化工事の跡とされる。
両城はその性格が対照的であり、「別郭一城」とよばれる築城スタイルとなっていた。

その後、1590年まで鳥羽山城と二俣城は徳川方(城主・大久保忠世。彼の治世時代の 1579年に信康自刃事件が起こっている)が領有したが、家康の関東移封に伴い、大久保忠世はその手腕を買われて 45,000石で小田原城に入り、北条色の強い地元支配を任されることとなる。

直後より、遠江には豊臣系の大名である堀尾氏が入封すると、浜松城主堀尾吉晴 の弟・宗光が二俣城主となる。
この時代も引き続き、鳥羽山・二俣両城では追加で石垣が増築されるなど、強化工事が手掛けられたと考えられている。二俣城主として当地に赴任した堀尾宗光は、徳川時代の大久保忠世と同様、鳥羽山城内に居館を構えた。
こうして整備がすすめられた鳥羽山城と二俣城であったが、関ヶ原の戦いがあった 1600年 以降は、戦略拠点としての重要性を失い、両者ともに廃城となるのだった。

なお現在、二俣城跡の北曲輪は旭ヶ丘神社の境内となっている。
城跡となっていた長延山に 1909年6月29日に招魂社が造営され、旭ヶ丘と改称されたという。以後、日清戦争、日露戦争、その後に続く満州事変、太平洋戦争などで命を落とした二俣町出身の軍人や軍属を殉国者として合祀奉斎したという。 1954年12月に神殿を造営し、1955年11月18日に靖国神社より御分霊を迎えて奉納されている。



続いて、公園沿いの自動車道を北上し、徳川家康の長男・信康が埋葬された清瀧寺を目指す。徒歩 10分弱で到達した。途中、二俣小学校の脇を通過するが、その後方にある小山上に寺院が建立されていた。
二俣町 二俣町

清瀧寺の正門は相当に年季が入っており、土塀の表面が剥がれ落ちて内部が丸見えだったのが(上写真左)、風情いっぱいで印象的だった。
この境内のさらに上に、1579年9月15日に二俣城内で自刃した松平信康公(享年21歳)の墓所があった(上写真右)。立入禁止のようで、頑丈に保護されていた。周囲はたくさんの墓石が立ち並ぶ墓地エリアだったが、この信康廟が圧倒的に巨大だった。



 徳川家康 vs 嫡男・松平信康 ~ 二俣城での 信康自刃事件

松平信康は徳川家康の嫡男として、戦国時代の 1559年3月6日、家康人質の今川家支配の駿河で誕生する。母の瀬名(築山御前)は井伊家に連なる関口義広の娘で、今川義元の姪にあたる。すなわち、信康は井伊直虎(女城主・?~1582年)と同じく井伊直平(1489?~1563年)を曽祖父に持つ血筋であった。
1567年5月、信長の娘・徳姫(五姫)と政略結婚した(共に 9歳)。
直後に、家康は武田信玄との密約により遠江侵攻を開始したため、その最前線基地であった 曳馬城(今の浜松城)へ本拠地を移し、信康に岡崎城を譲ることとなる。

以後、武田信玄・勝頼親子とのし烈な戦いを繰り返す家康であったが、岡崎城を任された信康とその家臣団(岡崎衆)も後方支援で尽力するも(1573年に 15歳で初陣)、親子そろって参陣した 1575年5月の長篠合戦で武田勝頼を撃破すると、三河の信康、遠江の家康ともに同時進行で、武田方に占領されていた領地奪還戦を進めていくこととなる。その過程で、遠江平定戦にてこずる家康を横目に、信康と岡崎衆は着々と三河平定を完遂していった。特に松平信康はその個人的な資質が粗暴で武人気質であったため、度々、陣頭に立って戦を主導しており、家康の作戦行動とは大きく異なるものであったという。こうした信康の言動は無骨な三河侍らに大いに支持され、遠江平定に手を焼く徳川家康を隠居させ信康に主君を継承させるべき、という動きが表面化してくることとなる。

