BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月--旬


神奈川県 相模原市 ② 愛甲郡 愛川町 ~ 町内人口 4万人、一人当たり GDP 330万円(県全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  三増峠の古戦場(合戦場碑、首塚、胴塚、浅利信種 墓所、浅利明神、信玄の旗立松)
  田代城跡(狼煙台跡、富士居山)
  細野城跡、中津川、馬渡橋
  小沢城 と 小沢古城



前日まで新宿 2泊、調布 2泊した後、夕方に「調布駅」から京王線で「橋本駅」まで移動し、ここから JR横浜線で「八王子駅」に到着した。この駅西側にある 2軒のアパホテルは、駅から距離がある分、非常にリーズナブルで重宝した。3~5連泊する。
なお、羽田空港から東京到着の際は、空港バス「八王子行(1時間30分)」「調布駅行(1時間10分)」で直接、現地入りしたい

翌日、JR横浜線を南進し、「橋本駅」で JR相模線に乗り換え、「上溝駅」で下車する。ここから愛川町へ西進するには、徒歩かタクシーしか方法がなかった(早朝 7時台に、一日一便だけ愛川町行の路線バスが往来しているが。。。)。
また、 自転車を借りようにもレンタルサイクル店は JR相模原駅前しかなく(一日 200円)、距離的に厳しいので、致し方なく上溝駅前からタクシーに乗車し、高田橋まで行ってもらった。ちょうど相模川にかかる県道 63号線(相模川西岸以降は、54号線となる)沿いの橋だ(下地図の右上)。

相模原市

この橋の手前で下車し、相模川の対岸から、まず「小沢古城(上地図)」の遠景を撮影しておいた。そのまま徒歩で高田橋を渡り、対岸にある小さな「諏訪神社」の境内に入って、裏手に伸びる急斜面の坂道を恐る恐る登ってみる。スニーカーが必須だった。
そのまま尾根上の小道を進むと、頂上部に平地化された台地が広がっていた(面積約 20 m2)。周囲には土塁や堀切などの遺構も残る。こんな小規模な城塞であったが、相模川に突き出る断崖絶壁上に立地し、要害堅固の地形だったことが伺い知れる。

続いて、150 m南に位置する「小沢城」跡も訪問してみる(上地図)。
相模川沿いの低地に形成された丘陵地帯の端っこを堀切によって断絶し、東西 60 m × 南北 70 mほどを平地化して主郭が設計されていた(標高 119 m。山麓からの高低差 75 m)。この主郭跡地は現在、地元の人たちから「城の内」と呼ばれており、城跡に関する案内板が設置されている。また、北から台地に上がる坂道沿いには、腰曲輪や 空堀(堀底道)の遺構も残る。周囲には「城坂」、「馬つくり場」などの地名も伝承されているという。



 小沢城 と 小沢古城

この一帯は、古来より「小沢氏」の支配地であったことから、「小沢」という地名で呼称されてきたという。平安時代後期~鎌倉時代にかけ、武蔵国、相模国北部に割拠した地元武士集団「横山党」の一派を構成し、早くから横山党小沢氏の居館「小沢古城」が築城されていたとされる。ちょうど眼下には相模川と小沢川が流れ、その城下町が河川交易集落だったと考えられる。
しかし、同じく横山党を構成した田名氏、小倉氏らと共に、この相模川上流域を束ねて 鎌倉幕府 開府に尽力するも、1213年に勃発した和田義盛の乱において、横山党も北条軍に敗北してしまい、小沢氏一門も没落する。分家筋は、その後も引き続き、地侍として細々と存続していたようである。

室町時代、京都の足利将軍家鎌倉公方の足利家 が対立すると、京都から関東の監視役として関東管領・上杉氏が派遣されてくる。以降、この関東管領家と、鎌倉公方を押す関東の地元武士団とが対立することとなり、享徳の乱(1454~1482)が勃発する。関東地方各地が戦乱となる中、鎌倉公方派だった 旧横山党諸派(小沢氏を含む)は再び敗北し、多くが滅亡してしまうのだった。その後、旧小沢領には、関東管領上杉氏から新領主に任命された金子掃部助が入封することとなり、新たに「小沢城」が築城される。

