BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月下旬


静岡県 富士宮市 ~ 市内人口 13.5万人、一人当たり GDP 335万円(静岡県 全体)


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  JR東京駅八重洲口 から高速バスで JR富士駅に到着(2,100円、3時間)
  富士市の中心地 = 江戸期の宿場町「新吉原宿(現在の吉原本町)」と 旧東海道、平家越碑
  JR富士駅前の寂れた アーケード通り
  JR身延線で 富士宮駅へ移動(240円、20分弱)し、浅間大社の門前町 を歩く
  源頼朝、武田信玄・勝頼父子、徳川家康、織田信長 と 由緒ある浅間大社 との交わり
  富士宮・浅間大社 と 東京・靖国神社との意外な関係性 ~ 幕末の動乱に翻弄された人々
  大社の北面、東面の高台の建造されていた 大宮城跡地 ~ 現在の富士宮市元城町
  【豆知識】武田信玄の駿河侵攻 と 大宮城 ■■■
  JR富士駅から路線バスで、新幹線専用の新富士駅へ移動する(7分、170円)



前日東京駅 八重洲南口⑨番乗り場 から富士急行バスで JR富士駅に到着した(ネット予約 2,100円)。予定では 17:50発 → 20:12着であったが、終日の雨天と週末前の都内渋滞で、1時間強、到着時間が遅れた。
この高速バスは、JR 富士駅に直接向かわず、昭和通り、富士市役所、ロゼシアター、新富士駅などに停車しつつ、ようやく JR 富士駅南口に到達した。後で知ったが、JR 富士宮駅にも向かうようだった。
事前調査が不十分で、富士市と富士宮市との違いや、富士市の都市構造などが把握できていないままでの、現地入りとなってしまった。
結論から言えば、JR 富士宮駅前まで直接、高速バスを乗っていき、駅前のホテルで投宿するのがベストだった。しかし、おかげで JR富士駅 や 新富士駅周辺の地理にも詳しくなることができた。

富士宮市

富士市の市街地は古く東海道上に栄えた交易集落を発祥としており、富士川河口 = 田子の浦(江戸時代初期まで、富士川は富士市を東進して海へと流れており、度々、一帯に洪水被害をもたらせていた。1674年から 50年以上の月日を費やして大土木工事が着手され、富士川の流れそのものを現在の直線ルートで海へ注ぐように改造したわけである)に発達した港町をも有した水陸両方の交通の要衝だったという。そのまま江戸時代には宿場町に指定されたわけである。

その中心部が現在の「吉原本町」の一帯で、先ほど高速バスが通り過ぎたバス停「富士市役所」「ロゼシアター」の辺りに相当する。富士市の中心部は JR線駅前というより、この旧宿場町周辺のようであった。東名高速を降りて、富士駅(JR 在来線)や 新富士駅(新幹線)方向へ向かう道中、という地理的なロケーションもあろうが、高速バスがこれら道中で停車していったのも、その地理的な重要性からであったことが後で分かった。
地元・富士市の観光案内所やレンタサイクル受付所も新富士駅(新幹線)1F に開設されており、JR 富士駅前のホテルを選んだのはミスだったかも。。。と焦ってしまったが、現地に降り立つと、思ったより繁華街だったので安心した次第である。


今回、投宿したのは JR富士駅前の「富士グリーンホテル」だが(下写真左)、筆者がチェックインした際、別の外国人の家族連れが予約値段で揉めていた。聞くと、「当ホテルでは規則として、ベットの幼児添い寝だけでも、1,600円を追加徴収している」というルールを突然、通知されて、後出しじゃんけんだー、っとなっているようだった。

途中、筆者が通訳を買って出たが、「添い寝」料金という 1,600円には、追加タオルも、歯ブラシも、朝食もつかず、全く「言い値」という状態で、ホテル側の対応に問題が大ありだったと感じた。翌日気づいたことだが、このホテルは JR 富士宮駅前にもあり、複数店舗を展開しているようだったが、富士山観光に訪れた外国人観光客が最初から最後まで気持ちよくステイできるように、料金プランの明確化を徹底してほしいと思う。というより、「言い値」だけの添い寝料金は、筆者個人的にも初耳で、フロント・スタッフの個人的なポケットマネーとなるのではないか?と疑念を持たれても仕方ないチャージだろう。