この三河派(岡崎衆)の動向、および織田信長の娘婿(信康夫妻の仲は冷え切っていたが)という立場から危機感をもった家康は(信長から家康が排除され、信康に家督継承を迫られる可能性を危惧)、武田と内通という讒言を信長に入れ、娘婿の信康の処断を相談したわけであった。信長としては特に死罪を求めなかったが、家康の意向により切腹という結末となる(1579年9月15日)。岡崎城を追放された信康は、最終的にこの二俣城内で幽閉されていた(家康により、岡崎衆らの信康との接触も禁止された)。
信康切腹の折、世に知られた武勇と高い将来性を惜しみ、介錯役の服部半蔵正成は何としても刀を向けられず、検視役の天方山城守通網が介錯したと言われる。

これより前の 8月29日、同じく二俣城へ護送中であった築山殿(家康の正室で、信康の生母)が、家康の家臣である岡本時仲と野中重政によって佐鳴湖の畔で殺害されていた。信康排除に邪魔となる存在とみなされたのだった。
翌 1580年、家康自らが見送って、徳姫(五姫)は岡崎城から信長の元へ送り返されている。

信康の切腹後、その首は舅である信長の元に送り届けられ、その胴体は二俣城外に埋葬されることとなった。その埋葬の際、浜松城 にあった家康の元へ二俣村役人らが呼び出され、二俣城下には浄土宗の寺院が何ヵ所あり、その寺名を書き出すように指示されるも、役人らは臨済宗派が強い現地にあって浄土宗派の寺院は一ヵ所もないと回答したという。
「草庵でもよいから」という具合で何とか手配した小山上に墓が設けられたのだった。

武田方の勢力を一掃しつつあった 1581年、徳川家康は初めて当地に足を運び、信康を祀った廟所、位牌堂、その他諸堂を建立する。その際、清水の湧き出るのを見て、寺名を清瀧寺と名づけ、信康に清瀧寺殿とおくり名をしたという。実子の自害から 2年が経過しての訪問であった。以後、清瀧寺は京都知恩院の末寺とされ、阿弥陀如来を本尊に頂き、信康の供養寺とされた。
同時に、信康の近侍であった 吉良於初(初之丞。15歳)も信康を追って殉死したていたため、合葬されることとなる。後になって、当時、二俣城主だった 大久保忠世(1532~1594年)や、三方ヶ原 で戦死した中根平左衛門正照(?-1573年)、青木又四朗吉継(?-1573年)らの墓も追加で設置されていったという


二俣町 二俣町

なお境内にあった釣り鐘であるが(上写真左)、「本田宗一郎 ゆかりの地」と解説板が設置されていた。曰く、「二俣尋常高等小学校時代の宗一郎少年は、正午を知らせる鐘を 30分前に突き、まんまと弁当を早く食べた」とあった。。。彼は、眼下に見える現・二俣小学校出身者だった。

さて、続いて本田宗一郎記念館(ものづくり伝承館)を訪問しようと境内を後にすると、その脇に井戸櫓が復元されていた(上写真右)。山上(下写真左は境内から眺め)には井戸がないようで、山裾に設けた井戸を組み上げていたらしく、江戸時代から当地の名所となっていたという。
ちょうど 1572年10月の二俣城の攻城戦 で、武田信玄配下の勝頼軍が、城方の水源となっていた天竜川沿いの水汲み櫓を破壊したイメージ、を連想させるものだった。

二俣町 二俣町

本田宗一郎記念館前の駐車場には大型バスやバイクなどが複数、停車しており、こんな田舎町にあって唯一、にぎやかな場所となっていた。世界的な自動車メーカー「ホンダ(本田技研工業)」の創業者・本田宗一郎氏がこの二俣町の出身(1906年生)で、その彼を顕彰した記念館が開設されていたのだった。もともとは二俣町の町役場の建物だったものを、浜松市が 2010年に改修したという。
見学無料ということで、少し閲覧してみた。ホンダ創業者だが、二輪車にスポットを当てた記念館となっていた(上写真右)。
二俣町 の中でも最も訪問者が多い観光地で、多くのバイカーの聖地になっている様子だった。