相模原市

しかし 1476年6月、今度は関東管領上杉家で家内騒動が勃発すると(長尾景春の乱。上地図)、翌 1477年1月、この小沢城にも、扇谷上杉家の筆頭家老・太田道灌(1432~1486年)の軍勢が押し寄せ、 3ヶ月もの籠城戦の末に落城してしまう (長尾景春派に組した 城主・金子掃部助は自害して果てる)。この時、金子軍は小沢古城と小沢城に分かれて籠城していた、と考えられる。
なお、この関東全域に拡散された兵乱は、1480年6月まで続くこととなった(上地図)。

以降も金子氏が代々城主を務め、室町時代後期には関東一円を支配した北条氏に帰順して、首府・小田原城と 八王子城 を結ぶ街道上の、交通の要衝として栄えるも、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐時に滅亡し、小沢城も廃城となっている。



相模原市

ここでタイミングが合えば、 愛川町を周遊しているローカル便「愛川バスセンター」行バスに乗車し、終点「愛川バスセンター」まで移動してみたい(上地図は、運行ルート)。もちろん、そのまま小沢城跡から徒歩でも移動できる距離なのだが、できるだけ体力温存を図りたい。

続いて、愛川町の西端へ移動すべく、この県道 63号線沿いから 神奈川中央交通バス(厚59。遠く小田急線・厚木駅から北上してくる長距離ルート)に乗車する。 6分ほど乗車し、バスが中津川を渡る手前のバス停「田代坂上」で下車してみる(次のバス停だと、かなり行き過ぎてしまうため)。下地図。

なお、この日のバス利用は、近距離を 2~3回程度、利用するだけなので、神奈川中央バスの一日乗車券購入(一人 1,050円、 PASMO / Suicaカードにチャージするスタイル) は不要だろう。

相模原市

バス停「田代坂上」にて下車後(上地図)、そのまま県道 54号線を直進し、中津川に架かる馬渡橋を渡る。ついでに、中津川を挟んで立地する細野城と田代城の遠景を写真撮影しておいた。

対岸に至り、二つ目の三叉路から妙誠寺下の蛇行道へ左折し、県道 412号線(半原バイパス)に出る。これを北へ進み、一つ目の角を山側へ上がると「Makino 中津川寮」が見えてくる。その駐車場も含め、この一帯が細野城跡、というわけだった(下地図)。ちょうど、このバイパス道路脇に説明板が設置されていた。

当時から、北面と東面を蛇行する中津川、西面を深沢という小川の、三方向を水に囲まれた要害の地形で、この半島か岬のような地形に形成された高台上に築城されていたわけである。西面の大部分は道路によって地形が変形されてしまっているが、畑が広がるエリアに土塁の遺構などが残存する。

相模原市

再び、中津川上の馬渡橋まで移動し、 対岸側の田代城を目指すことにする(上地図の白線ルート)。三増峠の合戦当時、この城塞は戦場の西端に位置し、武田軍によって早々に攻め落とされたと考えられる。この合戦後に、先述の細野城が築城されている。

さて田代城跡であるが、現在は愛川中学校の裏山となっており、その入口前に解説板が設置されていた。 この解説板前から坂道を 10分弱登っていくと、右手側に、後方の富士居山へ通じる山道が姿を現す。それは藪が生え茂る急な坂道で、ほぼ道無き道を進むこと 20分で山頂に到着できる。山頂部から西へは、尾根伝いにハイキングコースが整備されていた。

この山頂部に、かつて物見櫓や狼煙台が設置されていた、と考えられている。当時は木々も伐採され、眺望もよかったはずだが、今日では木々がうっそうと茂り、景色は全く見られない。山を移動中、全く城郭遺構は見当たらなかったが、一部に石塁が残存していたらしい。


田代城は、津久井城主・内藤氏 の一門であった 内藤秀勝(関東北条氏に仕えた国衆の一人)によって、室町時代後期の 弘治年間(1555~1558)に築城されたという。当時、中津川を渡河する街道エリアを支配し、山城自体は 詰め城(東国では「根小屋式城郭」と呼ばれる)として機能した、と考えられる。