さて、富士市の都市構造としては、JR駅前はあくまでも鉄道敷設で発展した後発的な駅前アーケード街で、実際の見どころは旧宿場町エリアにあり、 JR 富士駅と吉原中央駅(路線バス発着所)を往来する地元バスで訪問するか、レンタサイクル(新幹線専用の新富士駅構内の富士山観光交流ビューローで申込)を利用するしか方法がない。もちろん、 JR 東海道線上りで一つ東隣の「吉原駅」へ移動し、ここから岳南鉄道線の吉原本町駅で下車して徒歩散策も可能だ。

筆者的に当地の見どころは、源平合戦の富士川古戦場碑「平家越」と宿場町エリア(旧東海道)、そして田子の浦の 3か所かと思われる。



 吉原宿(江戸期の宿場町)、3度の引っ越し

度々の高潮被害により、過去 3回にわたって、北へ北へと全集落移転が行われた苦難の宿場町であった。
初代の宿場町は、現在の鈴川沿いにある阿字神社(現在の JR吉原駅の南西)辺りで「見附宿」と命名されていたが、高潮被害により 今井~鈴川辺り(『元吉原宿』- 現在の JR吉原駅の南東)に移転される(2代目)。
しかし、この地も被災したため 1639~40年、依田橋町~荒田島、津田辺り(『中吉原宿』- 岳南鉄道のジヤトコ前駅の南側)に所替えされる(3代目)。

この中吉原宿も 1680年8月29日(旧暦 8月6日)の高波により一面が水没するという壊滅的な被害を受けると(この時代まで、田子の浦が富士川の河口であり、宿場町も河口地区に開設されていた)、同年末~1682年春にかけて、現在の吉原本町(新吉原宿)に所替えが実施される(4代目)。
この新吉原宿は、東は依田原山神社北の交差点辺りから西は小潤井川の四軒橋までのエリアで、当初は約 1,230mの街道沿いに計 297の家々が軒を連ねたという。



さて翌朝 8:00 過ぎ、ホテルから窓の外を見ると、きれいに富士山頂が見えていた(下写真右)。しかし、この日はこれが最後で、あとは終日、頂上部分はずっと雲に覆われていた。

富士宮市 富士宮市

1時間に 1~2本しかない身延線の乗車時間まで時間があったので、ホテル周辺のアーケード街を散策してみた。メインストリートである「富士本町通り(国道 175号線)」であるが、下写真の通り、そのシャッター街ぶりは悲惨だった。。。そもそも歩行者自体がいなかった。
この先(下写真左)に幹線道路(国道 396号線)が通っており、その沿いにマイカー利用者をターゲットにした商業エリアが集中し、鉄道駅周辺は寂れてしまったらしい。

富士宮市 富士宮市

そして、身延線で富士宮駅を目指す(240円、20分弱)。
富士宮駅に到着後、まず 1F 北西角(交番横)にある観光案内所を訪問してみた(下地図)。ボランティアの方々から親身な助言や資料類を頂戴し、そのまま徒歩で浅間大社を目指すことにした。

富士宮市

駅前の大通り(国道 53号線)を北上し、途中に見えたアーケード街(マイロード本町。下写真左)を左折して、西進する(上地図の青ライン)。そのマイロード本町の西端に、神田宮があったので、撮影しておいた(下写真右)。

浅間大社は、鎌倉~室町時代を通じ、すでに多くの土地を所有する大地主となっており、それらは御神田と通称されていた。地元の農民らは富士山の雪解け水を灌漑用水として田植えを行い、無事終了したタイミングの 6月28日、豊かな秋の稔りを願って毎年、御田植祭を催したという。その都度、大社から浅間大神を招聘して神事を行っていたが、1919年7月6日に浅間大社より浅間大神が分霊されて、地元で収穫祭を完結できるようになったという。その名残りがこの神田宮というわけだった。今日、周囲に全く田圃はなくなっているが、地元で大事に守られ続けていた。

富士宮市 富士宮市

いよいよ浅間大社が見えてくる。
この本町通りから大社前のエリアは、かつての門前町の名残を多分に残していた。その住所は「富士宮市大宮町」である。
下写真左は、大社前 の交差点。立派過ぎる富士宮信用金庫・神田支店の社屋が気になった。