二俣町 二俣町

さて、続いて二俣町の中心部を散策しようと、二俣川の方向へ歩みを進める。
町の中心通りは、クローバー通り商店街だった(上写真左)。かつての城下町地区でもあったが、現在の寂れ模様は隠しようもなかった。道路沿いに地元スーパーがあり、その入口が滑り台を兼ねていて、女児たちが遊んでいる様子が印象的だった(上写真右)。こんな設計のス―パ―は初めて目にした。

一つ目の信号を左折し、いよいよ二俣川に至る。ここにかかる二俣大橋を渡り、対岸へ移動してみる(下写真左は、この二俣大橋から南方向を臨んだもの)。その山裾に 栄林寺(九州・泉福寺で修行した玄賢大和尚が 1365年、当地に移住して草庵を設けたことに由来し、以後、曹洞宗の寺となる。ここの山門は 1719年建立、本堂は 1773年の再建という)があり、少し南下すると、地元民用の二俣川にかかる細い橋を発見した(下写真右)。車一台がギリギリ通行できる幅で、ガードレールがなぜか赤色だった。

二俣町 二俣町

さらに南下すると毘沙門堂(もともとは栄林寺の一角として 1370年に山頂に創建されるも、明治期に焼失し 1909年に現在の地に再建されたもの)があった。かつて、この後方の山上に徳川方の付城として毘沙門天砦が建造され、二俣城の対岸にあって武田方の籠城軍と対峙していたわけである。



 毘沙門天砦

1575年5月、織田信長と共に長篠の戦いで武田勝頼を撃破した徳川家康は、翌 6月より早速、二俣城の攻略にとりかかる。この城は、家康の本拠地である 浜松城 の北約 18kmに位置し、遠江における武田方の最前線拠点の一角をなす要衝で、家康にとっては目の上のたんこぶとなっていた。その排除に乗り出すのも自然な動機であったと言える。

力づくでの攻略は困難と悟った徳川方は、東に毘沙門天砦、西に和田ヶ島砦、南に鳥羽山城、北に蜷原砦を設け、完全包囲して兵糧攻めを展開する。
この毘沙門天砦が築城された山は、もともと山裾の栄林寺の境内に相当し、山頂に毘沙門堂が設けられていたため、ここに陣取った 本田忠勝 が自ら「毘沙門天砦」と命名したと伝えられる。簡易な要塞で、頂上部に本曲輪、堀切が設けられ、斜面上に腰曲輪が構築されただけだったという。

その後も二俣城の包囲戦は半年間、継続される。徳川方は二俣城をさらに孤立させるべく、武田方の中継拠点であった光明城を攻略し、二俣城への圧力をますます強化する。
最終的に同年 12月23日、勝頼から城の放棄を指示された城主の依田信蕃は、徳川方との和議に応じ開城する。 


さて、県道 152号線に至るところで、名も無き小川が二俣川と合流していた(下写真右の橋の部分)。この小川も戦国期、毘沙門天砦の外堀に利用されていたものと推察される。

下写真は県道 152号線沿いに双竜橋を渡って、二俣川対岸から毘沙門天砦跡を遠望したもの。この山頂に築城されていたわけである。

二俣町 二俣町

このすぐ東隣に天竜二俣駅があったが、一時間に一本しかないので、再び、西鹿島駅まで歩いて帰ることにした。県道 152号線(秋葉街道)沿いをひたすら南下した。
途中、先ほどの鳥羽山公園の山下にあるトンネルを通過するわけだが、その脇に自転車、歩行者用の側道があった。深夜だと相当に怖いだろうな。。。

そして再び鹿島橋を渡り、そのまま西鹿島駅まで歩いて戻った。二俣町から徒歩 20分弱ぐらいの距離だった。下地図 は本日の移動ルートである。

二俣町


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