1569年10月の三増峠合戦の際、その子の内藤秀行が城主を継承していたが、合戦中に落城し、そのまま廃城となったようである。合戦後、内藤秀行の子・定行が旧領に復帰し、中津川の対岸に新たに細野城を築いて、そのまま中津川流域の統治を継承している。



相模原市

見学後、路線バスで通った 道路(三増合戦みち)を戻りつつ、周囲の地形を撮影していきたい(上地図)。
このエリアは「神奈川県愛甲郡愛川町三増」という住所で、まさに北条軍が陣を構えた三増峠に対し、小田原城包囲戦から北へ北へと撤退してきた武田軍が目にした光景そのものだったはずである。

そして、峠を下って攻め寄せてきた北条軍と武田軍本隊が激戦を繰り広げた場所こそ、この峠の麓一帯というわけだった。今でもこの古戦場跡には、三増合戦場碑や首塚、胴塚(戦死者を弔った場所)、浅利信種 墓所、浅利明神、信玄の旗立松、などが残されている(上地図)。

ここからの帰路は、先程の 路線バス(厚59)で小田急線「厚木駅」まで戻ることもできるが、異様な遠回りで 1時間以上の時間的ロスになりそうなので、愛川バスターミナル近くで地元タクシーをチャーターし、直接、JR相模線「上溝駅」へ戻ることにしたい。

相模原市

なお、上地図は三増峠の合戦が終結した 直後(10月8日)の各将配置図である。本来は、武田軍 2万が下半分にいて、山中には 北条氏邦・氏照兄弟の北関東軍 12,000が陣を構えていたが、戦闘中に山の手を取られ逆転されてしまった様子が描かれている。



 武田信玄の北条攻め

1568年12月初旬、三国同盟を一方的に破棄し、駿河の今川領へ侵攻した武田軍 12,000は、事前に今川方の有力武将らに調略をしかけていたこともあり、ほぼ無抵抗のまま 今川氏真(1538~1615年)の駿府城まで陥落させてしまう。

冬季の戦闘を避けるべく、年末に 甲府 へ一時帰国した信玄であったが、翌 1569年1月初旬、関東の北条軍 45,000が今川氏救援のため富士山麓まで西進してくると、信玄も 18,000の軍で駿河東部へ再び進軍し、両軍睨み合う展開となる。しかし、補給問題から同年 4月、武田軍はいったん甲府へ撤兵すると、翌 5月には掛川城の今川氏真を降伏に追い込み、遠江国境まで侵攻してきた徳川家康と北条氏が同盟関係を締結し、武田軍の 駿河占領地(西半分のみ)が危機に晒されるのだった。武田信玄は一刻も早く、北条方の援軍を東駿河から排除する必要性に迫られたわけである。

さらに事態は悪化する。翌 6月、北条氏はさらに 越後の上杉謙信 とも軍事同盟を締結し、信玄を完全に孤立化させてしまうのだった。窮地に立たされた信玄は、西に国境を接する織田信長に急接近する他なく、京都 上洛と畿内平定を目指す信長も、東美濃からの武田軍の侵攻を回避すく(下地図の赤色✖✖✖✖)、信玄と良好な関係を維持する姿勢を見せる(朝廷や足利義昭を通じ、同年 8月、武田と上杉氏との間で停戦協定を斡旋している)。

相模原市

こうした織田信長の外交支援を受けて、北条氏による武田包囲網を無力化させた信玄は、いよいよ自力での駿河問題解決を図るべく、関東出兵に乗り出すこととなる。
同年 8月24日、2万の大軍を率いて 甲府 を発し、佐久郡を通過後、翌 9月初旬、ゆっくりと碓氷峠を越えて西上野に入り北関東に進駐する。わざわざ遠回りして関東平野を目指したのは、越後の上杉氏 の動きに最大の警戒心を抱いていたためであった(上記の信長による根回しを確認していた、と考えられる。上杉氏との川中島合戦は 1564年が最後であった)。上杉謙信が手出しして来ないことに確証を得た信玄は、一気に関東平野を南進し、各地の城塞や居館、集落などを襲撃、放火しつつ、 北条氏康の 五男・氏邦(1548~1597年)が籠もる鉢形城や(9月10日)、三男・北条氏照(1542~1590年)が籠もる滝山城に攻撃を加える(9月27日)。しかし、いずれも本格的な攻城戦はしかけず、夕刻には撤収し、さらに軍を南進させるのだった。下地図。