富士宮市 富士宮市

上写真右は、大社本宮の正門(楼門。後方の朱色の門)前に設置されていた流鏑馬の像。当地境内で毎年 5月5日に行われる流鏑馬祭は有名で、その起源は 1193年に 源頼朝 が催した富士山麓の巻狩りに由来するという。ちょうど前年 1992年7月に征夷大将軍に任命されていた頼朝は、関東地方の御家人らを集めて、大将軍就任の権威誇示や軍事演習を兼ねて大規模に開催し、その際、富士山をご神体として祀る浅間大社に多額の寄進を行ったという。以後、800年以上もの間、この流鏑馬祭が執り行われてきたと伝わる。
下写真左は、楼門を本宮(約 17,000坪)内部から見たもの。ちょうど七五三シーズンとあって、着飾った親子連れの参拝客がたくさん見受けられた。

富士宮市 富士宮市

この楼門、そして拝殿と本殿(上写真右)は、1603年に征夷大将軍となった徳川家康 が鎮護国家を祈願し、翌 1604年に全国の神社仏閣の修繕、改修工事を号令するわけだが、その一環で造営されたものという。当時、本殿、拝殿、舞殿、楼門をはじめとする 30棟余もの社殿群が建造されるも、寛永年間、安政年間での大地震で倒壊するなど被害を受け、現存する家康時代の建造物はこの本殿、幣殿、拝殿、楼門のみ、ということらしい。特に拝殿後方に見えるの二重楼閣造りの本殿(高さ 13m)は特殊なスタイルで、その貴重さから国の重要文化財となっている。
この翌 1605年、家康は将軍職を秀忠に譲り、自身は駿府城で「大御所」生活に入ることとなる。
この駿府時代の 1609年に、家康は富士山の山頂の噴火口内の散銭を浅間大社の取得分として認定し、実質的に富士山頂の土地は浅間大社の境内地ということを布告したのであった。

また、拝殿横には 武田信玄 が駿河侵攻時に自ら植えたという桜の樹(2代目)が保存されていた。武田信玄・勝頼親子も駿河に立ち寄る度に、積極的に寄進を行っており、また 1582年の甲州征伐 の帰路、織田信長が当地に立ち寄り富士山を愛でたとも言われている。



 富士山本宮・浅間大社の由緒

古来より富士山は神の鎮まる山として、多くの人々の信仰を集めてきた。
紀元前 200年代に富士山が噴火し国中が荒れ果てたため、紀元前 27年、浅間大社の前身となる神宮が山裾に祀られ、富士山の山霊を鎮めるべく、祈祷が捧げられる。
110年、皇族の日本武尊(ヤマトタケル)が東国征討 のため当地に至った際、浅間大神を山宮(現在の山宮浅間神社の地)に移転させる。
さらに時は下って 806年、同じく東国遠征の途上であった坂上田村麻呂が当地に入った際、現在の大宮の地(富士山の湧き水が湧き出るポイントだった)に神社を遷し、壮大な社殿を建造する。これが現在につながる浅間大社となったわけである。
以降、朝廷及び多くの権力者より篤い崇敬を受け続け、富士山に対する信仰(富士信仰 / 浅間信仰)の神社群で、全国 1300余社ある浅間神社の総本宮と称えられるようになっていく。現在、境内には 500本もの桜が植えられているという。

なお、富士山頂上部には本神社の奥宮が鎮座しており、開山期には 30万人以上の登拝者で賑わう。頂上の噴火口(内院)は浅間大神が鎮まる禁足地で、その深さが八合目に達することから八合目以上が境内地と定められたのだった。
また、この火口の周りには八つの峰があり、これを巡ることをお鉢巡りという。


富士宮市 富士宮市

さて、境内を出て、東側へ歩いてみる(上写真左)。ここは、桜の馬場と言われる広い通りで、毎年 5月5日に流鏑馬祭が行われる現場である。

その東端に、富士山の湧き水という湧玉池と小川(神田川)が整備されており(上写真右)、その水の透明度に度肝を抜かれた次第である。
富士山に降った雨水や雪解け水が湧き出るポイントといい、国指定の特別天然記念物となっていた。中世以降、富士山に登る人々は、この湧玉池の霊水でまず禊を終えてから富士登山に臨んだという。水温は年間を通して 13度、湧き水量は毎秒 3.6kl。

また、その脇に駿州赤心隊を顕彰した石碑があった(下地図)。
赤心隊とは第 44代大宮司家・富士氏の当主となった富士亦八郎重本(1826~1897年)が結成した尊王派神官らの武闘派グループで、江戸東征、戊辰戦争などで官軍に参加し大いに活躍したという。しかし討幕後、静岡藩に転封となった元将軍・徳川慶喜に忠義を尽くす旧幕臣らによって、度々、報復の襲撃を受けたため(1名死亡、2名は重傷、隊長・富士本家への放火など)、当時、明治政府の軍最高幹部である兵部大輔であった大村益次郎に富士重本が嘆願すると、神官出身という特異な出自を勘案し、国家に殉じた兵士らを慰霊する寺院の創建に参加させ、その社司として再雇用する運びとなる。この寺院こそ、現在の靖国神社であり、創建当初の 1869年~1879年までは招魂社と命名されていた。靖国神社とここ富士浅間大社との意外な接点を知ることとなった。なお、富士重本はその後、東京 麹町区長を務めるなど、政界へと進出している。

富士宮市

ここから東方向と北方向はやや高台となっており(下写真)、かつて大宮城が立地していたわけである。ちょうど、麓の浅間大社を北と東から取り囲むような形状で築城されていたと推察される。
当地の住所はその名も「富士宮市元城町」で、古城時代の名残を大いに残すものであった。

富士宮市

上写真の自動車道を直進すると、富士山登山口へつながっている。

富士宮市 富士宮市

上写真は北面の高台。この丘陵部分にも、何らかの城塞の一部が設けられていたことだろう。

富士宮市 富士宮市

上写真は、東面の高台。坂道途中に、「城山組」の山車(だし)倉庫があった。毎年 11月3~5日に地元で催される新穀感謝の秋祭で引き回されるという。

その倉庫向かいに大宮小学校があり(下写真)、ここが大宮城の本郭・二の郭跡地と考えられている。小学校脇には用水路が設けられており、往時の外堀の名残りかもしれない。

富士宮市 富士宮市

この浅間大社を内包する形で設計された大宮城であるが、これは城主の富士氏が大社の宮司家をも兼ねた宗教領主であったことと関係している。富士山をご神体として祀る大社と一体となって、富士郡一帯を統治する国人領主だったわけである。
しかし、1582年の織田信長による甲州征伐の折、遠江より侵攻した徳川軍により大宮城も攻め落とされると、そのまま廃城となってしまったため、城跡の遺構は全く残されていない。周囲に流れる小川や用水路、丘陵斜面などの地形から往時をしのぶ他ない。
なお、富士氏は政治、軍事上の権力は失うも、引き続き、大社の宮司家として江戸末期まで存続されたという。

本城は、武田信玄の攻撃を 3度うけて、ようやく開城した堅城として知られ、その奮闘は由緒ある富士郡の太守たるに相応しい健闘ぶりであったと言える(北条氏の強力なバックアップもあった)。



 武田信玄の駿河侵攻 と 大宮城

 1567年
武田信玄 は織田信長との同盟成立により、その同盟者の 越後の上杉謙信 とも間接的に休戦関係が成立し北信濃情勢が落ち着くと、いよいよ領土拡張の目を南に向けることとなる。
② 同時に、信長の同盟者であった三河の徳川家康とも手を組み、東から武田が、西から徳川が、義元の後を継いでいた今川氏真を攻める交渉を進める。他方で、古くからの同盟者だった北条氏にも駿河侵攻の話を持ちかけたが、拒絶される。
③ 8月27日(旧暦 10月19日)、駿河侵攻に最後まで反対した嫡男・義信を謀反の容疑(1565年 10月~幽閉中)で自刃に追い込む。


 1568年
① 2月、織田信長の仲介により、いよいよ三河の徳川家康との密約が成立する。
② 信長は 8月27日(旧暦 7月25日)、ついに足利義昭一行を 美濃・岐阜城 に招きいれ、 10月7日(旧暦 9月7日)に義昭を擁して美濃を出立し上洛の途につく。信長はこの行動の前準備として、美濃東部で国境を接する信玄を懐柔するために、信玄外交を取り持っていたわけであった。自身が留守にする美濃よりも、南の駿河に目を向けてもらう必要があったのである。
④ 同時に信玄は、駿河の今川家重臣や国人らに調略攻勢をしかけ、内通を呼びかける。
③ 満を持して 12月24日(旧暦 12月6日)、信玄が 甲府 を出陣する(総勢 12,000名)。
そのまま富士川沿いの街道(駿州往環)を南下し、12月30日(旧暦 12月12日)に駿河領に侵入すると、富士川西岸の庵原郡内房村(下地図)一帯の丘陵エリアに布陣する。