今回の関東遠征は、あくまでも東駿河に展開中の北条軍を撤兵させることが主目的であったため、関東地方に勢力を拡大する意図はなく、あくまでも焼土作戦と破壊行為により、できるだけ短期間に関東平野一帯にダメージを負わせることに注力が注がれたわけである。こうして武田本隊は相模川をまっすぐ南進しつつ、厚木市や相模原市を進んで平塚市まで移動し、別動隊にはさらに 町田市、綾瀬市、東京方面、川崎市横浜市藤沢市 などにも展開させて、各地で破壊行為を進めていったようである(下地図)。

結局、北条方は武田軍の挑発行為には反応せず、各地の城に籠って籠城戦に徹し、長期戦の構えをとっていた。そして、ついに 10月1日、武田本隊は別動隊と合流し、小田原城を包囲する。さらに城下に放火して挑発を続けるも、北条軍は一向に白兵戦を挑んでくることはなかった。
4日間ほど小田原城を包囲するも、そろそろ関東各地の北条友軍が駆けつけ、完全に敵地のど真ん中に孤立する形となる武田軍の方が危険となってくるタイミングで、すぐに包囲網を切り上げて 甲斐 への撤退を開始する(10月5日)。この時、「鎌倉鶴岡八幡宮へ参詣」と偽情報を流しながら、ゆっくりと相模川まで東進しつつ、平塚で進路を北に変えた後、急いで相模川を北上し、その上流から甲斐へと撤兵する作戦を採用する。往路はわざと遠回りし、かつ各地を破壊しまくって悠々と時間を使っていたが、帰路は最短ルートを選んで、一気に北条領を抜け出そうとしたわけである。下地図。

相模原市

つい数日前まで意気揚々と破壊行為を続けた武田軍の、突然の退却劇に意表を突かれた北条方は、小田原城から本隊を出撃させる判断が遅れることとなり、3日後の三増峠の戦いに間に合わないという、絶好の好機を逸してしまうのだった。

自領を焼き払われ素通りされた形となった、鉢形城主・北条氏邦や 滝山城主・北条氏照 らは、小田原城を包囲する武田軍の背後を突くべく、出陣準備を進めており、北関東各地の支城から兵を集めていた。このタイミングで、相模川沿いを武田軍が北進中という知らせを受けると、すぐに集った 12000の大軍を率いて出撃し、「小倉の津」から渡河して三増峠に陣を構え、武田軍を待ち受ける。同時に、小田原城の父や兄にも派兵を打診し、この地で武田軍を一網打尽にしようと図ったわけである。

こうした北条方の動きを見越していた信玄は、10月6日、田村・大神を通行中、北条方の北関東軍が三増峠に布陣した一報を受け取る。ここに武田軍は、三増峠を強行突破するか、もたついて南北からの北条軍の挟撃を受けるか、の二択を迫らわれたわけだが、当然、前者のシナリオから作戦が立てられ、小田原城からの援軍到着前に、前方の北条氏邦・氏照兄弟の北関東軍を蹴散らし、甲斐への帰路を確保する電撃戦をしかけていくのだった。

10月7日

まず、武田軍 2万のうち、山県昌景(1529~1575年)や 小幡信定(1566~1606年)に先発隊として 6000強の兵力を預け、三増峠を避けて志田峠から甲斐への撤退ルート確保を命じる。
この時、撤退ルートに最も近い距離にあった津久井城の守備兵を封じ込めるため、小幡信定が 1200の兵を率いて城下に陣を張り、一帯のトウモロコシ畑や集落などに放火しつつ、無数の松明と案山子を用意して、大軍勢が城下に展開している風を装うこととした。こうして、北条方に武田先方隊が全軍、津久井城下に配置されているものと思い込ませつつ、山県昌景の率いる 5000弱の先発軍は韮尾根に身を潜め、志田峠をすぐに駆け戻れる準備を整えたのだった。