信玄接近の報が入った今川氏真は、重臣の庵原忠胤を総大将とし、総勢 15,000名の軍勢で薩埵峠(下地図)に守備陣地を構築して迎撃体制を整える。さらに自身も諸将を鼓舞すべく清見寺まで出陣し、同時に同盟国である北条氏康にも援軍要請の使者を発する。
武田軍が本拠地・駿府の今川館へ攻め込むためには、この薩埵峠を通過せざるを得ないことを今川方は熟知しており、ここで防衛ラインを敷くことで、北条方と挟撃できる作戦を描いていた。武田軍の先鋒は着陣早々の初日 12月30日より今川軍への攻撃を開始するも、なかなか突破できずにいたところ、かつてより内通工作を受けていた今川方の諸将(瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元ら 21名)が戦線に参加しなかったことに疑念を抱いた今川氏真が翌 12月31日(旧暦 12月13日)、着陣していた清見寺を秘密裏に離脱し、駿府の今川館へ逃げ帰ってしまう。この氏真逃亡の報が前線の今川防衛軍に伝わると守備隊は総崩れとなり、追撃する武田軍はそのまま今川館がある駿府城下まで乱入することとなる。下地図。

富士宮市

今川館や駿府の城下町は大混乱となり、氏真は 重臣の朝比奈泰朝が籠る遠江の 掛川城 へ逃走を決意する。その際、城中・城下の人々は逃げまどい、氏真の正室・早川殿も興にも乗れず、裸足・徒歩で脱出するほどの修羅場だったと伝えられる(これは早川殿が父・北条氏康に救援要請する際に出した手紙に言及されたエピソードで、誇張が疑われている)。
しかし、信玄が駿河越境した同日の 12月30日(旧暦 12月12日)には、徳川家康が西から遠江への侵攻を開始しており、井伊谷城や白須賀城、 曳馬城(今の浜松城)などを攻略し、いよいよ 1569年1月14日(旧暦 1568年12月27日)に 掛川城 を完全包囲するに至るのだった。

なお、信玄が駿河へ侵入した同日 12月30日(旧暦 12月12日)に、北条氏康(53歳)は今川救援のために息子の北条氏政(このとき 30歳。1590年、秀吉の小田原征伐に際し、52歳で切腹することになる)を総大将に小田原から 45,000もの大軍勢を発し、三島に着陣する。
初戦では今川の防衛軍をわずか一日で蹴散らし、本拠地を焼き払って駿河国を崩壊させたかに見えた武田軍であったが、以後、北条軍&今川残党勢力との全面戦争に直面していくこととなる。

武田軍は北条軍と対峙しつつ、駿河国内の平定戦を展開し、今川方の諸城への攻撃と調略を続ける。その一環で、今川方の甲斐国境の最前線基地であった大宮城(城主:富士信忠)へも攻め寄せたわけである。しかし、北条方の援軍をバックアップに城兵らはよく守備し、武田軍は敗走せざるを得なかった。


 1569年
年が明けて以降も、信玄は駿府城下にとどまり、駿河平定戦と北条との戦闘を続けていた。

① 2月3日(旧暦 1月18日)、三島に着陣していた北条氏政は、300名の別動隊を海路より、氏真が籠る 掛川城 へ派遣し、残りを富士川の東岸一帯に展開する。そして、自身は主力部隊を引き連れて信玄の背後を突くべく陸路から蒲原城まで進軍するも(2月11日、旧暦 1月26日)、薩埵峠の旧今川方の防衛陣地に入居して守備する武田軍 18,000に阻まれ、駿府への入城が果たせずにいた。これが、第 2次薩埵峠の戦いである。
② そんな第 2次薩埵峠の戦いの最中だった 2月17日(旧暦 2月1日)、信玄は配下の穴山信君と葛山氏元(今川方から寝返った葛山城主)らに、再度、大宮城を襲撃させるも、北条方の援軍もあり、再び大惨敗し撃退されてしまう。
③ 武田、北条ともに戦線が膠着し、各地で疲れが見えたため、勝敗がつかないまま 4月下旬、両軍ともにいったん本国へ退去することとなる。このとき、すでに廃墟と化していた駿府城下から、近くの江尻城へ駿河国の政務拠点を移転させた信玄であったが、それらの占領地を放棄しての甲府撤兵であった。
6月1日(旧暦 5月17日)、籠城中だった掛川城の今川氏真が徳川家康に降伏すると、 その身柄は北条方で保護される事となり、同時に徳川と北条の同盟が締結される。ここに、戦国大名としての今川家は消滅し、氏真の身柄を 預かった北条方が駿河国の支配権を獲得したのだった。
これより前、武田信玄は家康との密約を破り、信州から南下して 遠江見付に侵入、さらに家康旗下の久野城を攻撃しており、 家康から盟約違反の猛抗議を受けて、双方反目しあっていた。遠江のスピード占領へと 舵を切った家康による今川氏真との和議成立と対北条同盟だったのである。
③ この戦後処理に不満一杯だった信玄は、棚ぼたで駿河国を併合した北条方に対する攻勢を強めることとなる。
④ 6月、南北に長く接する国境を活かし、武田軍は波状攻撃で北条領を犯した。御岳城(今の東京都青梅市御岳山)や深沢城(今の静岡県御殿場市)、鉢形城(今の埼玉県大里郡寄居町大字鉢形)などを順次、攻撃し、そのどさくさの中の 7月30日(旧暦 6月17日)、信玄自ら率いる本隊が伊豆の三島にあった北条方の拠点を攻撃する。年貢田畑や村集落などの重要資源を焼き払いながら、北条方の領国経営にダメージを与えていった。
④ 8月5日(旧暦 6月23日)、武田軍はそのまま西進して富士郡の大宮城を総攻撃する。北条方の援軍が期待できない孤立無援となった大宮城は一週間以上ねばるも、ついに 8月14日(旧暦 7月2日) 、開城する。この時、城主・富士信忠は北条方の本拠地・小田原城へ逃走する。
信玄は、この大宮城に譜代家老の原昌胤、市川昌房らを城代として配し、対北条戦の最前線基地として幅約 10m近い外堀を大規模に掘削するなど、改修工事が加える。
他方、武田本隊はいったん 甲府 へ撤退する。ここで、武田方は北条支配下の駿河国にあって富士郡のみ切り取ったことになる。この時、飛び地状態となった富士郡を防衛するために、武田軍は富士川の駿州往環沿いに狼煙台を複数、建造し、2時間足らずで甲府まで情報が伝達できる仕組みを構築する。
④ 夏期間中の上杉謙信の動きを警戒し、いったん本国に帰還していた信玄だったが、冬将軍が到来しつつあった同年秋の 10月、再び、兵を起こす。北条方本拠地の小田原城下まで攻め込み包囲するも、脅しと破壊作戦は十分と判断して撤退を開始する。 この撤退戦で三増峠の戦いが発生し、北条方に手痛い打撃を与えることに成功するのだった
④ 小田原攻めから帰国すると、信玄はすぐに駿河出兵の再準備にとりかかる。そして駿河国境を侵し、旧暦 12月6日(1570年1月12日)には富士郡の南に位置した蒲原城を攻略し、駿河国を東西に分断すると、駿府の今川館跡地へ進軍する。北条方の守将・阿部正綱らを説得し、同月 13日(1570年1月19日)、駿府の再占領に成功する。


 1570年
① そのまま駿府で年越しした信玄は旧暦 1月4日(2月8日)、満を持して駿河西部の平定戦に着手する。旧今川家臣であった大原資良らの守備する花沢城(今の静岡県焼津市花沢)への攻撃を開始するも、激しい抵抗に遭い、多くの損害を受ける。それでも力づくで攻め落とし、ついに 3月3日(旧暦 1月27日)に落城する。守将・大原資良は西隣の遠江国の 高天神城(城主・小笠原長忠。徳川家康配下となっていた)を頼り落ちのびる。
こうして駿河の大部分を占領後、信玄は一旦、甲府 へ帰還する。
② 越中国の一向一揆に加勢し、越後の上杉謙信 の牽制に成功すると、再び 5月20日(旧暦 4月16日)、駿河侵攻を再開する。このとき、駿河国の東部平定と北条領の伊豆攻撃を展開し、6月(旧暦 5月)中には富士郡吉原や駿東郡沼津で、9月(旧暦 8月)中には駿東郡の興国寺城や伊豆国の韮山城で、北条軍と何度も交戦する。
12月上旬、最後の駿河侵攻作戦に着手し、北条方の駿東郡深沢城や興国寺城を攻撃する。最終的に翌 1571年2月10日(旧暦 1月16日)に深沢城が降伏・開城して北条方の勢力は駿河から掃討され、ようやく信玄による駿河平定が完遂されたのだった。
実にまる 3年の年月を費やした大事業であった。