10月8日


こうして別動隊を切り離した後、武田信玄はさらに本軍を二隊に分け、わざと兵糧や武具などを満載した小荷駄隊を、道幅の広い三増峠へ進入させ搬出を優先させているように見せかける。すぐに北条氏邦・氏照兄弟の北関東軍がこれを急襲し、武田の荷物守備隊は壊滅的被害を受けるも、この護衛役を司った浅利信種が何とか時間稼ぎのために寡兵ながら奮戦する。

相模原市


このわずかな間に、後方にあった武田本隊が三増峠の西側へ退避し、山を背に高台に上り陣を構える。
こうして、①の武田の 決死隊(荷物守備隊)を突破した北条軍と、信玄本隊との間で直接対決が始まる。戦闘前には、北条方が高地に陣を敷いて有利であったが、この瞬間に攻守が逆転し、北条勢が低地から攻め上がる形で武田軍と戦う羽目になったわけである。しばらく死闘が続いた後、いよいよ志田峠を逆走して戻ってきた山県昌景の率いる 5000の先発軍が、北条方の脇腹へ突撃し、北条軍は総崩れとなり潰走してしまうのだった。


こうして北条軍は中津川を越え撤退していく中、武田軍も深追いはせず、そのまま急いで三増峠を通過し、津久井城下の小幡信定隊と合流して、相模川の上流へと全軍を移動させてしまう。この途中も武田軍は厳戒態勢を貫き、反畑(相模原市緑区寸沢嵐)まで撤退した後で、ようやく戦勝の勝鬨を挙げたという。この地には「信玄首洗池」という社が残されており、武田方が討ち取った 3269首の首実検が行われた地とされている

冒頭の三増峠の合戦絵図は、ちょうど武田軍が三増峠を北へ抜け、北条軍がその南部に取り残される状態となった様子を描いたものであった。この戦いで、武田軍は 900強、北条軍は 3,300弱もの戦死者を出したと言われ、日本史上最大の山岳戦として記録されることとなった。

相模原市

ちょうど、この時、小田原城を出発していた 1万の 北条氏政(1538/1539?~1590年)軍は、わずか 6 km南の 萩野新宿(今の厚木市荻野)まで駆け付けていたが(上地図)、北関東軍の敗走を知り、小田原城へ引き揚げざるを得なかったという。あと半日遅れていたら、武田軍は北条軍 2万2千に南北から挟撃されるという、修羅場に直面する寸前での劇的勝利を飾ったのだった。

こうして、信玄による 5週間に及ぶ関東平野での破壊作戦は無事に終了し、北条氏に国土復興という重荷を負わせる戦略を見事に成功させる。以降、北条氏は国土復興とインフラ復旧、さらに城塞網の 強化(八王子城の築城 など)の内政面に集中せざるを得なくなり、東駿河での今川支援のための対外出兵を削減させていくことになる。また、この武田軍の関東侵攻中、その背後を襲わなかった上杉謙信との同盟関係も破綻し、2年後に北条氏は再び武田氏と和睦することになる



もし、JR橋本駅からバス訪問して津久井城を見学後、そのまま南進して三増峠古戦場までバス訪問する場合、バス停「上長竹」か「長竹クラブ前」から路線バス(三51。三ヶ木 ⇔ 半原)に乗り換えて、終点「半原」まで移動する。下地図。

そして、「半原」から厚木バスセンター行の 路線バス(厚59)に乗車し、11分ほどのドライブの後、バス停「田代坂上」で下車する。ここから三増峠の古戦場跡エリアを巡ることになる。
かなり田舎で公共交通機関だけでの移動も不便なので、もし、途中でバス接続時間が悪いときは、ためらわずタクシーを利用するのがよいだろう。

相模原市


お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us