1571年10月3日、北条氏康が病死すると、その遺言に従い、北条氏直は同年 12月27日、再び武田信玄との同盟を再提携する。これに伴い、小田原城に避難中であった富士信忠は翌 1572年に武田氏に下り(同じく小田原城下に逃亡中であった今川氏真より暇を与える旨の感状が発給され、主従関係が正式に清算される)、1573年、武田勝頼により大宮城の宿城(穴山氏の配下に帰属)として復帰を許される。その子の富士信通は 1577年、浅間大社の富士大宮司職に任命され、政治・軍事権限のない神官職に定められたのだった。

こうして信玄が苦労して奪取した駿河国も、1582年 2月3日〜3月11日の織田信長による甲州征伐の際、遠江から徳川家康が侵攻して小山城、田中城、持船城、久能城、庵原山城、江尻城、興国寺城などの諸城がことごとく陥落・開城し、この大宮城も開城することになった。家康に降伏し開城した城将らは信長の命により、ほとんどが粛清・処刑される。



なお、大社前を通る国道 76号線(上の富士宮信用金庫の通り)沿いに、かつて長屋門・歴史の館が開館されていたが、筆者の訪問時、すでに閉鎖されていた。
これは、江戸時代後期、幕府旗本の本郷泰固が建築した陣屋の長屋門が、その御用人の和田家へ譲渡され、その親族の遠藤家の持ち物となり、遠藤家がこの富士宮市の門前町に料亭「高しま屋」をオープンした際、移築したものだったが、料亭も閉店し、2003年に富士宮市の所有分となり、地元・富士宮市の歴史や富士山の世界遺産解説などを広報する展示館として再活用される。しかし、それらの展示物は 2017年にオープンした最新デジタル博物館「静岡県富士山世界遺産センター」へ移設され、長屋門・歴史の館も閉館されたという。

その静岡県富士山世界遺産センターを訪問し、かつて長屋門内で展示されていた富士山周辺のジオラマを見たかったが、受付でもう展示されていないと言われたので、内覧は辞めておいた(入館料 300円)。そのまま南下し、線路を越えてイオンモール富士宮に入ってみた。ここのフードコートは充実しており、電源プラグも完備されて、長居にはもってこいの施設だった。
なお、富士宮市内で最も富士山の美景を楽しめるスポットは、富士宮市役所の 7階展望ロビーと聞いた(無料、平日 8:30~17:15)。

富士宮市

さて、身延線で富士駅へ戻り、ホテルで荷物を回収すると、JR 富士駅南口から 1時間に 2本ある地元路線バスで新幹線専用の新富士駅へ向かった(上写真はバス時刻表。バスは小型タイプだった ー 下写真左)。地元の人はマイカー利用が一般的なようで、バス乗車したのは筆者を含め、2名だけだった(7分、170円)。

このバス車窓から発見したことだが、富士駅北口は広大なアーケード街が整備される一方、南口は裏通りの寂れた感じの印象だったが、実は 100円ショップ・ダイソーの巨大店舗、地元スーパー「しずてつストア」などが立地し、北口よりもエコノミーに滞在できる環境が整っていた。

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新富士駅から新幹線に乗車する際、事前に 東京 新橋のチケット・ショップで購入していた新横浜行の乗車券(4,050円。正規料金は 4,510円。40分)を利用した。

なお、この新富士駅からも JR富士宮駅へ直行する路線バスが運行されていた(570円、32分)。
新富士駅 → JR富士宮駅 7:15 / 8:45 / 10:05 / △10:30 / 12:05 / 12:45 / 14:05 / △14:45 / 15:15
JR富士宮駅 → 新富士駅 9:15 / 10:40 / 11:45 / 12:40 / 13:45 / △15:10 / 15:40 / △17:10 / 19:40


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